2-18.往生するのは何か?

 前回、「大悲心を認識している所に南无阿弥陀仏が成立します。」と書きました。

 ところで、往生してゆく浄土を視覚化すれば、極楽絵図のような浄土をイメージするでしょうが、心の中に成立している南无阿弥陀仏を視覚化することはできません。感じている大悲心を視覚化することはできませんし、文字化することもできません。大悲心を具体化する表現手段がないのです。でも、表現手段はなくとも、大悲心はあります。

 疑惑の衆目を一身にあびる記者会見に臨んだ生方晴子さんが「STAP細胞はあります。」と発言したように、具体化する表現手段がないためにその存在を表すことができない大悲心であったとしても、私は「大悲心はあります。」と言い続けるでしょう。

 では、このような私のいったい何が浄土往生するのでしょうか。
 私という意識が浄土往生するのでしょうか。往生した浄土においても私という意識があり、私は浄土往生したと認識するのでしょうか。
 
 そのようなことはないと思います。浄土とは極楽絵図のような浄土でもないでしょう。

 仏の認識する世界は不二の世界と言われています。不二とは、私と私以外、生と死、善と悪、コレとアレなどと概念的に分別して認識することがない、ということです。あらゆる概念対立のない認識のあり方をしているのが浄土世界であり、仏であるということです。そのため、浄土には主体となる私という自我意識はありません。もし、自我意識があれば、そこは分別智によって認識されている穢土になってしまいます。ですから、自我意識がそのまま浄土往生することはありません。肉体の死とともに自我意識は消滅します。自我意識以外の私の意識も、無意識も肉体の死とともに消滅するでしょう。

 では、一体、何が浄土往生するのでしょうか。考えられる答えは、南无阿弥陀仏が浄土往生するということになるでしょう。私の心の中に成立し、私の意識によって「ある」と認識された「南无阿弥陀仏」しか浄土往生するにふさわしいものはありません。私によって認識された南无阿弥陀仏が浄土往生するのでしょう。

 では、浄土往生するとは、どういうことでしょうか。

 私は「大悲心はあります。」と言いました。そこから考えますと、浄土往生するとは、「私が大悲心そのものになる」ということでしょう。大悲心がある。そして、今度はその大悲心そのものになってしまう。これが浄土往生ということでありましょう。天親菩薩は大悲心そのものになる過程を五念門としてあらわされたと理解されます。大悲心になるということは仏様の智慧をもつということです。この智慧から眺めた認識世界がどのようなものか、分かるすべはありません。しかし、自他を区別しない大悲心になるということは仏様になるということです。仏様になって大悲心として偏満するようになるのであろう。私に想像できるのは、ここまでです。

2-17.大悲心と認識と機法一体

 大悲心と認識の関係について考えてみます。

 以前、「大事なことは大悲心を受けているということだけです。」と書きました。「いま、ここで、如来の大悲心を受けている」ときの私の心理状態は「大悲がある」と感じています。「大悲がある」と認識しているということです。「大悲がある」とという思いです。「大悲がある」という思いには必ず豊かな感情が伴います。大悲に包まれていると表現するする人もあれば、「有り難いとしか言いようがない」という人もいるでしょう。

 私は、私の認識にのぼった大悲心をさらに思索の対象としてアレコレと考えますが、①大悲心があるから大悲心は私に認識されているのでしょうか。②私に認識されているから大悲心があるのでしょうか。どちらでしょうか。

 どちらとも言えそうですが、常識的には前者の方でしょう。

 しかし、私の認識のそとにあって私の認識を離れた大悲心の存在を私は認識することができません。大悲心が存在していても認識されなければ大悲心は何の意味もありません。私に認識されることがなければ大悲心はその存在を顕すことができないのです。大悲心の側から見れば、大悲心は私の認識を介してはじめてその存在を私に知らしめることができるのです。ですから、大悲心があると認識している私の認識は、大悲心が大悲心として存在するためになくてはならないものなのです。大悲心がその存在を全うするには、私によって認識されることが不可欠です。しかし、私の認識能力では大悲心を認識することはできません。ですから、大悲心からすれば、大悲心を認識する私の認識を自ら用意しなければなりません。大悲心が私の心の内側に入り込み、私の認識として姿を変える他に、私に大悲心を認識させるすべはありません。大悲心があるという思いは大悲心が私の心に入り込んだことから形成された思いであり、その思いは大悲心の一部と考えることができます。

