2017-01-01から1年間の記事一覧

2-21.思うと思わざる-架橋するもの

究極の問いは、いくつか考えられますが、今回は、私を救うという大悲心があるという思いは世間でよく言われる「思い込み」ではないのか、という問いについて考えてみます。 「思い込み」という言葉は、「単なる思い込みに過ぎない」などと使われるように、客…

2-20.己証相通じる

お救いの法を聴聞しつつ如来の慈悲心を味わうのも格別ですが、それは私の心の中に留まるものであり、私限りのものですが、信心の沙汰はそれを分かち合えるという点で法話とは別のありがたみがあります。 如来の願心を聞き受けたとき、これが信と呼ばれもので…

2-19.役に立つのか

大悲心を受けたとして、それが何か役に立つのか。 いのるによりて やまひもやみ いのちのぶる事あらば たれか一人としてやみしぬる人あらん。 浄土宗略抄 念仏称えて病気が治ったり、命が延びるものであれば、たれか一人として病み、死ぬ人があろうか、と浄…

2-18.往生するのは何か?

前回、「大悲心を認識している所に南无阿弥陀仏が成立します。」と書きました。 ところで、往生してゆく浄土を視覚化すれば、極楽絵図のような浄土をイメージするでしょうが、心の中に成立している南无阿弥陀仏を視覚化することはできません。感じている大悲…

2-17.大悲心と認識と機法一体

大悲心と認識の関係について考えてみます。 以前、「大事なことは大悲心を受けているということだけです。」と書きました。「いま、ここで、如来の大悲心を受けている」ときの私の心理状態は「大悲がある」と感じています。「大悲がある」と認識しているとい…

2-16.常来迎

祖師は、「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは諸行往生のひとにいうべし。いまだ真実の信心を得ざるがゆえに。」と言われました。念仏往生の行者は臨終来迎を待たないと否定されました。これは、臨終来迎を誓った十九願は、十…

2-15.常念仏の衆生

私は、大きな声で念仏することはありません。本願寺築地別院などにたまに出向いて本尊に面と向かったときも、大きな声で念仏することはありません。心の中で南无阿弥陀仏と数回から十数回念じるか、せいぜい、口の中で数回つぶやく程度です。心の中で南无阿…

2-14.信一念について

人は、常にこの世界の視覚映像等を連続して認識しており、その映像等は一瞬たりとも途切れることはなく、常に連続して映像等が認識されると思っています。しかし、私達の大脳(視覚野と前頭前野)が認識するまでには複雑な処理が必要になります。目からの視覚…

2-13.私にとって南无阿弥陀仏とは一体なにか?

南无阿弥陀仏とは、私にとって一体、何でありましょうか。 祖師は、南无阿弥陀仏の南无の字義を解釈して如来の呼び声だと言われましたが、私にとって南无阿弥陀仏とは、如来の慈悲を感じることです。 如来の呼び声である以上、その呼び声を聞く、ということ…

2-12.法蔵の本覚と始覚-お経には書いていないこと-

阿弥陀という仏様は、どのような苦労をして南无阿弥陀仏となられるのでしょうか、勝手に想像してみます。 そもそも、仏様が衆生を救うには、どうすればよいのでしょうか。仏様のまま、衆生の外から衆生を救うのでしょうか。それとも、自らが衆生になり切り、…

2-11.念仏と信と自我

如来の大悲心を受容し、大悲心を仰ぐようになる前は、信を得るために何がしかの役に立つのではないかと思って念仏を称えています。自分の利益のために何か役立てようとの思いを自我というならば、他力信の念仏にはその自我はまじりません。 阿弥陀仏の願心を…

2-10.大経思想の受容と事実

宗教は、自分が認識している世界と人をどのように理解するのかに関する理解の枠組みを提供し、人の精神世界に働きかけ、一定の方向を指し示し、その方向に進むことを教示します。 例えば、キリスト教では、この世界は神が作りたもうた世界であり、人は原罪を…

2-9.信を考える視点

信を考えるに、2つの視点があります。 1つは、如来の大悲心を受けるという視点 2つは、如来の大悲心を受けている状態ないし如来の大悲心を受けているという私の思いを私の意識の視点から観察するという視点 1つめの如来の大悲心を受けるという視点から信…

2-8.月指す指

週刊○○誌に「月指す指」という漫画が連載されていました。西本願寺の僧籍を取得するために仏教学院で受講する生徒達の物語ですが、真宗の教義が述べられる場面はほとんどありませんでしたが、それなりに面白いので毎週購読していました。 この「月指す指」と…

2-7.自力無功と死の受容

如来の本願が間違っていたら、どうなるのか。如来の願心を喜んでいる人は、この点にいて、どのように考えるのかを考えてみます。 如来の本願が間違っていたら、どうなるのか、そんなことを信後の人が考えることがあるのかと、訝しく思われるかも知れません。…

2-6.リアルに想定してみましょう。如来の三心を聞き受けるとは?

