6-1.質問と回答(1)

質問
 私はまさに「如来の慈悲がいただきたい、わかりたい」と思っています。 それでこうしていろいろブログなどを拝見させていただいているのですが、なかなか腑に落ちません。「如来の慈悲が私に届いていると分かったとき、もらい方を問題としなくて良いことが分かりました。慈悲が既に届いていたので、届いていると分かっただけで良かったのでした。」とのことですが、どうして「如来の慈悲が私に届いている」とわかるのでしょうか? 「ただ、慈悲があることが分かれば良かったのでした。慈悲が届いていると分かったことが慈悲をいただくということでした。」と言われますが、「慈悲がある」ということがわからないし、いまいち信じられないというのが正直な気持ちなのです。どうすればそれがわかるのでしょうか?

 

回答
 ご質問を戴き、誠に有り難うございました。

 やがて信に恵まれる方は、このような真摯な問いを心に抱え込んでおり、その答えが見つけるまでは心が落ち着かず、ときにはそれがとても苦しく煩悶してしまうことがあります。私がそうでした。経験的に言えば、このようなご質問をされる方は間違いなく、如来の大悲の働きによって信の世界へと引き出されようとしている方だと思います。
 
 さて、どのようにして如来の慈悲が届いていると分かったのか、についてはうまく説明する言葉がありません。「教学や聴聞において説明される論理や言葉の意味を理解したことで慈悲が届いていることが分かった」というものではないのです。

 わたくし事として経験的なことを申し上げると、如来の大悲は釈迦仏が大経という経典を説いたことに始まり、七高僧を通じて祖師がさまざまな聖語を私に伝えて下された。その結果が、如来の仏願の生起本末を私が聞き、私が念仏を称えているという確かな事実となっている。この歴史的、現実的事実は如来の願力から縁起されたものであり、それが私に届けられていたとの理解に達したとき、私の中で何かがぴんと来ました。「そうであれば私が何も力む必要はないではないか。」と。それでも慈悲というものがどういうものか分かりませんでした。よく慈悲が届いている証拠は南無阿弥陀仏という六字だ、と言われますし、あるいは私の浄土往生の証拠は南無阿弥陀仏だとも言われます。これは、上記のような歴史的、現実的事実の中に如来の大悲が届いていることを見いだしたことを端的に表現したものですが、それを知的に理解しても大悲は分かりません。それが人間の知的認識力の限界です。わかりようがないのです。

 ところで、「慈悲があると分かる」とか「慈悲を知る」というのは、実は、貴方が求めている信そのものです。
 ご存じのように信とは大悲を無疑の心で受けていることを言います。この信があればこそ大悲を大悲として受けとめることができます。大悲を受けとめたとき大悲は私の心の中に姿を現します。その姿の現れ方は、南無阿弥陀仏という姿をとります。阿弥陀仏とは私を摂取し、捨て給わぬ如来の大悲のこと、南無とは私がその大悲を受けていること。私の心が、摂取するとの如来の大悲を受け入れている状態となったとき、南無阿弥陀仏は私の心の心相となるのです。「南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく姿である」という思いも、実にここから起こります。この心相になったとき、私の生き死には私が何とかできるものではなかった、だから如来がまかせよと言われたのだったという思いとなります。「慈悲が届いている証拠は南無阿弥陀仏」と言われる理由はここにあります。しかし、これは、分かった人には分かる理屈であり、分からない人には分からない理屈です。

 信がなければ大悲を受けとめることはできませんが、信を求めても信は得られません。信は大悲から生じるものだからです。信は大悲から生じるものなので、信を求めるのではなく、大悲を聞くしかないのです。「信は願より生ずれば念仏往生自然なり。」とは高僧和讃の言葉です。