 あると認識されている大悲心を阿弥陀仏に、その認識を南无と言い換えれば、大悲心を認識しているところに南无阿弥陀仏が成立することになります。

 さて、私によって大悲心が認識されている事実状態について考えてみますと、大悲心と認識とを分離することはできません。事実としては、大悲心が認識されている状態があるだけです。そうしますと、大悲心があると認識している事実状態が大悲心に遇っている状態ということであり、同時にその状態が信ということになります。私の内心において大悲心と信とが分離不可能な状態で一つとなっています。救いの法と機(信)とが一つとなっているので、これを機法一体の南无阿弥陀仏ということができます。救いの法である大悲心が法のまま信となる、信はそのままが法である、ということです。

 内心において救いの法と信とが一体であることを別の表現で表せば、

  南无阿弥陀仏が南无阿弥陀仏を仰信(認識)する。

と言えるのではないでしょうか。摂取不捨を意味する南无阿弥陀仏が救いの法であるとともに、その救いの法が摂取不捨を仰信(認識)する信でもあるということです。

 「念々の称名は念仏が念仏を申すなり。」

 これは一遍上人の思想表現ですが、それを真似れば、「南无阿弥陀仏が南无阿弥陀仏を仰信し、南无阿弥陀仏を申すなり。」ということになるでしょうか。

 機法一体の南无阿弥陀仏という表現は、如来の救いは自力の思いが全く介入しない、ということを反顕したものです。如来の救いは自力の思いを全く介入させない救いであること、救われた状態とは自力の思いが全く介入しない状態であることを表した思想表現です。この点に重要な意義があります。南无阿弥陀仏を聞いて私が南无阿弥陀仏となって南无阿弥陀仏を称える。ここには自力の思いは全く介入しておりません。

 結びとして

 大悲心があるという認識・思いは、衆生から言えば自力の思いを全く介入させずに大悲心を認識したものであり、如来から言えば大悲心が自らを顕現させ、自らの存在を知らせんが為に私に認識させるよう働いた結果として、私に大悲心を認識させているということになります。

 夜空にある満月を見あげて月に魅入ったとき、認識しているのは満月あるのみです。私の認識は、ただ月を認識するのみの状態となります。私の認識を水に例えれば、大悲心の月はただ水に月影を映すのみ、です。この例でいうならば、信とは「水に映った大悲心」です。水という私の認識に映った大悲心の他に信らしきものは何もありません。私によって「あると認識されている大悲心」が信でありましょう。

2-16.常来迎

 祖師は、「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは諸行往生のひとにいうべし。いまだ真実の信心を得ざるがゆえに。」と言われました。念仏往生の行者は臨終来迎を待たないと否定されました。これは、臨終来迎を誓った十九願は、十七願十八願の救いとは異なる諸行往生を願う行者のための願だと理解されたからです。

 では、祖師は、仏様の来迎という思想自体を否定されたのでしょうか。それとも、来迎という思想をお持ちになっていたのでしょうか。

 唯信抄文意に「彼仏因中立弘誓、聞名念我総来迎」を釈して、

 聞はきくという、信心をあらわすみのりなり、名は御名ともうすなり。如来の誓いの名号なり。

 念我と申すは、誓いの御名を臆念せよとなり。

 総来迎というは、

   総は、ふさねて、すべてみなというこころなり。

   迎は、むかえるという、まつという、他力をあらわすこころなり。

   来は、かえるという。きたらしめるという。
    法性のみやこへむかえ率てきたらしめかえらしむるという。
    法性のみやこより、衆生利益のためにこの娑婆世界にきたるゆえに、

    来をきたるというなり。
    法性のさとりをひらくゆえに「来」をかえるというなり。

 

 


といわれています。御名を聞いて往生を信じた人には如来が娑婆世界に迎えに来られて、法性のみやこに引率されてゆくということですから、如来は臨終を待たず平生に来迎されていると祖師が味わっておられることが分かります。如来は浄土で待つのであるが、待つというということもできないので、娑婆世界まで出迎えて下され、法性のみやこに引率されてゆくということであります。これが「来」であり、「むかえ率てきたらしめかえらしむる」ということであります。居ても立ってもおられずに、常に衆生に随伴しているということです。如来の大悲心は、このようなものであります。如来の大悲心を受けていることを感じておられたことから味わえる思いです。大悲心が私に届けられていることが来迎なのであります。