まず、リアルに想定してみましょう。自分が死ぬ存在であるということを。 私は、必ず、死んでゆきます。 死に至るまでの経過が急激な外力によるものではなく、病的な緩慢な経過である限り、何らかの微細な変化から始まります。それは最初自覚できません。そ…

2-5.信を得ることが人生の目的か?

信を得ることが人生の目的である、と考える必要性はありません。信を得ることが人生の目的であると考え、信を得るために自分の生活を犠牲にするということも必要もありません。 世間では、資格の取得にせよ、起業にせよ、成功するには少しばかりの才能と懸命…

2-4.視点の転換と五重の義の理解

①宿善、②善知識、③光明、④信心、⑤名号(称名念仏)の五重の義、成就せずは往生はかなうべからず。 この五重の義をどのように理解するかは、問題があるところです。最初に宿善が挙げられているので、宿善がなければ往生はできないと理解して宿善を求めなければ…

2-3.視点の転換と至心

至心は、如来の至心と衆生の至心という観点から考える必要があります。如来の側に立ったときは「約仏」といいあらわし、衆生の側に立ったときは「約生」といいあらわします。その約仏とか、約生という言い方はどうでもいいことですが、便利な言い方です。 さ…

2-2.視点の転換と十八願の味わい

祖師は、「よくよく本願を案ずれば、親鸞一人がためなり」と言われましたが、これは、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという意識から、そのように思わずにはいられなかったのだと思います。 では、十方衆生のうちで極悪最下な者が自分であるという…

2-1.夜と霧-視点の転換

ナチの強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルに「夜と霧」という著書があります。強制収容者生活において希望がもてず自殺を考えているという2人の囚人仲間から深刻な悩みの相談を受けたときのことが記されてい…

1-21.自然

自然といふは、 自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。 然といふは、しからしむるといふことばなり。 しからしむるといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにて あるがゆえに法爾といふ。 法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆえにし…

1-20.本願まことと信楽不思議

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず…

1-19.本願まこと-歎異抄第3条に見る祖師の信

おのおの十余カ国のさかひをこえて、身命をかえりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問い聞かんがためなり。・・親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに…

1-18.三願転入の御文

ここをもって愚禿釈の鸞、・・・久しく万行諸善の仮門を出でて双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるに今ことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。 教行信証化身土文類にあるこの御文を三願転入の…

1-17.十八願の生因と自力の計らい

前回、前々回と雑行、雑修について述べてきましたが、自力の思いをもってなす自力の行という観点から見ますと、雑行も雑修も自力の行です。これらはそれぞれ十九願、二十願における生因としての自力の行です。十八願による救いを求める者がこれらの行を行じ…

1-16.雑修

雑行の次に、祖師は正助行について専修と雑修とがあり、専修には五つの専があるとされています(浄土真宗聖典第2版395頁「正助について専修あり雑修あり」等)。この五専は五正行の各正行の一行を専らに修することで、専礼、専読、専観、専称、専讃嘆の5つで…

1-15.雑行

化身土巻において、正行と雑行につき善導の文を引文されています(浄土真宗聖典第2版387頁・就行立信釈)。 その引文では、善導は、浄土三部経の読誦、阿弥陀仏の浄土の観察憶念、阿弥陀仏への礼拝、阿弥陀仏の御名の称名、阿弥陀仏への讃嘆供養を正行とし、そ…

1-14.如来の救いにおいて自分は悪人であるとの自覚は必要か?

人として自分の内なる悪性を自覚し、それを抑制しつつ善人たらんと向上を願うことは大切であると思いますが、如来の救いに遭うにおいては、悪人であるとの自覚を持ったり、或いは、その自覚を深めなければ救われないということはありません。善人であるとの…

1-13.機の深信

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、こうごうよりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなし-機の深信 祖師は愚禿抄(下)において、二種深信を「他力至極の金剛心、一乗無上の真実信心海なり」(真宗聖典第2版521頁)としながらも、この機の深信について…