6-4(3).質問と回答 4の続き(2)

質問4の続き(2)
 質問ですが、法蔵菩薩阿弥陀仏になる際に、私を救うために、果てしない時間修行をし、阿弥陀仏の名号を作られたとのことですが、阿弥陀仏の視点で考えた時に、私に名号を渡す苦労と名号を作ったときの苦労を比較したら、渡す苦労なんて大したことのないくらい簡単なことだと思います。(名号を作って、私のところまで届けるまで相当大変ですが、そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのではと思います。)ですが、私は名号を受け取れていません。仏願に順じないと救われないとのことですが、仏願に順ずるということがどういうことなのかいまいちわかりません。詳しく教えていただけないでしょうか?

 

回答4の続き(2)
 質問者の方は南無阿弥陀仏と称えることはまったくないのでしょうか。南無阿弥陀仏と称えているのであれば、名号を既に受けとっています。受けとっているから南無阿弥陀仏と称えることができるのです。ですから、仏名を称えることが如来の大悲に既に遇っていることであり、仏名を称えることで既に如来の救いに遭っているのです。仏名を称えることが如来の救いであると知り、仏名を称えさせんという仏願を聞いて計らうことなく仏名を称えることを仏願に順じるといいます。仏名を称えさせんというのが仏願ですから、仏願に順じるとはその願いの通りに仏名を称えることをいいます。
 では、仏名を称えながらも「私は名号を受け取れていない」と思ってしまうのは一体どういうことかと言えば、仏名を称えさせるのが如来の願いであるということを知らない、理解していない、心からそのように受けとめていない、まったく誤認してしまっているということです。これを不信(疑蓋)といいます。これに対して、仏名を称えることが仏願に従うことであると知り、その仏願を計らうことなく仏名を称えているのを信(疑蓋無雑)といいます。同じように念仏を称えながらも、その称名の意味を正しく領解しているか否かで信と不信とが分かれるのです。信の人は仏名を称えさせんという仏願を文字通りそのまま受け取り、不信の人は仏願に気づかないため皆目仏願が分からない状態にあり、私はまだ救われていないと思い込んでしまっているのです。この疑蓋に生死を繰り返して流転してきた原因があるとして祖師は正信偈に「生死輪転の家に還来するは決するに疑情をもって所止とす」と言われています。信は阿弥陀仏の大悲心から生じるものですが、これを信じようとする心のない者のために阿弥陀仏は南無の信じる心を摂取不捨の阿弥陀仏と一体に称える南無阿弥陀仏として成就してあります。阿弥陀如来は信じる心も往生浄土の徳も円満に用意されているので衆生にとって何の不足もありません。三世諸仏は南無阿弥陀仏の救いを信じるようにと如来の救いが円満であることを衆生に証成しています。この証成の有様を善導大師は「十方恒沙の仏舌を舒(のべ)てわれ凡夫の安楽に生じることを証したまう」「悲心は利物の大悲心なり。慚愧す恒沙の大悲心」と法事讃に言われています。これは阿弥陀仏も諸仏も衆生に信が生じることに向けて一心同体の大悲を抱かれている有様を述べたものです。衆生がこの救いを信ぜず流転してゆくことについて諸仏が嘆く様を善導大師は「もしこの証によりて生じることを得ずは六方諸仏の舒舌(じょぜつ)ひとたび口より出でて以後ついに口に還り入らずして自然に壊爛(えらん)せん。」と言われました。不信な私がいるために諸仏の舌を壊爛させていたのでした。阿弥陀仏もまた涙を流して嘆き給うたことでありましょう。大悲心に触れたとき、大悲心を知らない人の心がはじめて大悲心を感受するのですが、ここに大悲と信の不思議があります。それまでは如来の大悲心に触れることがないために質問者の方のように「そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのでは」との思いを抱くのですが、善導大師は「ただ衆生の疑ふべからざるを疑うを恨む」と言われています。
 如来の大悲心から「称えさせん。救わん。」として成就された南無阿弥陀仏の御名を如来の大悲心であると受け取り称名するのが信であり、仏願に信順することです。仏願に順ずるとはどういうことか詳しく教えて欲しいとのご要望ですが、この外に特別な子細はありません。法然聖人が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の子細そうらわず」「三心四修と申す事の候ふは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候なり」「この他におくふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ、本願にもれそうろうべし」と言われているとおりです。南無阿弥陀仏如来の救いであり如来の大悲であるとの外に何の子細もないのです。この信・不信のことは学問、知識、理解の浅深といったたぐいのことで解決がつくような問題ではないため、とてつもなくやっかいです。祖師が難信であると言われ、大経にも往きやすい浄土に人がいないと説かれています。信を頂くことが簡単でないことは、これから先、否応なく身に滲みて知らされることでしょうが、お近くに信を得られた人や信を得られた布教師の方がいらっしゃるならば、直接面談のお願いをして自らの心の内を吐露し、よくよくお話しを聞いて下さい。聞いたからといって言葉で容易に信まで導くことができるものではないので、しばらく時間がかかるかも知れませんが、称える称名とともに如来の大悲が私に届いていたと気づけば瞬時にして今生での救いは完了します。そのとき「聞其名号信心歓喜」はそのとおりであったと知られます。

6-4(2).質問と回答 4の続き

質問4の続き
 法蔵菩薩から阿弥陀仏になるにあたり、48願成就しなければ仏にならないと誓われていますが、全ての衆生、虫、鳥、草木等の類全てを救い終えて初めて法蔵菩薩から阿弥陀仏になれるという意味ではなく、全ての衆生を救うために、法蔵菩薩が修行をし、準備を整え、さぁ、どんな衆生でも救ってあげるから、どんと救われなさいと、待ち構えている状態ということでしょうか? 全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になれたということでしょうか?