 この回答文をすべて読み終えても、きっと貴方は「一応は分かったが、ではどうすればいいのだ。」と再び、煩悶されるでしょうし、そうした状態がしばらく続くと思います。自分が救われるにはどうすれば良いか、という思いは自分中心の視点に立っているから起こることです。今、貴方にできることは、その立ち位置を離れて、如来は私に何を願っているのか、ということを考えることです。そのような視点から、如来は私に何を願っているのかを聞いて下さい。それが大悲を聞くということです。

 如来は、貴方を救うのに万に一つの過ちや危ぶみはない、必ず、浄土往生させるという仏の智慧による確信を持っています。これを如来信楽、至心、欲生心といいます。如来信楽とは「私を救うことに何の危ぶみもなく何の躊躇もなく救うことを確信しているゆるぎのない心、摂取決定心」のことです。如来の至心とは「救うのに真実誠の心・嘘偽りのない心をもってする」ということ、如来の欲生心とは「我が国に生じさせんとの願生心」のことです。祖師は三心一心問答に、この如来の摂取決定心、至心、欲生心の故に疑蓋雑わることなし、と記されています。疑蓋がまじわらなくなる理由として祖師が指南しているのは、如来に摂取決定心、至心、欲生心があるから、ということです。

 この如来の摂取決定心、至心、欲生心(まとめて願心といいます)に思いを向けて下さい。

 どうすればいいのかと自分の心に目を向けていては信は開けません。信が開けるときは誰に教わるわけではないのに活然と開けます。それが如来の願力というものです。あるいは気づきとも言われます。言葉や論理の導きによって如来の願心に目を向けるようになっても、その先は、論理や言葉では導くことができないのです。ここが言葉の限界です。最初に、教学や聴聞において説明される論理や言葉の意味を理解したことで慈悲が届いていることが分かるものではないと申し上げた理由は、ここにあります。

 最後に。
 法然聖人は念仏を称えれば自然に三心を具すると言われました。三心とは他力の真実信心のことです。念仏を称えるということは、念仏を称える者を浄土の迎えんということが如来の願いであり、如来の願いに順じることが念仏を称えることだと理解されて法然聖人は回心されたと言われています。如来の願いに順じるには如来の願いを聞き、その願いを受け入れるしかないのです。念仏を称えることは如来の願いを聞いてそれに順じたすがたです。そのことに気づくのがまた信です。
 信は特別な何か、だと考えてはなりません。信は念仏を称えているわが身の中に見いだされるものですし、如来の間違いようのない救いだと聞くなかに自然と生じるものなのです。信は力んでつかみ取れるものではありません。力む限り、信からは限りなく遠ざかってゆきます。どうしたらよいのかと呻吟する限り、自力の無限のループから抜け出られなくなります。これが自力の計らいとも言われ、祖師が疑蓋と言われたものです。そこから抜け出るには、如来の願力に間違いはないと聞き、その願力にゆだねるしかありません。

3-13.念仏すれば救われますか? の質問にどう答えるか。

 

A君 真宗において、なかなか救われずに苦労している人は、どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか、と真剣に問われることがあるよね。君なら何と答える?

 

B君 「救われる」という事をその人はどう考えているのでしょうか。浄土往生できるということでしょうか、それとも真実信心を得たいということでしょうか。

 

A君 そうだね。「救われる」というのは「浄土往生できる」という前提で考えてよ。

 

B君 分かりました。念仏往生とはいえ、そのような心で念仏を称えても浄土往生はできません。

 

A君 「そのような心」ってどんな心のこと?