 一遍上人も「称名の位が即ちまことの来迎なり。称名即ち来迎と知りぬれば決定来迎あるべきなり。」と言われているようです。

 如来の大悲心を認識するとき、その認識状態から上記のような含蓄の富む思想表現や解釈がつぎつぎに創造されていったことを思わせられます。如来の大悲心を認識するということにすべての味わいのもとがあるのです。

2-15.常念仏の衆生

 私は、大きな声で念仏することはありません。本願寺築地別院などにたまに出向いて本尊に面と向かったときも、大きな声で念仏することはありません。心の中で南无阿弥陀仏と数回から十数回念じるか、せいぜい、口の中で数回つぶやく程度です。心の中で南无阿弥陀仏と念じるのは、朝目覚め始めたとき、歩行中、休み時間中、ぼっとーとしているとき、トイレに入っているとき、お風呂に入っているとき、就寝前、就寝後の意識のある間、その他気づいたときには心の中で南无阿弥陀仏と念じています。

 どうして声を出して念仏申せないのか、といいますと、私には、宗教に対する嫌悪感があるために、極力、宗教とは無縁、無関係という立場をとっておきたいからです。人に念仏しているところを聞かれたくないからです。
 
 また、私は本願寺などにたまに出向いて本尊に面と向かったときでも、あまり頭を下げたり、念仏申すことはしません。どうしてかと言いますと、あまりその気になれないからです。外で対面するご本尊は、あまり有り難くないからです。私の心の内にあるご本尊が有り難いため、常日頃念仏申すときは自分の胸の内に向かって(手を合わせ)念仏申しております。

 

念仏といふは、かならずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみにあらず。阿弥陀仏の功徳われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心のおこるを念仏といふにてあるなり。

                安心決定抄本


                           

念仏三昧といふは、機の念を本とするにあらず、仏の大悲の衆生を摂取したまへることを念ずるなり。
                 安心決定抄末

 



 念仏を大悲心を憶念する信そのものと理解する思想が述べられているように思われます。信が恒常であるならば、その者は常念仏の衆生となる道理です。

2-14.信一念について

 人は、常にこの世界の視覚映像等を連続して認識しており、その映像等は一瞬たりとも途切れることはなく、常に連続して映像等が認識されると思っています。しかし、私達の大脳(視覚野と前頭前野)が認識するまでには複雑な処理が必要になります。目からの視覚情報は最初に視覚野に入りますが、視覚野では線として処理をする部位、丸いものを処理する部位、人の顔を処理する部位、動いているものを処理する部位、色を処理する部位などさまざまな役割分担があります。そして、視覚野に情報が届いただけでは映像として認識することはできません。視覚野からそれらの処理を経た視覚情報が前頭前野に送られ、さらにそこから視覚野に送り返されるという過程を経て映像として認識されることになります。そのため、認識するまでには時間がかかります。そして、目からの視覚情報は連続するものではなく、とぎれとぎれに入力されています。とぎれとぎれの視覚映像を大脳はそれを勝手に補正して連続する視覚映像として作り上げています。これが現在、脳科学によって明らかにされた研究成果のようです。他の知覚も、上記と同じように情報を処理する部位があり、一定の経過を経て認識されるようになると考えられます。

 さて、信一念とは、他力の信心が開け起こる時刻の極速のことだと祖師は言われました。祖師は、大経の「信心歓喜乃至一念」を大経異訳の無量寿如来会にある「一念の浄信を起こして」という御文を根拠に、一念とは行の一念ではなく、信心が開け起こる一念と理解され、その一念を時刻の極速と解釈されたものです。

 時刻の極速とは、時刻の極限ということですから、人が認識できる時間ではありません。では、どうして、祖師は認識不可能な時刻の極速に他力の信心が開け起こると言われたのでしょうか。祖師は、認識できない時刻の極速を認識できた、ということなのでしょうか。