 

回答4の続き
 回答4でも書きましたが、如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全円満に確定してしまっています。ですから、質問者の方が言われるように「全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になった」ということです。その如来の救済の準備は予想外に用意周到なものですから、よくよく注意して聞かなければ気づきません。
 如来の摂取決定心は南無阿弥陀仏として既に私に回向されていますから、私や貴方は南無阿弥陀仏と称念することができます。この称念が如来の摂取決定の現れです。念仏という形をとった如来の摂取決定心に気づくことによって必得往生の信が生じます。私が称える念仏が如来の救済でありその他に救済はないと気づく信です。私の救いは南無阿弥陀仏として既に成就されていると信知する信です。言い換えれば、南無阿弥陀は「必得往生。必ず浄土往生させる。」との如来の摂取決定心であり、この南無阿弥陀が私の救済であると受け入れたことを信と言います。
 この如来の摂取決定心・願心は南無阿弥陀仏として私や貴方に既に届いているのですが、私から離れた所に届いているのではありません。極めて身近な所、これ以上に身近な所はないというほど身近なところに届いています。そのため私や貴方が受けとろうと努力しなければならない行は何もないのです。ただ私がその願心を聞くだけでよいように仕上げられている救いです。これ以上にはないというほど極めて身近なところに救いがすでに届いているのです。それが私の称えている念仏です。如来は「南無阿弥陀仏は成就した。あとは衆生、自ら救われる努力をせよ。」と突き放し、衆生の行を要求する仏ではありません。私が力んで如来の救いをつかみ取ろうとして行じる行がまったく無用なように完全・円満・欠け目のない救いを南無阿弥陀仏として成就しています。私の称える念仏がそのあかしなのです。そのため私が行じるべき行は何一つも無いと知り、私が称える南無阿弥陀仏如来の救済であると受け入れるだけです。この受け入れによって現生不退となります。南無阿弥陀仏如来の救いであると聞くだけですから、これ以上に用意周到な救いは他にはありません。如来の摂取決定心は私に何らの行も要求していないので、あとは如来の摂取決定心ありと聞き、摂取決定心・願心を受け入れるだけ。これを受け入れた信について蓮如上人は「取りやすの安心」と言われています。私や貴方がなすべきことは念仏のうちに如来の摂取決定の願心ありと聞いて受けとめるだけです。聞けば「我が往生ははや成就しにけり」との信が自然に生じます。この信が私に成就されれば現生での救いは完了です。あとは上尽一形の念仏を臨終まで称えつつ「辛かったこの世さらば。」と臨終を迎え、わが行く先にある浄土に如来とともに往生するだけです。
 以上が如来が用意した救済の準備です。救済の準備といっても如来が私の浄土往生をすでに円満に成就しているので、南無阿弥陀仏の成就の他に如来の方で足すべきものは何もないし、衆生の方で何かを足さなければならないものも何一つとして残されていません。南無阿弥陀仏一つで私の救済は完全なものとして完結してしまうのです。私の往生のために私がなすべき行は何一つとしてない、南無阿弥陀仏一つで救済を果たし遂げるところが如来の救いの真骨頂です。これが如来の救いっぷりです。如来が救済のために準備し成就した南無阿弥陀仏の救済がいかに用意周到なものであるかを理解いただければ幸甚です。

6-4.質問と回答 4

質問4
 質問ですが、なぜ法蔵菩薩は、今現在救われていない人がいるにも関わらず、阿弥陀仏になることができたのですか? 48願が成就しなければ仏にならないと誓われており、10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。仏の世界は時間という概念がなく、過去から未来の時間において考えた場合、どこかの段階で、すべての衆生が救われるということで、阿弥陀仏になれたということですか?

回答4
 {48願が成就しなければ仏にならないと誓われており10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。}{その誓いにも拘わらずどうして先に成仏されたのか。}との疑問は誰でもが抱く疑問だと思います。曇鸞大師は浄土論註下巻において火㮇(かてん)の喩えを使って如来の巧方便を説明していますが、それがこの疑問に対する回答になるかと思い紹介します。浄土論には「かくのごとくして菩薩は巧方便回向を成就す。」とあり、この巧方便について曇鸞大師は、
 「巧方便とはいわく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに菩薩すでにみずから成仏す。たとえば火㮇をして一切の草木を摘みて焼きて尽くさしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに火㮇すでに尽くるがごとし。その身を後にしてしかも身先立つをもっての故に巧方便と名づく。」
とし、菩薩はその願事を成就したと述べています。
棒の先に火を点火し草木を焼き尽くそうとして棒先の火を草木に押し当てて草木に火を燃え移らせたが、無尽にある草木はまだ焼き尽くされていないのに棒は草木よりも先に自ら燃え尽きてしまったという喩えです。棒が草木よりも先に燃え尽きたことを菩薩が成仏したと表し、一切衆生の煩悩を焼き尽くさないと成仏しないと誓いながらも一切衆生の煩悩という草木はまだ焼き尽くされていない先に成仏したことを菩薩の巧方便というとするのです。如来は一切衆生を一人残らず救い尽くすという摂取決定の心をもって一切の衆生を救いとる方便としての南無阿弥陀仏を成就し、衆生に回向した事を巧方便回向成就といわれたのです。南無阿弥陀仏という仏にならない限り一切衆生を救えないことから法蔵は「身を後にしてしかも身先立つ」ことにして先に南無阿弥陀仏という仏になられた。これは質問者の方が言われるようにどこかの段階ですべての衆生が救われるということが確定したことで阿弥陀仏になったということです。如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全に円満に欠け目なく確定してしまっているのです。先の火㮇の喩えで言えば、草木に火が燃え移り、棒が燃え尽きた時点ですべての草木が燃え尽くされる事に既に確定してしまったのです。祖師が信巻に引用する「一切衆生はついに定めて大信心をうべきがゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性というなり。仏性は如来なり」という涅槃経の文の意味もここに通じているように感じられます。阿弥陀仏が既に十劫の昔に成仏されたことから善導大師は十八願のとおり衆生が称念すれば「必得往生」であると言われました。善導大師もこの「必得往生」に表された法蔵菩薩の巧方便力、摂取決定心を感受されていたことでしょう。

