3-31.会話編 六字釈-本願招喚の勅命と発願回向

*1.善導の六字釈

南無というはすなわちこれ帰命なり。またこれ発願廻向の義なり。阿弥陀仏というはすなわち是れその行なり。この義をもっての故に必ず往生を得。

 

*2.善導の六字釈に関する祖師の御自釈

(1)しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は至なりまた帰説なり。説の字は悦の音また帰説なり。説の字は税の音、説税ふたつの音、告なり述なり人の心を述べ 述べるなり。命の言は業なり招引なり使なり教なり道なり信なり計なり召すなり。ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。

(2)発願回向というは、如来すでに発願して衆生の行を廻施したまふ心なり。即是其行というはすなわち選択本願これなり。必得往生というは不退の位に至ることを得ることをあらはす。経には即得といへり釈には必定といへり。即の言は願力を聞くによりて報土の真因を決定する時刻の極促を光閳するなり。必の言は審なり金剛心成就の貌ばせなり。

 

以下では、上記*2(1)の釈を「帰命釈」とか「本願招喚の勅命釈」といい、(2)の釈を「発願回向釈」と言うことにする。

 

*3.発願回向釈において祖師は「即是其行というはすなわち選択本願これなり」と言われている。これは選択本願の乃至十念の大行の事であり、この大行中に「願力を聞くによりて報土の真因を決定する金剛心成就の貌ばせ」である大信を読み取られている。大行中の信ないし大行に具足する大信である。本典の正式名称は、信の字を省いた顕浄土真実教行証文類であるが、行巻には大行念仏のほかにも信を含んだ御文を多く引用され、真実の行信に関する御自釈もされており、この念仏には大信が伴っていることを明らかにされている。その上で行巻で表された大行から信を別開して信巻とする構成が取られているが、祖師の発願回向釈はこの構成を彷彿とさせるものである。

 

B君 南無阿弥陀仏の御名について祖師は善導の六字釈を行巻に引用されたしばらくあとに、南無、帰命、発願回向、即是其行、必得往生について御自釈されている。今回は祖師の帰命釈と発願廻向釈をテーマにしたい。まず帰命をその字義から本願招喚の勅命と言われるのだが、本願招喚の意味が取りづらい。どういうことなんだろうか。

 

A君 本願招喚を「本願」と「招喚」とにいったん切り分けて、「本願」と「招喚」はそれぞれ何を表しており、それらにはどのような関係があるのかを考えてみると分かりやすくなると思う。

 

B君 「本願」とは仏名成就の根源になっている十八願の事。「招喚」は南無阿弥陀仏の仏名を釈したものだから、仏名を表しているよね。

 

A君 そう。だから、本願招喚の意味を考える際に仏名と十八願の関係についておさらいしておこう。

 

A君 仏名の南無阿弥陀仏は十八願を成就した果上の仏徳のことだ。仏徳とは十八願の因願のとおりに作用する働きのこと。衆生を浄土往生させる働きを持つので至徳という。この至徳は無量の智慧と無量の慈悲の光明の働きのことだから、この徳は仏様そのものであるとして名づけられたのが南無阿弥陀仏という仏名だ。

 

A君 仏名を果上の名号というのに対して、その因となっているのが十八願だから十八願を因願という。それで十八願の因願を成就したとはどういうことか、というに3つある。1つは十八願を誓った法蔵菩薩衆生の「至心信楽欲生の三信と乃至十念」を往生の因として成就した事。2つはこの因によって衆生が往生してゆく浄土を成就した事。3つはこれらの往生の因果を円満成就した事により法蔵菩薩南無阿弥陀仏という仏に成仏した事の3つになる。それで南無阿弥陀仏は、衆生往生の因果と法蔵菩薩の成仏の因果の同時成就を意味する。大経はこの2つの因果成就を教えた経典だ。

 

B君 では、十八願の因願のとおりに作用するとはどういうことか?

 

A君 十八願には往生の因として「至心信楽欲生我国の信」と「乃至十念の行」を定めているが、この信と行とは既に南無阿弥陀仏として成就されているので、その成就された大悲を聞くことでその南無阿弥陀仏が念仏行者の心中において南無阿弥陀仏の心相となり、その心相に伴う思いが念仏となって出てくるということだ。祖師は念仏が自力の行ではなく仏の大行であるとする根拠や至心信楽欲生の信が大信となる根拠はこの仏名にある事を明らかにされている。この往生の因が私に備わることで往生の果が生じることになるから、祖師は「必得往生というは不退の位に至ることを得ることをあらはす」と言われた。往生の因たる信が私に備わることで往生が定まってしまうということだ。

 

B君 南無阿弥陀仏の心相になるとはどういうことか?

 

A君 それについては後に触れることにするよ。

 

A君 仏名が十八願の因願のとおりに作用するので、この仏名は衆生に対して、法蔵の成仏・衆生往生の成就を告知し宣述し教えて道を示して信ぜしめ招引する大悲を表すことになる。

 

A君 簡単に言うと、「往生の因果を仏名として成就したから仏名を信じて仏名を行ぜよ。必ず往生する」と衆生に呼びかける招喚の大悲が南無阿弥陀仏であり、その招喚は十八願の大悲を因としているので、この仏名と仏願に表された仏様の願心を「本願招喚の勅命」と言われたと推察される。このように祖師は因願と果上の大悲を一体のモノとして理解されている。

 

B君 因願も御名も一体となって衆生に「仏名を信じて仏名を念仏せよ。」と願じているということだね。

 

A君 因願だけが大悲の招喚なのではなく、御名だけが招喚の大悲なのでもなく、因願と御名とが一体となったのが仏の招喚なのだ。このことは基本的な理解だと思うのだが、忘れがちになるようだ。

 

A君 たとえば、元祖は一願建立、祖師は五願建立の立場であると対立的に理解した上に、祖師は何を五願に開示したのかについて十八願を五願に開示したという見解と南無阿弥陀仏(の成就)を五願に開示したという見解とを対立的にとらえる向きがあるようだ。しかし、因願も御名も一体であるという観点からは、そのような見解の違いにどれほどの意味と差異が生じるのか疑問だ。十八願を五願に開示しても、果上の御名を五願に開示しても、結局、同じ大悲を五願に開示したものではないか、と思ってしまう。因時(因位)の大悲を5つの因願から眺めるか、果上の大悲たる御名を5つの因願から眺めるかという違いがあるだけで、因時の大悲であっても果上の大悲であってもそこには何らの違いはない。因時の大悲は既に成就され果上の大悲となっているのだから、違いが生じる事はないはずだ。果上の仏名を因願から眺める事によってその仏名の意味を明らかにする事が必要であり、その点で南無阿弥陀仏を五願に開示したと理解する事はその目的に合致する。そうはいっても、五願に開示される十八願が南無阿弥陀仏として成就されていると理解する限り、両者に違いが生じる事はない。結局、同じ結論に至るはずだ。

 

B君 では仏名を信じるとはどういうことか。

 

A君 「浄土往生の因果は既に成就している」と告げるのが仏名であるから、仏名を信じるとは、「私の浄土往生は仏様によって確定されてしまっている」と信じることになる。その「信じる」とはどういう有り様を言うのかと言えば、祖師は信巻により詳しく表されている。

 

A君 信巻には「如来すでに至心信楽欲生の誓いを起こしたまへり。なにをもってのゆえに論主一心というや」という問いを発し、至心信楽欲生の字義を解釈したのち、至心信楽欲生は仏様の心であると結論し、仏様の至心・信楽・欲生によるから衆生の上では無疑の一心になるという三信釈を展開されている。仏名を信じるとは如来の至心・信楽・欲生の心を聞いてその仏心を無疑で受けとめるということだと明らかにしている。

 

B君 善導の釈では「南無とは帰命また発願廻向の義なり」とされているだけで、帰命それ自体についての釈はないが、祖師はどうして帰命の字義を解析し、釈されたされたのだろうか。

 

A君 善導の発願廻向は衆生が仏に向かってなす発願廻向のことであるが、それだけでは十分に信が開け起こる理由を表し切れていないと思われたのだろう。善導は六字釈のあとに「この義をもっての故に必ず往生を得」と言われているが、祖師はこの必得に信を読み取られて「必得往生といふは不退の位に至ることを得ることをあらはす。経には即得といへり。釈には必定といへり。即の言は願力を聞くによりて報土の真因を決定する時刻の極促を光閳するなり。必の言は審なり、金剛心成就の貌ばせなり。」と釈されているが、この報土の真因たる信が生じる根拠として帰命や発願回向の意味を仏の側から明らかにする必要があると感じられたのだと思う。

 

B君 善導の釈では、発願廻向とは衆生が発願して行を廻向するという事であったが、祖師は衆生からの発願廻向ではなく、発願廻向の主体を衆生から仏に逆転されたんだね。

 

A君 帰命を仏の立場から釈されたのと同じように祖師は発願廻向も仏の立場から釈された。「如来すでに発願して衆生の行を廻施したまふ心なり。即是其行というはすなわち選択本願(の行)これなり」とは如来の廻向心のことで仏名を衆生の行として廻施する心のことだ。「即是其行」とは選択本願の行としての念仏ということだが、ここから仏名を衆生に廻施するとは仏名を衆生に称念されんと願っているという事だと分かる。

 

B君 簡単に言えば、「発願回向」とは衆生に仏名を称えてもらいたいという如来の願心のことで、「即是其行」とはその願心に呼応して称える乃至十念の念仏のことだね。

 

A君 この仏の廻向心については、三信釈の欲生釈において祖師は「欲生というはすなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまう勅命なり。」と言われた後、「利他真実の欲生心をもって諸有海に廻施したまへり。欲生すなわちこれ廻向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに疑蓋まじわることなし。」と釈されている。如来の欲生心は本願招喚の勅命であり、仏号を廻施する発願廻向の大悲心のことだと分かる。

 

B君 ところで、祖師は欲生を本願招喚の勅命と言われたが、三信釈において至心信楽については本願招喚の勅命とは明記されていない。仏の至心信楽は本願招喚の勅命とはならないのか?

 

A君 至心信楽も当然の事ながら本願招喚の勅命たる大悲だ。

 

B君 どうしてそう言えるのか?

 

A君 三信釈と出体釈を読めば分かる。信巻の至心釈で次のように述べられている。「ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して不可思議兆載永劫において菩薩の行を行じたまひしとき三業の所修一念一刹那も清浄ならざることなし真心ならざることなし。如来清浄の真心をもって圓融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもって諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に廻施したまへり。すなわちこれ利他の真心をあらわす。かるがゆえに疑蓋まじわることなし」と。その出体釈に 「この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」 と。信楽釈には「すなわちこれ如来の満足大悲圓融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし。かるがゆえに信楽となづく。すなわち利他廻向の至心をもって信楽の体とするなり。・・・(途中省略)・・・如来苦悩の群生海を悲憐して無碍広大の浄信をもって諸有海に廻施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。」と。欲生釈に「すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまう勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。・・・(途中省略)・・・利他真実の欲生心をもって諸有海に廻施し給へり。欲生これ廻向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。」 と言われている。圓融無碍不可思議不可称不可説の至徳とは浄土往生を果たさせる作用のある仏名のことだ。

 

A君 仏の至心信楽欲生心いずれも仏名を体としている。欲生が信楽を体とし、信楽は至心を体とし、至心は至徳を体とし、その至徳が本願招喚の勅命であり、欲生が本願招喚の勅命であるならば、その中間に位置づけられている至心信楽も本願招喚の勅命となるはずだ。体である至徳を本願招喚の勅命とし、至徳を体とする欲生が本願招喚の勅命である以上は、至徳を体する至心も信楽も本願招喚の勅命であると理解するのは当然のことだ。

 

B君 本願招喚の勅命釈と発願廻向釈とは同じことを言われているのか?

 

A君 同じ内容だが、違いはある。その違いはあとで述べる。同じ内容だというのは、祖師は欲生を本願招喚の勅命であるとし、それは御名を廻施する願心であると理解されているが、至心釈においても「如来清浄の真心をもって圓融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもって諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に廻施したまへり。」と言われ、至心をもって群生海に廻施されているのは至徳の仏名だ。信楽釈でも「如来苦悩の群生海を悲愍して無碍広大の浄信をもって諸有海に廻施したまへり。」と同様の事を言われている。結局、仏の至心信楽欲生はいずれも仏名を廻施する心だと言われている。この点では欲生心も仏の至心信楽も発願廻向心もまったく同じだ。

 

B君 本願招喚の勅命と発願廻向とが御名を廻施するという点では同じ内容のものならば、どうして帰命は本願招喚の勅命だとする釈をわざわざ展開されたのか。

 

A君 考えられるのは発願廻向と本願の招喚とは重点の置き所というか、意識を向ける先が異なっているという違いかな。

 

B君 どういうこと?

 

A君 発願廻向釈では「如来発願して衆生の行を廻施したまふ。即是其行といふはすなわち選択本願これなり」と言われている。この下線部は三信釈にはない。この下線部分では選択本願念仏が強く意識されており、選択本願念仏は仏からの施名により衆生の往生行となることを意識的に明示したものだ。これに対して、「本願招喚の勅命」にはそうした意識はなく、仏の至心・信楽・欲生心の故に疑蓋間雑あることなしとの信が開け起こる契機となり、また因となっていることに強く意識が向けられているように思える。

 

B君 どうしてそう思うのか?

 

A君 「本願招喚の勅命」は信巻に引用している善導の「二河白道の譬」の中に「西の岸に人ありて喚ぼうて曰く一心正念にして直ちに来たれ。われ能く汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを怖れざれ」と仏が招喚している場面を想起させる。この招喚は何の為に説かれているのかと言えば、善導は「行者のためにひとつの譬喩をときて信心を守護してもって外邪異見の難をふせがん」と言われているように、信を守護する為だ。招喚の勅命は信を守護するとされている。ここでの信とは言うまでもなく行者の信のことだが、この行者というのは阿弥陀仏の仏名を行じている念仏行者のことだ。招喚はこの念仏行者の信を護っているというのだが、善導はその信を能生清浄願往生心とし、白道であるとしている。これを祖師は「願力の白道」であると言われている。祖師の三信釈では念仏の行者に白道たる信を起こさせ、信を相続させて信を守護しているのは他ならぬ仏様の至心であり、信楽であり、欲生だ。つまり、仏の招喚は仏の至心信楽欲生を想起させ、仏の至心信楽欲生心を言い換えたものだと考えられる。「善導の二河譬」が信巻に引用されているのは仏の招喚が真実信心を呼び起こすものと祖師は考えられたのだろう。そうすると、行巻に登場する「本願招喚の勅命」は信巻における三信釈との間に論理的関係があり、具体的には三信釈として展開されていると考えられるのだ。

 

B君 善導の六字釈において登場しない帰命の字義を仏の側から解説して帰命が信を開き起こす契機となり因となることから本願招喚の勅命と言われたと理解するということだね。

 

A君 そうだね。行巻の南無阿弥陀仏の六字釈は、先のとおり本願招喚の勅命釈と発願廻向釈の二つから構成されるが、発願回向釈では「如来発願して衆生の行を廻施したまふ。即是其行といふはすなわち選択本願これなり」と言われるのに対し、本願招喚の勅命であるとされる仏の欲生心の釈では「衆生の行」という文言はなく、「これ(仏の欲生心・廻向心のこと)すなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。」と言われている。祖師の意識の向けどころに差異を読み取れる。欲生心のみならず、仏の至心信楽も本願招喚の勅命であり廻向心であり、三信釈には「衆生の行」という文言がないことから、祖師は発願廻向と本願招喚の勅命に意識的な違いを付けたのだと思える。

 

A君 くどいようだが再説すると、発願回向釈は至徳たる仏名を与えて仏名を称えさせるという所に重点を置いているが、本願招喚の勅命釈は行を強調するニュアンスは感じられず、むしろ、招喚の勅命と表現された所に如来の願心である至心・信楽・欲生の大悲を想起させ、この勅命による御名の廻施により無疑の信が開け起こるという所に強く意識が向けられている。同じ御名の廻施であっても廻施の結果として仏名が念仏行に展開してゆく所に意識が向けられるか、廻施によって開発される無疑信に意識が向けられるかの違いだ。

 

B君 つまり同じ大行たる仏名が大行念仏の行となって発現してゆく所に意識のスポットを当てるか、大行たる仏名が大信として心に展開してゆく所に意識のスポットを当てるかの違いだね。

 

A君 この違いは祖師の意識が向けられている対象が違うという事であって、仏の至心信楽欲生心と発願回向心に何らかの違いがあるという事ではない。至心信楽欲生釈には衆生の行に関する文言はないものの、本願の招喚を受け御名を回施されて信が開発されれば、大悲を感受し、大悲感受のまま御名を行じることになる。御名の廻施を受けるとは、仏の至心信楽欲生の大悲心から無疑の一心となることであり、それによって選択本願の念仏を行じることになるから、仏の発願廻向心との違いが生じることはない。

 

A君 以上から私は次のように考えている。①発願回向釈は、善導の「発願回向之義、言阿弥陀仏者即是其行」をヒントにして、発願回向の主体を衆生から仏に転換し、仏の立場からの解釈を考え、必得往生の念仏の由来を仏名に求める論理構成に再構築したという事。②本願招喚の勅命釈は善導の二河喩をヒントにして信を生じさせ相続させる論理として構築され、如来の三信釈へと発展しているという事。つまりこの2つの御自釈は本典の構成を支える2つの大きな柱となっているということだ。発願廻向釈は大行たる念仏を表す行巻として、本願招喚の勅命釈は大行たる大信を表す信巻として具体的に展開されているということになる。

 

A君 さきにも述べたが、発願回向釈において祖師は大行と大行中の大信を読み取られていた。本願招喚の勅命釈はその大行中の大信を発起する仏の因縁(仏の至心信楽欲生の大悲心)を別開して明らかにしたものであり、別開された信巻の大信を引き出す論理として行巻で仏名を解釈されたと考えている。

 

B君 なるほど。2つの釈は各々行巻と信巻に対応しているということか。

 

A君 六字に込められた仏名廻施の願心を行巻と信巻に分けて表しているというのが私の本典理解だ。行巻は乃至十念を誓われた如来の至徳廻向心の願心を、信巻は至心・信楽・欲生を誓われた如来の至徳廻向心の願心をそれぞれ表していると考えている。尊号真像銘文は、この2つの誓いについて次のように述べている。

*-尊号真像銘文の該当箇所を以下に引用-

信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごころなく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり。この至心信楽はすなわち十方衆生をしてわが真実なる誓願信楽すべしと勧め給へる「御誓い」の至心信楽なり。凡夫自力の心にはあらず。欲生我国といふは他力の至心信楽の心をもって安楽浄土に生まれんと思えとなり。乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに、遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。如来より「御誓い」を賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。

