2-26.念仏はあっちとこっちをつなぐもの

 念仏はもともと如来の側に属するものですが、如来の側と私の側とをつなぐものです。それが如来のお約束事です。

 「如来のお約束事」とは、

 如来が私を救済する手段として南無阿弥陀仏を選び取り、私に受け取らせん、称えさせんと誓ったのが如来の十七願のお約束。
 私がそのお約束を受け入れて念仏を称えれば如来の世界に導かんと誓ったのが十八願のお約束。

 これが念仏に込められた如来の願いです。そのため、お約束のとおりに私が受け取り、称えている念仏は、如来と私をつなぐものとなるのです。

 如来からの頂き物の念仏は、如来からの往生決定のお便りであると受け取り、申すしかありません。如来南無阿弥陀仏という仏様となって私の世界に入ってきて下されたから、私は南無阿弥陀仏と唱えることができるのです。そのように如来の方から私につなげられた南無阿弥陀仏を申せば、自然と如来の側にゆくことができます。それが如来の十八願のお約束です。念仏は、私が如来の世界へとつながってゆけるたった一つの道筋です。そのつながりは、大悲心を信受するというありかたにはじまり、ついで大悲心を憶念するという形となってあらわれてきます。これが本願念仏です。

本願念仏悦ぶは、如来になるあかしなり。

2-25.真実の自己って何だ?

 真実の自己を知れ、という人がいます。「真実の自己」というのは、どういうことでしょうか? 真実の自己を「知る」とはどういうことでしょうか?

 「真実の自己」とは、自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する自己のことでしょうか。

 「知る」とは、そのような因縁の存在であることを経験的に知ることでしょうか。
 自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する因縁の存在である自分は罪悪にまみれた悪人の姿をしていることを経験的に知ることでしょうか。何をどこまで知れば、真実の自己を知ったことになるのでしょうか?

 いずれにしても、上記の真実の自己という言葉には確からしさがなく、さまざまな内容を含みうる多義的な言葉であるため、雲を掴むような漠とした感じを受けます。

 ところで、聖道の修行をした者が智慧を得て自己という固有のものは存在しないと智見することがあるのかもしれません。また、聖道の修行をした者が結果的に自分は罪悪にまみれた悪人の姿を経験的に知るということがあるのかもしれません。

 しかし、浄土門においては、そのようなことを問題とすることはありません。

 真宗においては、如来の救いに遭うに際して自力の計らいは無力であると分かった、という経験をすることがあります。自力無功という信の体験がそれですが、それを真実の自己を知ったと表現するのはあまりにも多くの誤解を招くことになります。信を得ても三世を知ることはできません。信を得ても真実の自己を知ることはできません。信を得て分かることは、自力は役に立たず、自力で信を得ることはできなかったということと如来に大悲心があるということだけです。

2-24.あっちとこっち

 普段の思いや臨終の思いは信と無関係である、といわれます。臨終にどのような思いになっても信を得ていないとは言えないし、信を得たとも言えない、ということです。

 どうして、そのようなことが言えるのか、考えてみましょう。

 私の内心の意識や思いを仮に「こっち」としましょう。信は「あっち」なのです。あっちもこっちも私の内心のできごとなのですが、信を「あっち」というのは、こっちとは異なっているからです。

 こっちはいつも変わります。あっちはいつでも変わりません。
 こっちはいつもざわついています。あっちはいつも静寂です。
 こっちはいつも喜怒哀楽が絶えません。あっちはいつも平静で起伏がありません。
 こっちはいつも面倒なことばかりです。あっちは何もありません。何も起こりません。
 こっちはいつも時間の流れがあります。あっちはいつも今です。過去も未来もありません。
 
こっちは凡夫の側、あっちは仏の側のことです。こっちとあっちですが、同じ心の内です。

 如来の真実心が私に至ったのが私の至心です。その関係は、変化する泥水の模様とその泥水に宿った月影の関係です。泥水の模様が変化しても月影は変化しません。臨終の思いは、いわば変化する泥水の模様です。

 如来の間違いのない真実心に依拠し、依存しているが信です。ですから、心の中にある信と如来の真実心とは同じものです。如来の真実心が変わらなければ、信は恒常です。如来の真実心は変わることがないので、信は常恒で静寂で平静で、何もありませんし、何も起こりません。いつも現在だけです。普段の思いや臨終の思いは、こっち側の意識の中で起こることです。信は私の心の内にありながらも如来の側の領域にあるので、こっちの思いに影響されないのです。
 