 ちなみに、以下は私の味わいです。
 南無阿弥陀仏となっても菩薩の誓いは必ず守り通さなければなりません。仏になったからといって過去の自分の誓いを自ら破るような事があっては仏にはなれません。そこで、南無阿弥陀仏でありつつも法蔵は菩薩のままであり続けなければならなかった。その菩薩であり続けている菩薩とは一人一人の心の内にあって無量劫の過去から現在まで私に寄り添いながら修行している内なる法蔵です。私が畜生界に生まれたときは法蔵も私とともに畜生となり、私が地獄の住人となったときには法蔵も私とともに地獄にあり、常に私に寄り添いながら「仏にならん」「仏にさせん」と励み続けてきた。それは、法蔵から見れば私は法蔵であり法蔵は私であり、私と離れることができないからです。その法蔵の無量劫に亘る救済の尽力(内薫)と既に成就された南無阿弥陀仏の本願力(外薫)とが協働することによってようやく今生において私は信に恵まれた。私の内なる信となった法蔵は、それでも私が浄土に生まれるまでは浄土に環帰し再び阿弥陀仏にはなることはないのです。私とともにでなければ法蔵は仏にはならないと誓ったからです。だから信となった法蔵は私とともに浄土往生し、私とともに再び仏となるのです。法蔵菩薩の無限の大慈悲、摂取決定心、巧方便とはこのような救い方であると私は思っています。祖師は上記の信について「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。」と示されました。法蔵菩薩の涯底のない大悲心を知れば、如来の大悲心が信であるからこの心が報土の真因となると釈された意が多少なりとも理解できるように思います。

1-26.行の否定

 観経下々品の称名念仏の勧め(転教口称)から分かることは、如来の救いにおいては、称名する以外のすべての行は往生の行として廃(廃立の廃)されている、あるいは廃されるべきだということ。大経願成就文の「聞其名号信心歓喜」の教えから分かることは、聞く以外のすべての行は往生の行として廃されている、あるいは廃されるべきだということ。つまり、称名行も聞という行も、ともに往生行としての意味は否定されることになります。いうまでもなく称名や聞以外のすべて行は一切廃されていますので、あらゆる凡夫としての往生行は廃されることになります。

 称名や聞には凡夫のなす行としての側面はあるものの、往生行としての意味が完全に奪い取られているのです。誰によって奪い取られてしまっているのかと言えば、仏によってです。仏は、これらは往生行にはならないと否定しているのです。もとより仏は凡夫の行を往生行としては無功であるとして南無阿弥陀仏を成就したのですから、私達は凡夫としての行に往生行としての意味を求めることはできません。これを知らされることを機の深信ないし自力無功といいます。凡夫の往生行としての意味を否定され、奪われたあとの称名や聞に残されるのは、ただ、南無阿弥陀仏だけです。この南無阿弥陀仏如来からの救いの手だてとして残るだけです。これを知らされることを(救いの)法の深信といいます。

 観経下々品の称名念仏とは救いの手だてである南無阿弥陀仏を称えることでありますが、自力の往生行としての意味はありませんから、聞こえてくる南無阿弥陀仏が救いの手だてであると聞くことだけが残ります。大経願成就文の聞とは南無阿弥陀仏を救いの手だてであると聞くことですが、聞くことに自力の往生行としての意味はありません。救いの手だてが南無阿弥陀仏そのものですから、救いの手だてが南無阿弥陀仏であると受け入れるしかありません。他に選択肢は残っていないのです。他に選択肢が残っていないことに気づけば、それが信であり、二度と自力の思いが交わることはなくなってしまうのです。

 こうして、観経下々品の転教口称の教えや大経願成就文の「聞其名号信心歓喜」の教えには、自力を廃して信を生じさせる働きが自然に備わっているのです。この働きに触れている限り、信は自然に生じます。

 以上、真宗において、富山まで行って真剣に聞かないと信仰が進まないとか、宿善を積むために寄付財施を奨励するなどは、往生行という観点からは如何に意味のない行いであるかが分かります。

6-3.質問と回答 3

※6/3公開のものから加筆しましたので差し替えます

 

質問3
 わかりやすい文章で、 いつも読ませていただいています。 質問ですが、18願を読んでいる限り、救われるには念仏をすることが必要だと思われますが、念仏せず、聞くだけで救われる根拠はなんでしょうか? どこからそれが読み取れるのでしょうか?

