3-19.会話編 執持鈔を通じて-仏にまかせることと決定往生の思い

執持鈔二章

 往生ほどの一大事凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず・・まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちからにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふべきなり。されば、われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも定むべからず。

 故聖人、黒谷源空聖人の御ことばなり の仰せに「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」とたしかにうけたまわりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。このたびもし善知識にあいたてまつらずば・・われ地獄に堕つるといふとも・・・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。・・・生死のはなれがたきをはなれ浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず・・。善悪の生所わたくしの定むるところにあらずということなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

 

A君 上記に「われとして・・定むべからず」「わたくしの定むるところにあらず」「わたくしの定むるところにあらずということなり」と三度にも亘って私が往くべき所を「私が定めるものではない」と強調されているよね。この「私が定めるものではない」とはどういうことなんだろうね。

 

B君 私は悪業を造っているから地獄に堕ちると勝手に決めてはならないし、善行をしたから極楽に往けると勝手に決めてはならないという意味だよね。

 

A君 元祖は決定往生の思いによって往生は決定すると言われているけど、どうして自分の行く先を自分で決めてはいけないというのかな。

 

B君 仏様の大悲を聞きながら自分の行く先を自分が決めるのは自力の計らいになるからだね。これを上記の一行目に「凡夫のはからふ」とか最後の方に「自力」と言われているよ。

 

A君 もう少し丁寧に説明してよ。

 

B君 仏様の大悲は私を浄土に生まれさせるというものなのに、私は悪業を造ったから地獄に堕ちると思うことは、その大悲に背いて大悲を無駄にしていることになるよね。悪業を造ったから地獄に堕ちるとの思いは、仏様から見たら仏様の大悲を無視した自分勝手な思いとなる。だから、仏様の立場から見たら自力の計らいとなるんだ。

 

A君 うん。じゃあ善行をしたから極楽に往けるという思いはどうなんだい。

 

B君 それも自分の勝手な計らいになるよ。仏様が為すのと同じような真実の善であるならば浄土にも往けようが、凡夫が善行をしたからといって浄土に往けるということはないんだよ。仏様の大悲によらなければ浄土には往けないのに、凡夫のなす善で浄土に往けるとの思いを持つことは、その大悲によるのではなく、自分の善行をあてにして浄土に行こうとしているのだから、せっかくの大悲をないがしろにしにしてしまうことになるんだ。だから仏様から見たら大悲に反した勝手な計らいになる。

 

A君 つまり凡夫の善人悪人というものは、仏様の目から見たら大差はないということかな。

 

B君 自力で浄土へは往けないという点では、大差はないというのではなく、全く差はないというべきだね。全く差はないのに善を頼りにしたり、悪がやまらない自己を卑下したりして浄土に生まれる事ができないなどと考えることは、ともに大悲をないがしろにする思いだから、凡夫の浅智による愚かな自力の計らいという事になるのさ。

 

A君 そう言われても、自力で計らう思いを自ら離れることが出来るのだろうか。確かに、そのような思いが捨てられたならば自力を捨てて他力に帰する姿になるのだろうが、それは自分の力では無理なことだよね。そのように無理なことを覚如上人は言われているのだろうか。

 

B君 他力に帰するというところがポイント。他力というのは仏様の御力のこと。他力に帰するというのは自分の力で他力に帰するということじゃないんだ。自力は自然と廃るものであって自分の力で捨てることができるものではないんだ。浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしの力にあらずと言われているだろ。

 

A君 ほうほう。わたくしの力じゃなければ何の力なんだい。

 

B君 それが如来の御力といわれているものだよ。わが身とわが行き先を仏様にゆだねると仏様の力によって自分の行く先が決まるということだよ。私の行き先は私ではなく仏様が決めることなんだね。仏様の力によって行く先が決まるというのは、仏様の力によって行く先が決まるという思いになることだ。

 

A君 うん。じゃわが身とわが行き先を仏様の力にゆだねているとの思いになったら、自分の行く先は地獄でもなく浄土でもなく不定ということになのかな。

 

B君 そうじゃないよ。仏様の力によって行く先が決まるとの思いになったら「浄土の生まれがたきを一定と期する」ということになるのさ。これは元祖が言われている「決定往生の思い」のことなんだ。

 

A君 じゃ詰まる所、浄土へまゐるべしともまた地獄へゆくべしとも定まらないのではなく、浄土往生は決定と思いが定まるということなんだね。

 

B君 そうだよ。

A君 それじゃ、覚如上人にも往生決定の思いがあったということなんだね。

B君 そうだね。

A君 覚如上人に決定往生の思いがあったことは、どの文で分かるのだろうか。

 

B君 「浄土の生まれがたきを一定と期する」というところかな。

 

A君 正確にはそれは祖師のお言葉として引用しているものだね。よく読むと分かるよ。覚如上人はその祖師のお言葉を引用され結論として「これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。」と言われている所から覚如上人にも同じ「浄土の生まれがたきを一定と期する」思いがあったということになるだろうね。

 

A君 執持鈔五章には「もし弥陀の名願力を称念すとも往生なお不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す。往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆえに臨終にふたたび名号をとなへずとも往生をとぐべきこと勿論なり。・・しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の思いに住せばかなうべからず。」って書いてある。「往生の業すでに成弁する」「往生をとぐべきこと勿論なり。」「平生のとき不定の思いに住せばかなうべからず。」というところが覚如上人の思いが述べられている所だね。  

 

A君 「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも定むべからず。」と言われながらどうして「往生をとぐべきこと勿論なり。」ということになるのだろうか。

 

B君 それはね、浄土に生まれさせるという大悲があるからなんだよ。そのような大悲を無疑で感受しているから往生決定の思いとなるのさ。他力に帰するとは仏様の願いを受け入れてその力にわが身とわが行き先をゆだね、往生は決定との思いになるという事だよ。

 

A君 じゃ君は確実に間違いなく浄土に往けると考えているのかい?

 

B君 自分の理性では浄土に往けるかどうかは分からない。が、しかし他方では往生決定の思いがあるんだよ。不思議だね。どうしてそうなるのだろうか。

 

A君 理性とか悟性というのは、脳の機能のうち認識した事実や経験則などを根拠として論理的に推論して予測や判断する知的機能のことだが、確信というのはそうした悟性によって得られた予測や結論の確かなことを指している言葉だと思うんだ。根拠や推論の確からしさが誤りようがないという程度にまで達したとき人はそれを確信したと言うのだと思う。そのような悟性で浄土に往けると考えているのが往生決定の思いじゃない。往生決定の思いは悟性ではなく、別の何か、言うなれば感性とか情を司っている脳の機能ないしは心が大悲を感じ受けているのだろう。だから、君のように「悟性では浄土に往けるかどうかは分からないが往生決定の思いがある。」ということになるのだろうね。

 

B君 ここが他力の信の面白い所であり、分かりにくい所なんだろうね。

 

A君 そうなんだ。往生決定の思いを確信というには違和感がある。それは浄土へ往ける根拠や推論の確からしさが誤りようがないというほどに明確になったというものではないからだ。しかし、往生決定の思いがないのでもない。往生決定の思いはある。往生決定の思いには悟性による確からしさというものはないが、往生は決定と感じられるものなんだ。

 

B君 決定往生の思いの根拠をいうのであれば、大悲があるからということになるだろうね。

 

A君 そういうことだね。大悲があるというのが根拠だとしても大悲はあると何故言えるのかと問われると、自分がそう感じているからとしか言いようが無くなってしまう。それが大悲を無疑で受けているということだよ。他力の信を無根の信という理由はここにあるんだろうね。

 

B君 覚如上人はひとすじに如来にまかせたてまつるべしと勧めているが、如来にまかせたてまつれば、「浄土の生まれがたきを一定と期する決定往生の思い」になると覚如上人は言われていると理解しても良いよね。

 

A君 そう。結局は元祖と同じことを言われているんだ。そのことは執持鈔五章の先の文からも分かる。他力の信とは単に如来にまかせたということではないんだ。如来にまかせれば必ず往生決定の思いが生じる。決定往生の思いがなければ如来にまかせたことにはならないんだよ。

 

B君 つまり祖師は無疑をもって真実信とされたけど、それは本願の三心のうちの信楽という語を根底に据えて信を解釈されたという事であって、欲生を真実信から除外ないし無視されたのではないということだね。

 

A君 そうさ。決定往生の思いは本願の三心の一つの欲生だ。無疑たる信楽と欲生たる決定往生の思いとはもともと分離不可能な一つの心なんだ。無疑の信を欠いた決定往生の思いはないし、決定往生の思いの生じない無疑の信はないのだよ。天親菩薩が一心と言われたように信楽と欲生とはもともと一心なんだよ。

 

B君 じゃ祖師が浄土往生は決定と言われずに、「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所わたくしの定むるところにあらずといふなり。」と言われているのはどういうことなんだろうか。

 

A君 祖師には決定往生の思いがありつつも、地獄に堕つる身という根強い思いがあったのだろう。

 

B君 つまり?

 

A君 「浄土に往けるかどうかは分からない」という思いどころか、祖師には「地獄に堕つる身」という根深い思いがあり、この思いと対峙しなければならなかった。祖師はこの思いをどのように受けとめて理解したら良いのか、ハタと考え込まれたのだろうと想像できる。往生は決定したとの思いが生じたことによっても消え去る事がなかった地獄に堕つる身という思いについて祖師が出された答えが、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」と言われた源空聖人の仰せに信順し、「とたしかにうけたまわりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。」ということだったんだよ。そして「われ地獄に堕つるといふとも・・・悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり」という結論に至ったんだね。

 

B君 つまり?