 

B君 尊号真像銘文には、如来の乃至十念の誓いと如来の至心信楽の誓いについて述べられているが、それは本典の行巻と信巻の構成とに対応しているということだね。

 

A君 如来の誓いを賜りぬるとは至徳たる仏名を賜るということだが、それにはただ如来の至心信楽を深くたのむべしと言われている。これは祖師の三信釈に表された仏の至心・信楽・欲生心の大悲を聞いて心から受け入れることだ。これにより摂取する阿弥陀仏に帰命する心相となるので、心相が南無阿弥陀仏となる。これを無疑という。大信は南無阿弥陀仏そのものだ。だから祖師はこの信を大信と言われ、「願力を聞くによりて報土の真因を決定する」とか「金剛心成就の貌ばせ」と言われている。

 

A君 であるから、大悲を聞くという所が最も大事なポイントであり、これ以上に大事なポイントはない。そのことを祖師は、即の言は願力を聞くによりて報土の真因を決定する時刻の極促を光閳するなりと言われたのだ。願力を聞くままが無疑信であるから聞即信という。ここに伝統を踏まえた祖師の発揮がある。

 

A君 ところで、元祖法然聖人の念仏往生でいう所の念仏とは自力念仏の事ではなく、表面上は観経の三心(選択本願念仏集「(八)念仏行者は必ず三心を具すべき文」)を具した観経下々品の悪人の念仏であるが、実には十八願の三信を具備した乃至十念のことだ。だから祖師は念仏往生の意義を明らかにするために本典において念仏を大行とし、三心は本願の三信であってその信を大信として表現を一新し、十七願成就の仏名たる大信に焦点を当て、大経の弘願から大信が開け起こる事を明確にするため仏の三心釈と無疑信に成一される釈を展開した。

 

A君 念仏往生の教えが指し示しているモノと大行大信の教えが指し示しているモノとは同一のモノであり、元祖はそれを念仏往生と表現し、祖師は大行大信と表現した。念仏往生も大行大信も、同じ弘願の大悲心が各師の上に現れた信体験を論理の言葉として構成したものであり、同じモノを指し示している。そのモノとは十八願では至心信楽欲生我国の信と乃至十念の行にあらわれている大悲心であり、果上では仏名そのものだ。つまり本典は念仏往生の思想として伝えている本願名号による行と信の伝統(善導の伝統でもある)を新しく仏心からの仏名廻向という構成からとらえ直したものだ。そこでは善導や元祖の称名念仏を継承し、その行を大行として構成している。乃至十念の念仏が大行であることを示すために行巻に「大行とは無碍光如来の御名を称する」ことだとする御自釈を述べて、多くの文を引用している。ここに伝統を踏まえた祖師の発揮がある。

 

A君 元祖にも祖師にも独自の発揮というものがあるが、それは伝統と己証というものであって、伝統を正しく継承しつつ発揮されるものであり、その発揮だけを切り出して祖師の教えだとする事はできない。だから乃至十念の念仏を称えよとの教えは「法然聖人の伝統であって祖師はその伝統に則って教えているに過ぎず、祖師の信心正因の教えと法然聖人の念仏往生の教えを截然と区別すべきだ」という考え方には、賛同し難い。

 

A君 仏が念仏を勧めるとは、乃至十念の選択本願念仏を選び取られたという事であり、選択本願念仏を選び取られたという事は、仏名を選び取られ、仏名を回施されたという事だ。仏名を回施されたという事は衆生無作の大悲を選び取られたという事だ。念仏を勧めるとは信楽を誓った大悲を勧めることだ。尊号真像銘文に祖師は「ただ如来の至心信楽を深くたのむべし」と言われている。念仏を勧めるとは、如来の至心信楽を深くたのめと勧めることに帰着してしまう。そのことは信巻の三信釈により詳しく表されている。祖師の教えは如来の大悲を聞くことにつきる。信でも行でもなく大悲を勧めるのだ。大悲を自力をまじえずにそのまま聞くことを勧めるのだ。衆生無作とする大悲を聞くのだ。その大悲を勧める事が行を勧め、信を勧めることになる。これが祖師の到達した結論であり浄土仏教の真骨頂だ。念仏行を勧め、他力信を勧めても仏の大悲が抜けていたら、行や信を勧めた事にはならない。

 

A君 なぜ祖師が上記のように願力を聞くことを勧めるのかと言えば、念仏行にも自力の仮行となる念仏行があるためだ。この仮行と大行念仏との区別は、衆生無作とする大悲を聞いているか否かに係っている。衆生無作の大悲は乃至十念にも表れている。そのことは、祖師が「乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給うに、・・(中略)・・乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。・・ただ如来の至心信楽を深くたのむべし」と言われている所からも分かる。「乃至」は衆生無作の願心なのだ。結局、念仏を勧めると言ってもこの衆生無作の大悲が伝わらなければ所詮がないのだ。

 

A君 また念仏を殊更に強調したり、信だけを殊更に強調することを常とする立場は、いずれも本典解釈としては「どうなのかなぁ」という思いを強く持つ。祖師の究極の立場は三信釈にあるように仏の至心信楽欲生の大悲が無疑信となる事を教え勧めることにあり、祖師はその結果としての信が涅槃の真因であると言われているが、真宗はここにつきる。祖師の終局の教えはこの大悲の聞信領解にある。この終局においては衆生の行じる自力の行はすべて自力の思いとともに廃捨されてしまうのだ。その廃捨とともに念仏が大行となる。それ以降は、仏名を称念することで念々信が守護され相続してゆく姿が念仏者の心のあり様となる。その心の有り様が願力の白道だ。大悲を感受し大悲に共鳴して常に仏名を称念しつつ現在を生きてゆける力となるのが願力の白道だ。称名念仏は大行たる仏名を自らのものとして我が身と我が心のうちに取り込み、我が往生行として表現し、その表現された仏名が本願の招喚であるから行とともに信が発起し相続してゆき、またその信によってこそ、念仏が仏の大行であり浄土への招喚であると領解できる。信と念仏との関係はこのようなものだ。信と念仏とは不即不離と言われるゆえんがここにある。この信行不離が仏の大悲を受けた者の据わりとなるのだ。

 

A君 祖師は、念仏の行者には念仏とともに、あるいはそれ以上に乃至に表れた衆生無作の大悲の聞信を仏が強く勧めていると理解されている。そのことを示しているのが先に紹介した尊号真像銘文の「如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり」であり、信巻の三信釈であり、「願力を聞くによりて報土の真因を決定する」という釈ではないかと思う。

 

B君 念仏以上に大悲とその聞信を仏が強く勧めているとはどういう意味か?

 

A君 門外の人達に対しても諸行ではなく、念仏が大行である事やその大行には大信が伴っていると伝えるのが大事であるが、念仏を称えている浄土門内の人は、既に念仏を称えているので、それを勧める事にあまり積極的な意味は見いだせない。むしろ、その念仏が自力の思いで称えている念仏であるか否かを問い、自力の思いに囚われている念仏であるときは、仮行となってしまう念仏と大行念仏との違いを明確にするために、大悲と大悲の聞信を勧めなければならない。自力の思いに強く囚われている者ほど自力の思いにどうにもならなくなって呻吟している。仏の大悲は苦ある者に偏に重いことを伝え、衆生無作の大悲であると伝える事が念仏の行よりも大事になってくる。衆生無作の大悲を受け取って大信に目覚めた人は、放っておいても念仏を称える事になるし、大悲の話をもっと聞きたいと聞法するようになる。その境目が大悲の聞信であるから、当然、仏の大悲心たる三心が無疑の一心になるところに大きな比重が置かれる事になる。その役割を担っているのが信巻であり、信巻の三信釈や「願力を聞くによりて報土の真因を決定する」との御文などだ。

3-30.会話編 無条件の救いと信行

B君 あるブログのコメント欄で、如来の救いには条件があるか無条件かという意見交換がされていた。これはどのように理解したらいいんだろうか。

 

A君 「無条件の救いではない」という人は信とそれに続く行が往生の条件だというのだろう。

 

B君 信行が往生の条件だというのはその通りじゃないのか?

 

A君 正確には「信行が往生の因」になるということだ。祖師の本典には御自釈の一例として「この信行によりて必ず大涅槃を超証すべきが故に真の仏弟子という。」と言われている。その信行のうち「信が往生の真因」とされている。「涅槃の真因はただ信心をもってす。」「一心は即ち清浄報土の真因なり。」などの御自釈がある。

 

B君 「因」と「条件」とは意味合いが違うのか。

A君 たぶん、違うだろうね。

 

A君 「信が往生の真因」であるというときは、因とは結果を直接生じさせる力そのものということで、往生の果に対する原因力のこと。因に対し、「条件」とは原因力を発動させたり維持するために必要な、因とは別の要素という意味合いになる。往生の因たる信は信とは別の要素を一切必要とせずに往生の果を直に実現させる。往生と信が直接する。それが「信が往生の真因」の意味だ。

 

B君 じゃ、信が往生の条件だというのは間違っているのか?

A君 正確に言うならば「信は往生の因」であって「条件」ではない。

 

A君 「信が往生の条件」だというとき、その人は、「信がなければ往生の真因を欠いているので往生はできない」という趣旨で信が往生の条件だと言っているのだと思う。そういう趣旨で言っているのであれば、あながち間違いではないと思う。

 

B君 じゃ、無条件の救いというのはどういうことか?

 

A君 無碍光如来の大悲の救いには条件が付けられていないということだよ。

 

B君 つまり?

 

A君 無碍光如来とは、光とは空間的にも時間的にも限りが無い無量の智慧と慈悲のこと。無碍光とは光明の障りになるものが何も無いということ。無量の智慧と慈悲の光明は何ものによっても妨げられることがないということ。障りになるものが無いため、この光明による救いには条件が一切付いていないということになる。

 

B君 その光明との関係で言えば、信行はどのようなものになるのか?

 

A君 信行とは、その無碍の光明が私に届き、現に私の心の中で働いている証のことだ。救いに条件を付けない大悲が私の信として、私の行として働いている姿を信行というのだ。

 

A君 すなわち、条件を指定しない大悲であると理解し、その大悲を無疑の心で受けとめるとその大悲と無疑が信となる。この信によって私の称える念仏は自力念仏と区別され、祖師の言う大行となる。

 

A君 大事な所なのでもう一度言うが、「如来の救いに条件がない」というときは、その救いが働くために必要な条件やその他の因は必要ないということ。ある行やある心の状態などに関する条件やその他の因が調わないと如来の救いが働かない、ということはない。常にどんな条件の下にあっても如来の救いは働いているということだ。

 

A君 祖師は、そのことを「しかればもしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなり。しるべし。」と言われている。

 

A君 「阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところ」というのは、十二願・十三願と十七願・十八願の成就によって具現化された南無阿弥陀仏のことで、この南無阿弥陀仏法蔵菩薩の清浄願心によって成就され回向されているということ。念仏行者の信となり行となるのは、この南無阿弥陀仏それ自体であり、この南無阿弥陀仏が私の往生の信因や行因として働いていることが、「信行が往生の因」になるということだ。

 

B君 でも、私の上に常に働いている如来の救いによって私の往生が定まっているかどうかという問題になると、その救いが信となっていなければ往生は定まっていないということだよね。

 

A君 私の往生が定まっているかどうかは信による。

 

B君 じゃ、信が往生の条件だというはあながち間違いではないのではないか?

 

A さっきも言ったが、「信が往生の条件」だという場合の「条件」とは、往生のの信因がわが身に具足されているか否か、ということだ。信は無条件の救いの働きが私の上に現れている証のことだ。その証が私の上に現れていなければ、私の往生の因が私には存在していないので私の往生は決定とはなっていない。南無阿弥陀仏の信因を欠いてるから往生できない。南無阿弥陀仏が信因となったので往生できる、というべきだ。

 

B君 では無碍光が自らの上に働いているときの実感はどのようなものなのか?

 

A君 信とは無条件の大悲を無疑の心で受けとめること。何の条件を付けない無碍の大悲であると無疑の心で受けとめるとき、その受けとめた状態を信という。だから、信が生じた者は無条件の大悲であると理解し受けとめているので無条件の大悲であると常々実感する。また信は無条件の大悲によって自ずと開発されるから、信に恵まれた者にとっては条件のない救いであると実感できるのだ。

 

B君 救いに条件があると言われると、その実感に合っていないと感じることになるんだね。

 

A君 そうだね。如来の救いには条件はない、その救いをそのまま受けると自然と信が生じる。救いの証として働いている信と大悲を実感できるから、往生できるとの思いになる。この思いを決定往生の思いというのだ。本願三信のうちの「欲生我国」の思いだ。

 

B君 信が生じていなければ、如来の働きは全うされないという意味では、如来の働きが阻害されていることになるよね。

 

A君 それで?

 

B君 阻害しているのは自力の計らいだよね。だから救いが働くということについても、自力の計らいが無くなるという条件を必要としているのではないか?

 

A君 阻害しているのは自力の計らいだが、その自力の計らいは無碍光の前では障害とはならない。そのことを善導は光明名号の因縁で教えている。光明名号の因縁があるから往生という果が生じる。光明名号の因縁があるから信という果が生じる。往生も信も同じ光明名号の因縁から直接生じるものだが、往生も信も、ともに光明名号の因縁以外の条件は必要としていない。それを善導は両重の因縁として教えている。光明名号が信の全因縁なのだ。

 

B君 でも、自力の計らいが無くならない限り信は生じないよね。だから、自力の計らいが無くなるという条件を必要としている、と言っていいのではないか?

 

A君 自力の思いにとらわれている限り、「現時点での無条件の救い」であるとは気づかない。しかし、条件が指定されていない無条件の大悲であると聞き受けた時点で、抱えきれないほどまでに膨らんだ自力の思いは速やかに消尽してしまう。その大悲を聞き受ける時点はいつの時点でも可能だ。現在ただ今か、明日の現時点となるか、将来のある時点の現時点となるかの差異があるだけだ。いずれであってもその往生確定の現時点に至ることは如来の願力として既に定まっている。これは如来の摂取決定心が衆生の心の中で既に働きだしている結果だ。自力の計らいが無くなるという条件を必要としているのではなく、願力たる南無阿弥陀仏が働いて信因となるかどうかで決まることだ。

 

A君 もし自力をもって自力の計らいから離れることが出来るのであれば、如来の救いは、衆生が自力の計らいを自らの力で無くすことを条件としていると言っていい。しかし、自力の計らいはその性質としてその計らいをもって自力の計らいから離れることはできず、如来の願力回向によるしか自力から離れることはできない。だから、如来衆生往生の因果を成就して既に名号回向している。そこでは衆生に何の条件を要求していない。自力の計らいは光明名号の力用によって自然に廃れる。これを捨自帰他というのだが、光明名号を全因縁として捨自帰他されるので、大悲を聞いている者にとって如来の救いは無条件なのだ。

 

B君 無条件の救いと言うと、無帰命安心を認めることになりかねないと非難されるのではないか?

 

A君 そのように非難する向きがあるかも知れない。しかし、そのようなことにはならない。無条件の救いを受けた姿(あかし)が信行であり、その信が往生の真因だという押さえが無信の者に対してちゃんと用意されているからだ。

 

B君 「如来衆生に何の条件を要求することもない。衆生往生の因果を既に成就して回向している。」ということは経典のどこに出ているのか。

 

A君 大経の十二願(無量光)・十三願(無量寿)と十七願(名号回向)・十八願(衆生往生の因)とそれらの願成就文や胎化得失段などだよ。

 

3-29.名号の解釈論(十八願と名号)-所信は本願か名号か(続き)

B君 元祖と祖師の能信は同じだが、所信は本願か名号かという違いがあると主張するある布教師の問題提起はどのように整理し、理解したらいいんだろうか。

 

A君 形式的な解釈論としては、十七願と十八願を切り離して十八願の願文だけで十八願を解釈するか、十七願と関連づけて十八願を解釈するか、という問題として思考整理することができる。前者を「単独解釈論」、後者を「関連解釈論」と仮称する事にするよ。

 

A君 単独解釈論では、十八願を「念仏申す者を浄土に生まれさせん」との大悲を顕わす願と理解し、至心信楽の信の内容はその大悲と結びつけて理解する。つまり、至心信楽を「念仏申す者を浄土に生まれさせん」との大悲を無疑で受ける信として理解する。これが本願を所信とする理解の根拠であろう。

 

B君 関連解釈論ではどう解釈するのか?