 

回答3
 「救われるには念仏をすることが必要だ」との部分は、自力の行としての念仏を行じることに加えて(自力の念仏を行じつつ)仏の加被力を受けることによって浄土往生できるという趣旨なのか、念仏を称えているままが十八願力によって浄土へと摂取されつつあると理解されたものであるのか判然としないところではありますが、南無阿弥陀仏の願心を聞信することで救われる根拠、正確には南無阿弥陀仏の願心を聞信しない限り凡夫は十八願の救いを受けられない根拠を端的に申し上げます。

 その根拠を申せば、十八願成就文の
 ①聞其名号 / ②信心歓喜 / ③乃至一念 / ④願生彼国 / ⑤即得往生住不退転の文と①の聞其名号、②信心歓喜、⑤即得往生住不退転、並びに十八願の乃至十念に関する祖師の釈に求められます。

 祖師は、この成就文の文意として①と②につき聞名の聞は即信であること、③の一念は信一念であること、⑤の即得往生住不退転は現生正定聚不退であり、これは信の益であることを読み取られました。

 聞名が信であることについては「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。信心というはすなわち本願力回向の信心なり。」と釈されています。聞名は疑心の無い聞(如実の聞)であり有疑心の聞(不如実の聞)ではありません。疑心がないことを信といいますから聞名は信であると分かります。また疑心のないことが信であることから信は疑心のない聞名(如実の聞)であることも分かります。ここから成就文の聞名は即ち信、信は即ち聞名であるという理解がでてきます。仏願の生起本末とは、如来が一方的な救済行として南無阿弥陀仏を成就し衆生南無阿弥陀仏を回向し、衆生がこの南無阿弥陀仏を受け取り念仏を称えている様、つまり如来の一方的な大悲の働きが現実化してゆくことを表しています。このため信は本願力回向の信ということになります。信が本願力回向の信であるならば聞名も本願力回向の聞です。本願力回向の聞ということは、私があれこれと願心を計らいつつ聞く聞(不如実の聞)ではなく、如来から大悲心を回向され聞かされるままに聞く如実の聞だということです。「聞其名号」とは名号のいわれ・如来の願心を聞かされるままに聞く、回向されるままに聞くということです。信もまた同じです。摂取するとの願心に計らいをまじえることなく願心を受け入れるのが信です。十八願の信は御名を回向されるままに聞く成就文の聞名であり、成就文の聞名は十八願の三信です。以下、聞名即信を通常の用語の「聞即信」と表記します。
 この聞即信には即得往生住不退転という現生正定聚不退転の信益があるとされました。現生において正定聚になるということは邪定聚でもなく不定聚でもなく正しく仏になることが定まった者の数に入り、再び退転することがないということ。そして、この現生不退の信益のある御名の聞信が一心であるとして「一心は清浄報土の真因なり」「涅槃の真因はただ信心をもってす」「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる」「報土の真因は信楽を正とするが故なり」「証大涅槃の真因」などと釈されました。十八願の三信は願成就文に「聞其名号信心歓喜・・願生彼国」とあるように「南無阿弥陀仏を聞いて信心歓喜」する聞信です。この聞信は如来から与えられ願心から生じた信ですから、信巻においてこの信を大行と並んで「大信」と呼ばれています。この大信について祖師は「一切衆生はついに定めて大信心をうべきがゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性というなり。仏性は如来なり」という涅槃経の文を信巻に引用して大信の属性ないし本体を紹介されています。この大信が報土往生決定の真因となる理由は上記の釈にあるように「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。」と祖師は示されました。如実の聞名が即ち大信であり、大信は即ち如実の聞名であるということは、如実の聞名以外に大信はないということ。如実の聞名以外に大信はないということは如実の聞名以外に即得往生と報土往生の真因はないということです。

 これに対して、十八願の念仏は「乃至十念」とあります。乃至は少ない方から多い方へという意味の「従少向多」とその逆の「従多向少」の意味があり、また「一多包容」の意味などがあるとされています。このことから、如来が「乃至十念」を誓った誓意は念仏の数を問わず浄土に生まれさせることにあり、念仏の多少を問わず浄土に救うとするところに大悲心が表れていると理解されます(本願寺出版発行の安心論題に「十念誓意」の項)。信を得た上には生きながらえば上尽一形の念仏(一生涯続く念仏)となり、信を得た直後に臨終を迎えれば十念ないし一念の念仏となりますが、その一声ごとの念仏には如来の無上大利が備わっていますから、一念の念仏にも十念の念仏にも上尽一形の念仏にも同じ無上大利が備わっており、念仏の多寡による違いはありません。大経には「それかの仏の名号を聞くこと得て歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし。この人大利を得とす。」と説かれています。ここにも御名の聞信がでており聞信の上の一念の念仏につき無上大利があるとされています。この無上大利が私の往生の大利となるかどうかが大事な所ですが、私の大利となった最初のときを信の一念といい、無上大利が私の大利となったあかしが大信です。信の上には、その後の念仏の多寡・多少によって往生が決まるものではなく信によって往生の得否が決まるので、祖師の教えを信心正因称名報恩と言います。念仏の多寡・多少は往生の得否に関係しませんから、一声の念仏も称えられないままに臨終に臨んだひとであっても信の決定により浄土往生が決定しています。この決定の信を得た者には十八願と十一願によって真実報土への往生が約束されているのです。

 以上が南無阿弥陀仏の願心を如実に聞信することで救われてゆく根拠となる御文と祖師の釈の骨子です。質問者の方が言われる「聞くだけで救われる根拠」の聞くとは、如実の聞信のことであり、如来回向の信であることを述べてきました。この他力回向の信なくば凡夫の報土往生はありませんので、如実に聞くことが救われる根拠となるのです。