 では、念仏は、こっちでしょうか、あっちでしょうか。

 念仏はあっちであり、こっちでもあります。その理由は、念仏は如来の救いが私に届いたものですから、もともと念仏は如来の側に属します。念仏は信に依拠しつつも私の思いで称えるものだから、私の側のものです。でも如来の側に属する念仏ですから、称えて功をつのる思いはありません。 

2-23.念を成じる

 元祖の十七条御法語は、元祖の晩年の御法語であるとされています。その第十条には、

往生の業成は、念をもって本とす。名号を称するは、念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す。心念の業、生を引くがゆえなり。

とあります。

 読んだ当初の感想として、違和感を感じました。信のほかに成すべき念というものがあるのか、という違和感でしたが、やがて違和感は解消されました。

 この念は大悲を憶念することですが、大悲を憶念するとは、大悲を感じつつ大悲に思いを致すことです。他力の信にはこの憶念が自然に伴います。でも、憶念することを忘れがちになります。称名すれば、憶念がふたたび醸成されます。そのため、元祖は、名号を称するは念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す、と言われたのでした。

 南無阿弥陀仏如来の大悲心であることから、この名を称することによって大悲心を感受し、大悲心を感受して大悲心を憶念する。大悲心を憶念して称名する。このような円環が始まります。

 その逆もあります。憶念の心が起こるがゆえに称名するという循環です。称名して憶念の心が起こるのとは逆です。

 しかし、いずれかが基点となるものであっても、その循環はつぎつぎに円環してゆくので、同じ円環になります。大悲心を受ける他力信がその円環の基礎にはあります。

 信があるので、称名から始まっても良いし、憶念から始まっても良いのです。どちらの場合でも大悲心に誘われて自然な円環が始まります。信がなければ、この円環が成立することはありません。

2-22.声につきて決定往生の思い

声につきて決定往生のおもいをなせ。

 

煩悩のうすくあつきをもかえりみず、罪障のかろきをもきをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて、声につきて決定往生のおもひをなすべし。

             法然聖人 つねに仰せられる御詞(二十七条御法語)

 

 声につきて決定往生の思いをなす、とはどういう事でしょうか。

 

 法然聖人は、善導の「行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順被仏願故」を拝読して回心された方です。南無阿弥陀仏と唱えることは、彼の仏願に順じていることになります。仏願に順じているとは、念仏申して浄土に生まれることがなければ正覚を取らないと誓った本願に順じているということです。順じているとはその仏願のとおり念仏しているということです。念仏申す私の声が私の耳に聞こえたら、本願のとおりになるということが確認できます。本願のとおりになるとは、私の往生は如来の誓いのとおりに決定したということです。私の往生は如来の誓いのとおりに決定したのだから、念仏の声に、自身の往生決定の思いが生じるのです。

 

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を本願召喚の勅命と言われました。唱える声となった南無阿弥陀仏は、如来が私に向かって浄土に往生せよと呼びかける勅命だから、その命に従う思いが生じます。如来の命に従えば、往生決定の思いが生じることになります。

 

 蓮如上人は、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり、と言われました。南無阿弥陀仏のすがたとは、摂取するとの如来の願いを私が受け入れたことであり、南無阿弥陀仏は私が浄土に往生してゆくすがたそのものだったと知られます。そのため、南無阿弥陀仏と唱える我が声を聞くと、私は往生してゆけることを自ら確認するのです。ですから、念仏の声に、決定往生の思いが生じるのです。

 

 法然聖人の法語の中には、「源空の目には、三心も、五念も、四修も皆ともに南無阿弥陀仏とみゆる也」との法語があります。南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いて念仏するほかに別の子細なきなり、です。決定往生の思いの源泉は、法然聖人にとっても南無阿弥陀仏なのです。

 

1-23.正定業と助業との違い

 善導大師は、正行を「阿弥陀仏への礼拝、浄土三部経の読誦、阿弥陀如来の浄土の観察、称名念仏、讃嘆供養」をいうと指定され、そのうちの称名念仏を正定業、その他は助業とされました。

 称名念仏を正定業とするのは、称名念仏が十八願に誓われているからですが、この称名念仏と他の助業とはどこがどう違うのでしょうか。

 十八願で誓われている称名念仏は、至心信楽欲生我国、乃至十念と誓われた念仏であることから、信の上の他力念仏です。この信は、阿弥陀如来の大悲心を心で受けとめたことをいいます。そのため、称名念仏は、如来の大悲心を感受しつつ唱えるものになります。他の助業もまた如来の大悲心を感受しつつ、礼拝、読誦、観察、讃嘆供養するものです。