 

A君 そこでは、十七願に誓われている御名との関係において十八願を理解する。十七願十八願を一連の願として理解すると、十七願は「法蔵菩薩無量寿仏となった果上の御名を諸仏の讃嘆である大経所説を通じて衆生に聞かしめる事を誓った願、十八願は「その御名を聞いて至心に信楽無量寿仏国に願生しつつ念仏申す者を浄土往生させる」と誓った願と理解する。そのため至心信楽の信の内容を十八願文の「念仏申す者を浄土に生まれさせん」との願文に結びつけるのではなく、その前の「諸仏讃嘆の阿弥陀仏の御名」に関連させて理解する。つまり阿弥陀仏の御名に顕れた大悲を無疑で受ける信として理解する。

 

A君 大経下巻の十七願・十八願成就文では「十方恒沙諸仏如来皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆し給ふ。十方の衆生その名号を聞きて信心歓喜し乃至一念して至心に回向し彼国に生ぜんと願ずれば即得往生し不退転に住する」と一連に記述している。「その名号を聞きて」とは諸仏が威神功徳の不可思議なる仏名であると讃嘆する「その御名を聞きて」という事だ。ここから十七願で讃嘆される無量寿仏の御名と十八願の「至心信楽」の信が関連を持つ事になる。これが名号を所信とする理解の根拠であろう。

 

B君 ところで、単独解釈論では「乃至十念(の念仏申す)」という文をどのように理解するかが大きな問題となるのに対して、関連解釈論では聞信する「御名」はどのような意味を持っていると理解するのかが大きな問題となるよね。

 

A君 単独解釈論では、念仏申す事は願心に適った行ではあるものの自力を頼んで念仏を行じる行だと解釈することも文理解釈としては可能であるし、願心に適った行であるから、自力の行ではないと理解することも可能だ。

 

A君 乃至十念の解釈に関しては、祖師が尊号真像銘文(浄土真宗聖典第2版643頁)で取り上げている。

 

*-尊号真像銘文の該当箇所を以下に引用-

信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごごろなく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり。この至心信楽はすなわち十方衆生をしてわが真実なる誓願信楽すべしと勧め給へる「御誓い」の至心信楽なり。凡夫自力の心にはあらず。欲生我国といふは他力の至心信楽の心をもって安楽浄土に生まれんと思えとなり。乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。如来より「御誓い」を賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」

 

A君 祖師は結論として、「乃至十念」は「仏名を称える事は自力の行ではないのだから念仏の数を問わない。仏名はいつでもどこでも称えていればよいように仕上げている。」という仏の大悲が顕れていると理解されている。そして、「如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」と言われ、真実の摂取決定心である如来の至心信楽(大悲)を深くたのむべしと勧められている。「深くたのむべし」とは如来の至心信楽(大悲)を受容し自力の思いを永久に離れるという事だ。この乃至十念に顕れた如来の真実大悲をたのんだ信により念仏は乃至十念の念仏となり、信なくば乃至十念の念仏とはならないということだ。

 

B君 鍵括弧二箇所の「御誓い」というのは十七願ではなく、十八願の事だとしか理解しようがないよね。

 

A君 そう。祖師は十八願の「至心信楽」に顕わされた如来の大悲を「真実なる誓願」とか「如来の至心信楽」と言い換えている。この如来の大悲は乃至十念の文にも顕れているというのが祖師の理解だ。だから、祖師が「如来の誓いの御名をとなへんことを勧め給う」と言われたのは、至心信楽や乃至の御言に顕れた大悲を勧め、その大悲を深くたのむべしと勧められた事になる。「名を称へんと勧め」られる仏意についての祖師の結論が「如来の至心信楽を深くたのむべし」ということだ。つまり、大悲を勧める事が乃至十念の念仏を勧める事であり、逆に念仏を勧める事は大悲を勧めることでなくてはならないということだ。

 

A君 関連解釈論では、御名がどのような意味を持つのかを明らかにする必要に迫られる。祖師は「本願招喚の勅命」であるとその意味を明らかにされた。本願招喚の勅命と言われる本願とは十八願のことだ。十八願にある往生の因としての衆生の信因(至心信楽欲生)と行因(乃至十念)を成就し、かつその果上の報土成就を顕した相が南無阿弥陀仏だ。だからこの南無阿弥陀仏は、往生の因を持たない衆生に対して大悲をもって摂取せんと招喚している勅命であると理解されたのだ。

 

A君 「仏願の生起本末を聞く」というのも、この十八願にある往生の因としての衆生の信因(至心信楽欲生)と行因(乃至十念)を成就し、かつ果上の報土成就を顕した相が南無阿弥陀仏であると聞くと言う事だ。これを聞くから浄土往生に自力はまったく無用であったと心から理解されて、自力の思いが消尽することになる。

 

B君  つまり、南無阿弥陀仏は十八願を因として成就されているのだから、衆生の自力を無用とした救いだということだね。

 

A そうだ。祖師が、本願名号正定之業・至心信楽之願因と言われているのはそう言う事だ。本願名号とは、十八願の往生の因とその果たる報土往生を名号として成就してあるから本願によって建てられた名号という意味で本願名号と言われた。そのことを明確にするために十八願を至心信楽の願と言われ、その願が名号の因であると言われた上で、この本願名号が往生の決定行であると言われたのだ。ここから、元祖が十八願を四十八願中の王本願として理解し、その他の願は十八願の城郭内の願として理解していたことを祖師は正当に継承されている事が分かる。

 

B君 十八願の城郭内の願とはどいう意味か?

 

A君 十八願を「城郭」であるとすると、その他の願はその「城郭のうちにあって城郭を構成している願」ということだ。十八願の「往生の因」と「果たる報土」を実現するために誓った願がその他の願であり、衆生救済は十八願の一願に集約されてしまうという事だ。十八願を十七願と関連づけて解釈する立場であっても、その衆生救済は十八願を因として成就した名号をもってするということになるので、結果としては、十八願文だけで十八願を解釈することになってしまうのだ。

 

B君 では、元祖は十七願と王本願の十八願との関係をどのように理解していたのだろうか。

 

A君 その事については、梯和上の「法然教学の研究」242頁に元祖の三部経大意の文が紹介されている。そこでは元祖は第十二願、第十八願、第十七願、第十三願の順番でそれぞれの願意を説かれている。因みに三部経大意は「昭和新修法然上人全集」31頁。

 

*-三部経大意を以下に引用

弥陀善逝、平等の慈悲にもよをされて、十方世界にあまねく光明をてらして転た一切衆生にことごとく縁をむすばしめんがために光明無量の願をたてたまへり。第十二の願これなり。つぎに名号をもて因として衆生を引接せむがために念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。その名を往生の因としたまへることを一切衆生にあまねく聞かしめんがために諸仏称揚の願をたてたまへり。第十七の願これなり。このゆへに釈迦如来この土にしてときたまふがごとく十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなりしかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずということなし。・・・しかればすなわち、光明の縁と名号の因と和合せば摂取不捨の益をかぶらむことうたがうべからず。・・又この願ひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり。第十三の願これなり。

 

B君 元祖は御名を「往生の因」と明確に示されているんだね。この往生の因である御名を諸仏が称讃し、その御名が往生の因となる不可思議功徳を聞いて衆生が疑う事なく受け入れればそこに光明の縁と名号の因とが和合して摂取不捨の益を被ることになると言われているんだね。

 

B君 ところで、ここで「往生の因」とは衆生の「信因(至心信楽欲生)」と「行因(乃至十念)」の2つを意味しているのだろうか。

 

A君 その両者を意味していると言ってよい。善導の往生礼讃は元祖は熟読玩味されていたはずだ。

 

*-往生礼讃の該当箇所を以下に引用-

しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して光明名号をもって十方を摂化したまふ。「ただ信心をもって求念」すれば上一行を尽くし下十声・一声等に至るまで仏願力をもって易く往生を得。

 

A君 ここに「ただ信心をもって求念」とあるのは、十八願の至心信楽をもって往生を願求し称念するという事だ。「一声等」とある「等」とは一声にも至らない聞信の状態の事だ。この一声もない聞信の信がなければ十八願力によって易く往生を得ることはできないから、信は往生の因であると分かる。元祖の言う「往生の因」とは衆生の「信因(至心信楽欲生)」と「行因(乃至十念)」を指していると理解すべきだ。

 

A君 三部経大意の法義を考える上でポイントになるのは、「名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずということなし」と「光明の縁と名号の因と和合せば摂取不捨の益をかぶらむことうたがうべからず」という所だ。ここに「光明と名号が往生の因であるとの諸仏称讃を聞いて摂取不捨されるに疑いなし」という光号摂化と信に関する法義が表されている。上記の三部経大意を読む限り、元祖には「聞名・聞信の場において光号摂化が実現される」と考えていた事が明らかだ。

 

B君 だから祖師は行巻において「徳号の慈父ましまさずば能生の因が欠けなん。光明の慈母ましまさずば所生の縁そむきなん。能所の因縁和合すべしといえども信心の業識にあらずは光明土に至ることなし。真実信の業識、これすなち内因とす。光明名号の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。かるがゆえに宗師、光明名号をもて十方を摂化したまふ。ただし信心をして求念せしむとのたまへり。また念仏成仏これ真宗。」と言われたんだね。

 

A君 「念仏成仏これ真宗」とは、仏の本願力を真宗と言い、本願力による往生を念仏往生といわれたものだ。

 

A君 元祖の三部経大意について梯和上の解説をそのまま引用して紹介するよ。

 

*-「法然教学の研究」242頁以下を引用-

いわゆる光明名号の摂化とそれによって念仏の衆生たらしめられ、摂取不捨の利益を得しめられるという、いわゆる光号因縁の義意が釈顕されている。すなわち第十二願は往生の外縁となる光明の摂化をあらわし、第十七願は諸仏の讃嘆によって名号を衆生往生の因として与えてゆくことをあらわし、第十三願は光号摂化の永遠性をあらわされている。この光明の縁と名号の因とが衆生の上で因縁和合しているのが第十八願における「念仏衆生、摂取不捨」という念仏往生の成立である。・・ともあれ法然第十八願の念仏往生の根源を第十七願に見出し、諸仏所讃の名号が選択の行体であって、これを往生の因体として信奉し奉行しているのが第十八願の念仏往生であるとみられていたことがわかる。この十七、十八願の関係は、聖覚が法然に代わってあらわしたという「登山状」にもみられ、聖覚の「唯信抄」にも伝承されている。「唯信抄」に、まず、第十七願に諸仏にわが名字を称揚せられむといふ願をおこしまたへり。この願ふかくこれをこころふべし。名号をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへにかつがつ名号をほめられむとちかひたまへるなり。・・さてつぎに第十八願に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかむとのたまへりと言われている。法然にせよ聖覚にせよ、選択本願念仏の法門は、諸仏の讃嘆をとおして衆生のうえに実現するのであって、第十七願の教法と第十八願の機受が一体となって成就しているとみられていたことがわかる。親鸞はこのような考え方を伝承し、選択本願の念仏は、第十七願をとおして与えられたとして、第十七願をことに「往相回向之願」とよび、如来の本願力回向の相をこの願の上にみられていたのである。

 

A君 上の解説の中の「第十八願の機受」とは「至心信楽の信」と「乃至十念の行」の事だ。大悲を受けると受けた衆生に必ず「至心信楽の信」と「乃至十念の行」が現れるという事だ。機受とは御誓いを受けたことによって顕れる目印とか証しという程の意味だ。ここに本願力が現れるという事だ。上記の解説に登山状が登場しているので、登山状も紹介しておくよ。但し、三部経大意とは多少ニュアンスが違っている。

 

*-登山状 昭和新修法然上人全集428頁~からの引用-

衆生のために永劫の修行をおくり、僧祇の苦行をめぐらして萬行萬善の果徳円満し、自覚覚他の覚行窮満して、その成就せん所の満徳無漏の一切の功徳を以てわれ名号として衆生にとなへしめん。衆生もしこれにおいて信をいたして称念せば、わが願にこたへてむまるる事をうべし。名号をとなへばむまるべき別願をおこしてその願成就せば仏になるべきがゆえ也。この願もし満足せずは永劫をふともわれ正覚をとらじ。ただ未来悪世の衆生、憍慢懈怠にしてこれにおいて信を起こす事難かるべし。一仏二仏の説きたまはんにおそらくは疑う心をなさんことを。願わくば我十方諸仏にことごとくこの願を称揚せられたてまつらんとちかひて第十七の願に設我得仏十方衆生・不悉皆咨嗟我名者不取正覚とたて給ひて、つぎに第十八の願の乃至十念若不生者不取正覚とたて給へり。そのむね無量の諸仏に称揚せられたてまつらんとたて給へり。願成就するゆえに六方におのおの恒河沙のほとけましまして広長の舌相を出してあまねく三千大千世界におほひて皆おなじくこの事をまことなりと証成し給へり。善導これを釈してのたまわく、もしこの証によりてむまれる事を得ずは、六方の諸仏ののたまへる舌口より出で終わりてのち、ついに口に返りいらずして、自然にやぶれみだれんとの給えり。これを信ぜざらん物はすなわち十方恒沙の諸仏の御舌を破る也。よくよく信ずべし。・・・・-以下省略-

 

B君 この登山状では「名号として衆生にとなへしめん。衆生もしこれにおいて信をいたして称念せば、わが願にこたへてむまるる事をうべし。名号をとなへばむまるべき別願を諸仏が称讃していることを信ずべし」と言われている。この点が三部経大意のニュアンスと多少異なっているね。

 

A君 上記の「これにおいて」とは「成就せん所の満徳無漏の一切の功徳を以てわれ名号としてとなえしめんことにおいて」ということであり、仏名は満徳無漏の一切の功徳そのものであるとする。そしてその功徳を名号としてとなえしめんことにおいて「信をいたして」とは、「名号をとなえしめられていることにおいて信が起こり」ということだ。称えている念仏が実は仏の本願力によって称えさせられていたという事に気づいて念仏は満徳無漏の一切の功徳の仏行であることに思いが至って信が生じたという事だ。上記の三部経大意ではこの点が打ち出されていない。

 

B君 この「名号をとなへばむまるべき別願」というのは十八願の事だよね。

 

A君 そうだね。ここで留意しておくべき事は、諸仏が真実であると称讃する御名をとなふれば生まると信じる法義が成立する理由が聞名・聞信にあることを元祖は特に強調されている。聞いて信じない者は十方恒沙の諸仏の御舌を破る也。よくよく信ずべし。とまで言われている。まして阿弥陀仏の御舌をや、である。

 

A君 さて、三部経大意でも登山状でも、元祖は十七願と十八願の関係について十分に注意を払われている。どちらにおいても、十八願の念仏往生を可能とするのは十七願の諸仏の称揚する御名の成就と聞名・聞信であると押さえられている。そのうえで、登山状では「(信具足の)衆生称念必得往生」という善導の伝統の上に立って第十八願を念仏往生の誓いとして理解されている事が分かる。三部経大意の義意をも加味して解釈すると「諸仏が讃嘆する御名が往生の因であると信じて仏名を称念せば光明名号の因縁和合してわが十八願にこたえて称念必得往生」というのが元祖の基本的な立場だったと理解して良い。御名に顕れた大悲を聞いて無疑で大悲を受けとめたとき十八願の至心信楽欲生となり、乃至十念の称念となり、浄土に生まれるという事だ。

 

B君 つまり元祖は十八願を王本願として位置づけているが、十七願の諸仏が称揚する、十八願成就の相である御名たる大悲を聞き信じた上で乃至十念する衆生の必得往生を念仏往生とし、十八願を念仏往生の願と言われているのだね。

 

A君 そうだ。元祖の言う信とは三部経大意でも登山状でも諸仏の称揚する御名を聞き信じた信であるが、三部経大意では御名が往生の真実の真因であると聞き信じた信、登山状では「(信具足の)衆生称名称念必得往生」という大悲を顕わす御名を聞き信じた信であると理解する事ができる。いずれも諸仏が讃嘆する御名を聞き信じる信である事は同じだ。

 

B君 でも、御名の意味のとらえ方に差異があるかのように思えるよ。

 

A君 そう思えるかも知れない。しかし、実のところは差異は生じない。「往生の因である御名を聞く信」と「衆生称念必得往生を聞く信」とはともに同じ十八願の大悲を受容した同じ信なんだ。御名の成就は「衆生称念すれば必得往生」となる御名の成就でもあるから、御名を聞信する信は「衆生称念必得往生」と聞き信じる信になっているのだ。

 

B君 もう少し詳しく説明してよ。

 

A君 十八願の構成は、「①至心信楽と②乃至十念」の往生の因とその因に対する果としての「③報土往生」という三つから構成されている。それらの要素がすべて成就されている相が南無阿弥陀仏だ。そのため南無阿弥陀仏の大悲を解釈すると次のようになる。解釈A「至心信楽して乃至十念せば必得往生に間違いのない大悲」が成就された。解釈B「(至心信楽を省略し)乃至十念の者必得往生させんとの大悲」が成就された。解釈C「(至心信楽と乃至十念を省略して無条件で)必得往生させるに間違いのない大悲」が成就された。ここでいう「無条件」とは衆生の自力を全く要しないという意味で言っている事に注意してね。以上の3つの解釈が可能となる。

 

A君 解釈Cにおいて「至心信楽と乃至十念」を省略できるのは、衆生にとって信も行も如来が用意したものであって、報土往生は自らの自力の行や思いをまったく必要としない事から南無阿弥陀仏を無条件の摂取不捨の大悲であると理解することができるからだ。この大悲を受ければ、十八願の「①至心信楽・欲生」と「②乃至十念」の往生の因が備わり、十八願に相応する事になる。

 

B君 そうすると、Cの解釈から「南無阿弥陀仏」を「摂取して必得往生させんとの大悲」であるとして、この大悲を聞信した信が願成就文の「聞其名号信心歓喜」であると理解する事が可能であるということになるよね。

 

B君 解釈Bにおいて至心信楽を省略して「乃至十念の者報土往生することに間違いのない大悲」と解することが可能なのはどうしてか?

 

A君 先に述べたとおり、乃至十念には至心信楽の信が具足しているからだ。

 

B君 じゃ、解釈Bの「南無阿弥陀仏」は「乃至十念の者必得往生させん」との大悲を顕しており、この大悲を聞信した信が願成就文の「聞其名号信心歓喜」であると理解する事も可能であるということなんだね。

 

A君 そういうことだね。この解釈Bの大悲を受ければ、十八願の「①至心信楽・欲生」と「②乃至十念」の往生の因が備わり、十八願に相応する事になる。これが登山状における元祖の立場であると言える。また、解釈Cで述べた大悲を聞き受けても同じように十八願に相応する事になる。

 

B君 では三部経大意における元祖の立場はどれになるのか?

 

A君 三部経大意では、往生の因である御名を諸仏が称讃して衆生に聞かしめて、衆生が御名を往生の因であると信じるという事だ。その往生の因とは衆生の信行となる大悲の事だから、いずれの解釈に通じると言えるのではないかと思う。

 

C子さん ところで解釈Cの「至心信楽と乃至十念」の往生の因と果としての「報土往生」を成就した南無阿弥陀仏が「信じて乃至十念する者を必得往生させん」という大悲を顕しているとすれば、御名を信じるとは「信じて乃至十念する者を摂取せん」という大悲を信じる事になって、信が二度出てくるのでおかしく感じられないかしら?