 

A君 「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」との源空聖人の仰せに信順した思いとしてご自身の心の中に「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとのおもひ」がかたまり、それでよしという思いになられたんだ。この思いは決定往生の思いが大悲に対する信順無疑の心から生じる思いであるのと同じように、元祖の仰せに対する信順無疑の心から生じた思いだ。祖師は元祖を阿弥陀仏の化身と思われていた事から元祖の仰せは阿弥陀仏の仰せであると受けとめて信順していたんだよ。

 

B君 大悲に対する信順無疑の心から生じる思いは決定往生の思いだけでじゃなく、わが身とわが行き先を仏様の大悲にゆだねた、ないしゆだねているとの思いや元祖や祖師と同じ所に参らせていただくという思いなど多様な思いが生じるんだね。

 

A君 そう。そして、それらの多様な思いはすぐに浄土に往生できるとの思いに収斂していくんだが、再び「浄土に往けるかどうかは分からない」という思いや「地獄に堕つる身」という思いが繰り返し生じたときでも、「わが身とわが行き先を仏様の大悲にゆだねている」という安堵感やわが行き先は仏様が生まれさせると言われている浄土であるとの思いで心が満たされるようになってゆくんだ。信の者はこのような思いを胸に抱えている事から、祖師は「故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとのおもひ」になっていたんだよ。

 

B君 「善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらん」というお言葉はそうした思いの中から出てきたお言葉なんだね。

 

A君 祖師のこのお言葉をわたくしなりに言い換えると、「仏の仰せにすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。仏とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、仏の生まれさせんと仰せられるところへまゐるべし」と言い換えることができる。これは大悲に対して無疑となっている事から生じる大悲と私とは一体であるとの思いなんだが、これと同質の思いが、私の行く先が地獄であろうとどこであろうと元祖の往かれた所と同じ所に参らんという思いなんだろうと思われるんだ。ここに祖師は心の落ち着き所を見いだされたのだと思う。それで「生死のはなれがたきをはなれ浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。」と祖師は言われ、「浄土往生は一定と期」されていたんだ。往生一定を期するとは一つに定まった往生を期する思いのことで、決定往生の思いのことだ。

 

B君 覚如上人はこの祖師のお言葉に、自力が廃って他力に帰した姿とはそうした姿であると言われたんだね。

 

A君 そう。善悪の思いに囚われることなく、ただ仏様の御力にまかせて決定往生の思いに住している事を自力が廃って他力に帰した姿になったというんだ。

4-12.こだわるところが間違っている。 未信の者がこだわり、信の者がこだわらないこと 信の者がこだわり、未信の者がこだわらないこと

未信の者がこだわるのは「わかりたい」「救われたい」「信が欲しい」「後生の不安を解決したい」ということですが、信の者はそういったことに対するこだわりはまったくありません。未信の者がこだわるべきなのにこだわらないのは大悲への理解です。大悲への思いがないために大悲を理解しようとの思いが不足しているのです。

 

信の者がこだわることと言えば、例えば善を求めなければ信は得られないとか、三願を転入しなければ信は得られないなどと言われると「バカなことを言うものじゃない。大悲とはそういうものではない。」と強く反発します。これが信の者のこだわりです。信の者には大悲が見えているので、信はそういうものではないことが理屈抜きで体感で分かっています。信に関する誤った主張に対して信の者が批判するに際しては聖教の文をその批判の根拠にしますが、実のところは、大悲の救いを実感しているところと違うことを言われるとその違いを敏感に感じるのです。だから、間違いだと即座に判断できるので、その間違いにこだわってしまうのです。聖教の文はその体感していることを都合よく書いているので利用しているに過ぎません。実感していることがまさに聖教に書かれているから、そのような利用ができるのです。これに対して未信の者には大悲が見えていないので「救われたい」「信が欲しい」「後生の不安を解決したい」とこだわっていること自体が間違いであることが分からないのです。信の者には大悲が見えているが故のこだわりがあり、未信の者には大悲が見えないが故のこだわりがあるのです。

1-29.信心が同一になる原理と事実認識の方法

御伝抄に次のような文があります。

①.善信房申していはく、

往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまわりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかはるところなしと申すなり。

②.大師聖人仰せられてのたまわく、

信心のかはると申すは自力の信にとりてのことなり。すなわち、・・。他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心もさらにかはるべからず。ただひとつなり。・・・信心のかはりおはしまさんひとびとは、わがまいらん浄土へはよも参りたまわじ。

 

他力よりたまわらせたまふ私のない信心だから他力信心は同じになるという説明は、他力信心が同一となるべき原理ないし理屈について言及されたものです。この説明が成立するためには仏が凡夫に授けるものは人によって異なるものではないという前提が必要になります。このことを仏様が保障しているのが十七願と十八願とそれらの成就文です。この十七願とその成就文において仏様は、私が往生してゆく浄土の完成したことを告げる御名を聞かせてすべての者を救うことを保障しています。この完成した救済の原理のため仏様に与えられる他力信心は同一になることになっています。その救済の原理によって生じる信は十八願の信心たる至心・信楽・欲生となります。この十八願の信心の特質は大悲を無疑の心で受けていることにあり、ここからこの信を至心信楽といい、また無疑の故に欲生という往生決定の思いとなります。祖師が「わたくしなし」の「わたくし」と言われているのは大悲に対する自力の計らいのことを指しています。この計らいがなくなっていることが無疑という信の特質です。信の特質は大悲に対する無疑の状態になることにありますから、この特質から他力の信はすべて同一になるものなのです。この信の同一性は他力信心の特質です。

 

善信房は自分の信心は源空聖人の信心と同じだといい、源空聖人も善信房の信心と同じだと言われました。二人のもっている信心は同一だとの認識を互いに示し合ったものですから、この部分は救済の原理の問題や信の特質の問題ではなく、信心の同一性に関する認識はどのようにしてなされるのかという問題になってきます。他人の内心における無疑の事実状態は意業たる憶念、口業たる念仏や説教、身業たる礼拝等となって表現されることになりますが、善信房や源空聖人は信心が同一であるとの認識を表明されたのは何をもってなされたことでしょうか。善信房は源空聖人の御説法を拝聴し、その内容が自らの上に現実化していることをもって同じ信心であると認識されたのでありましょうし、また源空聖人においても善信房の言動をもって判断されたのでありましょう。

信心の有無は三業では判断できないと巷でいわれていますが、実際には上記のように同一であることを互いに認識しうるものです。三業では判断できないといわれるのは仏様の大悲と向かい合っているかどうか本当のところはその当人でしか分からないという意味なのでしょうが、その考えを支持しているのが他力信は三業ではないという理解だろうと思います。この理解に立つと、無疑という心の状態は三業ではないので信心の有無を三業では判断できないという理屈が成立することになります。しかし、社会生活の上では三業とくに口業で他力信心の有無を判断しているのが通例でありましょう。自力の思いの有無をその人の言動から判断したり、他力信と異なる教説を説く者の言動から他力信の有無を判断しています。そうしますと、信心の有無は三業では判断できないと言われる理屈を適用するのが適当な場面は極めて限定されるのではないかと思います。例えば、悪業を犯したから他力信心の者ではないと主張することは間違っていますが、この間違いの理由として三業では信心の有無を判断できないとの理屈が使われることがあります。しかし、この場合においてその理屈を持ち出さなくても説明は可能です。他力の信はただ大悲を無疑で受けることであって、他力の信心は悪人を善人にすることを保障するものではないし、大悲を無疑で受けている人であっても悪業を犯す可能性を持ち続けている存在であると説明すれば足りることです。歎異抄第13章の祖師のお言葉で説明すれば十分な説明となるのであり、さきの理屈を持ち出さなくても良いことです。また三業では判断できないという理屈は、次のような場合の説明に困ることになります。例えば、自力で求めれば他力の信を得られるし、自分の経験上自力一杯求めたから他力の信が得られたという人がいたとします。この人が他力の信を得ているかどうかは三業では判断できないということになるとどういうことになるでしょうか。この理屈は明らかに誤った教説を唱える者を弁護しかねない理屈になってしまいます。このような場合においてはこの理屈に何の正当性がないことは明らかです。無疑という心の状態は三業ではないとしても、他力の信心の有無はその人が表明する信に関する言辞によっておおよその内心の状態(大悲に対する無疑・有疑の状態)を推認することができるというのが正しい論理ではないかと思います。さきの理屈は、内心が無疑の事実状態になっているかどうかを推認することができない真偽不明の状態に陥った場合にはじめて妥当する理屈であり、その場合に限ってのみ妥当する理屈であると思われるのです。

1-28.信心定まるとき往生定まる。往生定まるとき信心定まる。

①.御消息に次のような祖師のお言葉があります。
真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。このゆえに臨終待つことなし。来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。

②.往生大要抄に次のような元祖法然聖人のお言葉があります。
ただ心の善悪をもかへりみず罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなえば声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へばやがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり。

この①②を読んでスッキリと理解できたでしょうか。前者には往生の業はでてきません。真実信心の行人についての摂取不捨と正定聚の位、信心と往生決定だけです。真実信心の行人は摂取不捨によって正定聚が定まり、信心によって往生が定まるという理屈です。後者は決定往生のおもいによって往生の業が定まるという理屈です。決定往生の思いがなければ往生の業は定まらず往生不定となります。

