3-2.悪人正機 

A君 Cさんは「悪人正機」についてはどう思っているの?

 

Cさん 私は罪悪感が強いので、悪人正機の悪人とは私のことだと思うわ。A君は
そうじゃないの?

 

A君 僕は罪悪感はほとんどないね。自分は善人だと思っているので、悪人正機
聞いたって、善人も正機だと思ってしまうね。

 

Cさん へーッ、そうなの。そんなことを言う人、はじめて見たわ。

 

A君 そもそも、凡夫に善人と悪人がいるのだから、ことさらに悪人正機を強調す
るのは間違っていると思うよ。それに、善人は悪人になりうるし、悪人は常に悪いことをしているわけではないし、善行をすることもある。だから、一概に善人と悪人とを固定してしまうのは間違っていると思うね。 

 

Cさん 善人と悪人との区別は相対的だし、善人と悪人が固定されているものでは
ないのは、そのとおりだけど、悪人正機の意味を間違って理解していない?
悪人正機は、如来の大悲心は苦ある者にひとえに重しということなのよ。それに、ここでいう悪人とは道徳的な善悪を問題としているのではなく、自分の心のあり方に見つめたときに感じられる悪性ということなのよ。

 

A君 僕は、自分の心に悪性があるということは分かるよ。でも、そのことで悩む
ということはないんだ。生まれついてのものでどうしようもないのだから、ことさらに苦しむということはないんだ。それに、人生で苦しんでいるのは、善人悪人を問わず、苦しんでいるよ。僕なんかいつも経済的に苦しんでいるもんな。

 

Cさん それは大変ね。A君は性格まじめで誠実そうに見えるけど、商売へたそう
だもんね。

 

A君 だろ。それに病苦、老苦や死苦は免れようがないだろ。どうにもこうにもな
らない人生で苦しんでいるのは悪人だけじゃないさ。だから、凡夫であるかぎり、大慈悲を受ける資格は誰にでもあるってことさ。

 

Cさん そうね。そう思うわ。でもね、悪人だと自覚している人から見れば、如来
の大慈悲心は、自分への慈悲心だと強く感じるのよ。だから、親鸞聖人も親鸞一人がためなり、と喜ばれたのよ。

 

A君 それは、そうだと思うね。罪悪感や無常感に応じて大悲心の受け止め方は、
人それぞれだね。祖師は罪悪感を吐露しているけど、無常感を感じさせる御文はほとんど無いように思うね。それに対して、覚如上人は、本願は短命の根機を本としたまへりと言われているよ。大悲を受ける側の自覚によって正機の捉え方が違ってくるんだよ。

Cさん 同感だわ。でも、A君は、親鸞聖人が自己の悪性を見られたほどには自分
を見ていないから、悪人正機が自分のことだと思えないだけなのよ。

 

A君 おっと。そうきたか。それを言われたら、反論できないなぁ。
ところで、煩悩がそのまま喜びの種になると言うが、あれは嘘だね。

Cさん どうして? 慈悲は自己の煩悩中に見る、っていうじゃない。煩悩を知ら
されれば、大悲心をより強く感じるわ。

A君 それはそうだけど、僕が嘘だというのは、煩悩は煩悩のままで煩悩がそのま
ま喜びの種にはならないってことさ。Cさんが喜んでいるのは、煩悩をきっかけとして大悲心を喜んでいるのだろ? 喜びの種は大悲心そのものであって、煩悩それ自体が喜びのもとではないってことさ。

Cさん そういうことね。分かったわ。最初の問題を確認しておきたいけど、やっ
ぱり、悪人正機説は間違っていると思っているの?

A君 悪人正機をことさらに強調するのは、誤解を招くことにならないかと危惧し
ているんだ。間違っているとは思っていないよ。つまりね、悪人正機というのは、極悪最下の悪人に焦点をあてて如来の救いはその悪人をも救うという如来の大悲心を説く教説なんだけど、これは、如来の大悲心においては最下の悪人も救われる。いわんや善人も救われるということなんだよね。

A君 これは、ある人が僕に話してくれた例え話なんだけど、旅館のお女中さんが
食事を乗せるお凡を運ぶとき、一番下のおぼんから抱えることになるけど、上にあるおぼんもまるごと抱えて運ぶよね。一番下のおぼんというのは最下の極悪人、それより上にあるおぼんは極悪人よりはましな善人の凡夫と聖人ということだね。如来は最下の極悪人までも救うというは、丁度、一番下のおぼんから、一番上のおぼんまで丸がかえするということなんだね。だから、極悪人も救われ、善凡夫も聖人も救われるということなんだね。
 この例えは、如来の大悲心が極悪最下の悪人にまで及んでいるということを示すと同時に、極悪最下の悪人までもが救われるのだから、その上の善人聖人も救われるということを意味している。
 ところで、悪人正機ということを聞くと、自分は悪人であると自覚しなければ救われないのではないか、救いの正機である悪人にならなければならないという方向に話が流れがちになってしまう。これは、間違っていると思っているんだ。別に悪人であるという認識を持たなければならないということはないんだよ。

 

Cさん うん。よく分かったわ。

3-1.本願まこと

A君 B君は「本願まこと」と心から思っているかい?