 

A君 形式論理的に考えるとおかしな感じを受ける。だが「至心信楽・乃至十念」の往生の因と「果たる報土往生」を成就した南無阿弥陀仏はその全体で無条件で衆生を摂取せんという大悲の救済法なんだ。その救済法としての大悲にある「至心信楽」とは尊号真像銘文の言い方では「如来の至心を信楽すべし」と招喚している大悲になる。また欲生とはその大悲を信楽させて「我国に生まれさせん」という招喚する大悲になる。だから奇異に思うことではない。

 

C子さん 大悲には大悲を聞き受ければ信となる働きが備わっているから、いずれであっても「摂取して浄土に必得往生させん」との大悲をただ受けとめればいいだけになっているのね。南無阿弥陀仏の大悲を聞くだけでその大悲と無疑信が我が心に開かれるのね。

 

A君  往生の因果を誓った十八願は名号が成就される因であり、名号は十八願の果上の相であることは理解できたよね。そうすると、最初の導入部として「解釈論としては、十七願と十八願を切り離して十八願の願文だけで十八願を解釈するか、十七願と関連づけて十八願を解釈するか、という思考整理ができる」と述べたが、結局、この両解釈は同じ結論になるということが分かっただろうか。名号が十八願を成就した相である以上、信を十七願と関連づけて解釈しても、結局、十八願だけで信を解釈した結果と同じことになるんだ。また単独解釈説をとったとしても十七願の名号回向によらなければ十八願に相応する往生の信行は実現する事はないから、十七願の名号成就と衆生への回向を必然的に考慮しなければならなくなるのだ。

 

A君 つまり本願と言っても名号と言ってもいずれも同じ大悲なんだ。だから無疑の信の所信は大悲だというべきであって、その大悲を本願というか、名号というかの違いだけなんだ。だから、所信を本願としても名号としても元祖と祖師の能信が同じになるんだ。元祖と祖師の所信が違うならば能信が同じになるわけがない。本願であれ名号であれ、ともに同じ大悲を仰いでいるから能信が同じになるんだよ。 

 

A君 果上の大悲が南無阿弥陀仏であり、この南無阿弥陀仏の大悲を受け取ると南無阿弥陀仏衆生の信となり行となるので、祖師は行巻において「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり」と述べられ、「乃至十念の称名が最勝真妙の正業であり、それは萬行萬善の果徳円満した南無阿弥陀仏そのものであり、その南無阿弥陀仏が念仏における正念(信心)である」と言われた。信と乃至十念はいずれも機受であるが、そのいずれの機受は南無阿弥陀仏であると示されたわけだ。ここにおいて、祖師は元祖の勧められた称名念仏とか念仏往生というのは南無阿弥陀仏そのものによる往生である事を明確にされたと言える。

 

A君 選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の行 念仏を以て先と為す」とあるのも同じ意味だよ。御名が往生の因たる往生行であり、(その往生の因を聞信したことによって往生の行となった)念仏を(諸行に対して)先にするという意味だと理解できる。

 

B君 そうすると、元祖と祖師の思想は、南無阿弥陀仏が往生の信因・行因であると理解し信じている点においては同じだということだね。元祖が念仏往生と言われていた法義を別の言葉で言い換えると、「南無阿弥陀仏が往生の信因・行因である」という事であったり(三部経大意)、「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり(行巻)」という事なんだね。あるいは「本願力往生」という事になるんだね。

 

A君 そうだと思う。ここで五願開示についても触れておく事にするよ。

 

A君 冒頭の布教師は「五願開示は十八願を五願に開いたものではなく、願成就文を五願に開いたものだ」という問題提起もしている。初めて聞く見解であり、どのような学説なのか興味を覚えるので研究論文が公表されるのを待ちたい。ただ、祖師の五願開示は元祖の十八願を王本願とする立場を継承したものであるというのが私の見解であり、仏名の成り立ちを五願に開示したというのが私の立場だ。仏名は十八願成就の相だから、仏名の成り立ちを五願に開示したとは十八願を五願に開示した事になる。具体的には名号は①法蔵菩薩の「正覚成就」と②衆生が往生してゆく「浄土の成就」、③十八願の「信成就」、④十八願の「行成就」、⑤衆生の「信行回向成就」、⑥その往生の因による浄土への「往生成就」を証するあかしだ。

 

B君 上記①と②は十八願の「我仏にならんに・・不取正覚」を成就したもので十二願と十三願がその役割を担い、⑥は十八願の「生まれずは不取正覚」を成就したもので十一願がその役割を担い、③は十八願の「至心信楽欲生」を成就したもので十八願がその役割を担い、④⑤は十八願の「乃至十念」を成就したもので十七願がその役割を担っており、名号が成就されていることを諸仏が証成しその名号を讃嘆回向し、衆生が行じるとする理解が五願開示の考え方だというんだね。

 

A君 上記の④⑤を表したのが称名の出願を十七願とし、「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏(行巻)」という祖師の教えだ。

 

A君 また上記の③を表したのが祖師の十八願を「信願」とか「本願信心の願(信巻)」と理解する考え方であり、「・・南無阿弥陀仏はこれ正念なり(行巻)」という言葉だ。

 

B君 願成就文を五願に開示したといっても、願成就文は十七願と十八願の成就文だから、結局、本願名号を五願に開示したとする立場と同じになる。

 

A君 そうだね。同じにならないとおかしいと思うよ。また、願成就文を五願に開示したという立場と十八願を開示した立場とでは、何が異なるというのか疑問が残る。

 

A君 ところで聴聞して大悲を悦んだり、聖教を読んで大悲を悦べるのは、大悲を胸に感じているからだ。大悲を胸に感じているから、聴聞や聖教からも大悲を感じ取る事ができるのだ。この現象は聴聞や聖教と胸の大悲とが共鳴している現象だと言って良い。胸に受けて感受している大悲があれば、自然と共鳴する。

 

A君 ここが理解できると、本願の生起本末の「末」が何を指しているのかもよく理解できる。「末」とは今私が大悲を聞いて悦んで念仏申している事だと分かるよ。この「末」を基点として、どうして、このような末が生じたかその因縁を尋ねると、法蔵菩薩が本願を建てた大悲があり、その大悲を南無阿弥陀仏という形で成就したからだと理解できる。そうすると、信の対象(所信)が本願であるとか、名号であるとか、という問題提起をすること自体がおかしな事だと分かるだろう。もっと言えば、胸に感受している大悲を表現するとき、その胸の内の大悲を、ある人は「本願」と表現したり、ある人は「光明名号」と表現しているだけであり、言わんとしているものはみな同じ大悲であると理解することが可能となるんだ。「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象」という観点から考える事が大事だというのは、こういう所に実際上の意義があるのだと思うよ。この観点から「阿弥陀仏は念仏を勧めているとか、いないとか」という表現や議論の仕方を考え直してみると、いずれも大悲を抜きにしているから、胸に響かない、なにか的外れな事を議論しているような感じを受けないだろうか。名号にせよ本願にせよ、念仏にせよ信にせよ、私には阿弥陀仏が勧めているのは大悲を勧めているという答え以外にはないと思えるのだ。法義を話すときは常に大悲との関係で法義が成立している事を忘れてはならないし、大悲から遊離してしまうような事があってはならないと思う。

3-28.会話編 信の特性(大悲感受の一対性)-所信は本願か名号かの違和感の正体

序章 導入 (問題の提起)

B君 あるブログ(「浅川進の、宗教と私」)に布教師が解説した音声録音の文字起こしが連載されていた。内容の一部として「能信と所信」について解説されていた。

 

A君 どんな解説だったか、簡潔に要約してくれないか。

B君 布教師によれば、「元祖と祖師の能信は同じだが、所信は本願か名号かという明らかな違いがある。」というものだった。

A君 「能信と所信」は「信じる行為ないし状態」と「信ずる内容や対象」を区別するための便宜的な講学上の概念だが、それについて何か感じる所があったのか。

 

B君 所信が本願と名号とそれぞれ異なるのに能信が同じであるという。でも、所信が異なっていても能信が同じであると言える理由がよく分からない。

 

B君 そもそも「能信と所信」という講学上の概念は本当に他力信の真の姿に迫る用語になり得るのものなのかよく分からないんだ。

 

A君 どうしてそんなことを考えたのか。

 

B君 君は「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象であり、つねにその事実状態を観察する事を基点として物事を考えてゆくんだ。」と言ったよね。感受している対象は大悲だが、それは「信じている」とか「信じている対象」と言い換えられるものなのか違和感があるのだ。違和感が残ったまま「所信を本願とする」とか「所信を名号とする」とか言われても、よく整理されていない用語のようにモヤモヤとしたものを感じてしまうんだ。

 

A君 なるほど。「信じる」という一般的な概念と「感受」している状態とにはギャップがあると感じたんだね。

 

B君 信じるという心の作用をどう理解したらいいんだろうか。

 

A君 他力とか自力とかの修飾語を付けて他力の信と自力の信を区別しているが、両者はまったく異った心の作用だから、同じ信という語を使用しているのは、本来、おかしな事なんだ。

 

A君 古代インドでは、信を「①シュラーダー」「②プラサーダ」「③アディムクティ」「④アバカルパヤティ」「⑤パティヤティ」「⑥アディヤサーヤ」「⑦バクティ」と使い分けていたことが藤田宏達氏著「浄土三部経」に書かれている。①~⑤は475頁「信の原語」、②は484頁「念仏と信」、⑥は492頁註(1)、⑦は482頁にそれぞれ記述されている。

 

A君 著者によれば、「①シュラーダー」は真実を置くという語根から作られた語句で、信・信頼の意で広く一般的に使われているとし、無量寿経の東方偈の「信慧」の「信」はサンスクリットの「シュラーダー」に相当するとされている。「②プラサーダ」は「浄信」とか「澄浄」と漢訳され、「チッタプラサーダ」は心が澄み浄化され、喜悦し、満足する状態を指すとされている。「③アディムクティ」は「信解」とか「勝解」と漢訳されており、対象に対して明確に決了し了解し判断する心作用を指し、信を知性的なはたらきと見たことを表しているとされている。「④アバカルパヤティ」や「⑤パティヤティ」は「信順」「信受」などと漢訳され、「⑥アディヤサーヤ」は「深い指向」とされ、「⑦バクティ」はインド思想一般において熱狂的な信を指すとされている。至心信楽の原語は「②プラサーダ」であろうと推測されており、熱狂的な信を指す「⑦バクティ」ではないとされている。

 

B君 それで何が言いたいんだ。

 

A君 漢語に翻訳される際に信という語を当てていても、インドでは信の特性に応じてさまざまな語句が使い分けられていたという事だ。雪という語も日本では細雪、牡丹雪、ドカ雪、粉雪などと使い分けられているが、エスキモーではもっと細かく使い分けられているという事を聞いた事がある。雪が生活に直結する影響を与えれば与える程、雪という言葉を細かく細かく使い分けて使用しているんだ。

 

B君 真宗では他力の信と自力の信とに使い分けているが、使い分けの分析が不十分だから、理解としても不十分なものになってしまうおそれがあると言いたいのか。

 

A君 他力の信と自力の信とは心の作用としてはまったく異なるので、その違いをキチンと理解しなければならないという事を言いたいのだ。雪国の人であれば、細雪と粉雪の微妙な違いを肌感覚で明確に区別できるようにね。

 

第二章 信じるという心の作用と分類、他力信の特殊性

1.一般的な「信じる」という心の作用・効果

B君 どんな違いがあると考えているのか。

 

A君 信じるという心の作用は信を生じさせている作用のことで、信は信じるという心の作用が働いた結果として生じた思いや考えであると言い換える事ができる。神や仏の存在を信じるという卑近な言葉遣いをヒントに一般的に使われている「信じる」という心の作用を分析し、それを成立させている要素を抽出してみようと思う。そこから、両者の違いが明確になってくると思う。

 

A君 仏の存在を信じているという場合、まず、その当人にとって直接認識したり知覚することができないものを「信じる対象」としている。それにもかかわらず、何らかの「理由」によってそれが存在するとの「結論」を得て、しかもその結論に基づいて儀式などの「一定の振る舞い」をするにまで至っているのが「仏の存在を信じている」ということだ。この心理状態を成立させている要素を抽出すると5つになる。①直接認識したり知覚することができない不確実な事柄に関している事、②一定の判断や評価(「結論」)に達している事、③結論に達したことになんらかの理由がある事。④その結論に達していても直接認識したり知覚した訳ではない事。⑤その結論から一定の振る舞いを行うにまで至っているという事。

 

B君 もうすこし各要素について説明してよ。

 

A君 当人にとって①の直接認識したり知覚することができない不確実な事柄であるという要素は、信じるという心の作用の成立に不可欠なことだ。この要素がある事によって②の結論に至るまでには必ず心理的な障壁があるという事になる。この心理的な障壁というのは論理的思考だけでは克服することができない壁の事だ。①が心理的な障壁になっている場合にこの壁を乗り越えて一定の結論に達するという事が信じるという心の作用の本質だと思う。ポイントは、論理的思考によらずにこの壁を乗り越えてしまうということだ。この壁を非論理的に乗り越えてしまえる理由はさまざまあり得る。根拠となる知識や経験などが不確実なものであればあるほど乗り越えるべき心理的な壁はいっそう高くなるが、それを何らかの理由によって乗り越えてしまう心の作用が信じるという心の作用だ。その理由は根拠薄弱なものからしっかりとした根拠があるものと様々だし、非合理的と思えるものであってもよい。その確からしさの程度は問題ではない。まったく合理的な根拠らしい根拠がなくてもよい。迷信などはこれに該当する。だから、信じる心の作用は非論理的な直感力による決断が担っていると言ってもいいと思う。直感力によって心理的な壁を乗り越えて一定の結論に至ったとしても直接認識したり知覚した訳ではないし、直接認識したり知覚した結果、壁を乗り越えたわけでもない。ここがもっとも重要なポイントだ。そして、直接認識(知覚)しているがごとくに振る舞おうとしているということがもう一つのポイントになると思う。これは信じる強度や程度に関わる問題だが、直接認識(知覚)しているがごとくに振る舞おうとしているという程度に至らないと信じるとは言えないのではないかと考えている。私は心理学や宗教心理学のことは知らないので、その正確性は保証しないが、そんなことになるだろうと思う。

 

A君 信じるという作用の効果についてもう少し補足しておくよ。仏の存在というものは直接認識(知覚)できない不確実な事柄だ。不確実な事柄であるにも拘わらず、その存在を直接認識(知覚)しているがごとく態度決定しているのが当人にとって信じているという事だ。信じる作用が不確実な事柄である信じる対象を、直接認識(知覚)しているがごとき存在にまで変容させている。ここに信じるという作用の効果がある。直接認識(知覚)していないのに、信じるという作用の効果によってその対象が「不確実な状態」から「確かなように思える存在」にまで変化して高められていると考えられる。「確かなように思える存在」と表現したのは、直接認識(知覚)していないからだ。

 

B君 心理的な壁を論理的推論によって乗り越えてしまう場合には、信じるとは言わないのか。

A君 確実な証拠と事実に基づいて論理的な論証を加えた結果、心理的な壁を論理的に乗り越えてしまったときは直感力によって結論に達した訳ではない。だから、両者を明確に区別する事が必要になる。しかし、いずれの場合でも直接認識(知覚)している訳ではない。ここに共通項がある。そこで両者を一括して、広義の「信じる作用」とまとめてしまうこともあり得ると思う。この場合には「広義の信じる作用」には直感力と論理的論証の2つがあるということになる。ただしこの2つを截然と区別する事が困難な場合もある。論理的な論証を加えても最後の最後に直感力が働いて結論に到達する事もあり得るからね。

 

B君 信じるという心の作用は誰でもが生まれつき持っている心の作用の事だね。

 

A君 そうだね。生まれつきの作用・効果だから、これからこれを「生来的」とか「狭義の」と表現することがあるよ。

 

A君 「狭義の信じる」とは上記の各要素によって構成されていると考えた場合、この概念が一般的に適切に機能するか否かは、他の具体例で広く検証する必要がある。うまく適用できないときは適当に修正する必要がでてくる。例えば「彼は無実だと信じている」という場合にうまく機能するか、「来年の株価は暴落すると信じている」という場合にうまく機能するか、などなど検証しなければならないが、長くなるので止めておくよ。

 

A君 ただ真宗において自力の信という場合の典型例を1つだけ取り上げて検討しておくよ。自力の信とか自力の計らいの典型は、仏の無条件の救済の場面において自分の善行を根拠(アテ)にして仏の救いが得られると考えたり思ったりしている場合だ。①仏の救いというものは当人にとって直接認識(知覚)できない不確実な事柄で抽象的な観念に留まっているため、将来、救いが得られるかどうか判然としていない。それにも拘わらず、②自分の善行によって救いを得られるとの思いに至っている。その思いに至った主たる理由は、③仏教に対する全般的な信とともに、仏の無条件の救済の場面においても世間通例の因果律があてはまるという根強い思いがあるためだ。この思いがあるために善行を重ねる事によって救いが得られると考えるに至った。そして、⑤実際に善行を実践することになる。①仏の救いは不確実なのに、その心理的な壁を非論理的に飛び越えて②の結論を得た理由が③教えや因果律に対する信と善行だ。これらを根拠として直接認識(知覚)できない不確実な仏の救いを得られると考えていることは、心理的な壁を飛び越えているということだ。しかし、④直接認識(知覚)した訳ではない。これが真宗において廃されるべき自力の信とか自力の計らいだ。廃されるべき理由は、仏の無条件の救済の場面においてこの心の作用が働くと、大悲感受を妨げるものになってしまうからだ。

 

B君 仏の救いを信じるという場合には、信じるという心の作用と信じる対象は概念的に区別できるよね。「仏の救い」が信じる対象を意味する所信で、「仏の救いが得られる」という思いが能信ということになるよね。

 

A君 概念的に区別できる理由をもっとはっきりと確認しておこう。「仏の救い」は将来の不確実な事。これに対して、「仏の救いを得られる」という思いは現在の思い。将来に属する事項と現在に属する事項とに分離してしまっている。信じる対象は未来に属する事項、信じる作用は現在に属する事項だから、概念的に明確に区別できる。この他にも重要な理由があるのだが、とりあえずここで留めておくよ。あとで触れる事になるかも知れない。

 

2.他力信の特殊性

B君 じゃ、他力の信の場合はどうなんだ。

 

A君 他力の信とは祖師の言われる大悲に対する「無疑信」のことだが、意識的には大悲を現在感受している心理状態のことだ。この心理状態は無意識と意識の領域にまたがっており、現在意識としての大悲感受は無意識に根ざしている心作用としてはじまり、その心作用が意識の領域に影響を与えた結果、意識によって大悲感受として捉えられている状態であると私は考えている。ここには、生まれつき持っている心の作用が働く余地はまったくない。「現在意識」の中に大悲が顕れて大悲をいつも現在感受しているからね。ここには心の障壁となるものがない。要素①が成立していない。要素④も存在していない。そのため心理的な壁を飛び越えることも無ければ、飛び越える理由も必要としていない。すでに回心という現象が生じた事によって飛び越えてしまっているのだ。だから大悲をつねに現在意識の中で感受している状態があるだけだ。これが他力の信といわれている状態だ。どうして飛び越えられたのかについては説明不能だ。大悲があったという事しか言えない。論理の言葉で尽くせる限界を超えてしまっているのだ。論理では大悲を伝えることができないため、大経では法蔵菩薩の本願と法蔵菩薩の成仏による本願成就という物語でもって菩薩の悲心が語られているんだ。大経は全体として仏の無条件、無縁の大慈悲心が説かれていると言える。この説かれている大悲がわが身の上に現実化したのが大悲の現在感受であり、他力の信なんだ。

 

B君 では、他力の信においてはさっきの構成要素①~⑤のうち、要素①②③④を欠いており、要素⑤だけしか残っていないという事か。

A君 そういうことだと思う。

 

視覚との比較その1

B君 では、大悲感受は視覚により対象物を視認している状態のようなものか。

A君 ある意味ではそうとも言えるが、重要な差異がある。

B君 どういうことか。

 