 

B君 今A君が言った「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」という疑念をもった心、ということです。

 

A君 これは疑念なのかな。

 

B君 そう。これは本願を疑う疑念です。 

 

Cさん どうして、そういえるの。

 

B君 如来は「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているから、善導は「称念必得往生」と言われています。「念仏すれば救われますか?」という思いは、その如来の誓いに疑念を差し挟んでいるので、本願を疑う疑念なのです。

 

A君 「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているといったが、それは善導の本願取意の文と言って十八願の三信を省略したものだよね。どうして、善導は三信を省略したか知っているかい。

 

B君 それはしらない。善導が三信を省略した理由を述べている箇所がないからね。

でも、法然聖人は、そのような質問をされて、こう答えているよ。「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われていることを聞いて信順して称名すれば自ずと三心は具足するってね。

 

A君 よく勉強しているね。それはどこに出ていたの。

 

B君 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁にでているよ。 ある人が、善導の本願取意の文に、三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき法然聖人は、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたことが「諸人伝説の詞」にでているってね。

 

A君 よく分かったよ。じゃあ、称名念仏に際しては、先ほどらいの疑念がなくなればいいのかな。

 

B君 そうです。そうした疑念がなくなって、往生決定の思いになればいいのです。そのような疑念のない念仏を称えられる人は、すでに如来の救いに預かっている人なのです。

 

A君 では、そのような疑念のあるなしが問題となるということだね。 

 

B君 そうです。なくなればよし、無くならなければ往生は不可です。これを信疑決判というのです。

 

A君 どうしてその疑念の有無が問題となるのかな。

 

B君 その疑念が十八願の救いに向かうと疑情となって、如来の救いを妨げてしまうことになるからです。法然聖人はこんなことを言われていました。念仏往生要義抄に「問うていはく、称名念仏申す人はみな往生すべしや。答えていわく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまたく往生すべからず。」その他力については「問いていわく、その他力の様いかん。答えていわく、ただひとすじに、わが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ。」と法然聖人は答えられた。これも「法然教学の研究」という本にでているよ。

 

A君 念仏を称える思いがひとすじに決定往生の思いになっているか否か、が問題だというのだね。では、決定往生の思いとはどういうものなのかな。

 

B君 決定往生の思いとは、十八願の至心信楽欲生の他力の信のこと。この他力の信に裏付けられている念仏が、乃至十念の念仏、法然聖人の言う他力の念仏のこと。「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」と思っている人は、この決定往生の思いがない。だから、そのような疑念でせっかくの念仏を称えても自力の念仏となってしまう。

 

Cさん 言い換えれば、「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」という疑念は十八願の救いを妨げているものなのね。

 

A君 ではCさん、十八願の救いはどういうものか説明し、どうしてそのような疑念が十八願の救いを妨げるものになるのか、もう少し詳しく説明して下さい。

 

Cさん 十八願の救いというのは、御名を聞いて信心歓喜することなの。私が往生してゆく浄土が完成し、私はその浄土に往生してゆくことに何の間違いもないと告げているのが南無阿弥陀仏の御名であり、その御名が私に届いて私がそれを聞いていることがすでに如来の救いに遇っているということよ。だからその事を聞いて気づけば、私の往生は既に如来が定めおいて下されたのか、と歓喜して念仏を称えるようになるの。これを如来の救いにあった人というの。どうしたら救われるのかと思うのは、その救いに遭っていることに気づいていない人なの。如来の救いに遇っていることを信じられない人なのね。

 

A君 如来の救いに遭っていながら、なんとか救われたい、どうしたら救われるのかなどと言っているのは、実に滑稽なことだ。でも、誰もがそのような滑稽なことをしていたんだよ。僕もみんなもだ。このような思いは自分の心を覆ってしまい、せっかくの如来の救いを無為にしてしまうので、自力の迷情というんだ。

 

Cさん その自力の迷情が問題なのね。でも、如来の救いに既に遭っていることに気づいたとき、その迷情はきれいに消えてしまうわ。

 

A君 そこが如来の救いのおもしろいところだ。なんとか救われたいと思っている思いがかえって救いの妨げになっているんだからね。

 

A君 では、そうした疑念のまま念仏を称え続けたら、その疑念が晴れることはあるのかな。念仏行の効果ないし効用として。

 

B君 ないでしょう。

 

A君 でも、如来は、念我国諸植徳本(称名)の者について果遂させると誓っているよ。念仏するものはいつかその思いが遂げられるのではないのかな?