いったい真実信心の行者の信心・決定往生の思いと往生決定・往生の業と摂取不捨と正定聚の位とはどのような関係にあるのでしょうか。

まず後者②について
決定往生の思いによって往生の業が定まると言われています。往生の業が定まるとは南無阿弥陀仏の声つまり自分の念仏行が往生の業として定まるということです。念仏が往生の業として定まるかどうかは決定往生の思いの有無次第ということになります。念仏を称えるから決定往生の思いになるというのではなく、決定往生の思いがあるから念仏が往生の業となるのです。信があれば念仏は真実の大行となり、信がなければ念仏は仮の行になると祖師は言われていますが、もともと元祖の教えにあったことです。決定往生の思いになればその当人は往生は決定したとの心情から念仏を称えるとともに往生は決定したと口に出して言うようになります。そして決定往生の思いによって念仏を往生の業であるとの思いが定まるのです。これを「決定往生のおもひをなすべし。その決定によりてすなわち往生の業はさだまるなり」と言われているのです。このような言い方になる適例として、例えば目の前にリンゴが1つ有るのを見たときリンゴは客観的存在物であるように思えます。そのためリンゴがあると言いますが、正確には脳内にリンゴの像が認識されているだけです。その像は脳内で作り上げられたものです。人類の脳は共通した構造を持っているため同じようなリンゴの像を造ることができますが、昆虫の脳で認識されたリンゴの像はずいぶんと違ったものになっていると想像できます。つまり、私達の認識のそとに認識を離れて映像通りのリンゴが客観的に実在しているとの確証はどこにもありません。脳内のリンゴの像は脳内にあるだけです。脳はリンゴの像を自ら造り出した映像であるとはちっとも思っていないのでリンゴがあるという言い方をしますが、それはリンゴが客観的に存在していると脳が判断し、そのように思い込んでいるからです。これは脳の錯覚の一種です。これと同じようなことがここでも言えます。誰かが「私の往生は定まった」というとき、その人は往生は定まったと思っているので往生は定まったと言っているのですが、あたかも脳の錯覚によってリンゴが客観的に存在しているかのごとく、往生が定まったという言い方になってしまうのです。正確に言うとすれば、往生が定まったとの思いを心に抱いているというのが適当です。だから聞いている方も、あの人は往生が定まったと言っているが、往生が定まったとの思いを持っているのだなとその言葉を脳内で変換して理解するのが適当です。摂取不捨の大悲によって信の決定たる決定往生の思いが生じ、その思いよって念仏が往生の行であると心から大悲を受けとめることができるようになります。これが往生の業がさだまると言われている意味です。決定往生の思いのあるなしによって往生決定、往生不定が決まるので、思い次第ということになりますから、祖師は次に見るように往生の業定まるという言葉は使われず、信心が定まることによって往生が定まると言われています。
以上、信の者の思いというものには決定往生の思いや念仏が往生の行であるとの思いがあります。この思いが生じた理由や証拠について信の者に聞いてみて下さい。大悲があるからとか南無阿弥陀仏が往生の証拠だという回答がされますが、それも大悲があるという思いであり、南無阿弥陀仏が往生の証拠だという思いがあるだけです。どこまでも思いから離れることは出来ません。このように信の者の思いというのは多様な様相を呈します。

つぎに前者①について
真実信心の行人は摂取不捨の故に次生仏となることが定まると祖師は言われました。真実信心の行人ですから、真実の信心をもって念仏行を行じている者ということですが、元祖の言う決定往生の思いとなり、念仏が往生の業であるとの思いが定まって念仏を行じている人のことです。その信心につき祖師は、信心が定まることによって往生が定まると言われています。往生が定まるとは上記のとおり私の往生は決定したとの思いになることです。「信心の定まるとき往生また定まる」とは、信心が定まるとき決定往生の思いまた定まるということです。その信心が定まることと往生定まる思いとは同じ心の状態を指しています。信心とは大悲に対する無疑の心の態度をいいます。大悲は私を往生させるということですから、その大悲に対して無疑になるということは大悲によって往生が定まったという思いになることです。逆に、決定往生の思いには大悲に対する無疑の心があります。祖師が信を上記の多様の思いをもってしてではなく、大悲に対する無疑をもって信であるという理解を示されたのは誠に卓見だと思います。上記に見た多様な思いの根底に共通してあるものは何か、祖師はよくよく洞察されて上記の結論を示されたのだと思います。しかし、無疑の心とそれらの思いとは別々の心ではありません。決定往生の思いは大悲に対する無疑の心から生じている思いであり、無疑の心と一体となった思いです。その他の思いも無疑の心と一体であり、それら全体でひとつの心であると言っても良いかと思います。この決定往生の思いになっていることを祖師は正定聚の位と言われました。信心と決定往生の思いと正定聚の位は同じ心の状態を指しているのです。信は決定往生の思いであり、決定往生の思いに定まった心の状態を正定聚の位というのです。信は即正定聚です。それにしても祖師が信とは無疑であるという論述を教行信証に残されていなければ祖師の亡き後真宗内で信を巡って激しく紛争が勃発し、その対立の結果、真宗はさまざまに分裂していたであろうと思います。ここに祖師の偉大さが伺われます。

さて決定往生の思いになる理由について焦点をあてて明確にその理由を理解しておかなければなりません。焦点をあてるべきは摂取不捨の大悲です。この大悲を抜きにして決定往生の思いになることはありません。念仏を称えることが往生の行であると深く信じると言っても、念仏を称えることが大悲に順じることであると大悲を直に受け入れなければ始まらないのです。大悲は私を浄土に生まれさせるという事につきてしまいます。その大悲は私が感じ受けられるように私に向けられているですから、向けられている大悲をただ感受するばかりです。大悲に思いを向けようと心を仕向けることなく一方的な大悲をただ感受するばかりです。往生は大悲たる仏様が既に定めて下さいました。ですから仏様の心においては私の往生は既に一定となっているのです。ここが理解され心情において受けとめることができれば決定往生の思いが定まり、このとき信心は定まります。仏様の心において私の往生は決定であると理解し、そのように心情として受けとめられるかどうかという所が要です。元祖が言われるように罪悪の有無や軽重は関係がないのです。また善行に励むことも関係ありません。これを明確にされた元祖に敬服するばかりです。

冒頭に「信心定まるとき往生定まる。」と並んで「往生定まるとき信心定まる。」と書きました。信心も決定往生の思いも同じ心の状態を指した言葉ですから、「信心定まるとき往生定まる。」といっても「往生定まるとき信心定まる。」といってもどちらも真です。

3-18.本尊と助業

B君 A君は本尊についてどう考えているの?

A君 名号本尊であれ、木像本尊であれ、絵像本尊であれ、阿弥陀仏の大悲を表現したものであればどれでも良いと思うよ。大悲を表すものである限りはいずれがダメだということはないよね。

B君 名号本尊固執しないということだね。
A君 そう固執しない。御本典に本尊についての記述はないよ。だから本尊を設置するかどうか、設置するとしてもどのような本尊を設置するかは教義に反するものではない限り、各人の思いに委ねられていると考えて良いよね。だから固執しない。

B君 「聞其名号」は本尊を指定したと解釈できないのかな。

A君 名号本尊固執する者は「聞其名号」を根拠にするのだろうが、それは根拠にならない。南無阿弥陀仏という御名を聞くとは大悲の起こりが私にあり私に大悲が懸けられていると聞く事だよ。本尊に関する教えではない。

B君 大行を南無阿弥陀仏とする教えは本尊を指定したとは解釈できないのかな。

A君 本尊を指定したとは解釈ではない。南無阿弥陀仏とは仏様の最勝真妙な無形の働きに名づけたものであり、最勝真妙な働きは心の内に大悲を感受する働きとなるものだ。大悲を感受していることがその働きであり大行なのさ。その働きは称名へと展開するから、祖師は大名とは無碍光如来の御名を称することだと言われつつ、その称名は大悲の働きであるとして称名は南無阿弥陀仏であると言われた。南無阿弥陀仏という記号を本尊にするかどうかとは関係ない。

B君 南無阿弥陀仏という御名をどう理解すれば良いんだろうか。
A君 大悲の持つ摂取不捨という無形な仏様の御心を言語的な認識ができるようにあえて意味化した語が南無阿弥陀仏だよ。南無阿弥陀仏は無形の大悲そのものとの関係では大悲を指し示す名称であり、大悲を指し示す指示語になる。大悲という語も心に感受している大悲との関係ではその大悲を指し示す指示語になってしまう。南無阿弥陀仏とか大悲という語が指し示しているものは、心で感受している大悲のことだ。それ以外に南無阿弥陀仏を観念的実在として理解するむきがあるかも知れないが、意味はないよ。感受している大悲ですら悟性で捉えようとしても捉えがたいものであり、何か確かなものがあるわけではないが、何もないわけでもない。捉えようがないのが大悲なのだ。だから大悲は感受するしかないのだ。感受しているところに大悲が現れるんだな。このような大悲を指し示したものが南無阿弥陀仏という語であり、その語は大悲は感受している様をも表しているんだ。それが南無阿弥陀仏という語の持つ意味なんだ。それは浄土の成就を告げる仏様の心を表しているのだよ。南無阿弥陀仏という語そのものは指示語だからその指示語そのものが大事なわけじゃあない。仏様の御心を表わす意味が南無阿弥陀仏にはあるから名号を粗末にすることができないだけだ。仏様の御心を表しているのは名号だけじゃない。

B君 「あえて意味化した」というのはどういう意味なのかな。 

A君 例えば私が絵師であれば、私が感受している大悲を表すとすれば摂取不捨を意味する光明を基本的図柄として採用し絵にするだろうし、仏師であれば大悲を垂れる仏を人格化してその姿を彫刻にするだろうし、書道家であれば南無阿弥陀仏を書によって表現するだろうね。自分の感じることを表現し人に伝えたいと思うのが人の性さ。そうして大悲を形象化したものを礼拝の対象物としたのが本尊なのだが、胸の内で大悲を感受している者にとってはその感受している大悲が仏そのものなのだよ。その大悲を感じるがままに大悲を具象化することはできない。本尊という言葉をどうしても使ったり考えたいというのであれば、この形象化できない大悲こそが本尊だね。これを根源的本尊といってもよいと思う。「あえて」というのは形象化できない大悲を無理に具象化しようとするのだから「あえて」ということになる。

B君 具象化とはどういう意味なの。

A君 摂取して捨て給わぬという無形の大悲を認識可能な具体的な形象や言語に置き換え、代替させることさ。大悲を言語的意味をもつ記号に置き換えたのが南無阿弥陀仏。その言語的意味が大悲を指示している。言うなれば言語能力を有する衆生に大悲の言語的意味を了解させるのが南無阿弥陀仏という記号。木像本尊は摂取して捨て給わぬという大悲の意味を視覚に訴える形象にしたもの。絵像本尊も同様だね。これらは視覚を通じて大悲の意味を了解させるものだね。意味を了解させるという点ではみな等価値だよね。