A君 意識が大悲を直接感受しているので、視覚によって対象物を直接、視認しているのに似ている。両者とも「直接性」という点では共通している。だから、視認しているときと同じように、大悲を感受しているとは言えても信じているとは言えない。しかし、視覚の場合には明確な対象物がある。正確には視覚の対象物という観念が生まれている。そのような観念が生じるのは視覚の対象がさまざまに変化し、アレはテレビ、コレは本などとさまざまなものを区別しなければならないため対象物という観念を必要としている。生来的に信じるという場合も信の対象は限りなく無限に存在している。人、モノ、金、団体、地域社会などの存在物から非存在まで広範に及んでいる。だから視覚や信じるという場合には対象という観念がどうしても生じてくる。この場合の視覚とか信じるという心の作用は同じ一つの機能であっても、視覚の対象や信じる内容・対象は多数となるので、視覚機能や信じる機能とそれらの対象は「一対多」という関係になる。しかし、大悲を感受する場合はつねに感受するのは大悲だけで、大悲から区別されて感受されなければならないものは何もない。視覚の場合で例えると、視覚の対象物が白一色で他の色とまったく区別する事ができないとしたら、そこに対象物という観念は生じないだろう。白一色の世界だから、白以外に区別されるべきものがないからだ。白という観念すらも生じないだろう。そのようなとき対象物という観念は生まれようがないんだ。大悲を常に現在感受している状態はそれに近いのではないだろうか。感受と大悲とは「一対一」の対応関係しかない。その両者は一対のものなんだ。だから大悲と感受とは一体であり、一対であると感じられることになる。ここに大悲と大悲感受を区別できない理由があると考えている。古来、機法一体という言葉がある。この機法一体の意味は、我が身の上に現実に生じた大悲感受は「摂取するとの大悲をそのまま無疑で受けている南無阿弥陀仏の姿」であり、この心相となっている南無阿弥陀仏は「救う法」と「信じる機」とが一体として成就されているという意味だ。今私が言う「大悲」と「感受」は「救う法」と「信じる機」に相当する。「大悲」と「感受」は機法一体だ。両者を分離できない事を既に昔の人は理解していたのだと思える。

 

視覚との比較その2

B君 視覚の場合、対象物の形状(直線、横線、縦線、斜線、曲線、点)や色、動きなどの諸情報が光として視覚の受容体にとらえられてそれが電気信号に変換されて脳にその興奮が伝達され、線や動き、各種の色などを専門に感知する各部位において各対象がそれぞれ感知され、それがやがて統合されて対象物の全体像として認識されるという経過を辿るのだが、大悲感受は、どのようになるのか。

 

A君 さぁ脳科学者ではないから、そんな事は分からない。が思うに、回心時の大悲感受の際に、大悲を感受する部位が新たに脳内神経ネットワークとして形成されたと考えられる。その回心時の心理状況やそれまで聞いた法語なども記憶として保存された。長期記憶として保存された大悲に関する一群の情報はいつでも引き出され、大悲を感受する特定部位をつねに刺激し続けている。この刺激を受けた特定部位が大悲を感受する。その感受がその神経回路をさらに強固なものとし、意識がその大悲感受を自覚するようになる。このような絶え間ない情報のやり取りが活発に連続的に繰り返されているのだろうと推測される。言い換えれば、大悲を感受させる特定部位と大悲を感受する特定部位との間で情報が絶えず交換され、両者が協働することによって大悲感受を現実化し、恒常的にしている。このためつねに現在意識の中で大悲感受が起こっていると私は考えている。これは丁度、幼少期のほのぼのとした思い出が大人になってもいつでも思い出されてほのぼのとした気持ちになったり、外界から刺激を受けるとその記憶が思い出されて同じ思いや感覚にとらわれる疑似体験をするのと似ているのではないかと思う。

 

B君 他力の信にあっては、視覚の作用や機能とも異なり、信じるという心の機能とも異なっているという事だね。そうなると、大悲感受の状態について、狭義の信じるというのと同じ言葉を使うのは適当ではないということになるんだね。

 

A君 雨がそぼ降るのを眺めて紫陽花の美しさを嘆じているとき、紫陽花の花の美しさを信じているとは言わないように、大悲をつねに感受しているときは大悲の慈悲深さを嘆じるのであって、大悲を信じているとは言わない。

 

決定往生の思い

B君 君はよく元祖の一枚起請文を引き合いに出すよね。「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・(途中省略)・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」は、大悲感受との関係ではどう位置づけられるんだ。

 

A君 大悲感受とは、摂取するとの大悲をそのまま無疑の状態で受けとめている心の状態の事だ。自分の心が南無阿弥陀仏の状態になってしまったことを実感として感じ取ることができる。この南無阿弥陀仏の状態になると、「浄土に連れてゆく」というのが大悲であると感受されるから、「この状態のまま自分は浄土に往生してゆくのだな」と素直に思える。これはごく自然な思いだ。この浄土往生の思いを以下「決定往生の思い」というよ。この決定往生の思いは大悲感受と一体の思いだ。

 

A君 この点に関して言っておきたいのは、十八願文の至心・信楽・欲生の三信を一心と言われている理由についてだ。大悲感受の状態は至心・信楽に相当する。仏の至心である大悲をそのまま無疑の心で感受している状態は衆生の至心であり、信楽だ。心に感受し心に顕れている大悲が至心だと理解しても良い。大悲と大悲感受とは一体・一対の関係にあるからね。大悲感受によって自分は浄土に往生してゆくのだなと素直に思える思いは欲生に相当する。大悲感受の状態から自然と生じる思いだ。至心・信楽からごく自然に生じた欲生の思いだ。これらは心の中で一体となっているので、一心と言われるに相応しいものになる。しかもこの一心は仏の真実の大悲心と一体の心であるから「真実の一心」ということになる。

 

B君 ところで、さっきの古代インドの信との関係で言えばどうなるのだ。

 

A君 「①シュラーダー」は真実を置くという語源からの言葉という事だったが、真実を仏の至心を意味する大悲と理解し、この真実大悲が私の心に置かれたのが信だという理解をすれば、このシュラーダーは至心の状態を表していると言っていいね。ただ、シュラーダーは広く一般的に使われているという事だったから、仏の至心を表す言葉として一般の世俗用語が転用されたものだろう。

A君 「②プラサーダ」は「浄信」とか「澄浄」と漢訳され、「チッタプラサーダ」は心が澄み浄化され、喜悦し、満足する状態を指すとされているという事だったね。仏の大悲は清浄な心であるから、この心に触れて大悲を感受すればその状態は心が清浄になっていると言えそうだ。喜悦し、満足する状態ということになると信心歓喜ということになるから、「②プラサーダ」は至心信楽を表していると言っていいね。また欲生をも含めて表していると言っても良いと思う。

A君 「③アディムクティ」は「信解」とか「勝解」と漢訳されており、対象に対して明確に決了し了解し判断する心作用を指し、信を知性的な働きと見たことを表しているという事だったよね。大悲を感受してみれば、それは大悲の働き以外にはないという事が理解され、同時に自力無功も自然と理解されるから、ここに「明確に決了し了解し判断する心作用」があると言える。真宗でいう「捨自帰他」を理解している思いは「明確に決了し了解し判断する心作用」であり、大悲感受に伴っている知的側面としての心作用であると思う。

A君 「④アバカルパヤティ」や「⑤パティヤティ」は「信順」「信受」などと漢訳されているという事だったね。大悲をそのまま感受していることを表していると理解される。

A君 「⑥アディヤサーヤ」は「深い指向」という事だったね。深い指向とは仏や浄土に心が深く向けられている状態を表していると理解される。我が心を大悲に委ねきって浄土往生へ思いを至していることを想起させるね。

A君 「⑦バクティ」は熱狂的な信とされていたね。大悲感受は静かで穏やかであるから、大悲感受は明らかに「バクティ」ではない。他力信は情熱のような信ではない。

 

分類

B君 視覚が直接対象物を視認しているように、意識が大悲を直接感受しているという事になると、狭義の信じる作用ではないことになるが、広義の「信じる作用」の中に直感力ではない「論理的推論」を含めたように、大悲を直接認識し知覚する他力信を最広義の「信じる作用」として位置づける事は考えられないのか。

A君 うん。そういう考えはあり得ると思う。図示すると次のようになる。

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ただ、私としては、大悲の直接感受は大悲という極めて特殊で稀なものを一対一・一対の対応関係で直接感受しているものであり、広義の信じる作用とはまったく異質なものであるから、最広義の「信じる作用」という分類を設けてその中に入れてしまうのはなじめない。学問的には上記のように整理することは考えられなくはないが、信じる作用とは同類ではなく、異類という感じがしてならないよ。

 

第三章 冒頭の問題の提起に対する筆者の考え 

B君 では、他力の信がそのような状態であるとして、他力の信に「能信と所信」という講学上の用語を使うのはどうなんだろうね。生来的な意味での信じるという場合とはまったく異なるのだから、使うとすれば、「能感」と「所感」ということになるのかな。

 

A君 他力の信の場合には、その信は一般的な信の場合とは異なるのだから、「能感」「所感」と言い換えてもよいだろう。しかし、「能感」と「所感」とに概念的に分けたとしても、他力の信においては大悲と感受とが別々のものであるとは感じられない。大悲と大悲感受は同じ状態であって区別できない。大悲のままが感受であり、感受のままが大悲という表現をせざるを得ない。要するに区別できないってことさ。この区別できない理由はさっき述べたとおりだ。大悲と感受とは完全に一対一の対応関係・一対の関係となっており、大悲以外に大悲と区別されて感受すべきものがないからだ。この感受は大悲専用の感受であって、その他の目的のために機能することがない。大悲を感受させる特定部位とそこからの刺激を受けて大悲を感受する特定部位とが協働した結果、大悲を感受し、それを意識によって捉えられていることになる。両特定部位は一体・一対となって大悲を意識に感受させている。当人にとって見れば、この大悲と感受の関係は「感受無ければ大悲無し」「大悲無ければ感受無し」「感受あれば大悲有り」「大悲あれば感受あり」という大悲と感受とが完全に一致した関係になる。だから、「能感」と「所感」とを概念的に分けることはできるものの、両者を概念的に分けて所信が本願か名号かと考察する方向に向かう考え方には反対だ。そうではなく、上記の理由から、大悲感受の事実状態は大悲と感受とは分離できないものであると考察し、そのように結論づけるのが正しいと思う。

 

B君 ところで、他力の信にも「能信と所信」という用語を使うと、「所信」は本願か名号かという対立が生まれてくるよね。この対立は意味があるのだろうか。

 

A君 これはまったく意味のない事だと思う。他力の信の内容として本願を信じているとか名号を信じているということはないんだ。他力の信は現在大悲を感受しているだけであり、大悲のままが感受であり、感受のままが大悲なんだ。大悲を感受している感受そのものには本願を信じるという生来的な作用は働いていないし、名号を信じるという作用も働いていない。だから大悲を感受する所には信ずる対象が無い。能信も所信もない。「大悲感受」と「信じる」ということはまったく異なった心の作用だから、そこに「所信」は本願とか名号とかということを持ち込むこと自体が間違っていると思う。

 

B君 元祖の所信は本願、祖師の所信は名号という理解は何を根拠にしているのだろうか。

 

A君 その根拠は「元祖は王本願である念仏往生の十八願に立って教えを説かれたが、祖師は願成就文に立って名号をもって教えを説かれた」という理解をし、その理解から所信は本願、所信は名号と言っていると思われる。しかし、「元祖は本願をもって説かれ、祖師は名号をもって教えを説かれた」という理解が正しいかどうかは横に置いておいて、そのような理解に立ったとしても所信が本願であるとか名号であるというのは間違っていると思う。さっき言ったように、他力の信は大悲の現在感受以外にはない。この胸の内に感受している大悲を言い表すために本願をもって説くか、名号をもって説くかの違いが出てくるものの、それは「発揮」というものであって、信が異なるからではない。また、信の中身としての所信が異なるからでもない。文に現れている違いに着目しつつその違いから元祖と祖師の思想体系が異なると理解した事と所信とを同じように考えたところに間違いの根っ子がある。そうではなく、その文に現れた違いは違いとして理解しつつ、その真意はどこにあるかを考え、元祖や祖師の思想の底流となっている他力信の捉え方が両者間で異なっているのか否かをよくよく深く検証してみなければならないと思う。そのためには「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象であり、つねにどのように感じているかを正しく観察する事を基点として物事を考えてゆく」という基本的スタンスに立って考えてみる事だ。他力信とは「現在意識における大悲感受である」と理解すれば、元祖と祖師の所信が異なるとする発想に対してはたいへんな違和感を感じる事になる。この違和感を大事にして、かつ、大悲感受を基軸なり指標にして論を組み立てるべきなんだ。十八願に顕れた大悲と名号に顕れた大悲に違いはあるのか、また、自分の感じている大悲感受に沿う論理構成はできないかと検討してゆけば、大きく間違えることはないと思う。本願に顕れている大悲や名号として成就された大悲が胸の内に顕れ、同じ大悲として感受しているのが信だという理解が間違っていない限り、元祖と祖師の所信が違うという説に同意する事はできない。おそらく「元祖や祖師の所信」と「元祖や祖師の思想」とを勘違いしているのではないかと思う。この両者は別モノだ。

 

A君 ついでに言っておくと、能行と所行という学派の対立があるが、これも無意味な対立だと思う。仏の救済たる大悲成就が南無阿弥陀仏となって心に届き、心に大悲が感受されている南無阿弥陀仏の状態(心相)の南無阿弥陀仏を所行といっても、或いは、その南無阿弥陀仏が念仏という行為として現れ出たところの念仏を能行といっても、そのどちらも同じ南無阿弥陀仏なのだ。入り口の南無阿弥陀仏をとらえて所行、出口の南無阿弥陀仏をとらえて能行と言ったところで同じ南無阿弥陀仏じゃないか。竜のしっぽを捉えて竜と言い、竜の頭を捉えて竜と言っているようなものさ。すでに南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となったのだから、どこをとらえても同じなのさ。能所不二という言葉が既に造語されているのは、そうした理由があるからだ。

 

第四章 冒頭の問題提起に対する筆者の考え(続編) 

1.他力信と同時に狭義の信じるという作用が働いている場合があること 

B君 でも本願を信じて往生するとか言うよね。この場合信じる内容は浄土往生だ。

A君 その場合は少し違った意味合いが加わることがあり得るんだ。

B君 というと。 

 

A君 他力の信は現在大悲を感受するだけだが、それに伴ってある思いが生じる。その思いとは、先に述べた「決定往生の思い」のことだ。大悲とは浄土に連れ帰るという大悲だから、これを無疑の心で受けると大悲を感受し、浄土に連れられてゆくという思いになる。このさきにある問題が、「浄土往生が実現されるかどうか」という問題だ。大悲を感受していても、この問題はなおも先の①直接認識したり知覚することはできない不確実な事柄に属している。ここに信じるという生来の心の作用が働く余地が出てくる。わが身の上に浄土往生が実現されるかどうか、については「信じる」「信じない」という生来的な心の作用が働く可能性が残っている。現在大悲を感受していれば浄土に連れられてゆくという思いになるから、「浄土往生が実現される」と信じることになるのが自然ではないかと思う向きがあるかも知れない。しかし、「イヤイヤそれは分からないぞ。」と思うこともあるだろう。まだ実現されていないのだからね。ここに浄土往生を「信じる」「信じない」という問題が生じる余地があるのだ。

 

B君 「浄土往生を信じる」という場合にその信の根拠となるのが、大悲感受が我が身の上に事実として生じ起こったことであって、それが根拠となって「決定往生の思い」が信楽の者を浄土往生させると誓った本願が現実化されるだろうから「浄土往生できる」と「信じ」るレベルにまで高められる可能性があるという事なんだね。

 

A君 説明するとそうなる。大悲を感受するために、その他力信とともに生まれつき持っている信じるという心の作用が働いた結果、「将来、死んだ先に浄土往生が実現される」と信じることがあるという事だ。若干補足すると、大悲を感受して決定往生の思いになると、それが十八願文の至心信楽・欲生であり、また願成就文の「聞其名号信心歓喜・願生彼国」の事であると理解できる。十八願文の至心信楽・欲生やその成就文の聞其号信心歓喜・願生彼国は本当の事であったと思える。この思いが「決定往生の思い」を「浄土往生を信じる所」にまで高める根拠になっているということだ。お経に書いてある事は本当だった思えるのだからね。浄土往生も本当の事だろうと信じられることになり得る。

 

B君 じゃ、そうした生来的な意味で「信じ」る場合における所信は本願か名号か、についてはどう思う?