 次に救いの法の顕現の仕方から上述した所を見直してみますと次の如くです。顕現の仕方は、大行(御名)→大信→大行(称名念仏)です。御名と称名念仏はともに同じ大行です。
 ここで救いの法というのは御名すなわち南無阿弥陀仏のことです。南無阿弥陀仏如来の救いの手だてとなっているということです。南無阿弥陀仏は摂取し捨て給わぬ如来の願心を表したものですが、この願心を聞かせ南無阿弥陀仏を与えて救うというのが如来の救いの手だてです。
 先の大信とは私の心相が「南無阿弥陀仏」となったことをいい、念仏とはこの心相から心相中の南無阿弥陀仏が口から出たものです。南無阿弥陀仏という如来の救いは、大行たる御名を私が聞き私の心に至り届いたとき私の心のすがたは摂取不捨せんとの「阿弥陀仏」に帰命する「南無」の心となりますので、私の心が南無阿弥陀仏の心相となってゆきます。この心相を大信といいます。この南無阿弥陀仏の心相はその本体が南無阿弥陀仏であることから如来回向の信心であるとされます。本願力回向の信心なりという祖師の釈は十七願の成就によって諸仏が称讃する名号を聞くままに信心歓喜南無阿弥陀仏の心相となるので「聞其名号信心歓喜」の信心を本願力回向の信心といわれたものです。如来の救いを「大」と表現すれば、「大」である南無阿弥陀仏が私の心に働きかけて「大信」となったときに如来の救いが私の心の中にまで届き私が南無阿弥陀仏を領受したことになります。この信が仏性であり如来です。その大信を味わってみますと南無阿弥陀仏にて往生するという思いとなります。その後の念仏は浄土往生が決定したこと(即得往生住不退転)を喜ぶ念仏となります。祖師はこの如来から与えられた南無阿弥陀仏称名念仏となった所を指して「称名大行」とされました。祖師の釈には大行は念仏であり、念仏は南無阿弥陀仏であるとあります。行巻の「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり。」がそれです。他にも弥勒附属の一念釈もあります。称名念仏は御名そのものであるという理解です。 称名念仏ばかりではなく信もまた南無阿弥陀仏であると釈されていると理解することが可能です。それは「南無阿弥陀仏はこれ正念なり」とある「正念」とは念仏を表すこともあれば信を指すこともあるからです(梯実円師聖典セミナー教行信証「教行巻」201頁)。ここでは正念は大信を指すと理解したいと思います。称名念仏たる大行は南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が大信である。大行・大信ともに南無阿弥陀仏であると構成することが御名をもって救うという如来の救い方として貫徹したものになり、また、祖師が信を信心仏性と理解されたことにもよく合致するからです。蓮如上人は十八願を南無阿弥陀仏の願と釈されています。衆生の信も南無阿弥陀仏衆生の行も南無阿弥陀仏と誓っているのが十八願であると理解されたからでありましょう。
 これらの釈から読み取れることは如来の救いを単に称名行として理解されたのではなく、「動態」として理解された事が分かります。動態とは、南無阿弥陀仏の御名が仏様の救いの大行であり、この大行は私の心中で働けば大信となり、信一念から臨終まで信は相続され(金剛心・正定聚不退転)、同時に生涯に亘っての大行たる念仏行になるということです。私の信や念仏は如来の救いが働いている具体的な活動相であり、私の上に常に働き続けているその有様のすべてが南無阿弥陀仏の働きです。この如来の救いの働きは私の信(南無阿弥陀仏の心相)となったところで私をとらえて離しませんから(摂取不捨)、この信となった所を指して信を清浄報土の真因とするのです。先に信とは無上大利が私の大利となったあかしだと書きましたが、そのあかしとは私の心が南無阿弥陀仏の心相となったことをいいます。この心相となった南無阿弥陀仏如来回向の大信であり、如来の大悲心であり、仏性であることから大信には無上大利が具足し、私の心相が南無阿弥陀仏となったとき如来の救いとして私の浄土往生が定まるのです。そのことを十八願成就文では信を得て歓喜する者は即得往生住不退転の身となるとされています。歎異抄にも「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」とありますが、同じ趣旨です。
 祖師は成就文から十八願を眺められて十八願を真実の信願であると言われました。十八願の願事は浄土に生まれさせると誓っている対象は聞信して大悲を喜ぶ者であるという理解です。十八願では「至心信楽欲生」と表現されています。そして、祖師は十八願の念仏については真実の大行としつつもその行を誓った願を十八願に求めずに十七願に求められました。これは私が称える念仏にはその由来ないし淵源があり、それは十七願にその成就を誓われた御名にあると理解されたものです。如来が誓った真実の行と真実の信とはともに南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏が浄土往生の大信であり大行であるのです。南無阿弥陀仏はもともとすべての者にとっての往生行ですが、この往生行が私の往生行となるのは私の心相が南無阿弥陀仏となったときです。ですから、祖師は信を報土の真因と言われたのでした。救いの法である南無阿弥陀仏が我が往生の行となるか否かは信の有無によって決まります。これを信疑決判と言いますが、南無阿弥陀仏が私の報土往生の信因となったとき大行は当然に信に具足されています。南無阿弥陀仏の心相が信でありかつその心相の南無阿弥陀仏が大行であるからです。大行の御名→大信(御名の救いを計らい無く聞き受ける)→即得往生を喜ぶ称名大行、称名大行は御名そのもの、と如来の救いが展開する中において大信に大行が円満に具備していると理解するものであります。大悲心を如実に聞くところに大信と大行が同時に備わってしまうのです。聞名といい信といい、実は同じ事象を指し示していることが分かったでしょうか。如来の救いッぷりに対する計らいが廃って私の心の相が南無阿弥陀仏となった事象に対して聞名とか信心とかの語をあてて説明しているのです。同じ事象を指していう語ですから、聞は即信、信は即聞と言えるのです。念仏を一声も称えるいとまがないままに臨終に臨んだとしても浄土往生の無上大利である南無阿弥陀仏は、これを聞信して御名を領受した信の者の心と一体となっているので往生は決定です。この南無阿弥陀仏を領受した心を元祖法然聖人は選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」と書かれました。南無阿弥陀仏が往生の業であるということです。通常は口称の南無阿弥陀仏の念仏が往生の業であると理解するのでしょうが、私はその文字のとおり私が領受した南無阿弥陀仏が往生の業であると理解したいと思います。元祖の一枚起請文にあるとおり「南無阿弥陀仏にて往生するぞ(と思う)」ということです。南無阿弥陀仏を聞いてその南無阿弥陀仏のとおり私の心が南無阿弥陀仏となったとき、「南無阿弥陀仏にて往生するぞ」との思いとなり、私の口から南無阿弥陀仏が出てきます。これが信具の念仏であり十八願の如来真実の大行たる念仏であります。
 聞信という視点を前面に出して、この視点から十八願を読み直してみますと、「摂取不捨の我が大悲を聞信し大悲を歓喜する者であれば浄土に生まれさせる。(念仏の多寡を問わない。)」と読み替えることができます。これを如来の救いのあり方から見ると、御名が私の信となりこの信から如来が化現している有様が念仏です。この念仏を大信海化現の念仏といってもよいのではないかと思われます。