 

B君 ウーン、自分でもよく分からないなぁ。「本願まこと」と思っているようで
あり、そうはっきりと分かったとは言えないような、そんな感じかなぁ。
A君は、どうなの?

 

A君 僕もそんな感じだけど、「本願まこと」と思っていると言っていいんじゃな
いかなぁ。

 

B君 じゃあ、どんなふうに本願まことと思っているの?

 

A君 本願まことと聞いて願心を受け入れているのだから、本願まことと受け入れ
て受けとめているはずだ、ってことだね。自分のことを言うのは口幅ったいのだけれど、僕は、大悲心があると感じでいるんだ。大悲心があると認識している。この大悲心があると感じ認識しているとき、この大悲心は如来であると思える。この感じている大悲心はまこと、という思いがある。しかし、真実まことかどうか、を自分の智慧で計ろうとすると、まるで分からない。

 

B君 それはまったく同感だね。でも僕は、本願まことと思っているかどうか、と
いうことに、あまりこだわらなくてもいいと思うな。

 

A君 僕もそう思うけれど、祖師が「本願まこと」と言われた以上、祖師は本願は
まことと受けとめていたと思うんだ。それを至心信楽というのであれば、自分も同じ思いにならなければならないという思いになるじゃないか。

B君 そうだなぁ。でも、僕は自分の思いが本願まことという思いになっているの
かどうか、自分で自分の心理分析してもよく分からないもんだとあきらめているよ。A君は、分からないことを分かりたがるたちなんだね。

 

A君 うん。そうなんだ。気になるんだよね。B君はどうしてそう落ち着いていら
れるのかなぁ?

 

B君 願心を受け入れている以上のことは、何も必要ないからね。

 

A君 ホーッ それ、どういうことなの? もう少し詳しく言ってもらえるかな。

 

B君 A君も分かっているくせに、そんな質問をするとは、なかなかくせ者だね。
 願心を感じている事が如来の願いを心で受け入れているという事。この他に、何かしなければならないことなど何もないと自覚しているからだよ。これからさらに何かをしなければ本当の如来の救いに遭えない、のだとしても、自分はこのまま死んでゆくしかない存在だと分かったんだ。いまさら自分の方で何かをして如来の救いに遭える、ということはもうボクには考えられないんだよ。だから、如来の願を受け入れていることだけでボクには十分なんだね。自分の心理をボクなりに分析すると、こういうことになるかな。

A君 それが自力の計らいが廃ったことから生じる心相だと思うね。それで、如来
の願いというのは、何のことかい。

B君 如来の願いとは、私を浄土に生まれさせるという願いのことだよ。

 

B君 自力の計らいが廃れば、願心を受け入れている以上のことは何も必要ない、
という、ある意味、開き直った心境に心が落ち着いてくるのだね。自力無功の思いは、本願から心を離れることがないようにしっかりとつなぎ止めておく働きがあるんだろうね。

A君 僕もそう感じているよ。自分に信があるか無いか、そんな自己中心の判断は
どうでも良くなってしまうんだ。

B君 だから、願心を仰ぐだけ。信を仰信というのは、とてもぴったりとくる表現
だね。

 

A君 そうだね。じゃ、また議論の相手をしてくれよ。

2-21.思うと思わざる-架橋するもの

 究極の問いは、いくつか考えられますが、今回は、私を救うという大悲心があるという思いは世間でよく言われる「思い込み」ではないのか、という問いについて考えてみます。

 「思い込み」という言葉は、「単なる思い込みに過ぎない」などと使われるように、客観的な事実とは異なることを事実と思っているということを意味しています。例えば、自分は癌かも知れないという思いに囚われるような場合です。思い込みとこれに対応する事実関係が存在するときには、客観的事実関係に照らせば、その思い込みが間違いであるかどうかを判定することができます。癌であるとの思い込みが正しいかどうかは医学的見地から客観的に判別でき、このような場合には、思い込んでいたと自ら反省することができます。あるいは、「思い込み」という言葉は、他の人から見た場合、客観的事実による裏付けがない絵空事のようなものを信じているようなときにも使います。このときは、客観的事実に照らしてその思い込みが間違いであるかどうかを判定することはできません。そのため相互理解に至ることは極めて困難となります。