 

A君 「将来死んだ先に浄土往生が実現される」と信じたときの根拠となるのは先に述べたとおり、「大悲を現在感受している事実」や「決定往生の思い」やそれらに伴う先に述べた思いだ。大悲感受やそれに伴う思いなどを媒介せずに観念的にとらえた本願とか名号とかがその信の根拠となるのではない。

 

B君 単に「本願を信じる」とか「名号を信じる」とか言われるが、それはどう理解したらいいんだ。

 

A君 本願や名号を信じるという言い方をする人にどういう意味で言っているのか直接本人に確認してみるしかない。その人が「本願や名号を信じる」という言い方で他力の信を表しているものと理解できた場合には、「本願や名号を信じる」という言い方を自分の脳内で変換して、大悲を現在感受している状態を言い表すために「本願を信じる」「名号を信じる」という言い方をしていると読み替えて理解するしかない。

 

2.歎異抄11条の文

B君 歎異抄には「一文不通のともがらの念仏申すにあうて、なんじは」「①誓願不思議を信じるか」「②名号不思議を信じるか」といひおどろかす者について、唯円はこの二つ(①と②)は「さらに異なることなきなり。」と言われているよね。ここでは、誓願不思議を信じるとか名号不思議を信じるとか、そういう言い方をする事を承認した上で、その理由を述べているよね。

 

A君 そうだけど、唯円は「ふたつの不思議を仔細をも分明にいひひらかずして、人の心を惑わす」とも言っているよね。「誓願不思議を信じる」とか「名号不思議を信じる」とかの意味が分からないままになっていると明確に指摘している。本願を信じるとか名号を信じるという言葉は、その言葉だけでは意味が分からないものなんだよ。

 

A君 唯円はそのことを指摘した上で、この二つは「さらに異なることなきなり。」と言われているが、どんな理由であったか紹介してよ。

 

B君 その部分をちょっと読み上げるよ。便宜的に番号を付ける事にするよ。「①誓願不思議によりて名号を案じいだしたまひて、この名字をとなえんものをむかへとらんと御約束あることなれば、②まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、③生死をいずべしと信じて念仏の申さるるも如来の御計らいなりとおもへば、⑤すこしもみずからのはからいまじはらざるがゆえに本願に相応して、⑥実報土に往生するなり。⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば、⑧名号の不思議も具足して、⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」と言われている。

 

A君 そうだね。注目して欲しいのは③の「生死をいずべしと信じて」という箇所だ。「生死をいずる」というのは将来のことだ。現在「生死の境涯を離れ出た」ということじゃない。つまり信じるという生来の心が作用しうる場面がここにあるという事だよ。そこで唯円は、誓願不思議をむねに「生死いずべし」と信じるとか、名号不思議をむねに「生死いずべし」と信じるという言い方を一応は肯定していると理解できそうだね。

 

B君 そうすると、唯円がこの二つは「さらに異なることなきなり。」と言われている理由をどう理解したらいいんだろうね。

 

A君 さっき言った事をここに当てはめてみると、「生死をいずべし」と信じた場合、その信には根拠を必要とするが、その根拠になるのは大悲を現在感受している状態やそれに伴う決定往生などの思いだ。無疑の状態で感受している大悲は「浄土に連れてゆく」という大悲だから、「生死をいずべし」と信じ受ける可能性がある。そのように信じられる根拠は胸の内につねに感受している現在の大悲とそれに伴う決定往生などの思いにあり、それを離れて観念的にとらえられた本願とか名号とかではない。では、本願をむねとして「生死をいずべし」と信じても、名号をむねとして「生死をいずべし」と信じても同じだというのはどういう訳かというと、実際に胸の内に感受している仏の大悲は、既に仏が説かれおかれた本願の文に顕れ、既に仏が説かれおかれて称讃する名号に顕れているからだよ。本願文に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異があるはずがない。だから、胸の内に感受している大悲を表現するためにその感受している大悲そのものに替えて、本願文に顕れた大悲であっても名号に顕れた大悲であっても、どちらも「生死いずべし」と信じる信の根拠になると唯円は言いたいのさ。言わんとしている事はそういうことさ。「大悲感受の事実」「決定往生の思い」やそれに伴う先に述べた思いがあるために、その感受や決定往生の思いなどを言い表す表現として伝統的に確立している既存の表現である「本願」とか「名号」とかに言い換えて、「⑦誓願不思議をむねに生死いずべしと信じたてまつれば」と説明したり、「⑧名号の不思議も具足して、⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」と説明しているのだ。

 

B君 もう少し、分かりやすく説明してよ。

 

A君 「①誓願不思議によりて名号を案じいだしたまひて、この名字をとなえんものをむかへとらんと御約束あることなれば」というのは、浄土に連れ帰るという大悲の事。「②まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて」というのは、その大悲を現在感受している無疑の状態の事。これがもっとも大事なことだから「まず」と言われている。「③生死をいずべしと信じて」というのは、大悲を現在感受していることによって将来不確かな生死出離について「生死いずべし」と信じる状態にまで至っているという事。「④念仏の申さるるも如来の御計らいなりとおもへば」というのは大悲感受のままに念仏を称えているのは大悲に誘われて称える念仏だから、この念仏は如来の御計らいなりと思えるという事。「⑤すこしもみずからのはからいまじはらざるがゆえに本願に相応して」とは自らの自力の計らいが混じる事がないので、本願文の通り至心に信楽し念仏申しているという事。「⑥実報土に往生するなり」とはそのように信じているという事。「⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」とは、胸の内に感受している大悲を表現するために「誓願」という表現を用い、また大悲感受や先に述べた決定往生の思いなどに至ったことを「誓願不思議をむねに信じたてまつる」と表現しつつ、その感受している大悲が「生死いずべし」と信じる信の根拠になるという事を言わんとしている。「むねとして」というのは「それを理由として」という事。「⑧名号の不思議も具足して」とは、名号は摂取不捨の大悲を信受している心の姿が南無阿弥陀仏という姿である事、その南無阿弥陀仏の心相がわが行として浮かび上がったのが称名念仏だから、誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば当然に「名号を具足する」ことになるという事。つまり摂取不捨の大悲を信受すれば必ず名号を具すという事。「⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」とは、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて大悲感受の状態になっている姿には誓願不思議も名号不思議も具足しており、ひとつになっているという事だ。

 

B君 君のいう事をまとめて整理するとこうなるかな。大悲を現在感受していることによって将来不確かな生死出離について生死いずべしと信じる状態に至って念仏を申しているが、その状態は大悲感受のままに大悲に誘われて称える念仏だから、念仏は如来の御計らいなりと思えるし、自力の計らいが混じることがない状態だから本願文のとおりに至心信楽し念仏申していることになる。この事実状態を根拠として「実報土に往生するなり」と信じられる。「誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」とはこのような心理状態に至っていることを言い、その心理状態が現実に実現されている事実を根拠として「実報土に往生するなり」と信じるに至っているという事。そして名号の不思議については摂取不捨の大悲を信受している心の姿が南無阿弥陀仏という心相であることから名号を心に具足している事になるし、或いは他力の信の上の称名念仏を具足していることにもなるので「誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」ということになる。簡単に言えば、胸の内に大悲を感受している現在に本願に顕された大悲と名号に顕された大悲とが一体になって実現されているということだね。

 

A君 重要な所を少し補足すると、胸の内に大悲を感受すれば、その感受した大悲が「①大経十八願として説かれている大悲であった」とか「②願成就文の名号として成就された大悲であった」と心から分かる。①の大悲と②の大悲は同じだ。無機質のように味気なかった本願の生起本末の教説や称えても空しかった南無阿弥陀仏が仏の大悲を言い表した仏語であったと心から理解して悦べるのは、胸の内に感受している大悲があるからだ。十八願の「至心信楽・欲生・乃至十念」や願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念・願生彼国」とは大悲を聞いて胸の内に大悲を感受して歓喜し念仏申す事だったのか、と心から理解し喜べるのだ。だから、胸の内に感受している大悲をどのように表現すればよいかとなれば、胸の内に感受している大悲に代えて大悲を因願の本願といってもよいし、大悲成就の果上の名号と言い換えてもいい、という事になる。そこから、胸の内に感受している大悲に代えて本願の大悲や名号に成就された大悲をもって教えを説かれることがあるという事だ。本願として表された大悲と名号として成就された大悲とに違いがない以上、胸の内に大悲を感受している現在に本願に顕された大悲と名号に顕された大悲とが一体になって顕現しているということになるのだ。これが「さらに異なることなきなり。」と言われている理由だ。逆に、因願の本願とか大悲成就の果上の名号という場合には、それによって表そうとしているのは、胸の内に感受している大悲ということになる。

 

B君 つまり、大悲を感受している者にとっては、「胸の内に感受している大悲」と「因願の本願とか大悲成就の果上の名号」とは相互に入れ替え可能だという事だね。唯円は「自ら感受している大悲を旨として生死いずべしと信じる」ということを「⑦誓願不思議をむねに生死いずべしと信じる」と言い換えている。また「⑧名号の不思議も具足して、さらに異なることなきなり」と言い換えていると君は理解しているのだね。

 

A君 そういうことさ。

B君 ところで、君は「無機質のような味気なかった本願の生起本末」と言ったが、「本末」の「末」はどうことだと理解しているか。

 

A君 「本末」の「末」とは「今、私が大悲を感受して念仏申している」ことさ。これが現生における果であり、現生においては仏の物語はここでクライマックスを迎える事になる。本当の末・果は「浄土往生を果たす」という事だと思う。この「浄土往生を果たす」というのは未来の事であるから、ここに信じるという作用が働く余地があるんだ。現在胸の内に大悲を感受し念仏しているのが本末の「末」だから、その感受している大悲の由来を遡って大悲を偲ぶと十八願などとその願成就にあったことに深く思いをはせることになって歓喜し、また自分の行く先に思いをいたすと浄土往生の思いになるから大悲を悦ぶ事ができる。今現在は浄土への途中だから、そう言う思いになったり、さらには浄土往生を信じる事ができるようになる。

 

B君 君はさっき「本願(文)に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異はない。」と言ったが、もう少し詳しく説明してよ。

 

A君 十二願・十三願・十七願・十八願・十一願などが成就した相が南無阿弥陀仏の名号だから南無阿弥陀仏は仏の無量光寿そのもの。十八願の生因との関係で言えば、南無阿弥陀仏は至心信楽欲生の信因と乃至十念の行因として作用し、浄土往生させる働きがある。この南無阿弥陀仏は十八願を因として成就された果上の仏ということになる。だから諸仏が御名を称讃する。この名号の働きが私の上に現れたとき、大悲感受となって私の心のうちに大悲が顕れる。私が感受しているのはこのような無量光寿の大悲だ。この大悲は本願として生起された大悲であり、名号として成就された大悲であるから「本願文に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異があるはずがない。」と言ったのだ。私の胸の内に感受されている大悲は本願として顕された大悲であり、かつ名号として顕された大悲だ。本願と言っても名号と言っても同じ胸の内の大悲として実現成就されているものだから、その両者に何の差異はない。「所信が異なっていても能信が同じであると言える理由」はここにある。イヤ、所信に差異などはないということになる。もともと元祖と祖師の所信に差異はなかったんだ。それは大悲感受のほか他力の信はないからだ。所信に差異があると言ったのが間違いだったんだ。

 

3.乃至十念の念仏と尊号真像銘文

B君 つぎに大悲を表すのに念仏に言及して言うこともあるし、念仏には触れないで大悲を言うときもある。これはどういう訳なんだ。

 

A君 大悲を表すのに念仏に言及して言う場合については、「乃至十念を誓った仏の誓意」を問う「十念誓意」という題が安心論題にあるので、そちらを読んで欲しい。要は、乃至十念を誓った仏の誓意は乃至十念という語を使う事によって大悲をよりいっそう具体的に明らかにしたという事だ。この乃至十念の念仏は衆生に自力念仏を要求したものではなく、衆生に対して自力の行を一切求めない大悲を「無作の念仏」として表しているということだ。だから「乃至十念」の念仏には衆生に対して何も求めない仏の一方的な無縁の大悲が現れている。観経下下品の念仏とはこの「乃至十念」の念仏のことだ。大経と観経はこの一点で一致しており、ともに仏の大悲を顕す経として尊重されている。このため大悲を表すのに念仏に言及して言うこともあるし、念仏には触れないで単に大悲と言うときがある。結局、そのいずれでも仏の無条件、衆生に対して何も求めない無作の一方的な大悲を領解して欲しいと仏は願われているという事になるのだよ。「大悲を領解する」というところが最も大事な所だ。十八願の「乃至十念の念仏」を勧めるにせよ、願成就文の「聞名信心」を勧めるにせよ、大悲をそのまま大悲として受けよと説く事を抜かしては何の意味もない。乃至十念の念仏を勧めるという事は御名として成就されている仏の大悲を勧めるという事であって、それ以外に勧めるべきものはない。単に、声帯を振るわせてナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツと発声する事を勧めるという事ではない。

 

B君 尊号真像銘文(浄土真宗聖典第2版643頁)にそのことに関して祖師が述べられている。

A君 紹介して貰えるかな。

 

B君 「信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごごろなく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり。この至心信楽はすなわち十方衆生をしてわが真実なる誓願信楽すべしと勧め給へる御誓いの至心信楽なり。凡夫自力の心にはあらず。欲生我国といふは他力の至心信楽の心をもって安楽浄土に生まれんと思えとなり。①乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。②如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」とある。

 

A君 祖師は、誓いにある名号を称えることを如来が十方衆生に勧め給ふ際に乃至の御言(みこと)を添えた理由について「遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼしめした」と言われている。ここに如来の大悲が顕れている。すなわち、時節を問わず数を問わない念仏とは自力を離れた念仏の事であり、諸行はおろか一片の自力の念仏行すら衆生には求めない仏の摂取不捨の一方的な大悲がこの「乃至十念」に顕されている。如来衆生衆生無作であるということを気づかせるために「乃至」を十念に添えられたというのが祖師の理解だ。だから祖師は結論として「②如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」と言われ、真実の摂取決定心である如来の至心信楽を深くたのむべしと勧められている。「深くたのむべし」とは如来の至心信楽を受容し自力の思いを永久に離れるという事だ。他力の念仏を勧める事は仏の大悲心以外に勧めるべきものはないということだよ。他力の乃至十念の念仏を勧めると言っても聞名信心を勧めると言っても、この名号や乃至十念に顕れた仏の悲心招喚を受け入れること1つに収斂されるのだ。だから両者は同じ大悲を勧めていると理解するのが正しいと思う。どちらの立場に立ってもいいのだ。ひとえに大悲を勧めて「信楽すべし」と勧めるのであれば、ね。他力の念仏を勧める場合には「乃至十念」に顕れた仏の具体的な無作の大悲を教え勧めなければならないし、或いは称名として現れた南無阿弥陀仏は悲心招喚であるとの大悲を教え勧めなければならない。聞名信心を勧める場合も同様に御名に顕れた大悲を勧めなければならない。どちらの立場が正しいという問題ではない。説き方の問題じゃなく、説かれる内容の問題だ。自力の思いを廃させるために衆生無作の大悲を説くことに尽きる。ここをしっかりと押さえていないと不毛な論争の原因となる。

 

A君 このことに関連することだが、以前君とこんな会話をした事を覚えているか?

-かつての会話-

A君「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているといったが、それは善導の本願取意の文と言って十八願の三信を省略したものだよね。どうして、善導は三信を省略したか知っているかい。

B君 それはしらない。善導が三信を省略した理由を述べている箇所がないからね。でも、法然聖人は、そのような質問をされて、こう答えているよ。「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われていることを聞いて信順して称名すれば自ずと三心は具足するってね。

A君 よく勉強しているね。それはどこに出ていたの。

B君 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁にでているよ。ある人が、善導の本願取意の文に三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき法然聖人は、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたことが「諸人伝説の詞」にでているってね。

A君 よく分かったよ。じゃあ、称名念仏に際しては先ほどらいの疑念がなくなればいいのかな。

B君 そうです。そうした疑念がなくなって、往生決定の思いになればいいのです。そのような疑念のない念仏を称えられる人は、すでに如来の救いに預かっている人なのです。

-引用終わり-

B君 よく覚えているよ。元祖が「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために(信を)略し給へる也」と言われた理由は「必得往生」というところに間違える事のない仏の摂取の大悲が顕れているからだ。祖師は行巻に「必の言は・・金剛心成就のかほばせなり」と言われている。祖師は「必得」に如来の大悲を感じており、その大悲を知れば信は自然と生じるということだね。

 

A君 そのとおりだ。「必得」の言に広大な衆生無作の大悲心を感じられた結果、金剛心成就に至り、その金剛心成就が善導をして「衆生称念必得往生」と言わしめたということだ。元祖も「称念すれば必得往生」の「必得往生」に「無作の大悲」を見ており、ここで「無作の大悲」を説いているのだよ。

 

B君 「念仏を勧める」という言い方はどのように理解したらいいんだろうか。

A君 単に「念仏を勧める」という言った場合、「乃至十念」の他力念仏の事であるのか、声帯を振るわせてナムアミダブツと発声する事を勧めているのか、曖昧だ。だから、「念仏を勧める」という言い方はどのような意味であるのかをその本人に確認しなければならない。

B君 「乃至十念の他力念仏を勧める」という事と「念仏を勧める」という事は同じ意味ではないのだね。

 

4.結論

B君 「衆生の無作」というのは、自力の行は無用であり、廃されるものだという意味だね。乃至十念の念仏でも名号でも本願でも、いずれであっても仏の無条件、衆生無作の一方的な大悲を領解して欲しいと仏は願われているのだから、他力の信においては、所信が「本願か名号か」という対立は意味がないということになるのだね。

 

A君 そう。本願とか名号というものが指し示しているのは、私の胸の内に感受されている現実化された大悲のことだ。この大悲は仏が生起され名号として成就された大悲が私の上に具体化した大悲だ。この具体化された大悲を表現する際に、その大悲を本願と言ったり、名号と言ったりしているだけであって表現の差異はあっても、信の上でも思想の上でも元祖と祖師の間には何の違いはない。「因願」と「果上の名号」は2つでも、仏が成就し胸の内に感受させている仏の大悲は1つなんだ。このことは大悲を感受している者にとってはごく自然に理解できる事であって、所信が本願か名号かと対立する関係に発展するようなものではない。大切な所だから何度でも強調しておきたい。十二・十三願と十七・十八願とそれらの願成就たる果上の南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となった。このことが大悲を感受する者には理屈抜きで理解できるのだ。そのため本願をもって大悲を勧めるか、名号をもって大悲を勧めるか、或いは両方をもって大悲を勧めるかの立場の違いはあっても、勧めるべきものは同じ大悲一つだ。

 

B君 君は「理屈抜きで理解できることだ。」というが理屈で説明してみてよ。

 

A君 「理屈抜きで理解できる」というのはチョットと言い過ぎたかも知れないが、祖師が大行とは南無阿弥陀仏を称することだと指定し、その出願名を十七願としたのは、まず「南無阿弥陀仏を称する」とは十八願の乃至十念の念仏の事。この乃至十念の念仏は大悲を感受している十八願の信を備えている念仏で、内心に信を具えた念仏だ。この念仏は声帯を振るわせてナムアミダブツと発声する発声自体に意味はなく、発声されている南無阿弥陀仏の法に意味がある。南無阿弥陀仏に意味があるというのは、それが仏の悲心招喚だからだ。このような念仏と念仏に伴う信は祖師が「専らこの行に奉えこの信を祟がめよ」と言われた「行信」のことであり、「この行信に帰命すれば摂取してすてたまわざるがゆえに阿弥陀仏となづけたてまつると。これを他力という。」と言われた「行信」のことだ。この行信とはすなわち南無阿弥陀仏の事だ。出願名を十七願とした理由は南無阿弥陀仏は諸仏も称讃する功徳そのものの御名であるということを示すためだ。念仏を称えることは「諸仏とともに称讃する」という意味ではない。大行とされる称名に破闇満願の徳があるとされる理由も南無阿弥陀仏が行者の信行となったからだ。行巻に「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり。」と述べられているが、称名念仏南無阿弥陀仏そのものである事を明確に示されている。最後の「これ正念」とは真実信心のことであり、その信も南無阿弥陀仏だと示すところに祖師の真意がある。大行たる称名とは信具足であり、しかもその信は南無阿弥陀仏ということだ。十二願・十三願・十七願・十八願の成就である果上の南無阿弥陀仏が今私の信行となり、私が大悲を感受して念仏申しているのは、それらの願と願成就の結果である南無阿弥陀仏にその因があることを示されたのだ。南無阿弥陀仏には無量光寿の徳があるので最勝真妙の正業であるとも言われている。このように私の胸の内に感受されている大悲は十二・十三・十七・十八願という悲願とその成就の御名が直接の因であり、それを感受している信と称名はいずれも南無阿弥陀仏が働いている結果だと言える。このことを大悲感受の者は直感的に理解でき、またそう聞けば容易に理解できるのだ。それは胸の内に大悲感受という事実が開け起こっているからだし、その大悲感受の状態が南無阿弥陀仏であると直感的に理解できるからだよ。

