4-11.自分の解決課題ではない(課題の分離)

 冒頭の「課題の分離」とは、相手の課題に対して、それは私の解決すべき課題ではないと切りはなすことです。

あなたが悩んでいる問題は本当にあなたの問題だろうか。その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。
                      アルフレッド・アドラー

 アドラー流に言えば、後生の解決は自分が解決するべき課題ではない、それは阿弥陀如来が解決すべき課題なのです、と言えば驚かれるでしょうか。後生は自分の問題ではないのか、と。

「その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。」とアドラーから示唆され、私は考えました。

 「後生を放置したら困るのは如来だ。」と。

 ま~、死ぬという問題は自分の問題なのですけれど、後生は如来の問題であるのです。

 如来は後生において私を浄土に生まれさせることができなければ如来になれないのです。如来はそんな誓いを建ててしまったのです。だから、私の後生という問題は、如来の問題となってしまったのです。如来の問題になってしまった瞬間に後生は私の解決すべき問題はなくなってしまったのです。ここに信が置かれ、往生は治定との思いに住している信を他力金剛の真心といいます。

4-10.どうしたらいただけるの

 どうしたら慈悲を頂けるのかと悩んでいたことは、大きな思い違いが原因でした。

 私の方が何かをどうにかしなければならないと思っていました。しかし、それが思い違いでした。何かをどうにかするということではありませんでした。慈悲が届いていることを聞けば良かったのでした。浄土往生は決定していると聞けば良かったのでした。私はこのまま死んでゆけば良かったのでした。

 思い違いをしていたことが分かったので、どうしたら慈悲を頂けるのかと悩むことはなくなりました。

 如来の慈悲においては「お差し支えなし」「ご注文無し」だから、悩むことはなかったのでした。如来の慈悲が私にそのことを気づかせてくれたのでした。

 どうしたらいただけるの?という疑問に対する回答が与えられてその疑問が氷解するのではなく、そのような疑問を持つこと自体が間違っていたと分かりました。質問自体が意味をなさず、間違っていることに気づかなかったのです。

4-9.いただけた

 慈悲には形がありません。そもそも慈悲というものがどういうものか、分かりません。分からないものをいただくことはできません。ここが乗り越えられない壁でした。八方塞がりでした。法話を聞いても、「分からない、分からない、全く分からない。」といつもこぼしていました。

 如来の慈悲が私に届いていると分かったとき、もらい方を問題としなくて良いことが分かりました。慈悲が既に届いていたので、届いていると分かっただけで良かったのでした。救うという慈悲であることが分かれば良かったのでした。如来が救うとされている私の「救われるべき状況」がどのような状況なのかを理解していなくても良かったのでした。「救われるべき状況」が解消されて安心したということもありませんでした。ただ、慈悲があることが分かれば良かったのでした。慈悲が届いていると分かったことが慈悲をいただくということでした。

 せっかく慈悲をかけられていても、その慈悲を分かってあげられなければ、慈悲はなんにもなりません。慈悲をいただくとは、慈悲に気づいて分かって上げられることだと気づきました。

4-8.いただく

 「私をもろテー、おッ気軽に。どなたでも。」の「もろテー」は、嫁に「もろテー」ということで、夫となる人からみれば、お嫁にきていただくということです。

 真宗でも「いただく」ということがあります。その場合は、お慈悲をいただくといいます。いただくのは如来のお慈悲ですが、お慈悲は物やお嫁さんと違い、形がありません。形がある物であれば、手にとって受け取ることができます。慈悲には形がありません。いただくといっても手にとって受け取ることはできません。そもそも慈悲というものがどういうものか、分かりません。分からないものをいただくことはできません。法話を聞いても分からない、分からない、全く分からないとこぼしていました。如来の慈悲が分からなかったのです。ここで完全に行き詰まりました。乗り越えられない壁でした。八方塞がりでした。

4-7.おッ気軽に

 如来がそのまま救うといっているのだから、それに乗っちゃえ。

 お気軽に乗って下さい。

 以前、関西の女性2人の漫才師がおりました。背が高い方と背の低い方でした。
背の高い方がぼけ役、背の低い方がつっこみ役でした。背の高い方は、婚期を逃したことを漫才のネタとしていました。それで、「私をもろテー、おッ気軽に、どなたでも‼」と言って、笑いをとっていました。

 これを思い出して、ついつい如来が「私をもろテー、おッ気軽に。どなたでも。」といっている所を想像してしまいました。「おッ気軽に、どなたでも」というところが大事です。いただきやすの如来の慈悲です。

4-6.乗っちゃえ

如来がそのまま救うといっているのだから、それに乗っちゃえ。

旧知の方がそう私に話をしてくれました。

お見事です。

 善導の二河白道のたとえの「すでにこの道(白道)あり。・・決定して道を尋ねてただちに進んで」とあるように、白道に足が乗る瞬間が「乗っちゃえ」です。

 白道とは如来の慈悲です。遠慮なく乗っちゃって下さい。私は無理、イヤイヤなどと言わず、お気軽に乗っちゃって下さい。

4-5.お節介者

 如来は限りなくお節介者です。頼まれもしないのに救うというのですから。

 しかも、そのお節介ぶりは、十劫の昔からというのですから相当なものです。いつまでそのお節介が続くのかと言えば、私を救うまでです。

 私に残された道は、もう、あきらめるしかありません。あきらめるとは、もう如来の願い(慈悲)のままにしてくれ、ということです。それで十劫の昔からの勝負がつきます。