 大悲心があるという思いは、客観的事実関係に照らして判別することができるようなものではありません。では、そのような思いを持っている人が、その思いは思い込みであるのかどうかを自問自答したとき、どのような答えがあるでしょうか。

 私は、私を救う大悲心があると思い込んでいるのですから、思い込みと区別を付けることは極めて困難です。この思いは深く心の奥底に根ざした思い込みのようです。生来もっている欲や怒りは自ら除去することができませんが、それは心の奥底に根ざしているからです。情動は心の奥に根ざし、心の奥からわき上がるものです。大悲心があるという思いは、情動とは異なり、常に平穏で静かであり、変動せず、変化もせず、一定であり続けます。自ら除去することはできそうにありません。ここから推測するに、この思いは情動と同じように意識の及ばない心の奥深くに根ざしてはいるものの、情動とは異なる根ざし方・異なる部位に根ざしていると思われます。

 阿弥陀仏に救われて浄土に生まれるというのも思い込みなのか、という問いに正直に答えるならば、私の脳内の思い込みでしょう。浄土に生まれるかどうかはわかりません。嘘かも知れないし、本当かも知れません。私に言えることは、ただ、私を救うという大悲心がある、ということだけです。

 往生一定と思え。
 往生不定と思えば、不定なり。
 往生一定と思えば、一定なり。

法然聖人のお言葉に、このような意味のお言葉*がありました。

 

*  心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定
往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすき也。往生は不定におもえばやがて不定なり。一定と思えばやがて一定する也。
              往生大要抄(昭和新修・法然上人全集60頁)

思うか、思わざるか、の違いです。この両者の間にはとてつもなく深い断絶があります。到底、自助努力で乗り越えられそうにありません。どうすれば、その断絶を乗り越えられるのでしょうか。
 この深い深い断絶を架橋するものが、仏の正覚成就と往生成就は同時であるという教説です。この教説が南無阿弥陀仏です。仏の正覚成就によって既に私の往生は成就しにけり、ということですから、往生治定の思いが私に生じます。南无阿弥陀仏は仏の正覚と私の浄土往生を成就したあかしです。これ以外に、断絶を架橋するものはありません。ですから、その教説=南無阿弥陀仏を我がものとして下さい。聞けば、自然と我がものになります。

 

2-20.己証相通じる

 お救いの法を聴聞しつつ如来の慈悲心を味わうのも格別ですが、それは私の心の中に留まるものであり、私限りのものですが、信心の沙汰はそれを分かち合えるという点で法話とは別のありがたみがあります。

 如来の願心を聞き受けたとき、これが信と呼ばれものであるとは直ちに分からないことが多いと思います。信を得た人の中には最初から信を得たと直ちに理解する方もいらっしゃるかも知れませんが、むしろ、自分の身に何が起こったのか理解できないと感じられる方が多いのではないでしょうか。なにしろ、はじめての事ですから、これが信なのかどうか、悩まれることになります。信と言われていたものが私の身の上に起こったのかどうかは、よくよく聞いてみなければ分かりません。そのために、信心を取りたるか取らざるかを幾たびも沙汰する必要があります。愚は愚のまま心中を語るのが、ありがたいものです。これが蓮如上人の言われている信心の沙汰だと思います。

 そのような信心の沙汰とは別に、如来の願心を喜ぶ人がそれぞれの味わいを言葉で表現することによって共感し合いたいという思いになることがあります。そのような思いでうち解けるのが本当の信心の沙汰であると私は思っています。私が如来の願心をどのように受けとめて味わっているのかを言葉で伝え、それに共感して貰える人がいるということを確認できることは嬉しいことです。またその人も願心を味わっていると理解することで通じ合える世界があることを再確認することは、また楽しいことであります。このように信心の沙汰は信後の喜びを味わえるまたとない機会になりますから、私は信心の沙汰をするのが楽しみなのであります。飾った言葉ではなく、愚は愚のまま心中を語るのが、ありがたいものです。信心の沙汰は、己証相通じる友を探すようなものです。

2-19.役に立つのか

 大悲心を受けたとして、それが何か役に立つのか。

 