 

A君 因みに、このような信具足の称名が大行だから行中に信を摂していると後世において理解され、大行から大信を別開するいう言い方ができるようになった。元祖の往生決定の思いの上の念仏とはこのような行信のことであり、そこに何らの違いはない。他力の信においても思想としてもだ。元祖の念仏往生の思想に祖師はこの行信を見いだしていたから、元祖の念仏行を大行とし、その念仏行の信を大信と言い方を変えて表現し、その信の本体を改めて無疑と明示されたのだ。

 

B君 元祖や祖師の「発揮」といわれることがあるが、それについてはどう考えているのか。

 

A君 元祖や祖師の「発揮」といわれることについては何の異論はない。その発揮によって大悲を表現する方法が異なることにはなる。しかし、それは「発揮の元」が同じである場合に成立することだ。「発揮の元」とは大悲であり大悲感受だ。もう少し言うと「発揮の元」とは「南無阿弥陀仏が我が身の上に大悲を感受させて南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となった。そのような南無阿弥陀仏が私の上に顕現したのは十二・十三願と十七・十八願とそれらの願成就にあった。」という理解と共感だ。発揮には同じ元になるものがある。異なる表現をすることによって焦点を当てるポイントを明確にし、同じ元となっている大悲や大悲感受をよりいっそう深く理解されるように工夫したのが発揮という事だ。元祖と祖師の考えは思想としては異なるものとして評価されうるのかも知れないが(但し私はそうは思わない)、その思想の元になるものは同じだ。前にも言ったが、「異同」を問われる問題については、「同」と「異」をバランスよく理解した上でバランスよく説明しなければならないんだ。元祖と祖師に発揮があるからといって、元祖と祖師の所信が違うという事にはならない。概念的思考の得意な人は元祖と祖師の説かれ方の違いに着目して思想としての違いとして論を展開する方向に注力しようとするが、そうではなく、元祖や祖師の思想の底流となっている他力信の捉え方が同じだとする方向で思考を展開することがもっと重要な事なんだ。

 

第五章 補論 

B君 その他にも聞きたい事があるんだ。ある質問者が「十八願は念仏往生の願と法然聖人はおっしゃって、念仏する者を浄土に迎え取るという阿弥陀様の本願を信じて念仏すべし、と歎異抄はなっていますが、・・」「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生するという信心がピンとこないんですけど・・。」という発言があった。それに対して布教師は「どっちが正しくて、間違っているという言い方じゃないんです。」と回答していた。質問者が感覚的なことを問題としているのに対して、布教師は異なる法義であってもそれは「発揮」ということであって、どっちが正しくて間違っているというものではないと回答していた。質問に対する回答としてはかみ合っていないキライがあると感じたのだが、僕が興味を覚えたのは「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて、念仏して往生するという信心がピンとこないんですけど・・。」という質問者の感覚は何に由来しているのか、ということなんだ。

 

A君 それで。

 

B君 質問者は大悲を悦んでいる人だ。それなのに「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生するという信心」がピンとこないというのは、そのような信の理解が自分の感じているものとかなりズレているということだろうと思う。どうして、そのような事が起こるのか、分からないんだ。

 

A君 なるほど。その言い方は、かなりまどろっこしいね。この中には信という事が実質的に3回も出てくるからね。これが一つの理由になっているのだろう。

 

B君 3回というのは?

 

A君 「十八願の念仏する者」というのは、「大悲を感受している信のままに念仏している者」という事だから、ここに1回信が出てくる。このあとに「本願を信じて」とあるのでこれが2回目、「念仏して往生するという信心」が3回目になる。信心が入れ子のようになっているんだ。コレをもっと簡単に言い直せば、「念仏するものを救う本願」と思うて念仏する信と言えるよ。このほうがスッキリする。でも、意味は変わらない。信をとってしまって、無条件で救う悲心とか、無作の大悲、摂取不捨の大悲という言い方の方がもっと心にしっくりとくるね。

 

B君 さっき君は元祖の一枚起請文の「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・・(途中省略)・・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」は欲生だ言ったが、その言い方は心にしっくりとくるのか。

 

A君 それはしっくりしている。「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思って」いるし、「皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思って」いるからね。その思いは現在の思いであり、将来の往生を信じているというものとは違うんだ。

 

B君 どう違うというのか。

 

A君 南無阿弥陀仏とは、摂取するとの大悲をそのまま受けとめている心の状態の事だ。だから大悲感受の状態を意味している。自分の心が南無阿弥陀仏の状態になってしまったと実感として感じ取ることができる。この南無阿弥陀仏の状態になると、浄土に連れてゆくというのが大悲であると感受されるから、この状態のまま自分は浄土に往生してゆくのだなと素直に思える。これはごくごく自然な思いだ。しかし、「浄土往生は本当にできるのか」という問題は先に言った「不確実な直接認識したり知覚することはできない不確実な事柄」としてまだ残っているのだ。これは知性の問題だ。だから、本当に浄土往生できるかどうかは死んでみなけりゃわからんという本音が心の底にある。そういう意味で「将来の浄土往生を信じている」とは言えないのだ。

 

B君 そうすると君のいう事をまとめると心を3つの心層に区分できるということになるよ。1つは「大悲感受の状態」(Aの状態)、2つは「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取っている状態」(Bの状態)、3つ目は「将来の浄土往生を信じている」状態(Cの状態)。この3つの状態があるというのだね。

 

A君 そういうことになるね。因みに私はAの状態とBの状態にはあるが、Cの状態にはないということになるね。

 

A君 上記のAの状態は至心・信楽に相当する。仏の至心である大悲をそのまま無疑の心で感受している状態は衆生の至心であり、信楽だ。心に感受し心に顕れている大悲が至心だと理解しても良い。大悲と大悲感受とは一体・一対だからね。上記のBの状態は欲生に相当する。Aの状態から自然と生じる思いだ。至心・信楽からごく自然に生じた欲生の思いだ。これらは心の中で一体となっているので、一心と言われるに相応しいものになる。これをボールを例にたとえれば、Aの状態が球の「真核」であり、Aの状態とBの状態とが不可分一体となって球の「中核層」を形成し、Cの状態がそれらの上に「表層」を形成していると言える。

 

A君 しかし、Cの状態はAやBの状態とは一線を画される。その理由は、生まれつきの信じるという心の作用がAやBの状態に働いたことでCの状態に至るのだが、妙好人の中にはCの状態に至っている人もいれば、「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っている人もいるだろう。すべての人が「死んだら間違いなく浄土往生だ」と信じているわけではないのだよ。

 

B君 「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取っている状態」(Bの状態)と「将来の浄土往生を信じている」状態(Cの状態)とは、区別が付きにくいが、確かに「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っている人にとっては、自分は「将来の浄土往生を信じている」状態になっているのか、一度は悩ましく自問自答することになるだろうね。

 

A君 「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っているとき、これは本当に他力の信なんだろうか、間違ったものを掴んでしまったのではないだろうかという思いが出てきて、悩んだりする事があるが、その区別はあまり気にする事はない。

 

B君 面白いもんだね。信じるという一般的な概念を分析的に解析してゆくと、信じる作用とは異なる心の作用があることが分かるんだね。そして、それを分類すると「狭義の信じる作用」「広義の信じる作用」と「最広義の信じる作用」と整理できた。この「最広義の信じる作用」には、先の「Aの状態とBの状態」になっているものと「Aの状態とBの状態とCの状態」になったものの2つを含むと理解する事になるんだね。

 

A君 だから、信じるという言葉が使われた場合、その人はどのような意味で使っているのかを正しく理解しなければならないという事だよ。Aの状態とBの状態とCの状態をひっくるめて信じるという言葉を使っているのか、Aの状態とBの状態を指しているのか。Cの状態だけに信じるという言葉を使っているのか、或いはそれ以外なのか。よくよく質問して確認しなければならないのが、この信じるという言葉なんだよ。それぞれ心の作用としては異なっているのだからね。

 

A君 歎異抄唯円の言葉として「⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」という言葉があったが、再往すれば、この「信じたてまつれば」とは、Aの状態とBの状態とCの状態をひっくるめて信じるという言葉を使っているのか、Aの状態とBの状態を指しているのか、そのいずれであってもおかしくはない。いずれにも解釈できる。Cの状態だけに信じるという言葉を使っていると決め打ちしなくてもいいよ。因みに「再往すれば」とは「翻って考えてみれば」ということだ。

 

A君 さて、さっきの君の質問に戻ろうか。表現の差異によってどうして質問者の受け止め方が違ってくるのか、というのが君の疑問なんだろう?

 

B君 そうなんだ。

A君 これには理由があるんだ。

B君 どんな?

 

A君 大悲を感受している者にとって大悲は有り難いものさ。だから、大悲を感じさせる言葉や表現に対しては心が敏感に反応するようになっている。しかし、反応が鈍くなる表現もあるのだよ。

 

B君 「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生する信心」という言い方は大悲から遠くなるのか?

 

A君 そうじゃない。現在大悲を感受していることに重要な意味があると思っている者にとっては現在感受している大悲がもっとも重要で大切なことであって、生きている上においてこれ以上に至高なモノはない。その大悲を感受している状態に代えて「信」とか「信心」と言われても何となくヨソヨソしい感じがするんだ。さっきも言ったが、「大悲感受」と、「信心という言葉」の間になにがしかのギャップを感じるんだ。どうしてそんな感じがするのかと言えば、感受している大悲をただただ仰ぐばかりなのに、どうして自分の側である信という言葉を持ち出すのか、という思いがあるためだ。ココは肌感覚の問題になってくるのだが、大悲を感受している者にとっては大悲をただただ仰ぐばかりであって「自分の側」に視点を向ける事はないので信という言葉は不要なんだ。「大悲」と「大悲感受」とは一体・一対だということを言ったが、そこでも同じことが言える。「感受」している自分の方はどうでもよくて、「大悲」だけでいいんだ。大悲だけで大悲感受になるからね。だから、いっそのこと、「信」とか「信心」という言葉を使わないで「摂取する大悲」という言い方の方が心にしっくりとくる。面白いだろう。あれだけ信が欲しいと思っていたのに信はいらないという事になるのだからね。これは大悲が成就された果上の南無阿弥陀仏にある「南無」が自力の思いを消尽させ、自力の思いに替わって「南無の無疑信」として私に備わったためだ。大悲を感受する南無の信が自分の意識下の心底深くに意識されない状態で備わってしまい、意識としてはただ大悲を感受するようになってしまったからだ。信そのものを意識する事はできないが、大悲は感受できる。だから大悲を仰ぐばかりとなる。他力の信を「仰」信というだろ。ただ人に行信の「信」を説明する場合には信の内容を説明しなければならない手前、どうしても信という言葉を使ってしまう。信という言葉を使って説明していても、自分でも何かヨソヨソしさを感じる。本当は信じるという言葉は使いたくないんだ。だから自分の心の内でハッキリと意識されている大悲感受を信という言葉に代えて多用するようにしているのさ。

 

A君 さて、反応が鈍くなる理由としてその他に考えられる事は、「念仏して往生する」という将来の事に関してはさほどの関心が向かないのかも知れない。その人がそうだと言っているのではないよ。一般的に考えられる理由という事だよ。世間でもよく言われるよね、「1年後の10万円よりも目先の1万円」というようなものさ。だから「本願を信じて浄土に往生できる信」と言われても、大悲を感受させる刺激としては十分なものにはならないということもあるのさ。しかし、肉体が衰えていよいよ命終が近いと感じたときには「浄土に往生できる」という言葉は非常に大きな慈悲を感じさせる、たいへんな意味を持った言葉として胸に迫ってくる。また、健康な現在でも今臨終という思いになってみれば、その有り難さはいや増しになるだろう。つまり、「念仏して往生する」という言い方に問題があるのではない。どう感じるかは本人の心の状態次第なのさ。現在は毎日大悲に感泣するという事はなくなったが、自分の臨終が近づけば近づくほど大悲に感泣してしまうだろうということを私は直感的に感じている。かつて臨終が身近に感じたときは大悲に感泣したからね。だが、忙しい毎日の生活で臨終を忘れるようになると、それとともに大悲に感泣する機会はずいぶんと減ってしまった。それでも臨終時には大悲に感泣してしまうことを直感的に理解しているんだ。自分にとって生命の危機的状況である臨終時が大悲を感受させる最大の機会になるとね。

                        

3-27.会話編 他力信の特性(現在性)-平生業成とは-

B君 平生業成と念仏往生の法義の違いについて布教師が解説した音声録音の文字起こしが、あるブログ(「浅川進の、宗教と私」)に掲載されていた。

 

A君 私も読んだが、そこで述べられていた平生業成と念仏往生の各法義を簡潔に要約して紹介してくれないかな。

 

B君 平生業成は、「阿弥陀さまのお助け」と「私が浄土へ参ることが定まる利益」との関係において阿弥陀様のお助けの働きには時間というものは存在しないことを表した法義であるということだった(要旨)。

 

B君 念仏往生は、浄土往生の果に対する因は如来の徳が私に備わっている事であり、その徳が私に備わっている事を、聖道の行に相対させるために念仏行で表す法義であるということだった(要旨)。

 

B君 この両者の法義は異なっており、区別しなければならないという趣旨の解説だったが、君はどう考えているのか。

 

A君 両者の名目が表そうとしている法義は互いに異なっているというのは理解できるが、異なっているというだけでは物足りない気がする。

 

B君 どういうこと。

 

A君 平生業成や念仏往生という名目やそれが表そうとしている法義は一体どういう具体的事象について述べたものか、またその事象の何について注目した概念であるのか、どのような意図の下に作られた法義であるのか、もっと深掘りしてみることが必要だと感じた。

 

B君 具体的事象とは、平生業成や念仏往生という法義を考える上で考察の対象になる現象の事だね。

 

A君 そう。考察の対象となる具体的事象とは大まかに言えば、元祖・祖師や妙好人の内心に大悲を感得し、念仏している事象のことだ。「内心に大悲を感得している状態」を以下、単に「内心の現象」ということがあるよ。

 

A君 平生業成や念仏往生という名目は、その内心の現象を観察し、その時代時代に応じた要請を受けて、宗教上の一定の目的の下に造語された用語だ。最初に押さえておかなければならない事は「内心の現象」とその現象を「観察」するということだ。次に考えなければならない事は、その内心の現象のどこに着目し、どのような時代の要請を受けて何を表すために成立した名目であるのか、ということだ。

 

A君 まず、「内心の現象」を「観察する」ということから議論しようか。

 

B君 平生業成や念仏往生の名目や法義の成立に先行して「内心の現象」が存在している、というんだね。

 

A君 その現象が先行して存在しているから、それを表す名目や法義が登場してくるんだ。

 

B君 「内心の現象」を大まかに言えば、仏の大悲を感得している現象の事だと言ったが、大まかにではなく、もう少し詳細に言えばどういうことになるのか。

 

A君 内心に生じている事象のことだから正確かつ詳細に述べるのは困難だが、共通項として言えるのは、自力の思いと言われるようなある種の思いや計らいが無くなり、大悲を感得している内心の現象のことだ。自力の思いとか計らいに関しては、私の場合に限定していえば別項(3-26)で詳しく述べたから、そちらを参考にして欲しい。

 

B君 大悲を感得するとどういう思いになるのか。

 

A君 大悲を感得すると、その大悲は私を浄土往生させるという大悲であると分かるから有り難いと思うとともに、その大悲に命の行き先を委ねてしまう思いになる。そのため浄土に生まれられるという思いになる。この浄土に生まれられるという思いを「決定往生の思い」という。「大悲の感得」と「決定往生の思い」に着目してほしい。また両者にはどのような関係があるのかにも着目して欲しい。

 

B君 次に、内心の現象を「観察する」とはどういうことか。

 

A君 内心の現象を意識を用いて眺め、思索し一定の評価や意味づけを与えるという事だ。ある事象に焦点をあてて仔細に眺めて分析し評価する心の機能のことだ。注意力といっても良いと思う。

 

B君 観察している状態とは、具体的にどのような状態なのか。

 

A君 そのことに答える前提として前置きしておきたい事がある。大悲を心で感受しているときに関する心の有様についてだ。その心の有様を大まかに言うと、①大悲を感受している意識状態と②意識が大悲から離れて「内心の現象」を眺めてアレコレと考えている意識状態の2つがある。意識状態は①から②へ、また②から①への切り替えが自由にできる。意識が大悲から離れたり、再び意識が大悲に向けられて大悲を意識している意識状態へと、意識は自由に移動できる。外界に意識を集中しなければならないときは大悲の事は忘れているが、外界に注意を向ける必要が無くなってぼんやりしているときには、意識が自然と大悲に向き、大悲を感受するようになる。いや、大悲を微弱ながらも感受しているから意識が大悲に自然と向かうと言うべきかな。

 

B君 意識を大悲に向けて大悲を意識している状態とは、どんな状態なんだ。

 

A君 観察者としての意識を大悲に向けると、大悲を感受する明確な意識状態になる。それで大悲の内側に入ったように感じになり、ただ大悲を仰ぐことになる。そこでは観察する自分という存在(自我)が薄れてしまう。大悲に委ねるという思いになるから、意識を集中させる事がなくなる。このため観察対象と観察者という2項対立の関係が緩んでしまい、自分という存在(自我)が薄れてしまうのではないかと思う。

 

B君 その状態では観察する自分という存在(自我)が完全に無くなってしまうのか。

 

A君 自我意識は薄れるものの、完全に無くなる事はない。自我は自我として存在している事を感じている。

 

B君 大悲を仰ぎ、大悲を感受する状態のまま、自我は自我として存在している事を感じているということだね。

 

A君 そう。そして意識が少し大悲からそれると、内心の現象と意識とが観察対象と観察主体とに分離されて、意識はアレコレと疑問に思ったり、考えたりする。これが観察している状態だ。この観察作用は、唯識で心所法の中の不定法に位置づけられている「尋・伺」に相当すると思う。講談社学術文庫「世親」(三枝充真)260頁の「推求」と「推究」参照。

 

B君 種類の違う心の状態や機能が併存しているということかな。

 