 大悲心を感受する他力信が内心に起こりますと、心相として南無阿弥陀仏となり、如来の大悲心を憶念する心が起こります。この憶念の心があることから心の中の南無阿弥陀仏を拝み、大悲心成就を味読し、信が生じた不思議を内心で讃嘆する思いになります。信が憶念となり、体に現れ出ると礼拝、読誦、観察、称名、讃嘆供養の行となります。いずれも大悲心を感受し、自己の行いの功徳を求めない、自力の計らいの廃った行です。この点は称名念仏と助業とは共通します。

 称名と他の助業とが決定的に違うのは、称名は南無阿弥陀仏の信が南無阿弥陀仏と口称に現れる点です。他の助業においては、口称のように行中に南無阿弥陀仏が現れることはありません。

 繰り返しになりますが、他力の信とは「阿弥陀仏を南無」と信受していることをいい、ここに私が南無阿弥陀仏となった心相があります。この心相としての南無阿弥陀仏は、如来が私の心中に顕現したものです。如来が顕現したものですから、この如来が浄土に環帰してゆきます。私はこの如来によって浄土へと連れられてゆくのです。ですから、この南無阿弥陀仏が私が浄土往生する往生の行となるのです。私に内心の心相としての南無阿弥陀仏があることによって、私は如来を憶念し、これが称名念仏となります。この称名念仏は凡夫の行としての側面はあるものの、心中の南無阿弥陀仏が憶念の心となり、声となって顕現したものですから、善導は称名念仏を正定業とされました。称名念仏が正定業となるのは、南無阿弥陀仏の心相が往生浄土の行だからなのです。祖師は、これを仏の救済行であるという意味で大行と言われました。

 礼拝、読誦、観察、讃嘆供養の行には、このような如来の顕現ということはありませんので、これらの行を正定業と位置づけることはできません。

 ところが、選択本願念仏集において、称名を五助業の1つとしている箇所があります。

初めに同類の助成は、善導和尚の観経疏の中に、五種の助行を挙げて念仏一行を助成す、これなり。・・・・
上輩について正助を論ずれば、「一向に専ら無量寿仏を念ず」とは、これ正行なり。またこれを所助なり。「家を捨て欲を棄て、しかも沙門となって菩提心を発する」等はこれ助行なり。またこれ能助なり。いはく往生の業には念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんがために・・。

善導は、称名を除いて前三、後一を助業とすると述べているので、「五種の助行を挙げて念仏一行を助成す」というのは元祖の見解です。「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを所助とするので、五種の助行は「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを助成するものであるとの見解であることが分かります。称名もこの「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを助成するということです。

 別のところで元祖は

本願の念仏には、ひとりだちをせさせて、すけをささぬなり。すけといふは智恵をもすけにし、持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、慈悲をもすけにさす也。善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人を念仏にすけささぬとはいう也。
つねに仰せられる御詞

と言われています。ここで助(すけ)させるというのは、念仏以外の行などを往生の資助とする自力の計らいのことを言います。これは信前の思いです。自力の行人は、念仏だけでは往生の行として足りないと思うことから、往生の資助として智恵や持戒をアテにして念仏をすけさせることになるのです。念仏はそれだけで往生の正定業だから、他の助(すけ)は必要ありません。選択本願念仏集にいう五助業の助業とは、自力の計らいとしての往生の資助のことではありません。では、「念仏は五種の助行に助成される」とは、どういう意味でしょうか。

 元祖の晩年の御法語であるとされている元祖の十七条御法語の第十条には、

往生の業成は、念をもって本とす。名号を称するは、念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す。心念の業、生を引くがゆえなり。

とあります。これと関係があるように思います。

ここでは、称名は念を成ぜんがためとありますが、念とは如来如来の大悲心を憶念することです。称名をはじめ、礼拝、読誦、観察、讃嘆供養は、いずれも大悲心を憶念する心へとつながってゆきます。ですから、称名も他の助業と同様に仏を憶念する心を助成すると言われたものではないかと思われるのです。