 いのるによりて やまひもやみ いのちのぶる事あらば
 たれか一人としてやみしぬる人あらん。  浄土宗略抄

 

 念仏称えて病気が治ったり、命が延びるものであれば、たれか一人として病み、死ぬ人があろうか、と浄土宗略抄には記述されています。同様に念仏を称えることで自己の我欲を満足させることはできません。自分の都合の良いように因縁を作り上げることはできません。南无阿弥陀仏は、浄土往生以外に役に立つことはありません。否、浄土往生できるのかについては分かるよしもありませんが、如来の計らいによって浄土往生できるという思いが、現在、あり続けるだけです。

 役に立つか、とは、私が望むことを実現する手段として何らかの作用・効力を有するのか、ということです。私が望むことは安楽に生活することです。周囲の世間が穏やかに過ぎてゆくことです。このようことを実現する手段として大悲心が役に立つことはありません。念仏申すこともその実現に役立ちません。もし、自分の望むことを実現させるために南无阿弥陀仏が役に立つのであれば、この世に1人の支配者を生み出してしまうでしょう。大悲心も南无阿弥陀仏も私を不二の世界に迎え入れるものです。その不二の世界では、自我はなく、我のもの、我が意志というものはありません。その大悲心や南无阿弥陀仏が私の自我や欲望を助長させるような働きを持つことがあるとしたら、それは偽物です。大悲心や南无阿弥陀仏は十八願、十一願の願いのとおりの働きしかないと理解するしかありません。

 大悲心を受けたとしても世俗的なことについて役に立たないということは、縁起が支配する因縁の世界で生き、世のことは世のならいに従いながら汲々として生活をしてゆくしかない、ということになります。この縁起の多くは苦悩を引き起こすものです。だから、毎日、止悪、我慢と忍耐の連続ですが、その心に大悲心が至り届いています。大悲心にひたるとき日常の苦悩は多少和らぐ思いがします。その様子は、大経に

それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三途勤苦の処にありて、この光明を見立てまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし

 

と記述されている中の、「三途勤苦の処にありて休息を得て」いる様子さながらです。心理的に癒されている点では役に立っていると言えます。この娑婆世界の苦悩が無くなれば言うことはないのですが、臨終までのしばらくは、我慢するしかありません。

2-18.往生するのは何か?

 前回、「大悲心を認識している所に南无阿弥陀仏が成立します。」と書きました。

 ところで、往生してゆく浄土を視覚化すれば、極楽絵図のような浄土をイメージするでしょうが、心の中に成立している南无阿弥陀仏を視覚化することはできません。感じている大悲心を視覚化することはできませんし、文字化することもできません。大悲心を具体化する表現手段がないのです。でも、表現手段はなくとも、大悲心はあります。

 疑惑の衆目を一身にあびる記者会見に臨んだ生方晴子さんが「STAP細胞はあります。」と発言したように、具体化する表現手段がないためにその存在を表すことができない大悲心であったとしても、私は「大悲心はあります。」と言い続けるでしょう。

 では、このような私のいったい何が浄土往生するのでしょうか。
 私という意識が浄土往生するのでしょうか。往生した浄土においても私という意識があり、私は浄土往生したと認識するのでしょうか。
 
 そのようなことはないと思います。浄土とは極楽絵図のような浄土でもないでしょう。

 仏の認識する世界は不二の世界と言われています。不二とは、私と私以外、生と死、善と悪、コレとアレなどと概念的に分別して認識することがない、ということです。あらゆる概念対立のない認識のあり方をしているのが浄土世界であり、仏であるということです。そのため、浄土には主体となる私という自我意識はありません。もし、自我意識があれば、そこは分別智によって認識されている穢土になってしまいます。ですから、自我意識がそのまま浄土往生することはありません。肉体の死とともに自我意識は消滅します。自我意識以外の私の意識も、無意識も肉体の死とともに消滅するでしょう。

 では、一体、何が浄土往生するのでしょうか。考えられる答えは、南无阿弥陀仏が浄土往生するということになるでしょう。私の心の中に成立し、私の意識によって「ある」と認識された「南无阿弥陀仏」しか浄土往生するにふさわしいものはありません。私によって認識された南无阿弥陀仏が浄土往生するのでしょう。

 では、浄土往生するとは、どういうことでしょうか。

 私は「大悲心はあります。」と言いました。そこから考えますと、浄土往生するとは、「私が大悲心そのものになる」ということでしょう。大悲心がある。そして、今度はその大悲心そのものになってしまう。これが浄土往生ということでありましょう。天親菩薩は大悲心そのものになる過程を五念門としてあらわされたと理解されます。大悲心になるということは仏様の智慧をもつということです。この智慧から眺めた認識世界がどのようなものか、分かるすべはありません。しかし、自他を区別しない大悲心になるということは仏様になるということです。仏様になって大悲心として偏満するようになるのであろう。私に想像できるのは、ここまでです。