B君 心の内に大悲を感受しているとはいったいどういうことなんだろうね。
A君 そう問われても悟性では答えようがないんだよ。それは南無阿弥陀仏とか仏様の大悲と呼ばれているものであるとしか言いようがない。南無阿弥陀仏とか大悲という仏教用語を用いないとすれば、心の内に感じているものを「それ」とか「これ」としか言いようがなくなってしまう。自分自身では「それ」「これ」が何を指しているか分かるが、「それ」「これ」では人に分かって貰えない。だから大悲とか南無阿弥陀仏という言葉を使って「それ」「これ」を説明することになるのだが、大悲とか南無阿弥陀仏という語句を使って説明すると説明したような気になるだけで、本当には説明したことにはならない。だから感受している大悲は感受して貰うしかないのだ。だけど大悲とか南無阿弥陀仏という語句を使うと説明したような気になってしまうのさ。説明される方も分かったようで実は分からないままになってしまうんだ。大悲とか南無阿弥陀仏という語句が指し示しているものが分からないままだからね。説明される方はとてももどかしい思いになるんだ。説明される方も困るだろうけど、説明する方も実のところもどかし思いをしているのさ。このようにしか説明できない仏様の働きを聞くという事と形象化した本尊をどうするこうするという事とはまったく次元の違う話なのだよ。

B君 そう言えば、以前、君は胸の内なる大悲が尊く感じられ、寺院などにある本尊はあまり有り難いとは思わないと言っていたね。

A君 うん。確かにそう言った。

B君 本尊はどうでもよいということなのかな。

A君 どうでもよいというと語弊があるのでそういうことは言わないよ。ただ本尊に関して確実に言えることは、胸の内に感じている大悲こそが本当に有り難く頂けるものであり、その大悲をあえて形象化したのが名号本尊であったり、木像や絵像本尊であるということだね。

B君 寺院などにある本尊はあまり有り難いとは思わないという理由はなんだい。

A君 さっきも言ったように、胸の内で大悲を感受している者にとってはその感受している大悲が仏そのものなのだよ。だから、その無形の大悲が根源的な本尊なんだ。その根源的な本尊に比べたらあまり有り難いとは思わないという意味だよ。名号・木像・絵像本尊がちっとも有り難くないと言っているのではないよ。名号・木像・絵像本尊はそれなりに有りがたいものさ。

B君 比較の問題なのかな。 

A君 そう比較の問題なのさ。それにね、どうして名号本尊や木像・絵像本尊が有り難いと思えるのかと言えばね、そう思わせる心の仕組みがあるのだよ。

B君 どんな仕組みなのかな?

A君 それはね胸の内で無形の大悲を感受している思いを中核とする心の仕組みさ。この大悲の感受があることで、大悲を意味する名号や木像・絵像本尊がその心の仕組みを刺激して大悲を再び感受させるところにその本尊を有り難いと思えるのさ。
B君 卑近な例でも良いから分かりやすく言ってくれないかい。

A君 そうだなぁ。あっと、そう言えば君はC子さんのことが好きだよね。

B君 えっ。突然なにを言い出すんだい。そっ、そんなことないよ、絶対に。

A君 隠さなくてもいいさ。君のC子さんに対する表情や態度を見ていれば誰でもすぐ分かるよ。みえみえだよ。 

B君 んで、それが何だっていうんだい。

A君 うん。君が好きで好きでしょうがないのは生身のC子さんだよね。

B君 笑顔や仕草がかわいんだよ。

A君 その笑顔が写っている写真のC子さんを見て、君は嬉しそうにしているよね。どうしてだい。

B君 写真の笑顔もかわいからさ。

A君 写真は生身のC子さんじゃないよね。

B君 生身のC子さんじゃないけど、写真の笑顔は生身のC子さんそのものだよ。

A君 C子さんの笑顔や仕草に接したときにある種の感情や思いが芽生え、その笑顔や仕草がその感情とともに記憶されたことだろうよ。感情とともに記憶されたときその記憶は非常に強固なものとなり、感情も会う度毎に深くなり常に意識してしまうほどに強いものになってきたのだろう。そのような状態になったときに写真の笑顔に接すると、C子さんへの感情や思いが写真に触発されてわき上がってくるんだろ。だから写真を見ると、そのときの思いが繰り返される。写真があたかもC子さんであるかのように感じるくらいにね。

B君 まあー、そういうことかな。

A君 それと同じだよ。

B君 つまり、名号や木像・絵像本尊のもつ意味を理解し、その意味に触発されると君の言う根源的本尊への有り難い思いがわき上がってくるということだね。その思いが自然と対象物へと向かうと言うことだね。

A君 そういうことさ。大悲を感受している根源的な思いが中核となり、それに浄土往生決定の思いなどが一体となった思いが日常的につねづね感じられることから、対象物にすぎない名号や木像・絵像本尊でも有り難く思えるんだ。有り難いと思う気持ちが大悲そのものではない対象物にも及ぼされてゆくという心理作用なのだろう。思いの対象が感受している大悲から物体としての対象物へと拡張してゆくと言っても良いと思うんだ。名号や木像・絵像本尊に対する思いは二次的なものであり、かつ拡張されたものだから、この心理作用を「二次的拡張作用」と言っても良いと思う。世間でも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというじゃないか。この二次的拡張という心理作用は世間でもよく見られる現象なんだ。ここでついでに言っておきたいことは、もともと人が持っている心理作用に大悲を感受する思いが働きかけることはあっても、その思いが心理作用を変質させるものではないということ。仏様の大悲をあらわす物や話や言葉にだけに反応を示すだけ。だから何の害もなく健全で至福でいられるんだ。

A君 安心決定抄には、名号や形像本尊から得られる意味や思いについて述べている箇所があるよね。

B君 ちょっと読んでみるよ。
かるがゆえに念仏の行者、名号をきかば「あは、はやわが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるが故に」と思うべし。また弥陀仏の形像をおがみたてまつらば「あは、はやわが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵菩薩の成正覚の御すがたなるが故に」と思うべし。極楽と聞かば「あは、はやわが往生すべきところを成就したまひにけり。衆生往生せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵比丘の成就したまえる極楽よ」と思うべし、とあるよね。

A君 それそれ。

B君 心の内なる大悲への思いがあることによって名号とか極楽という言葉を聞いたとき、我が往生を定めた仏様の大悲が想念され、形像をおがみたてまつらば我が往生を定めた仏様の大悲を憶念するということになるんだね。

A君 そうだね。

B君 それはお聖教を読んでいても同じことが言えるよね。同じような心の仕組みが働いて自然と心に歓喜が多くなるんだね。

A君 そうさ。君がC子さんの写真を見るたびごとに心に喜びがわくようにね。そして大悲への思いがいよいよ嵩じてくれば、さっき言ったように僕が絵師であれば大悲を絵にしただろうし、仏師であれば仏の姿を彫刻にしただろうし、書道家であれば名号を書によって表現しただろう。僕にはそんな能力がないからしないだけだ。それにそうして作った本尊はいつもいつも持ち歩くことができない。胸の内にある根源的な本尊はいつも心で憶念し念仏することができるからそれだけでいいんだ。

B君 そうすると、本尊はいらないということになっちゃうんじゃないか。

A君 そうだね。私には礼拝の対象物となる本尊はなくてもよいよ。根源的な大悲を心で憶念し念仏することで仏の救いは完結しているからね。本尊を持つか持たないかはその人の自由であって往生には関係ない。祖師は総序にもっぱらこの行に奉え、この信を崇めよと言われているよ。この行や信とは感受している如来の大悲の働きとして現れた信や称名のことだが、一言で言えば大悲のことだよ。これに対して本尊は助業のうちの礼拝行に関する対象物だ。助業は助業、往生の正行ではない。本尊は助業として位置づけられるべき問題なのさ。

B君 じゃ、本尊の意味はどこにあるというのかな。

A君 さっき言ったように大悲の思いを喚起するきっかけになり、心多歓喜を得るというところに意味がある。それが助業の本来の意味だ。助業は最勝真妙の正行という仏様の働きの添え物だから力を入れなくてもいいんだよ。

B君 それは信後の人にとっての意味だよね。信前の人にとっては意味あるのかな。A君 仏の大悲を理解するきっかけになるというところに意味があるかも知れないし、心を仏に向かわせることになるというところに意味があるのかも知れない。あるいは理解を超える何らかの自然な働きがあるかも知れないという感覚に身をゆだねることが大悲を領解する縁になるかも知れない。だからおろそかにはできない。B君 信前と信後で意味が違ってくるのかな。

A君 そうだね。大悲への思いを中核とする心の仕組みに働きかけて大悲を感じるきっかけになるものであれば何でも助業になると思う。それは礼拝行などの人の行でなくてもいい。先の心の仕組みを刺激し大悲を偲ぶものになるものは何でも助業になると思うよ。元祖流に言えば念仏を促すものであれば何でも助業になる。助業は最勝真妙の正行という仏様の大悲の働きを感じ受けた上での助業だよ。信前には大悲を感受するということがないから大悲を表す名号や木像絵像は助業にはなり得ない。せいぜい仏縁になったり大悲を感受する縁になるかも知れないという程のものだ。

B君 どうして祖師は本尊を指定されなかったのだろうか。

A君 本尊は信後における助業の地位に位置づけられるからだと思う。仏の救いに直接かかわるものではない。だから御本典において言及されなかったと思う。

B君 大悲を感受している人の感受の仕方に関わる問題だから、本尊を設置するかどうか設置するとしてもどのような本尊を設置するかは各人の考えに委ねられているというんだね。

A君 うん。そうだね。
B君 最後に本尊を設置するとすれば、名号が最も良いのだろうか。

A君 それは君がいま言ったように、大悲を感受している人の感受の仕方に関わる問題だから何とも言えない。私にとっては一番しっくりと来るのはやはり名号だね。念仏として称えやすいように仕上げられてもうすっかり慣れ親しんでいるからね。また摂取不捨を無疑という心の態度で受けている心の姿は南無阿弥陀仏という姿だという理解の上でも名号が一番なじみやすい。でも、そうだからといって大悲を表す木像や絵像を否定することもできやしない。それは先に述べたように胸の内で無形の大悲を感受している思いを中核とする心の仕組みが人それぞれにあるからね。だから名号でなければならないということはないんだ。木像が有り難いと感じられ る人もいるだろうし絵像が有り難いと思う人もいるだろう。人が感じているところに他人がずけずけと入り込んで大悲を感じ受けている感情を否定することはできることじゃないよ。