 南無阿弥陀仏が、これを聞信する人の心相の南無阿弥陀仏となり、口称の南無阿弥陀仏を行じる念仏者の上に現れるという南無阿弥陀仏の救いのあり方から願成就文の「聞其名号信心歓喜・・即得往生住不退転」の文を見直し、また、十八願を読み替えました。その救いの働きは、御名に表れた如来の願心を計らいを交えずに聞信するところから始まり、御名を聞信したことによる信心歓喜、信心歓喜の内容としての即得往生住不退転、そして一声の念仏行へと発動し、上尽一形の念仏として働き続けているさまが多少はいきいきと感じることができたでしょうか。また、祖師が自らの上に現れた南無阿弥陀仏の生きた救いのあり方を自らの悟性によって理解し整理されてゆかれた結論が「念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念(大信・仏性)」と言い切られた釈であると理解されたでしょうか。教学上の根拠や聖語などは悟性に頼った理解ではなく、救いの働きの核となっている南無阿弥陀仏の救いに対する感性によって聖語の意味が裏付けられたときにその語の背後にある生きた救済の法理が理解されると思い、ながながと述べてきました。その意をご理解いただければ幸甚です。
 以上が、南無阿弥陀仏の願心を聞信しない限り凡夫は十八願の救いを受けられない根拠と法理です。

 これに対して、善導大師は観経下々品の転教口称を根拠として十八願の文につき三信を省略して「もしわれ成仏せんに十方の衆生わが名号を称せん、もし十声に至るまでもし成仏せずば正覚をとらじ。」と読み替えたあとに「かの仏いま現にましまして成仏したまえり。まさに知るべし。本誓重願むなしからじ。衆生称念すればかならず往生を得。」と言われました。これが善導大師の十八願と成就文の理解と言えます。善導大師が祖師のいう称名大行を願文の前面に出して願文を解釈されていることを念頭に置かれて質問者の方は「救われるには念仏をすることが必要だ」と思われたのであろうと推測されます。ここには聞信ということは言われていないのではないかと思われるかも知れませんので、少し触れておきたいと思います。
 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁に、ある人が善導の本願取意の文には三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき、法然聖人は「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたとあります(「諸人伝説の詞」)。「衆生称念必得往生としりぬれば」の知るとは「弥陀仏が成仏したことで衆生は称念すれば必ず往生を得る」と聞いて理解して称念すれば必得往生と信知するということです。この知ることで自然に三心を具足するというのですから、知るとは疑心無く往生を知る、すなわち信知するということです。また衆生の称念とは自然に三心を具足したうえの称念であると分かります。善導大師の上記の文には聞信という言葉は使われていなくても、元祖はそこに「信知」を読み取っていました。善導大師の念仏は信を具足した念仏であると理解されていたのです。「摂取不捨の南無阿弥陀仏」の願心を聞信して心相が南無阿弥陀仏の大信となる、或いは、「称念必得往生」との救いであると信知して彼の仏願に順じる、というのは表現の違い、ないしは視点の違いに過ぎません。必得往生の仏願を信知してその願いに順じるとは如来の願いを計らい無く聞き受けて願いのとおり念仏の行者となるということですから、私の心が阿弥陀仏に南無したということです。「摂取不捨の南無阿弥陀仏の願心を聞く」と言っても、或いは「称念必得往生との仏願を信知する」と言っても、そのいずれの場合であってもともに如来の願心をそのとおりと受け入れて無疑信となることなので、いずれも願心を聞信ないし信知していることに少しも変わりはないのです。聞信も信知も疑いなく計らうことなく仏願を受け入れることですから同じ意味です。南無阿弥陀仏の働きが信という心相(聞信ないし信知)となり、次いで大行たるにふさわしい自力の思いの廃った称念となって南無阿弥陀仏が口から出てくる。南無阿弥陀仏が口から出てくるとその称名に願心をみて願心を疑うこと無く信順し、再び念仏を申すという展開となって続いてゆくのが如来の救いのあり方です。如来の救いはこのような救いのあり方をしているという所ををしっかりと押さえて理解すれば、善導大師の取意の文であっても成就文であってもそこに流れている如来の救いの有様に何の違いはないことが分かります。聞名信心歓喜から念仏行への発動という説明の仕方と念仏を行じることによる必得往生の信の発動という説明の仕方の違いは、前者は御名→聞信→念仏という論理的な順序で如来の救いを説明し、後者は念仏行→願心への信順という論理で説明するものですが、後者は「念仏申すところに回向された御名があり御名の回向に表れている願心に信順する」のですから、前者の「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」を含んでいます。前者の「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」はそのあとに必ず「念仏申せばその念仏を聞いて仏願に信順する」という流れが続きます。前者は後者へと続き、後者は前者を含むものなので、同じことになるです。このうちのどこをとらえるかによってこの救いに対する説明の仕方が違ってくるようにその救いの名づけ方も違ってきます。南無阿弥陀仏を称名する念仏者の上に現れた如来の働きを口称念仏の所でとらえて「念仏往生」といってもよいし、善導大師流に「称念必得往生」といってもよいし、南無阿弥陀仏を聞いた所をとらえて「信心往生」とか「聞名往生」といっても「名号往生」といっても差し支えはありません。いずれも如来の大悲の働きが私の上に具体的に働くことによって往生するということを意味しているからです。このようなことが可能であるのは、如来の救いは「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」「念仏申せばその念仏を聞いて仏願に信順する」「信順すればまた念仏申す」というように円環しつつ上尽一形の念仏となって展開してゆくからです。信は念仏となって念仏とともに相続され、念仏は信を伴って信とともに相続されてゆきます。念仏と信は互いに不離の関係にありますが、念仏に焦点をあてて念仏を先に出して説明するか、信に焦点をあてて信を先に説明するかの違いによって、称念必得往生というか信心往生というかの説明上の違いとなって現れてくるだけのことなのです。いずれの説明であっても他力回向の(聞)信
や信(知)がなければ報土往生は不可ですから「信心が正因」であることに変わりはありません。