2-17.大悲心と認識と機法一体

 大悲心と認識の関係について考えてみます。

 以前、「大事なことは大悲心を受けているということだけです。」と書きました。「いま、ここで、如来の大悲心を受けている」ときの私の心理状態は「大悲がある」と感じています。「大悲がある」と認識しているということです。「大悲がある」とという思いです。「大悲がある」という思いには必ず豊かな感情が伴います。大悲に包まれていると表現するする人もあれば、「有り難いとしか言いようがない」という人もいるでしょう。

 私は、私の認識にのぼった大悲心をさらに思索の対象としてアレコレと考えますが、①大悲心があるから大悲心は私に認識されているのでしょうか。②私に認識されているから大悲心があるのでしょうか。どちらでしょうか。

 どちらとも言えそうですが、常識的には前者の方でしょう。

 しかし、私の認識のそとにあって私の認識を離れた大悲心の存在を私は認識することができません。大悲心が存在していても認識されなければ大悲心は何の意味もありません。私に認識されることがなければ大悲心はその存在を顕すことができないのです。大悲心の側から見れば、大悲心は私の認識を介してはじめてその存在を私に知らしめることができるのです。ですから、大悲心があると認識している私の認識は、大悲心が大悲心として存在するためになくてはならないものなのです。大悲心がその存在を全うするには、私によって認識されることが不可欠です。しかし、私の認識能力では大悲心を認識することはできません。ですから、大悲心からすれば、大悲心を認識する私の認識を自ら用意しなければなりません。大悲心が私の心の内側に入り込み、私の認識として姿を変える他に、私に大悲心を認識させるすべはありません。大悲心があるという思いは大悲心が私の心に入り込んだことから形成された思いであり、その思いは大悲心の一部と考えることができます。

 あると認識されている大悲心を阿弥陀仏に、その認識を南无と言い換えれば、大悲心を認識しているところに南无阿弥陀仏が成立することになります。

 さて、私によって大悲心が認識されている事実状態について考えてみますと、大悲心と認識とを分離することはできません。事実としては、大悲心が認識されている状態があるだけです。そうしますと、大悲心があると認識している事実状態が大悲心に遇っている状態ということであり、同時にその状態が信ということになります。私の内心において大悲心と信とが分離不可能な状態で一つとなっています。救いの法と機(信)とが一つとなっているので、これを機法一体の南无阿弥陀仏ということができます。救いの法である大悲心が法のまま信となる、信はそのままが法である、ということです。

 内心において救いの法と信とが一体であることを別の表現で表せば、

  南无阿弥陀仏が南无阿弥陀仏を仰信(認識)する。

と言えるのではないでしょうか。摂取不捨を意味する南无阿弥陀仏が救いの法であるとともに、その救いの法が摂取不捨を仰信(認識)する信でもあるということです。

 「念々の称名は念仏が念仏を申すなり。」

 これは一遍上人の思想表現ですが、それを真似れば、「南无阿弥陀仏が南无阿弥陀仏を仰信し、南无阿弥陀仏を申すなり。」ということになるでしょうか。

 機法一体の南无阿弥陀仏という表現は、如来の救いは自力の思いが全く介入しない、ということを反顕したものです。如来の救いは自力の思いを全く介入させない救いであること、救われた状態とは自力の思いが全く介入しない状態であることを表した思想表現です。この点に重要な意義があります。南无阿弥陀仏を聞いて私が南无阿弥陀仏となって南无阿弥陀仏を称える。ここには自力の思いは全く介入しておりません。

 結びとして

 大悲心があるという認識・思いは、衆生から言えば自力の思いを全く介入させずに大悲心を認識したものであり、如来から言えば大悲心が自らを顕現させ、自らの存在を知らせんが為に私に認識させるよう働いた結果として、私に大悲心を認識させているということになります。

 夜空にある満月を見あげて月に魅入ったとき、認識しているのは満月あるのみです。私の認識は、ただ月を認識するのみの状態となります。私の認識を水に例えれば、大悲心の月はただ水に月影を映すのみ、です。この例でいうならば、信とは「水に映った大悲心」です。水という私の認識に映った大悲心の他に信らしきものは何もありません。私によって「あると認識されている大悲心」が信でありましょう。