3-17.浄土真実の行

B君 行巻の願名の下に「浄土真

実の行」と書かれているけど、この浄土真実の行をどう理解すればよいだろうか。名号のことか本願念仏のことだろうか。

A君 その前に仏様の救いのありかたを見てみようよ。祖師が言われている仏願の生起本末を広く解釈すれば次のように示すことができるよ。
   
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左側に①と⑥⑨⑩と書いているのは私のあり方について、右側の②から⑤と⑥から⑩は仏様の大悲のあり方について書いたものだよ。④の機受成就というのは十八願に誓われている往生の因たる衆生の三心と行は仏様が成就し南無阿弥陀仏として用意したということ、⑥はその十八願の往生の因がそのまま私の上に実現し南無阿弥陀仏がそのまま私の三心と行になったことをいうよ。それは私のあり方に変化が生じ、大悲を聞いたことによる聞信と本願念仏を称えていることを表しているよ。仏様の救いを簡略化して言えば①から④の南無阿弥陀仏の成就のいわれと⑤⑥の浄土往生決定を聞かせて信じさせ念仏させて救うということになるけど、それが私の上に実現されているのが⑦と⑧だよ。⑨と⑩は仏様の救いがこれから私の上にさらに現実化してゆくことを示しているよ。全体としては私に向けた仏様の大悲が私の上で実現し、私のあり方が変わってくる、また変わってゆくことを示したものだよ。連続する矢印がその変化を表していると思って下さいね。⑥までの左側の矢印と右側の矢印が⑥から1本の矢印になっているのは仏様の働きが苦悩し続けている私の上に⑦の信と⑧の念仏という形になって現れていることを示しているよ。⑦⑧においても私が苦悩する存在であり続けていることに変わりはないが、⑦⑧において仏様の働きによって浄土への往生決定の思いをもって生きられるようになったことがありがたいことだよ。

A君 さて以上を踏まえて言うと、浄土真実の行というのは仏様の行う救済行が真実だということ。真実は仏様にしか使えないよ。浄土というのは仏様の悟りの世界のこと。その悟りの世界に生じさせるというのが仏様の救いであり、浄土真実の行というのはその仏様の救いをいうのだね。私に向けた②から⑨までの一連の救いと⑩の大菩薩に仕上げるまでのすべての働きが浄土真実の行ということになる。空華学派では大行とは単なる固然たる名号(静態の名号)ではなく、現に信ぜしめつつあり念仏させつつある動態の名号をいうとされているが、それは⑦と⑧を実現させている名号ということだけど、もう少し広く②から⑦や⑨と⑩の仏様の働きも含めて浄土真実の行といって良いのではないかと思うよ。僕はこのすべての働きのことを南無阿弥陀仏というのだと考えているよ。仏様というのもこの働きに名づけたものだと思うんだ。仏様という救済の主体、仏様の大悲と救済の作用に分けて理解するのではなく、その働き全体に名づけたものが仏であり、南無阿弥陀仏であり、大悲であり、浄土真実の行であり、みな同じものだという理解だね。

B君 浄土真実の行を⑧本願念仏に限るというのは適当ではないということかな。
A君 本願念仏には⑩までの仏様の働きのすべてが具足しているので本願念仏を浄土真実の行と言っても良いんだと思う。大行を南無阿弥陀仏の御名を称することだと祖師が言われていることからすれば、それは当然のことだと思うよ。ただ浄土真実の行を本願念仏としてしまうと、⑧以外の⑩までの仏様の働きがあるということが裏に隠れてしまい、仏様の行であるということを見過ごしがちになるよね。だから浄土真実の行というのは①から⑩までの仏様の働き全体をいうのだと理解し説明した方が丁寧で誤解を招かずにすむよね。祖師が行巻に大行は称名だと言われつつも念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念であるとされているのも、仏様の働きに対する深い理解があったからだと思うよ。

B君 君が大行には大信があるというのは、上記の考えと関係があるのかな。
A君 関係あるよ。大行というのは私という苦悩する者の存在に向けられている⑩までの大悲による救いのあり方のことだよ。大行と浄土真実の行とは同じものだよ。だから、大悲たる大行は大悲たる大信であるし、大悲たる大信は大悲たる大行であるんだ。例えば、金太郎飴のどこを切っても金太郎の顔の特徴を見ることができるのと同じように仏様の救いのどこをとってもその働きはすべて円満に揃っているのだ。御名をとっても信をとっても念仏をとっても同じ働きがあるのだ。だから、あるいは御名をとっても、あるいは聞信をとっても、あるいは本願念仏をとってもいずれも仏様の浄土真実の行ということができる。大信は仏様の真実の浄土の行のあらわれたものそのものだ。心の中で大悲を仰いでいる状態になっているままが大行の現れだ。その大行が大悲だよ。だから大行には大信があり、大信は大行だと言えるよ。

B君 祖師は本願力回向を往相と還相に分けて往相回向としての大行を称名行とされている。だから還相回向の働きを大行の中に含めてはいないのではないかな。
A君 そうだね。教巻に「浄土真宗を案ずるに二種の回向あり。一つには往相二つには還相なり。」とし、行巻に「往相の回向を案ずるに大行あり大信あり。」とされているから君のような考えになるよね。でも、祖師が称名大行を最勝真妙の勝行とされているのは知っているだろう。凡夫を報土往生ののちに仏とさせ大乗の大菩薩に仕上げるというのは仏様の最勝真妙の行の最たるものではないだろうか。仏様によって救われながら衆生救済に向かわないという存在のあり方は仏様の最勝真妙の勝行として画竜点睛を欠くことになるのではないだろうか。仏様は私を仏様と同体にすると言われるのだから、還相の大菩薩に仕上げるまでが大行だといって良いと思うんだ。また先に上げた六願成就はすべて南無阿弥陀仏として成就され衆生に回向されているという理解に立てば、仏様の往還二回向の働きを浄土真実の行と言って良いのだと思うんだ。

A君 上記は、仏様の救いをいわば外側から眺めて思考したものだよ。これは悟性による理解だよ。その救いの内側に入り込んで仏様の大悲を直に受けて大悲をもう少し感じ入ってみよう。大悲の内側に入り込むと言っても自分の努力で入り込むのではないよ。例えば説法の場で大悲が説かれるのを聞くことが入り込むということだ。それが⑥、⑦と⑧だよ。ここでは悟性によって理解するのではなく、大悲を感じ受ける世界なんだ。悟性では理解し切れない感覚(情感)による理解の世界に入るんだ。祖師は御消息(13)に「雑行雑修自力疑心のおもいなし。無碍光如来の摂取不捨の御あわれみのゆえに疑心なくよろこびまいらせて一念までの往生定まりて誓願不思議とこころえ候ひなん」と言われているよ。よくよく味わうべきことだね。何度も言ったことだけど大悲への無疑と大悲への思いということに尽きるよ。平たく言うと、浄土に往生させるという仏様の気持ちが分かるということだよ。祖師が本願招喚の勅命と言われているのもその受け止め方の1つだよ。大悲を受けて仏様の気持ちをそのように感じられたんだね。そのように感じつつも祖師は仏様の働きを「自然」とか「法爾」と呼ばれ、自然法爾の事(14)において「この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば義なきを義とすということはなお義のあるになりぬべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。」(浄土真宗聖典第2版768頁)と言われているよ。信が生じたことや報土への往生決定は自然の働きや自然の法則によってなるべくしてなったことだと言われつつその働きを不思議であり沙汰することはできないと言われている。これらは悟性では理解しきれない感覚の世界に入ったときの受け止め方だよ。またこの大悲は⑨報土(真仏真土)往生、⑩還相の大菩薩へと進展させる私に向けた導きとして受けとめられるんだよ。祖師が言われた本願一乗は私を報土往生させて還相大菩薩に仕上げるという証果をも意味しているよ。信は終わりではなく、大悲は私を未来へと導き示す教えになるんだ。これは仏様の大悲心に導かれている思いだよ。

B君 前回「教も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏、信も南無阿弥陀仏、証も南無阿弥陀仏」と言っていたことだけどね、「教も南無阿弥陀仏」というのは、大経の教えを煎じ詰めれば仏願の生起本末の教え、つまり南無阿弥陀仏のいわれを説く教説であったり、諸仏が南無阿弥陀仏を勧めている教説ということになるのかい?
A君 う~ん。本来はそういうことなんだろうけど少し違うんだ。
B君 どういうこと?
A君 自分の心の内に届いている大悲と言ったらよいのかな、感じている大悲と言ったらよいのかな、その仏様の大悲や気持ちのことを僕は教と言っているのだよ。
B君 大悲が教なのかい?
A君 そう。仏様が私に向かって言われているお気持ちは摂取するということなんだね。「摂取する」という大悲は私を導くものなんだ。大経が教え勧めたり布教師が説く大悲の救済の教えというよりも心の中に感じている大悲のことだよ。
B君 それは信のことではないのかい?
A君 うん。大悲は信を構成するものでもあるんだが、教でもあるんだ。大悲が信を構成するという意味はもう分かるよね。
B君 うん。大悲を無疑の状態で受けとめているのが信だ。信は大悲を抜きにしては成立しない。大悲は無疑と一体となって信を構成しているということだね。
A君 そう。無疑で受けとめた大悲は無疑の故に心の中では大悲があると感じられるようになるんだよ。その大悲は未来へと私を導く教えになるんだ。大悲を有り難いと思っているままが浄土への導きなんだよ。これを教と言っても良いのだと思う。B君 大悲と無疑とは一体のもの。それが私の心の中の心相としての南無阿弥陀仏ということだったよね。そして口に出た南無阿弥陀仏が大行たる称名ということになれば行も南無阿弥陀仏ということになるよね。
A君 そう。だから信も行も南無阿弥陀仏という理解になるんだが、同時にその摂取するという大悲は私を導く教えなんだね。祖師は本願招喚の勅命と言われているが、心で受けている勅命が浄土へと生まれさせる導きになるのだね。
B君 それは欲生という信の思いのことだね。
A君 そうだね。その通りだ。