 

B君 今救われたいと願っている人には、その誓いは意味がないよね。その人は、今の今、如来に救われたいと思っているのだから。今の今、救われるような救いでなければならないでしょう。

 

Cさん じゃ、念仏称えてもいつかは救われるかも知れないが、今の今は救われないってことね。

 

B君 そうですね。救われないですね。法然聖人が言われているようにね。

 

A君 法然聖人は、行具の三心といわれていることを知っているかい。

 

B君 さっき、善導の本願取意の文に、三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由を法然聖人は「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えたってことを紹介したけど、「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足」することから、この三心は行具の三心と言われている。

 

A君 念仏行を行じる人には自然と三心を具すということだね。

 

A君 三心とは観経の三心のこと、つまり至誠心、深心、発願回向心のことだけど、行具の三心は十八願の至心信楽欲生の信と同じだ。念仏にはその徳として自然に信が伴うということだね。

 

Cさん じゃ、念仏を称えていれば他力の信が自然と生じるということなの。

 

A君 さぁ~。そこだよ。大切な所は。

 

B君 そこだよね。大切な所は。

 

B君 他力の信が自然と生じるには、必得往生との如来の願心を聞いて、その願心を心で受けるしかないのですよ。

 

A君 そうなんだよね。如来は、浄土往生は決定していると衆生に聞かせて信じさせて救うという願いをもっているんだ。その願いをそのまま聞くしかないのだ。その願いを聞いて心で受けとめない限り、信が生じることはないんだ。

 

B君 如来衆生に聞かせるところまでお手回しされているから、衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけなんですよね。そう聞いて、私の浄土往生決定との思いが生じたことを信というんだ。

 

A君 じゃ、B君としては、そのような回答をするということだね。

 

B君 そうです。それ以外には回答のしようがありません。称名という行の効果として疑心が消滅するということではなく、往生は決定との如来の願心を聞くことから信が生じるのです。

 

Cさん じゃさ、法然聖人が言われた行具の三心とか「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足する」というのは、間違いなの?

 

B君 もちろん間違いじゃないよ。法然聖人がね、「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足する」と言われているのは、「衆生称念必得往生」と願っている如来の願心を聞けば自然に信が生じるということなんだ。念仏を称えるということは如来の願心に順じるということだよ。如来の願心に順じて念仏を称えるから、当然、そこには信順の思いがあるんだ。この思いが信だよ。

 

A君 次ね。じゃあさ、「衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけ」という回答を聞いた人は、聞いても聞いても如来の願心が分からないと言ってくるんじゃないかと思うが。

 

B君 そうですね、僕もそうでしたから。

 

Cさん じゃ、どう言ってあげればよいの?

 

B君 それでも、誤ることのない如来智慧で救いとるお慈悲があるから、そのお慈悲をそのまま聞くんです。大事なのは、私の浄土往生は如来の願力によって決定したと聞かせて頂くこと。これだけ。善導・法然流に言えば、念仏は必得往生させるとの如来の大悲に沿う行だから、念仏を称えるということはその慈悲を領受したということ。

 

A君 そうだね。私の浄土往生は決定した、必得往生と聞かせてもらい、聞いている人はそれを真受けすること。この真受けするというところは、言葉では導けないところだ。だから、最初の質問者に対しては、如来の間違うことのない真実の願心があること、必得往生だから私の往生は如来の願力によって決定していると聞くことだ、と助言し続けるしかないのだよ。

2-26.念仏はあっちとこっちをつなぐもの

 念仏はもともと如来の側に属するものですが、如来の側と私の側とをつなぐものです。それが如来のお約束事です。

 「如来のお約束事」とは、

 如来が私を救済する手段として南無阿弥陀仏を選び取り、私に受け取らせん、称えさせんと誓ったのが如来の十七願のお約束。
 私がそのお約束を受け入れて念仏を称えれば如来の世界に導かんと誓ったのが十八願のお約束。