 私の心が南無阿弥陀仏の心相となったときに仏願の生起本末を聞くとどのように思えるのか、について他にも言いたいことがありますが、ご質問の意図から外れてゆきますので省略します。また祖師がなぜ③乃至一念の一念を信楽の一念と理解されたかに関しても同様の理由から省略しましたが、これについては本願寺出版部発行の大江淳誠師の「安心論題講述」の三心一心の項を読んで下さい。

 

1-25.観経と大経の信・行一致2 安心と起行

 観経の上品上生に、至誠心、深心、回向発願心の三心が説かれていますが、善導の指南によれば定散十六観に共通する三心であるとされています。しかし、下々品に登場する臨終の悪人は善行はなく悪行ばかりの愚人であるとされていますので、自前で三心を具すことは不可能です。ここから、悪人に具足される三心とはどのようなものか、という疑問が生じることになります。

 観経下々品にでてくる愚人の至心が自前で用意すべき至誠心であれば、末代の悪人にこの至心を用意することは困難です。自前で用意すべき至心ではないとすれば、如来が用意した至心ということになります。元祖は、聖道の至誠心を総の至誠心、浄土他力の至誠心を別の至誠心と理解されていたようです。前者は自ら至誠心になってゆく、後者は如来から至心が至り届けられているという意味で至れる至誠心ということです。如来の誠の心が凡夫に至り届いた他力の至誠心というものがあるのです。これは、如来の至心の願心を受け入れて計らいの廃った凡夫の心に至誠心と名付けたものです。愚人が具すべき至誠心とはこの他力の至心の他はあり得ません。

 この至心が十八願の至心と同じであるならば、愚人の至心には深心と回向発願心が備わっているはずです。深心と回向発願心は十八願の信楽、欲生です。祖師は、三重出体釈において、至心は至徳の尊号を体とせるなり、至心をもって信楽の体とするなり、欲生は・・真実の信楽をもって欲生の体とするなり、と釈されていることを考えますと、他力の至心には自ずとこの信楽と欲生も備わっていることになり、また祖師が至心・信楽・欲生その言異なりといえども、その意はこれ一つなり・・・ゆえに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づくとも釈されていることをも考え合わせると、如来の願心を受け入れた心は、至心、信楽、欲生と名づけられる区々の三心があるのではなくただ一心があるのみということになります。

 このことを念頭に置いて善導のさきの指南を考え直してみますと、上品上生に登場する至誠心、深心、回向発願心の三心は定散十六観に共通して具足しなければならないという説示は、定散十六観を行じるといえども、他力の至心、信楽、欲生を具さなければ浄土往生は不可であること、観経に説かれている定散十六観の定善散善の各種の業行は、実に他力の真実信心を得た上で(安心)、その行を行じるべきこと(起行)を密かに説かれたものであると理解することになります。安心の上の起行であると理解することは、自力の行による浄土往生を説いたとする観経の読み方を完全に逆転する理解です。祖師には、定散十六観が信後の行を説いたものだとの説相はなさそうですが、善導の上記の指南に従い、定散十六観に共通し、臨終の悪人もが具さなければならない三心というものを考えてゆくと、他力の三心を具した上での起行に応じて機が区別されるとの理解に到達します。元祖晩年の教えとして、

 

問ふていわく、余仏・余経につきて結縁し助成せむ事は、雑となるべきか。答ふ。我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起こらむ上は、他善に結縁せん事、全く雑行たるべからず。往生の助業とはなるべきなり。                 

醍醐本 禅勝房への答


というものがあります。このような元祖の理解は、定散十六観の行は信後の起行(正定業としての念仏とそれ以外の助業)であるとの思想に立脚したものではないかと思われてきます。