 理屈で考えれば、時刻の極速は人が認識できる時間ではありませんから、祖師がその極速を認識されていたと理解することには無理があります。そこで、発想を変えて考えるしかありません。私は、如来は大悲を聞いた瞬間に間髪を入れず直ちに救い取るという救いの理念として、時刻の極速と祖師は言われたのだと理解しています。

 しかし、信の一念から、一念覚知という問題が起こりました。信が開け起こった時刻を記憶しなければ、真の信ではないという見解の登場です。このような見解が誤っていることは比較的理解されやすいのですが、時刻には実時と仮時があり、信一念の一念は仮時であり、その仮時は分かるという見解が登場したことから、これに惑わされる人が多く出てきました。

 実時とは時計が刻んでいる入る時刻のことです。仮時とは火に触れて熱かった瞬間、殴られて痛かった瞬間ということで、感覚的に認識される瞬間のことです。そして、実時は分からぬが仮時は分かるという見解は、他力の信が開け起こった瞬間を実時として認識することはできないが、仮時として認識されると主張します。仮時として認識されない信は、真実の信ではないという判定に用いるために、真実の信には仮時があるということを主張するものです。この見解は、“自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。”という立場からの主張と軌をいつにします。地獄にたたき落とされたときが極楽の蓮の台に救われるときだ、ということになりますと、その認識は劇的に変わるということですから、仮時として認識されないはずがないという主張になってきます。

 この仮時が認識されなければ他力の信ではないという見解は正しいのでしょうか。

 間違いです。

 まずもって、“地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。”という立場が間違っていることは、別の箇所で述べたとおりです。ここでは信一念が仮時として認識されなければ、真実の信とは言えないのか、ということに絞ってお話しします。

 信とは、心に如来の大悲心を聞き受けている状態のことです。大悲心を受けていれば、大悲心を受けていると感じることができます。ですから、この状態は、人の認識の対象となります。信を得ている人で如来の大悲を聞き受けていると認識することはできない、と主張する人はいないでしょう。

 しかし、人の認識の対象となるということと、信が開け起こった瞬間は誰でもが認識することができるか、ということとは別の問題です。信を得たが、信が開け起こった瞬間は認識していないという人は、いくらでもいると思います。他人の信のことは分かりませんが、自分のことは分かるので、そのように推測しています。
 祖師は、信不信の判定において、仏願の生起本末を聞いて「疑心あることなし」としか示されませんでした。ここで祖師が言われていることは、「疑心あることなし」ということだけです。そして、いつの時点で「疑心あることなし」なのかということですが、それは、仏願の生起本末を聞いて、と言われています。仏願の生起本末を聞くとは、如来の大悲心を聞くということですから、如来の大悲心を聞くときはいつでも、疑心あること無し、ということでなければなりません。つまり、いつもいつも「今、大悲心を聞いて疑心なし」、「今、大悲心を聞いて疑心無し」、「今、大悲心を聞いて疑心無し」ということでなければなりません。問題とするのは、過去の一時点で疑心無し、ということではないのです。真実の信は、常に今聞いて疑心無し、ということです。常に、今この瞬間だけを問題としますので、過去においてどのような認識が生じたかは、さして重要な問題とはなりません。ですから、過去に信心が開け起こった瞬間を認識した、ということがあったとしても、それは重要な問題ではないのです。最も重要な問題は、今この瞬間はどうか、ということですから、過去の認識を問題する必要はまったくないのです。

 また、信を得ての上においては、現在ただ今、大悲心を受けている他に自分がどのように信を認識しているかは大事な問題ではありません。大事なことは大悲心を受けているということだけです。一念の仮時を認識しなければ真実の信とは言えないという考え方は、「今聞いて疑心なし」ということの他に、信受した一念に関する認識の有無を問題としている点で余分な物を付け加えている点で間違っています。信は、常にいまここで如来の大悲心を受けているかどうか、が問題なのです。私にとって大事なことは、いまここで如来の大悲心を受けていること、だけです。これ以外のことで大事なことはありません。

2-13.私にとって南无阿弥陀仏とは一体なにか?