 これが念仏に込められた如来の願いです。そのため、お約束のとおりに私が受け取り、称えている念仏は、如来と私をつなぐものとなるのです。

 如来からの頂き物の念仏は、如来からの往生決定のお便りであると受け取り、申すしかありません。如来南無阿弥陀仏という仏様となって私の世界に入ってきて下されたから、私は南無阿弥陀仏と唱えることができるのです。そのように如来の方から私につなげられた南無阿弥陀仏を申せば、自然と如来の側にゆくことができます。それが如来の十八願のお約束です。念仏は、私が如来の世界へとつながってゆけるたった一つの道筋です。そのつながりは、大悲心を信受するというありかたにはじまり、ついで大悲心を憶念するという形となってあらわれてきます。これが本願念仏です。

本願念仏悦ぶは、如来になるあかしなり。

2-25.真実の自己って何だ?

 真実の自己を知れ、という人がいます。「真実の自己」というのは、どういうことでしょうか? 真実の自己を「知る」とはどういうことでしょうか?

 「真実の自己」とは、自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する自己のことでしょうか。

 「知る」とは、そのような因縁の存在であることを経験的に知ることでしょうか。
 自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する因縁の存在である自分は罪悪にまみれた悪人の姿をしていることを経験的に知ることでしょうか。何をどこまで知れば、真実の自己を知ったことになるのでしょうか?

 いずれにしても、上記の真実の自己という言葉には確からしさがなく、さまざまな内容を含みうる多義的な言葉であるため、雲を掴むような漠とした感じを受けます。

 ところで、聖道の修行をした者が智慧を得て自己という固有のものは存在しないと智見することがあるのかもしれません。また、聖道の修行をした者が結果的に自分は罪悪にまみれた悪人の姿を経験的に知るということがあるのかもしれません。

 しかし、浄土門においては、そのようなことを問題とすることはありません。

 真宗においては、如来の救いに遭うに際して自力の計らいは無力であると分かった、という経験をすることがあります。自力無功という信の体験がそれですが、それを真実の自己を知ったと表現するのはあまりにも多くの誤解を招くことになります。信を得ても三世を知ることはできません。信を得ても真実の自己を知ることはできません。信を得て分かることは、自力は役に立たず、自力で信を得ることはできなかったということと如来に大悲心があるということだけです。

2-24.あっちとこっち

 普段の思いや臨終の思いは信と無関係である、といわれます。臨終にどのような思いになっても信を得ていないとは言えないし、信を得たとも言えない、ということです。

 どうして、そのようなことが言えるのか、考えてみましょう。

 私の内心の意識や思いを仮に「こっち」としましょう。信は「あっち」なのです。あっちもこっちも私の内心のできごとなのですが、信を「あっち」というのは、こっちとは異なっているからです。

 こっちはいつも変わります。あっちはいつでも変わりません。
 こっちはいつもざわついています。あっちはいつも静寂です。
 こっちはいつも喜怒哀楽が絶えません。あっちはいつも平静で起伏がありません。
 こっちはいつも面倒なことばかりです。あっちは何もありません。何も起こりません。
 こっちはいつも時間の流れがあります。あっちはいつも今です。過去も未来もありません。
 
こっちは凡夫の側、あっちは仏の側のことです。こっちとあっちですが、同じ心の内です。

 如来の真実心が私に至ったのが私の至心です。その関係は、変化する泥水の模様とその泥水に宿った月影の関係です。泥水の模様が変化しても月影は変化しません。臨終の思いは、いわば変化する泥水の模様です。

 如来の間違いのない真実心に依拠し、依存しているが信です。ですから、心の中にある信と如来の真実心とは同じものです。如来の真実心が変わらなければ、信は恒常です。如来の真実心は変わることがないので、信は常恒で静寂で平静で、何もありませんし、何も起こりません。いつも現在だけです。普段の思いや臨終の思いは、こっち側の意識の中で起こることです。信は私の心の内にありながらも如来の側の領域にあるので、こっちの思いに影響されないのです。
 