B君 祖師は教と機を明確に区別されているのではないのかな?
A君 ん?
B君 行巻に念仏と諸善を比較している箇所があってそこでは教と機に分けて対論し、教は本願一乗・円融満足極速無碍・絶対不二の教、機は本願一乗の機・金剛の信心絶対不二の機といわれているよ。だから祖師は教と機を明確に分けているよね。A君 そうだね。でも南無阿弥陀仏の救いにおいては、機法一体といわれるように教(法)と機はもともと一体のものなんだよ。教である本願一乗というのは大悲のことだよね。機とはその大悲を無疑で受けとめている状態のことだから信のこと。信は大悲と一体となっている状態のことで、無疑になれば、無疑で受けとめている大悲が心の中に存在することになるのだよ。
B君 君は心の中に存在する大悲が教だというのだね。
A君 そうさ。無疑の故に心の中に存在している大悲が信でありつつ教でもあるというわけさ。その大悲と無疑の一体性を言葉として言い換えたら、機法一体の南無阿弥陀仏ということになるよね。祖師は心相である南無を解釈して本願招喚の勅命と言われている。私に向けた勅命と感じられているんだ。勅命とは仏様の教ということだよ。だから、自分が称える南無阿弥陀仏も本願招喚の勅命として受けとめられるということになるわけさ。

B君 祖師が行巻において教の対比をされているということは行が教であるということを意味していると解釈されているようだが、君の考えに従えば、信が教の位に位置づけられるということなのかい?
A君 信が教の位に位置づけられるとは、どういう意味?
B君 信が教の位に位置づけられるというのは、信が教になるという意味だよ。
A君 そういうことになるね。また、信は教の位だけではなく行の位にも位置づけられるよ。行も教の位や信の位にも位置づけられるし、教は行や信の位にも位置づけられるよ。

B君 そうすると教とか信とか行とかまったく区別がない状態になるね。祖師は大行の出処を表す願名は十七願、大信の出処を表す願名は十八願とされているから教学的にはマズいんじゃないのかい。五願開示という組み立てを破壊することになるからね。それでも良いのかい?
A君 別に破壊しても良いとは言っていないよ。祖師の教行証という組立は通仏教において使用されているものに合わせて真宗の綱格を定めたものだ。綱格というのは教えの組立てということだけど、これは元祖法然聖人の開設された浄土宗が大経に正当な根拠を持ち、念仏行によって清浄報土往生の証果を得ることができることを対外的に明らかにしたものだ。だから教は経典にその根拠を求めなければならないんだ。僕の言っているのはその綱格をどうのこうのするということではないんだよ。内心の大悲が浄土往生へと導いてくれるという思いを申し述べているだけなのさ。さっき君が言ったように教は本願一乗・円融満足極速無碍・絶対不二の教、これは南無阿弥陀仏のことであり、機は本願一乗の機・金剛の信心絶対不二の機、これも南無阿弥陀仏のこと。教信ともに本願一乗の南無阿弥陀仏なんだ。信はその教を受けているので心の内において本願一乗の南無阿弥陀仏によって浄土へと導かれているという思いがあるんだよ。
A君 概念的思考に先だって存在しているのは大悲を感受している状態であり、それはただ1つしかない心理的事実だ。その心理的事実をどのような視点から指し示すのかと言えば、僕に言わせれば、真実の教というときは無疑となり感受している大悲が暗愚な私を教え導くという視点から大悲に名づけた呼び方、信は無疑の状態を私にもたらせ無疑と一体になった大悲の呼び方、行は私の心相となった南無阿弥陀仏の呼び方のことだよ。教と行と信はいずれも同じ大悲、同じ浄土真実の行を指しているんだ。大悲を教、行、信という視点から説明できるということだね。だから信は大悲たる教として位置づけられるし、行も大悲たる信や教として位置づけられるということなるのだね。

B君 上に君の言う行とは称名行のことではないんだね。
A君 そう。ここで言っている行とは仏様の浄土真実の行のことを言っているのだよ。仏様の行が信となっているところを指してその信を行と言っているのだよ。その浄土真実の行が口称の称名ともなっているのでこの称名を大行ということができる。それと同じだよ。信を仏様の大行と言うと称名行と混乱するので信を大信と呼び方を変えているだけで、信も称名行も仏様の浄土真実の行なんだよ。

A君 称名(能行)を大行とする石泉師が行信ともに衆生の願力を稟受したものであり、行は教位であると述べている。その通りだと思う。このことに関し、本典研鑽集記上巻78頁には行信ともに衆生の願力を稟受したものであり、行が教であるというならば信もまた教であると言わざるを得ないと批判している。この批判は真宗の綱格に関わる問題として提起した批判だと思われるのだが、僕にはこの批判が指摘するとおり信も仏様が導く教であると言いたいのだ。しかしそれはさっき言ったように綱格にかかわる問題としてではないんだよ。真宗の綱格という観点からではなく、心の中の現象として存在し、あると心が感じている仏様の大悲というものを悟性で理解しようとすると、その大悲は私を導く教であり、無疑となっている私の信そのものであり、その信は仏様のなされる浄土真実の行であると理解できるのだということを言いたいのだよ。

A君 ちなみに本典研鑽集記上巻76頁には、石泉師が「信巻はその行(称名大行)の如実なることを知らせんがために別開したるものにして行巻の注釈にすぎずとなすなり。」と述べたことを紹介しているけど、これは大行を称名念仏とし、称名行を中心にして考える石泉師の立場からはごく自然な帰結となる。これも文の当面解釈からすればその通りだと思える。だけど信も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏と理解する立場からは、行巻と信巻とが互顕しあって南無阿弥陀仏の救いを表すものであるから、信巻が行巻の注釈という位置づけになることはないと思う。

A君 祖師が教行信証において使用されている教・行・信という概念は、事実状態となっている大悲の実現という出来事について、その実現を説いた真実の教が大経であるとし、十七願成就による諸仏称讃に由来する大行が我が称名大行・大信となって実現していることを行・信とされたものだ。だけど、先に言ったように大悲に恵まれた思いからすれば、大経の教える大悲が我が心の中の大悲になっていることから、この大悲が教であると思えるのだよ。だから大悲たる南無阿弥陀仏は我が教であり、我が行であり、我が信であるということになるのさ。証は肉身が滅び南無阿弥陀仏だけになって無碍になったことを言うんだね。だから証も南無阿弥陀仏。感覚的に言えば、「ただただ南無阿弥陀仏」という気持ちになるんだ。そういう訳だから、南無阿弥陀仏が一人居て一人悦べる法ということになるのさ。また同じ理由から蓮如上人が4帖八通に南無阿弥陀仏が我が往生の定まりたる証拠だと言われているのはその通りだと思えるわけさ。いずれも大悲への思いがなければ悟性だけでは到底分からないことだけど、大悲の救いの内側に入り込んでしまうと、その意味がとてもよく分かるようになるよ。先にも言ったけど、大悲の内側に入るのは何も難しいことじゃないんだよ。仏様の大悲が説かれるのを我が救いと聞けば良いだけなんだよ。  

3-16.祖師が他力の信を無疑という事実に還元された理由は何か。 他力の信は無疑の事実状態に限定されるのか。

A君 前回他力の信に有って自力の信に無いもの、自力の信に有って他力の信に無いものという議論をしたけど、そもそも他力の信というのは事実状態だけで構成されるものなのか、或いはその状態に加えてある種の思いを含んだものなのか、どちらと考えるのが適当なんだろうか。

B君 うん? 今度は別の切り口から信を理解しようとしているのかい。

A君 そうだよ。今回は前回の続編だ。仏願の生起本末を聞いて「疑心あることなし」というのは心理状態ではあるが、内心の事実といっても良いよね。

B君 そうだね。これまで内心にあった自力の計らいと言われるある種の思いがある時を境にして完全に無くなってしまったのは心理的な事実だといっていいよ。

A君 だから信は事実状態だと言えるよね。前回君も言ったことだけど、大悲に対して無疑になれば、そこにあるのは感受している仏様の大悲ということになるよね。

 

Cさん 「無疑」と「大悲を感受している思い」とは同じだと前回聞いたけど、同じだという理由を分かり易く説明してくれない?

A君 うん。じゃ喩えを出して説明してみるね。適切な喩えになるかどうか分からないけど、目の前にあんこが詰まったまんじゅうが1個あるとしようか。あんこは仏様の大悲のことで、あんこの周りにある薄い皮は疑心のことを喩えているとしよう。薄皮の一部を指で取り去ってみると、その穴からあんこが見える。つまり大悲が顔を出す。大悲が顔を出したということはその部分の皮が無くなっているということだよね。皮が無くなったということは大悲が顔を出しているということだよね。つまり言い方は違っているけど、その言い方はともに同じ事象を表現しているのだと分かるよね。皮が無くなってあんこが見える状態になったことについて、1つは皮の有無という視点から眺めて皮が無くなったという言い方、もう1つはあんこの露出の有無という視点から眺めてあんこが見えるという言い方。その言い方に違いがあるにすぎず、同じ事象を指していることが分かるよね。この喩えでは、あんこが顔を出しているのが「大悲を感受する」ということ。皮が無くなり大悲が顔を出したら、そのあんこを味わうことになる。その味わいが思いだよ。大悲が顔を出したら大悲を味わえるんだ。あんこの場合には食べないことには味わえないけど、大悲の場合は、食べるなどという自前の行為を介在しなくても大悲を味わえるんだ。だから、大悲が顔を出すと直ちに大悲を味わえる。大悲に対して無疑になれば必ず大悲の味がある。それが「大悲を感受している思い」ということになんだ。

B君 うん。同意。

 

Cさん 今度はよく分かったわ。でも「無疑」と「大悲を感受している思い」とが同じ事象を指しているのなら、信は「大悲を感受している思い」としてもいいんじゃないの?