 以上の同類の助業に対して、異類の助業というものもあります。

 これは信後の止悪諸善のことです。悪行をすれば自ら苦しむことになります。そのような苦悩する状態で念仏を唱えることはできません。やはり幸せを感じる順境の中で念仏を唱えるのが一番です。止悪修善の生活それ自体が念仏を唱えやすい環境となります。その意味で、止悪諸善は信後の念仏を唱えやすくするので、念仏を助成する助業としての意味があります。上輩・中輩に「一向に専ら無量寿仏を念ずる」以外の諸行が説かれていますが、これが助業になるというのです。信を得た後は、諸善は雑行ではなく、助業になるとの元祖の御法語が残されています。

問ふていわく、余仏・余経につきて結縁し助成せむ事は、雑となるべきか答ふ。我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起こらむ上は、他善に結縁せん事、全く雑行たるべからず。往生の助業とはなるべきなり。 
醍醐本 禅勝房への答え

 この他にも、次のような助業もあります。

現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。・・・・・・。
衣食住の3つは、念仏の助業也。これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事も念仏の助業也。
                           禅勝房伝説の詞

この助業も念仏を唱えやすくするという意味です。この元祖の詞によれば、念仏を唱えることを生活の中心に考えよ。念仏を唱えられるように止悪修善を行い、生活をととのえて生きてゆけ。収入を得るのも念仏を唱えんがため、家庭を持つのも念仏を唱えんがため、ということになります。

 元祖のお考えでは、大悲心を憶念し称名する以上に価値のあるものはない。念仏者の生活は、その生活の全てが大悲心を憶念し称名することに費やされてゆく。大悲心を憶念し称名するという唯一最高位の価値を頂点として生活の1つ1つが整序されてゆくのだ、というのでありましょう。

1-22.念々不捨者

元祖は、
一念十念に往生すといへばとて、念仏を粗相に申せば、信が行をさまたぐる也。念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもへば行が信をさまたぐ也。故に信をば一念に生まるととりて、行をば一形にはげむべし。
                          禅勝房に示す御詞
と言われています。

ここに「念々不捨者」とは、いうまでもなく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の「念々不捨者」です。

この「念々不捨者」とはどういう意味なのか、考えてみました。

 一心専念とは「弥陀の本願・大悲を疑いなく聞き受けた上で大悲を念じること」です。一心は信楽の信であり、専念の念は大悲を憶念する念のことです。

 ところで、元祖は、上記の詞において「念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもへば行が信をさまたぐ也」と言われていることから、「念々不捨者」とは行者の行の修し方のことであり、念仏の修し方(行相)として「一形の念仏」と理解していたことが窺われます。一形の念仏とは、一生涯に亘っての不断の念仏のことです。そうしますと、念々捨てざる者とは、衆生称名念仏を捨てないということを意味することになります。「者」とは衆生のことで、「不捨」は衆生が「称名念仏行を捨てない」という意味になります。

 しかし、衆生は口称の念仏を怠ることはないのでしょうか。怠りっぱなしの時間の方が多いのではないかと思います。それでも「念々不捨者」と言えるのでしょうか。

 一心専念を私のものとなった南無阿弥陀仏のことだと理解すればスッキリするように思います。

 南無は私の信のこと
 信は阿弥陀仏を疑いなく聞き受けて仰信していること
 阿弥陀仏とは摂取不捨の大悲のこと
 南無阿弥陀仏は私が摂取不捨の大悲を聞き受けて仰信している私の心相のこと

です。この摂取不捨の大悲が私の心中に感受されることから、この大悲を憶念する心が自然とわき出てきます。この憶念が自然と口称となります。憶念や口称となる前の心中の大悲を感受している南無阿弥陀仏の心相が往生の行であり、正定之業です。そのため私の行う口称に往生の功はまったくありません。口称に何の功も認めることがないので、私が口称の念仏を怠っていても、私が口称の念仏を励んでも往生には何の支障もありませんし、関係もしません。

私と一体となった南無阿弥陀仏を私が捨てようと思ったり離れようと思っても、如来の大悲は常に私を照護し不捨しています。これが私と一体になった南無阿弥陀仏です。私と一体となった南無阿弥陀仏ですから、たとえ私が念仏の行を怠ることがあったとしても、阿弥陀仏を南無していることは絶えることなく、一生にわたって念々不捨の状態なのです。衆生の「念々不捨者」というのは、行者の行相のことではなく、私の心相としての「南無阿弥陀仏」のことだと理解すれば、衆生が念仏の行を怠るとか、励むとかという問題ではないことが分かるでしょう。