 では、念仏は、こっちでしょうか、あっちでしょうか。

 念仏はあっちであり、こっちでもあります。その理由は、念仏は如来の救いが私に届いたものですから、もともと念仏は如来の側に属します。念仏は信に依拠しつつも私の思いで称えるものだから、私の側のものです。でも如来の側に属する念仏ですから、称えて功をつのる思いはありません。 

2-23.念を成じる

 元祖の十七条御法語は、元祖の晩年の御法語であるとされています。その第十条には、

往生の業成は、念をもって本とす。名号を称するは、念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す。心念の業、生を引くがゆえなり。

とあります。

 読んだ当初の感想として、違和感を感じました。信のほかに成すべき念というものがあるのか、という違和感でしたが、やがて違和感は解消されました。

 この念は大悲を憶念することですが、大悲を憶念するとは、大悲を感じつつ大悲に思いを致すことです。他力の信にはこの憶念が自然に伴います。でも、憶念することを忘れがちになります。称名すれば、憶念がふたたび醸成されます。そのため、元祖は、名号を称するは念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す、と言われたのでした。

 南無阿弥陀仏如来の大悲心であることから、この名を称することによって大悲心を感受し、大悲心を感受して大悲心を憶念する。大悲心を憶念して称名する。このような円環が始まります。

 その逆もあります。憶念の心が起こるがゆえに称名するという循環です。称名して憶念の心が起こるのとは逆です。

 しかし、いずれかが基点となるものであっても、その循環はつぎつぎに円環してゆくので、同じ円環になります。大悲心を受ける他力信がその円環の基礎にはあります。

 信があるので、称名から始まっても良いし、憶念から始まっても良いのです。どちらの場合でも大悲心に誘われて自然な円環が始まります。信がなければ、この円環が成立することはありません。

2-22.声につきて決定往生の思い

声につきて決定往生のおもいをなせ。

 

煩悩のうすくあつきをもかえりみず、罪障のかろきをもきをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて、声につきて決定往生のおもひをなすべし。

             法然聖人 つねに仰せられる御詞(二十七条御法語)

 

 声につきて決定往生の思いをなす、とはどういう事でしょうか。

 

 法然聖人は、善導の「行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順被仏願故」を拝読して回心された方です。南無阿弥陀仏と唱えることは、彼の仏願に順じていることになります。仏願に順じているとは、念仏申して浄土に生まれることがなければ正覚を取らないと誓った本願に順じているということです。順じているとはその仏願のとおり念仏しているということです。念仏申す私の声が私の耳に聞こえたら、本願のとおりになるということが確認できます。本願のとおりになるとは、私の往生は如来の誓いのとおりに決定したということです。私の往生は如来の誓いのとおりに決定したのだから、念仏の声に、自身の往生決定の思いが生じるのです。

 

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を本願召喚の勅命と言われました。唱える声となった南無阿弥陀仏は、如来が私に向かって浄土に往生せよと呼びかける勅命だから、その命に従う思いが生じます。如来の命に従えば、往生決定の思いが生じることになります。

 

 蓮如上人は、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり、と言われました。南無阿弥陀仏のすがたとは、摂取するとの如来の願いを私が受け入れたことであり、南無阿弥陀仏は私が浄土に往生してゆくすがたそのものだったと知られます。そのため、南無阿弥陀仏と唱える我が声を聞くと、私は往生してゆけることを自ら確認するのです。ですから、念仏の声に、決定往生の思いが生じるのです。

 

 法然聖人の法語の中には、「源空の目には、三心も、五念も、四修も皆ともに南無阿弥陀仏とみゆる也」との法語があります。南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いて念仏するほかに別の子細なきなり、です。決定往生の思いの源泉は、法然聖人にとっても南無阿弥陀仏なのです。