1-24.観経と大経の信・行一致

 観経の下々品には、善知識が臨終の愚人に対して妙法を説いたが、この愚人は苦に責められて念仏するいとまがない。そこで善友は、教えを転じて口称を勧め、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし」と告げた。愚人はその勧めを受け入れて、「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称」したところ愚人の罪が除かれて浄土往生できたとされています。ここから善導は、口称の称名念仏を大経の十八願文の中心に据えて、「もしわれ成仏せんに十方の衆生わが名号を称せん。下十声に至るまで、もし生まれば正覚をとらじ」と読み替えたものと思われます。つまり十念の念は「声を絶えざらしめて」の声であるとし、また信を称名念仏の裏に隠しまいました。

 上記の「妙法」とは、南無阿弥陀仏のことだと推測されます。十六観法は愚人にはもとより無理です。臨終の悪人にはなおさら不可能ですから、善知識がこの観法を臨終の愚人に対して説かれるはずはありません。

 この南無阿弥陀仏は、私が死後に往く浄土の完成と私が浄土往生できることを告げる如来の名告りであり、その名告りがそのまま如来の救いの手だてとなっていることをいいます。ですから、その名告りを聞けば、聞いた衆生はたとえ愚人でも心から安堵し、その安堵から称名念仏が外相にあらわれてきます。それが大経の願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」です。
 ところが、観経の愚人はその妙法を聞いても、正しく如来の願心を理解することができず、苦に責められて仏を念じることが出来ないと嘆くのです。愚人は仏を念じることができなければ救われないと大きな勘違いをして仏を念じようと努めたのです。そこで善友は教え方を変えて(転教)、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし(口称)」と心の有り様を問題とすることなく、ただ無量寿仏の名を称すことを教え勧めたところ、愚人が「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称した」と記されています。

 ここで見落としてはならない重要なポイントは、十念の念仏を称えるに「心を至して」とあるところです。「心を至して」とは、十八願文では「至心信楽欲生我国」の至心と同じです。

 至心とは如来の至心が私に至り届いていることを私が受け入れたこと、すなわち、「自力の計らいを交えない状態で如来の至心である願心を受けていること」をいいます。これ以外に愚人に至心なるまことの至誠心はありません。この至心が観経に表されている愚人の他力信です。「十念を具足して南無阿弥陀仏と称した」とは十八願文の「乃至十念」のことであり、これが愚人の行です。信・行ともに十八願文の「至心信楽欲生我国」「乃至十念」に相当していることが分かります。この他力の信行に導くことにこそ如来の目的があります。他力の信が生じる直前に善友が御名を称することを勧めたのは、仏を念ずるなどの自力の計らいや諸行を廃捨させるためだったと考えられますが、称名念仏する以外のことは何も必要としていない如来の救いであることを受け入れさせるために、無量寿仏の御名を称すべしと念仏を勧めたのです。その真のねらいは、御名を称するという行を行わせることを通じて仏を念ずるなどの自力の計らいや行は仏願に相応しない自力の行であることを理解させ、これを廃捨させることにあったと理解されます。その念仏の勧めを受けて愚人は、心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称したというのですから、転教口称の勧めによって「自力の計らいが廃捨させられた」というところが最も重要なポイントだと私は考えます。

 では、なぜ、上記の教説によって自力の計らいが廃るのかということですが、それは、如来の願いを聞いてその願いを受け入れるからです。善導の「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の文に「順被仏願故」とあるのを受けて、元祖は、念仏を称えることが彼の仏願に順じることであるとして仏願を受け入れたように、ただ念仏を称えることが仏願にかなうことだと理解しこれを心で受けとめて、その仏願を受け入れたから自力の計らいが廃ったのです。仏願を受け入れたことによって他力の信と行とが恵まれたのです。

 大経の願成就文の「その名号を説くを聞いて信心歓喜する」という教説は、南無阿弥陀仏の妙法は、ただ如来に私を救うとの願心があると聞くだけでその妙なる働きが現実のものになるということを教えたものです。大経においても、仏願を聞いて仏願を受け入れることにより信心歓喜し自力の計らいが廃るのです。仏願を受け入れることが信であり、受け入れた上での念仏が乃至一念または乃至十念の念仏となることは観経でも大経でも違いはありません。観経では、ただ無量寿仏の名を称すべしと教えていますから、一見して大経の説き方とは異なっています。片や諸仏の称讃する名号を聞く、片や仏が称名念仏を勧めるという明らかな違いがあります。しかし、この違いは、他力の信行を生じさせるという結果を招来させるものである点では同じであり違いはありません。願成就文の「聞其名号・信心歓喜」は、私が往生する浄土の完成と私が浄土往生できることを告げる如来の名告りであり、その名告りがそのまま如来の救いの手だてとなっていることから、その名告りである御名を聞くだけで如来の救いに預かることができる。ですから、この「聞其名号」の教説には、聞く以外のすべての行や思いをアテにする自力の計らいを廃棄させる働きがあります。ともに仏願を聞かせて仏願を受け入れさせて自力の行を廃捨させるための教説(便法)なのです。口称の念仏一行を勧めるか、浄土の完成と必得往生を告げる名を聞き受けることを勧めるかの違いはあれども、その目的はともに仏願を聞かせて仏願を受け入れさせて自力を廃捨させることにあり、また、その目的のとおりに自力廃捨の効果が自然に生じるのです。前者の念仏を称えることで自力が廃ったことを観経では、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし」と勧められた愚人が「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足した」と説かれ、大経では、諸仏が称賛する「名号を聞いて信心歓喜し乃至一念する」と説かれています。これは同一の信と行を表しているものです。この点で観経と大経とは見事に一致しています。教説の違いということに目を向けるのではなく、その教説の目的、教説から導かれる効用という観点から観経と大経を眺めると、ともに仏願を受け入れることによって他力の信と行が生じる効用があることを教えていると分かります。