A君 そのとおり。それが前回のテーマだったよね。でも、そのように言うときは「大悲を感受している思い」とはどういうことなのかをもっと説明する必要があるよね。その説明が大悲があることとと大悲に対して無疑の状態になっているという説明になるんだ。その思いは事実状態にまで還元して説明する必要があるんだよ。この「大悲と大悲を感受している思い」と「大悲に対して無疑となっている状態」という2つの言い方を併用することで信をより丁寧に説明することになるんだと思うよ。

 

A君 さて、前回君が「どうすれば信を積極的に言語化できるんだ。」と言ったように、大悲を感受している際の思い(味)は実にさまざまだよね。感情豊かな思いのものから禅的な理解を思わせる思いのものに至るまで実にさまざまな表現がなされているよね。前者の思いには大悲を感受して大悲を悦ぶ思い、浄土往生できるとの思いからの喜びや満足。仏に命の逝く末をゆだねていることの安堵、心の落ち着き、心の軽安などがあるよね。また、後者にはこの世に仏が満ちているという精神世界に新たな局面が開かれたように思わせる心境のものから、ただ南無阿弥陀仏ばかりという禅的境地を思わせるものもあるよね。妙好人の言動を読むにつけ、実にさまざまな思いがあるということが分かるよ。このことを考えると信を積極的に記述して定義することはとても困難であり、不可能なことだと分かる。だから、どのような思いが生じたかによって自力心と他力の信とを区別することはできない。思いを表現した表現は多様だからね。

B君 うん納得。というか、もともと僕はそう考えていたんだ。

A君 これに対し「聞いて疑心あること無し」というのは、ただ一つの事実があるだけだ。疑心と呼ばれる思いがあったのにある時を境にしてそれが完全に無くなってしまったという事実がそれだ。そのほかに紛らわしい複数の事実はない。思いを表した表現には多様性があるけど、この疑心無しというのはたった一つの事実だけだ。誤解を招くことはない。だからさっきの思いを表現するだけではなく、その思いを事実状態にまで還元して説明しなければならないんだ。

 

A君 さて、ここから今回のテーマに入ってゆくよ。そうすると信は「疑心がない」という事実状態に限るのであって思いを含むとは考えてはいけないものなのか、という問題が出てくるよね。これを今回のテーマとしたいんだ。

B君 君は信の本質は仏様の大悲であり、大悲を感受している思いをもって積極的に信の内容にしたいという考え方に立っていたんだったよね。

A君 うん。そうだよ。ここで注意を払わなければならないのは、次の点だよ。無疑つまり本願の三心でいえば信楽の有無によって自力心と他力が区別されるということが真宗学の基本中の基本だが、ある思いをその信に含ませるとなると、その考え方はその基本に反することにならないのかという点だ。だからその点についてどう答えるかということが問題となってくる。また祖師の関連する御自釈の文に対してうまく説明ができなければ、思いを信に含ませるという考えは成立しなくなる。

 

B君 うん。そうなるよね。で、どう考えているのかな。

A君 まず、真宗の基本に反することにはならないと考えている。本願の三心のうちの欲生は決定要期と言われており、往生が決定し、決定した往生を安堵の気持ちをもって期している思いなどと説明されるよね。この欲生は思いではあるが、思いであるが故に欲生は信ではないと否定されることにはならないよね。ただ、その安堵などの思いの有無で自力と他力の判別はできないとされているだけだ。この欲生も突き詰めれば大悲への無疑によって生じている思いであるから、欲生は信楽の義別だとされているんだよね。

B君 なるほど。欲生という思いも信の内容を構成するが、他力信と自力心との決判はあくまでも欲生の思いではなく、その欲生の思いが生じる前提となっている無疑になっているか否かによって決まってくるということなんだね。

A君 そう。大悲に対する疑の有無をもって決めるということと欲生という思いも信の内容になっていると考えることとは別のことなんだ。そのように理解しないと信が内容の乏しいものになってしまうんだ。さっきの喩えでいうと顔を出したあんこの味の方はどうなっているのだ、ということになってしまうだろう。

Cさん A君のいうことは結局こういうことになのかな。つまり信の有無は大悲への有疑か無疑かで区別されるものだけど、信は無疑という事実状態にとどまるものではなく、無疑の事実状態から生じているある一定の範囲の思いも信の内容になり得るということなるのね。

A君 そう。無疑以外のある一定の範囲の思いを信の内容として含ませて理解したとしても、その思いの有無で信の有無を判断することはできない。その理由は思いというのは多様で主観そのものだ。だけど、「疑心がなくなった」というのは主観的ではあっても内心の事実であるから、信の有無はこの事実の有無によって判断することにする。このように信の判断基準を定立するときの考え方と信の内容としてある一定の範囲の思いを含ませて理解するという考え方とは視点ないしはスタンスが違うんだ。後者の考え方は、信の判断基準を定立するときの考え方とは異なり、信を豊かなものとしてあるがままに理解したいという欲求の上に成立しているスタンスだ。それぞれ異なる視点からの考え方だ。信を内容のあるものと理解しつつ、信仮は信楽によって判定すると考えることは論理的に可能であるから真宗の基本に反することにはならないと思うのだよ。

 

Cさん A君の言うことを整理すると、まず信というものを大悲を感じるありのままに理解したいという欲求が先にあり、そのあとに出てきたのが、信の有無についての判断基準を定立する際にはどのように考えたらよいのかを考えればよいという思考手順なのね。

A君 その通りだよ。

B君 では君が言う「大悲を感受している思い」というのは信楽ではなく、欲生のことなのかな。

A君 う~ん。そうではないんだけど、今しばらくは君の考え方にしたがってこれまでのことを整理すると、次の①~⑥のうちの④のようになるかな。

①.まず大悲を感じているありのままに信を理解するというスタンスに立つこと。

②.「仏願の生起本末を聞いて疑心あること無し」という全体が大悲と大悲への無疑をあらわしたものであるということ。

③.「疑心がなくなった」という事実状態と大悲を感じている思いとは一体となった状態であること。

④.③の事実状態と一体になった思いが、欲生であると一応は言えること。

⑤.祖師が信を無疑(の事実状態)に還元して述べている理由を考えること。

⑥.信はどのような内容をもつと考えるのが適当であるのかということ他力信の判定基準を定立することとは別のことであるということ。

Cさん そうすると欲生の範疇に入る思いとは具体的にどういうものかが問題になってくるわね。

A君 そうだね。でもね翻って考えると、上記③の事実状態と一体になった思いが欲生であって、信楽は無疑に限られると考えることについてはかなりの心理的な抵抗を感じるのだ。つまりね信楽を無疑に限定してしまう考え方に立つと、無疑の信楽になったことによって生じる思い、ないしは信楽に伴って生じる思いはすべて信楽とは別のものだと説明せざるを得なくなってしまうよね。それで本当にいいのだろうか。信楽をそんなに狭く限定してしまわなくてもいいという考え方もあり得ると思うんだね。先の喩えで言うと、皮のない状態になってあんこが顔を出したという状態が信楽だということになるけど、それだけだとあんこを見ているだけで味がないのと同じだよ。大悲が心の中に射し込むと必ず大悲の味がする。その味を信楽から切り取ってしまってよいのかなぁと思うんだ。むしろ、信楽というのは無疑の状態になったことに加えてそこから必ず生じる大悲への思いを伴ったものであり、その思いも含めて信楽というのだと理解したいんだよ。

 

B君 それでは信楽と欲生とはまったく同じ内容になってしまうように思うが、それでいいのかなぁ。

A君 それで良いんだ。豊かな内容を伴って存在している一つしかない信について、無疑の字義をも併せ持つ信楽は無疑に重点を置いて信を説明したときの言い方であり、欲生は得生などの思いに重点を置いて信を説明したときの言い方に過ぎないと理解するのが適当なように思えるんだね。至心も同じさ。

 

Cさん 至心、信楽、欲生の三心はもともと一心だということなのね。でも、どうして至心、信楽、欲生と三つに分けられているの?

A君 至心、信楽、欲生というのはもともと同じ一心(他力の信)を指し示す言葉だけど一心にはいくつかの特徴があり、そのうちどの特徴に重点を置いて一心を指し示すかによってその呼称が異なっているに過ぎないと考えれば良いんだ。衆生の至心は如来の至心を私の手垢を付けずそのまま受けとった心のこと、その心は仏様の心をそのまま受けとったものなので純粋性という特徴を持つ。純粋性というのは大悲と純粋に向かい合っている心の態度のこと。衆生の至心はその純粋性の極致に至ったものだから至心という言い方になる。大悲への疑いが晴れたという特徴でとらえると信は信楽という言い方になる。浄土往生させるとの大悲に対して無疑になると浄土往生できるとの思いになるところに重点を置いてとらえると欲生という言い方になる。だけど至心、信楽、欲生というのはもともとは同じ一心であり、その一心にある特徴に応じて名づけた別々の言い方が至心、信楽、欲生なんだと理解したいんだ。整理すると次の⑦のようになるよ。

⑦.欲生と信楽とは同じ内容の信。至心もおなじ。一心の持つ特徴に応じて一心の呼び方が異なったものになった。至心は大悲に対する純粋性の極致を表した言い方。信楽は無疑という事実に信を還元したときの言い方。欲生は信を思いとして言い表したときの言い方。

 

B君 じゃあさ、祖師は三重出体を述べていることはどう理解するんだい。

A君 ん?