 南无阿弥陀仏とは、私にとって一体、何でありましょうか。

 祖師は、南无阿弥陀仏の南无の字義を解釈して如来の呼び声だと言われましたが、私にとって南无阿弥陀仏とは、如来の慈悲を感じることです。

 如来の呼び声である以上、その呼び声を聞く、ということがあります。呼び声を聞くということは、大悲心を聞いて感じるということです。大悲心を聞いて感じる場において、私と仏様とが出会うことができます。私と仏様とが出会うとは、私の心において仏様の大悲心を感じるということであります。私の心が大悲心を感じている状態は私が摂取不捨の如来に帰命している状態ですから、私の心の内に南无阿弥陀仏が成立しているということになります。大悲心を感じ、如来に帰命していることが南无阿弥陀仏です。

 如来への帰命の思いが口称となったのが念仏であります。そのため、心も行も南无阿弥陀仏となります。心身に南无阿弥陀仏が充ち満ちているということです。

 阿弥陀経の「執持名号一心不乱」と観無量寿経の「無量寿仏の御名を持つ」とは、
単に称名の行について述べたものではなく、大悲心を感じ、如来に帰命している場が心に開けている心相を述べたものでありましょう。この心相が開けるとき、浄土三部経の教説の真意と経の文言が私の上に現実になったことを心から理解し、悦ぶことができます。

2-12.法蔵の本覚と始覚-お経には書いていないこと-

 阿弥陀という仏様は、どのような苦労をして南无阿弥陀仏となられるのでしょうか、勝手に想像してみます。

 そもそも、仏様が衆生を救うには、どうすればよいのでしょうか。仏様のまま、衆生の外から衆生を救うのでしょうか。それとも、自らが衆生になり切り、衆生となった自らを救えなければ衆生は救えない、衆生を救うことは自らを救うことだという覚悟をもって衆生を救おうとされるのでしょうか。

 仏様は、衆生は我なり、我は衆生なり、という智慧をお持ちになっているので、仏様は自ら凡夫となって凡夫を救うという後者の方法を選びました。衆生となった自らを成仏させることが衆生を成仏させることだ、衆生を成仏させることが自分が成仏することだと考えられたのでした。しかし、そのための苦労は並大抵ではありませんでした。仏様は一々の衆生となり、一々の衆生の生き死にを共に味わい、一々の衆生のすべての苦悩を自らの苦悩として味わいつつ一々の衆生と一緒に輪廻を繰り返されました。その輪廻は衆生一切が仏となるまで無限に続けられてゆきます。私とともに輪廻されているのが法蔵となった仏様でした。法蔵は一々の凡夫として常に成仏のために修行をしました。自らの成仏が衆生の成仏である、衆生の成仏が自らの成仏だと信じ、自らが成仏することと衆生が成仏することとを疑うことなく信じて修行を行ったのです。法蔵は成仏するための行を円満にして見事に成仏されました。その成仏によって未来の世界における衆生の成仏が決定しました。そして、成仏した法蔵は南无阿弥陀仏という仏様となって、私の外から救いを働きかけるようになりました。しかし、私を成仏させるまでは自ら成仏しないというのが法蔵の大悲心でした。南无阿弥陀仏という仏様になっても、私が私の往生成仏を信じない間は、法蔵は私から去ることができず、南无阿弥陀仏という仏様が私の成仏を決定されたという信が私に生じるまで私とともに苦悩し続けて輪廻してゆきました。
 ついに法蔵の願いがかなうときが来ました。法蔵は私のために阿弥陀仏の本願力を聞き受け、私の内なる他力の信となったのです。私の抱える迷いの世界に出てこられた法蔵は私の他力の信となることによって、再び、仏様に戻ることがきまったのでした。私の信となった法蔵は私の肉体が滅ぶとき、仏様の世界に戻ってゆかれます。その仏様の世界で法蔵は阿弥陀という仏様になることで、私を阿弥陀という仏様にして下されるのです。
 法蔵は大乗菩薩道の実践において私を仏様にするまでは仏に戻らないというお誓いをもちつつも阿弥陀という仏様になりました。この法蔵菩薩のありかたを本覚と始覚という視点から考えました。本覚と始覚という天台思想を法蔵菩薩の大乗菩薩道からとらえ直すと、味わい深く頂くことができます。

 最後に、栃平ふじ、さんという妙好人の歌をひとつ。

ほーぞーとわ
どこにしぎやう(修行)の
ばしょがあるか
みんな私の
むねのうち
なむあみだぶつ
あみだぶつ