B君 名号から至心を出し、至心から信楽を出し、信楽から欲生を出すという祖師の解釈のことだよ。同じ心だったらそんな解釈はできないよ。「皆同じ。ハイ終わり。」ということになってしまうじゃないか。

A君 うん。それはね、やっぱり一心のもつ特徴の順に従って解釈されたんだと思うよ。つまり名号として整えられ、名号に込められた仏様の至心をそのまま受けとった私の側の純粋性を至心というならば、その純粋性のゆえに大悲に対して無疑になった。だから至心が信楽の体となる。信楽が欲生の体となるというのは往生させるとの仏様の大悲に対して無疑となったことから往生できるとの思いが出てくる。純粋性という特徴に着目すると無疑という特徴がそこから引き出され、無疑という特徴から欲生という特徴が引き出された。そういうことだと思うんだよね。だけど、そのいずれもが一心の特徴なんだ。中身はまったく同じもの。至心、信楽、欲生と3つの心があると考えず「至心信楽欲生」という6字全体が1つの心に名づけられた1つの名称だと考えても良いくらいだ。

 

C子さん 祖師は無疑をもって一心とされているのではなかったのかしら。

A君 三心釈の所では、如来の至心の故に疑蓋無雑、如来信楽の故に疑蓋無雑、如来の欲生の故に疑蓋無雑。故に一心という理屈だったよね。

C子さん 一心が疑蓋無雑であれば、三心ともに疑蓋無雑の一心ということになるではないかしら。

A君 そのとおりだよ。でも、その論理は、至心、信楽、欲生の三心が実にはもともと一心であるという論証のために言われたことだよね。信楽の字義には至心や欲生とは重点の置き所が異なった特徴や意味があって、至心や欲生も無疑の信楽であることを示すための論理が三心釈なんだ。決して欲生という思いを信から除外するための論理ではないと思うよ。

 

Cさん 至心、信楽、欲生の三心が皆同じ一心であるなら、至心を中心にして信楽も欲生も至心と同じということもできるわよね。また欲生を中心にして至心も信楽も欲生と同じということもできはずよね。

B君 それはもっともだね。

A君 当然にそういうことになるさ。でもね、祖師はそのようには述べていないだ。なぜだろうね。なぜ無疑を字義に持つ信楽をもって三心が一心であることを論証されたのだろうか。至心は大悲を聞き受ける際の純粋な心の態度をいうのだからそれは必ず無疑と同じ意味になってくるよね。だから祖師は十八願名を至心信楽の願というように至心と信楽を合わせて願名とされているよ。でも至心ではなく信楽である無疑を根拠に一心と言われたのは、純粋な心の態度といってもそれはどのような内心の事実をいうのかがまだ明確にはなっていないよね。だから、至心も信楽も欲生も無疑という事実にまで還元することで無疑という字義をもつ信楽を中心にして一心となることを論証されたのだと思う。欲生をもって論証されなかった理由も同様だよ。まとめると次の⑧になるよ。

⑧.至心でも欲生でもなく、信楽を三心の中心に据えて信を理解されたのは、信を事実状態のレベルで理解したこと。至心や欲生では三心が一心であることを説明することができず、至心も信楽も欲生もすべて大悲に対する無疑であると理解することではじめて三心は一心であるという論理展開ができた。それ以外の方法はなかった。だから、無疑という一心のもつ特徴をその字義をもっともよく表している信楽をもって一心を明確に解明された。

 

Cさん じゃあ「聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。本願回向の信なり。」という御文はどう理解すればよいのかしら。

A君 この御文は第1に大経にいう「聞」を説明したものだよね。無疑をもって大悲を聞くのが大経の聞というあり方だと示されたものだ。仏様の大悲を聞くのに疑心をもって聞くのではないと示されたものだよ。この疑心のない聞き方を如実の聞というならば、第2として祖師は如実の聞というのは本願回向の信であると示された。それは大悲を聞くという場はすでに十七願の成就によってお膳立てされていて、私はお膳立てされている場で一方的に如来の大悲を聞くだけでよいように仕上げられている。このことを本願回向と言われたんだね。そしてこの如実の聞を信と言われたのは聞が本願回向の聞であり、聞くままが信であるということを示すために、信を特徴付ける無疑をもって聞を示すのと同時に如実の聞を本願回向の信と言われたんだと思うよ。聞と信とは無疑という点で一致していることを示すための論理だね。だから、この御文も欲生の思いを信から排斥する趣旨の御文ではないと思うよ。

 

Cさん そうすると、祖師のいずれの御自釈の御文も信は無疑のことであると定義したものではないと理解することになるのかしら。

A君 そういうことだね。信を厳密に定義した御文とは言えないと思う。無疑をもって信を定義したと理解すると、無疑以外の思いは信ではないということになりかねないからね。そうなってしまうと欲生は信である無疑の部分とそれ以外の部分に分けて考えることになってしまうという問題が生じることになるからね。

 

B君 信から思いを排除する論理ではないということは分かったけど、信に思いを含めることの積極的な根拠を祖師の書物に求めるとどうなるのかな。

A君 根拠かい?

Cさん B君は根拠、根拠とうるさいのね。

B君 いや、そういうわけじゃないけど、書物を読むときには今議論したことに注意して読んでみたいと思ったからさ。

A君 うん。書物を読むとき、どの点に注意を払って読むかによって読み方が大きく変わってくることがあるから、それは大事なことだと思うよ。さて根拠だけど、祖師は本願の三心についてそれぞれ字義を掘り下げているよね。その解釈には大悲への思いを読み取ることができるよ。それが根拠さ。その他にも祖師の喜びがあふれている解釈やご自釈があるよね。「信は無疑のこと。ハイ終わり。」というだけは深みも何もあったもんじゃないよ。大悲や信は無味乾燥なものじゃない。祖師の三哉文は有名だよね。総序にも生き生きとした祖師の感動があることを感じるじゃないか。それが根拠だよ。君だってそれを感じるから、前回僕に「どうすれば信を積極的に言語化できるんだい。」と言ったんだろう。それが最も大事な根拠さ。自分が大悲について感じていることに忠実になって考えて行ってごらんよ。自分の感じていることに忠実になって考えを深めてゆくことが大事なことだ。その心が哲学するってことさ。

 

B君 なんか誤魔化された感じだけど、まぁいいか。ところで、君が言うように信後の思いというのは豊かなものだけど、人によってそんな思いがあるのかって思うことがあるよね。それは、祖師が衆水海に入りて一味なるがごとしとか道俗時衆ともに同心にと言われたことに照らすと、どう理解すればよいのかってことなんだけどね。

A君 信に含めうる思いというのは抽象的に聞こえるかも知れないが、大悲に対して無疑の状態となって大悲を感受している思いや大悲があると感じている思いのことだよ。これは決して抽象的に言っているつもりではなく、これを感じている人にはすぐにピンとくるはずだ。祖師が同心とか一味と言われているものは、この大悲を感受している思いのことだよ。この大事な所が同じであれば、同心とか一味と言って良いということだよ。それ以外は些細なことなので、はしょってもいいということさ。

 

A君 「ただ南無阿弥陀仏ばかり」という禅的境地を思わせる思いもあるということをさきに述べたけど、最後にこの点について言及しておくね。この出典をいうと一遍上人語録(岩波文庫P65~66)なんだ。一遍上人が「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と詠んだところ、国師は「未徹在」とまだ徹底した悟りには入っていないと返したところ、一遍上人「となふれば仏もわれもなかりなり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠んで印信認可されたというのだ。一遍上人南無阿弥陀仏を強調する一生を貫いた人だけど、この人ほど南無阿弥陀仏を全身全霊にかけて生きた人はいないと評価されているよ。大悲に対して無疑の状態で大悲を感受している思いに生き抜いた人だったんだね。この大悲に対して無疑の状態で大悲を感受している思いが南無阿弥陀仏なんだ。摂取するという仏様に南無している心の状態が至心であり信楽であり南無阿弥陀仏なんだね。この思いを同心とか一味とか言うんだね。真宗においてはこの南無阿弥陀仏がすべてであり、それ以外には何もないんだよ。「教も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏、信も南無阿弥陀仏、証果も南無阿弥陀仏真仏真土も南無阿弥陀仏」とは別のブログで既に言われていることだけど、これはまったくそのとおりなんだと思えるよ。そして、南無阿弥陀仏の思いが「ただ南無阿弥陀仏ばかり」ということになるんだね。真宗の他力の信という心境において禅の瞑想の境地との近似性というか同質性が見いだされるというのだから、信はおもしろいもんだね。

 

*1「還元」の意味

現象学という哲学の1分野において重視されている概念である。人の確信が生じるまでの1つ1つの事実を記述してゆくとその事実が確信成立の条件となっていることが分かる。例えば、今日は日曜だという確信を成立させている条件となっている事実とは、昨日は土曜日だったとの事実や記憶、土曜日だけど仕事に行ったとか、明日は日曜だから夜遅くまでテレビを見て夜更かししたという事実や記憶、今朝テレビを付けると日曜番組をやっていたなどなどの事細かな事実と記憶である。この確信成立の条件を探り、1つ1つの成立条件を掘り下げて確認し整理してゆく作業を還元という。人の心情、感情、信念、世界観などについてもそれを成り立たせている事実に還元すれば他人にそれを事実レベルで伝達することが可能となる。還元という思考方法は共感を得る方法論でもある。現象学はこの還元を応用して哲学的な解明をする思考方法である。この思考方法は仏教の唯識論や唯心論に近いと考える仏教学者もいるよ。参考文献 ちくま書房「現象学は思考の原理である」/著者竹田青嗣明治大学院大学教授

 

*2 祖師が「聞というは仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」と言われたのは、信を無疑という事実状態に還元する思考をとられた結果である。信後において法然聖人の御説法をお聞きになったときの思いを自ら深く内省され、その思いの根源となっているものを探られたとき、大悲と大悲に対して無疑であるということに気づかれたのだと思う。聞が無疑の信であると言われたのは、他力信と自力心を決判するという観点からのものではなく、上記の内省から大経の聞のあり方は大悲を聞いて無疑というあり方をしていることだとの結論に至ったもので、また三心釈はその結論の上に立ちつつ、疑が無くなったことが至心であり、信楽であり、欲生であって三心ともに一心だとする結論を得るための論理を展開した釈である。詮ずるところ、大悲を感受する思いを事実レベルに還元した結果たる無疑を明示しつつ大悲を感受する思いを表現しなければ信の十分な説明とはならない。このため信巻において無疑を前面に打ち出さなければならなかったのである。祖師の大悲への喜びは教行信証の全編に亘って表現されている。信の無疑という説明だけでは信の説明としては不十分だし、大悲を感受する思いだけでも信の説明としては不十分である。「皮が無くなってあんこが見える状態になったこと」は皮が無くなったということとあんこが見えるということをともに説明してはじめて十分な説明となるのと同じである。信は無疑であることを明確に示しつつ大悲への思いを表明している教行信証は祖師が大悲や信をどのように理解されていたかを知りうる解説書であると言えるよ。