A君 そう。①大悲を感受する心の意識状態と②アレコレと考える意識状態が区別されつつも同時に併存することもある。大悲を感受する心の意識状態の中にいてどうしてこのような事が起こったのかと同時にアレコレと考えることもあるし、アレコレと考えずにひたり切ってしまうこともある。そのような状態から現実に戻って聖教などを読むと「さもあらん」という思いになってアレコレと思索することになる。この思索中に大悲を感受しつつ思索する事もあるし、そうした状態から脱していることもある。

 

B君 大悲を感受する意識状態とかアレコレ考える意識状態と言われても、分からない人にはとても分からない説明だが、分かるように説明してくれないか。

 

A君 何も難しい話をしているわけではないよ。例えば、怒りが猛然とわき上がってきた経験はあるかな。怒りではなくとも何らかの感情でもいい。

 

B君 そりゃあるさ。

 

A君 そのとき、怒りがわき上がってきたことを冷静に眺めている経験をした事はないかな。

 

B君 怒りがわき上がってきてそのまま感情を爆発させてしまうときは、冷静にその怒りを眺めていられる余裕はないが、抑制できる程度の怒りであれば、冷静に眺めている自分を感じることがあるよ。怒っていても冷静に自分を分析している自分がいるし、怒りが収まったあとは、どうして怒ったのかなど自分の心を分析することもできる。

 

A君 そのような経験はだれにでもあると思うが、自分の心を眺める心の行為はもともと持っていた心の機能が発揮されたものだ。そのような機能は生まれつき備わっている機能だ。

 

A君 さて、「怒りなどの感情がわき上がってきた状態」を「大悲を感受している状態」に置き換えてくれれば、分かり易いと思う。

 

B君 「感情がわき上がっている状態」を冷静に眺めているのがさっきの尋伺(アレコレと考える)の状態に相当し、「怒りの中に埋没してしまって冷静ではいられなくなった状態」がさっきの「大悲を感受して委ねきっている意識状態」に相当すると言いたいんだね。

 

A君 そういうことだ。「大悲を感受している状態」と「感情のわき上がり」が大きく異なっているのは、大悲を感受している状態はおだやかで波乱はなく、静かで慈愛に満ちているということ。また常に微弱ながらも大悲を感受しているから意識が自然とその大悲に向かう。意識が大悲に向うと大悲感受を意識する明確な意識状態に移行する。

 

A君 ところで、自我意識は注意をその対象に向けたときに意識される、意識する主体を意識している意識だ。対象にのめり込むと自我意識は薄れてゆく。禅の境地と真宗の信に親和性が認められると言われているのは、信の状態で自我意識が薄れ、大悲に埋没すれば自我意識を感じ無くなる心境に到達する事があるからだと思う。

 

A君 大悲を感受する意識状態の信とそれを尋伺する意識、同じ心の中に異なった機能がある。意識はいつでも自由に移動させる事ができ、大悲に意識を向けて大悲の中に入り込んで大悲を感受する事もできるし、そこから離れて大悲を眺める事もできる。これは大脳のもつ高次脳機能のひとつだろうね。

 

B君 そのことは平生業成や念仏往生の法義を理解することとどう関係するんだ。

 

A君 平生業成や念仏往生とは、いわば大悲を感受している状態を横から眺めて観察(尋伺)し、その大悲を感受している状態をどのように説明したらよいか、あるいはその状態はどのような宗教的な意味を持っているのかとアレコレと考えている場面(悟性を働かせている場面)で使われる用語であり、一定の宗教的教えを担っている概念だ。それは、ともに同一の内心の事象について観察し宗教思想として考察した結論を教えたものだから、互いに異質ではあり得ないし、相反するものにはなりえない。

 

B君 「平生業成と念仏往生の異同を述べよ。」という問題が出されたとしたら、「同じ」であると言える場面があると言いたいんだね。

 

A君 「2つの事象の異同」を問われた場合、両者はまったく異なっていて共通点は一切無いのか、全く同じであって異なる点は全くないのか、或いは、異なる点は見受けられるが、同じ点も見受けられるのか、を検討しなければならないよね。「平生業成と念仏往生の異同を述べよ。」と問われたならば、法義として異なるということを言っただけではその一部しか回答していない事になる。

 

B君 両者が同一の事象について述べられた法義だという君の主張は分かったから、先を続けてよ。

 

A君 では平生業成の法義について、もう少しつぶさに述べてゆくよ。

 

A君 平生業成とは「阿弥陀さまのお助け」と「私がお浄土へ参ることが定まる利益」との関係を表した法義であり、阿弥陀様のお助けの働きには時間というものは存在しないという事だったよね。この意味はすぐに理解できたかな。

 

B君 読んですぐに理解はできなかったけど、よく読むと分かった感じになったよ。

聖道の行は行果が現れるのに時間がかかるが、阿弥陀様のお助けの働きには時間というものがない。だから、働きが現れると同時にその利益として「浄土へ参ることが定まる」という他力救済の法義を表しているということだった。

 

A君 そういうことだが、「阿弥陀さまのお助け」とは具体的にどのような事象として私の上に現れてくるのかについては言及されていなかったので、それを自分の頭の中で補って考えなければならない。そのためにこれまで時間をかけて述べてきたんだ。

 

B君 つまり「阿弥陀さまのお助け」は具体的には大悲を感受している状態として現れてくるというんだね。

 

A君 そう。「阿弥陀さまのお助け」が具体的な心的事象として現れたのが、大悲を感受している状態だ。これは信のことだね。もちろん「阿弥陀さまのお助け」は念仏行としても現れるのだが、称名は平生業成とは直接関係しないので、ここではとりあえず横に置いておくよ。大悲の働きはまず大悲感受の信として顕れる。この信に必ず伴うのが「私がお浄土へ参ることが定まる利益」だということになる。

 

A君 「私が浄土へ参ることが定まる利益」とは往生決定のことだ。大悲感受の信の信益として往生が決定したということだ。「阿弥陀さまのお助け」に時間という観念はないとの解説だったよね。その言わんとするところは、「阿弥陀さまのお助け」の働きが現れたと同時にその利益が与えられるという他力救済の原理を平生業成は表そうとしているということだが、その意味する所を一言で言えば、起信と同時に信益があるということになる。大悲の働きによって信が起こるということは、大悲を聞くままが即ち信という聞即信の法義が平生業成にはあるということになるし、信益同時という法義があるということだ。この法義の根拠を求めると、願成就文の「聞其名号・信心歓喜・(乃至一念至心回向)・願生彼国・即得往生・住不退転」に求められるだろう。つまり祖師の聞即信・現生不退(現生正定聚不退転)の法義を継承しているということだよ。

 

A君 平生業成には他にも重要な意味があると思っているよ。

B君 というと。

 

A君 大悲が働く場は「現在」しかないということだ。過去でもなく未来でもなく、

現在にしか大悲は現れ出ないということさ。

 

B君 つまり大悲は「過去のどこかの時点で働いたことがあったが、現在ではもう働いていない。」ということではなく、また「現在は働いてはいないが、未来に働く。」ということでもないということだね。

 

A君 そう。それが「平生」に込められた重要な意味だ。ここでいう「現在」とは、「現在」と認識されている現在の事だ。これを「現在意識」と言っても良い。「私達は常に現在を生きている」とか「永遠の今を生きている」というときの現在や今のことだ。平生は現在とか今ということと同義だ。死ぬまでの生きている間という未来を含んだ意味ではない。

 

A君 ここから重要なことが導かれる。

B君 どんなことか。

 

A君 私は信前に「将来、仏によって助けられる」と思っていた。この思いには2種類あって、一つは宿善を積んだ将来に仏の救いに預かることができるという思い、もう一つは、私は善行を積まなくても仏の力によって将来に仏の救いに預かることができるという思いだった。

 

B君 うん。それで。

 

A君 「現在働いている大悲を現在享受すること」と「将来の救いを願う思い」とは、相互に相容れない関係にある。「将来の救いを願う思い」がある間は、「現在働いている大悲」を現在享受することはできない。だから「将来仏によって助けられる」という思いは、現在働いている大悲の働きを阻害することになる。大悲はつねに現在働いているのだから、その働きをそのまま発揮させればよい。流れている水は流れるままにすればよい。吹いている風は吹いているままにすればよい。大悲の働きは大悲のままにすればよい。それを妨害してはならない。大悲の働きを妨害しているのが「自力の計らい」とか「疑蓋」と言われるものなのさ。

 

B君 「自力と申すことは行者のおのおのの縁にしたがひて、・・(途中省略)・・わがはからいのこころをもって心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。」と祖師は言われている(親鸞聖人御消息・聖典第2版746頁)。どうしてこのような思いが自力といわれて嫌われるのかな。

 

A君 今の話に関連させて言えば、大悲は現在働いているのに、行果が将来にしか現れない自力聖道の行を大悲を享受するに際して持ち込もうとすると、現在働くべき大悲が現在働かなくなってしまうことになるからだ。「わがはからいのこころをもって心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうな」そうとしているのは、将来助けられると思ってそうしようとしているものだから、大悲の現在の働きを将来の救いの事と先送りにしてしまい、大悲の働きを享受することを阻害していることになるんだ。自力の計らいと言われるのは他力救済に反する自分の思いを差し挟むからだ。

 

B君 そうすると、「心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうしよう」と思うか思わないかが重要ではなくて、現在働いている大悲を現在享受しようとしない事が問題だと言うのだね。

 

A君 そういうことさ。その良い例が「私は悪人だから助からない」と自己を卑下する思いだ。この思いも現在働いている大悲を現在享受しようとしない思いだよね。同じ理由で、この思いも自力の計らいになるんだ。

 

B君 「心口意のみだれこごろをつくろひめでとうしよう」と思うと否とを問わず、「いずれ将来助けられる」と思っている思いも「自分は助からない」と思う思いも、どちらも現在を場として働く大悲を働きを阻害する自力の計らいになるということだね。

 

A君 私が信前において「いつか仏の力によって将来に救いに預かることができる」と嬉しくなったときの思いも、その正体は実に自力の計らいだったんだよ。思うに、この自力の計らいというものは、その根っこは無意識の心の奥に根付いて地下茎のように張りめぐらされており、それが意識内に現れてくるとさまざまな思いとなって心を覆ってしまうものだと思う。

 

B君 自力の計らいを「疑蓋」というのは言い得て妙な表現だね。

 

A君 ところで、大悲の働きが私の心にそのまま働くと大悲を享受し、大悲を感受することになるのだが、「大悲の働きが私の心にそのまま働く」とは、大悲の働きと私の心の間に自力の計らいがいっさい介在していないことだ。だから、大悲を感受している状態とは自力の計らいが廃った状態であり、自力の計らいが廃った状態とは大悲を感受している状態ということになるんだ。

 

A君 そして、自力の計らいの根っこが無くなってしまうと、これまで自力の思いを生じさせていた部分に大悲が入れ替わって充満することになるので、大悲が感受されるようになる。微弱ながらも大悲が感受されるようになるから自然と意識が感受されている大悲に向かうようになる。意識が大悲に向かうとより明確に大悲感受が意識されるようになる。そうなると、感受される大悲に命を委ねる思いになり、決定往生の思いに展開してゆくのだと思う。その結果、御名を憶念し自然と念仏を称えられる事になるんだよ。仏様の清浄な涙の一滴が疑蓋の根っ子を消滅させ、やがて心に広がって大きな意識として増幅され大河となって念仏として体外へと出てゆくというイメージだろうか。

 

A君 話を元に戻すよ。以上の事を踏まえると、平生業成という法義はチョット長くなるが、次のように言い換える事ができる。「仏の大悲は常に私の現在意識を働く場として働き、その働きは大悲を現在感受する事象として心中に現れる。ひとたび大悲を感受すれば大悲は常に心に働き続け、常に現在大悲を感受できる。」「その大悲を感受すると同時に往生決定の思いになる。」とね。

 

A君 上記の「」内の表現はこれからしばしば使用したいのだが、長くなるので簡単な表現に置き換えたいと思う。「仏の大悲は常に私の現在意識を場として働き、・・(途中省略)・・ひとたび大悲を感受すれば、・・(途中省略)・・常に現在大悲を感受できる。大悲を感受すると同時に往生決定の思いになる。」ということを全てひっくるめて簡単に「南無阿弥陀仏の心的状態」ということにするよ。「大悲に摂取されて大悲を受け入れている」ことを表している言葉が南無阿弥陀仏だから、これを南無阿弥陀仏の心的状態と言い換えることができる。南無阿弥陀仏は心の状態をも表しているのだ。最初に述べた「内心の現象」はこのことだよ。

 

B君 心が南無阿弥陀仏の状態になっていることは、平生業成だけではなく、念仏往生が表す法義にも当然に備わっていることじゃないのか。

 

A君 平生業成も念仏往生も「南無阿弥陀仏の心的状態」を前提としている名目であり、法義だ。ただ、同じ事象を眺めていてもどこに重きを置いて眺めるか、またどのような宗教思想的意味を与えて説明するかによって説明方法や説明用語が異なってくる場合がある。「大悲は現在を場として働き、大悲を感受すること常にして、その大悲感受により往生決定(の思い)に安住する」という心の状態そのものに着目し、それは仏様のお助けが働いたからだと理解し、そのような宗教的意味づけを与えれば、平生業成の法義になる。これに対して、念仏往生は、その南無阿弥陀仏の心の状態を前提として、往生の因果の因は自力の思いを離れた信具足の念仏にあると行行相対して示すところに重きを置いているということだったよね。

 

B君 心の状態が南無阿弥陀仏となり、その心の状態がそのまま称名となったのが他力の念仏だよね。この他力念仏は大悲の徳がそのまま行者の心身に備わっているので念仏が往生の因となるというのが念仏往生の法義だというんだね。君がよく言う「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行となって往生する」ということだね。

 

A君 念仏往生の場合には、南無阿弥陀仏の信行を仏様が選び取られた選択本願の念仏であり、これが往生の因であると理解し、信具足の選択本願念仏が往生行であるとの宗教的意味づけを与えた上で、その信具足の選択念本願仏行を諸行と相対させる所に念仏往生の主張があるということになる。念仏往生は平生業成とは少しばかり違う軸足に立っていることが理解される。これを私なりに言い換えると、念仏往生は平生業成の法義を含み持っているが、他力念仏を諸行と相対させるために往生の因として選択本願念仏を前面に押し出した法義だということになる。だから、両者はまったく同じだとは言えないが、もとになっている根っこは同じだ。

 

B君 平生業成には念仏を諸行と相対させる意図はないが、念仏往生にはその意図がある。その違いによって、往生の因を信具足の念仏行をもって表すか否か、信の状態に着目して仏様の力用による他力救済を強調するか否かの違いになってくるということだね。

 

A君 平生業成が指し示している事象は心が南無阿弥陀仏の状態であるから、念仏往生の信と同じだ。だから平生業成は当然に称名念仏として展開してゆく事を予定している法義だ。言い換えると、念仏往生のうちにある信と信益に特に注目してその関係を取り出して説明した法義が平生業成だと思う。

 

B君 元祖が一枚起請文に「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・・(途中省略)・・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」と言われているよね。

 

A君 「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思う」とか「決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う」が信であり、「疑いなく往生するぞ」と思うところに信益としての決定往生が信と同時にあるということが分かるよ。だから元祖の上記法語にも平生業成と同じように「聞其名号・信心歓喜・(乃至一念至心回向)・願生彼国・即得往生住不退転」の思想があるんだ。

 

B君 では南無阿弥陀仏の状態をどうして異なる法義として表さなければならなかったのかという問題に移るが、どうしてなんだい。

 

A君 念仏往生は、聖道門の寓宗であった浄土門を聖道門から区別し独立した宗として建てるには、聖道の行果とはまったく異なる法義を建てて顕さなければならなかった。これは元祖の時代的要請だった。聖道の行果に相対して往生の因果を顕すために選択本願念仏往生という名目と法義が必要だった。その念仏とは如来の徳が私に備わっていることを顕す信具足の他力念仏のことだ。この念仏に備わった仏の徳によって私の往生が果たされるというのが聖道に対する念仏往生の主張だったんだ。

 

B君 それに対して、平生業成は、仏の徳が備わるのは仏の救いが現れたときに直ちに備わることを顕す法義であり、仏の救いは何らの計らいをまじえずに大悲を感受する信として現れ、その信のときに往生が決定することを主張する法義だったんだね。

 

A君 平生業成は自力念仏では現在の仏の救済には預かれない事を示す明確な目的の下に信と信益の関係に着目し仏様のお救いが働くやいなや、その救済が現れて同時に往生決定の信益が与えられるという他力救済を表すところにその意義や目的があったんだ。これは自力・他力を問わず念仏が盛んになった世相を背景に、他力による救済を明らかにしなければならない時代的要請に応えるための名目だと言える。

 

A君 その法義は、願成就文に淵源を持つ祖師の現生不退とか現生正定聚不退転の思想と同じ法義だし、上記の元祖の一枚起請文にもその思想は現れていると言える。だから平生業成という名目は、名目だけが新しくなったものであり、その法義は決して新しいものではない。

 

B君 今回、「他力信の特性(現在性)-平生業成」というタイトルにしたのには何か意図はあったのか。

 

A君 先の項(1-30)に他力信の特性の1つとして「③現在性」を挙げたが、その現在性とは先に述べたとおりだ。仏の大悲は常に現在意識を場として働き、その働きは現在大悲を感受する事象として現れる。ひとたび大悲を感受すれば大悲は常に現在意識(心)に働き続け、常に現在大悲を感受し続けてゆく。この特性を「現在性」と言ったのさ。この現在性という信の特質を表すには平生業成の方が適している。だから「他力信の特性(現在性)-平生業成」というタイトルにしたんだ。

 

B君 先の項(1-30)に「⑲念仏発動性は、信は無量光寿の大悲を感受すれば必ず念仏行として発動するということ。念仏行として発動しない信はないということ。⑳念仏一体性は、信は念仏発動の心源として念仏と一体であるということ。念仏は無量光寿の救いの法源として、また大悲を感受させる法源として信と一体であるということ。」の2つが挙げられていたが、この二つの特質は念仏往生に現れた信の特質ということかな。

 

A君 そうだね。この2つは平生業成では表せない信の特質だ。⑲念仏発動性は、信は必ず念仏にて往生するぞという思いになる。念仏とは私が声帯を使って音声化する行為に価値があるのではなく、称される南無阿弥陀仏の心的状態が仏徳を顕しているから、信は、その心的状態を顕している念仏にて往生するぞという思いになり、必ず念仏として発動するようになるということを、⑳念仏一体性は、念仏(南無阿弥陀仏)は仏徳を顕しているから、大悲感受の信を発動させ、信を刺激し継続させる事になるということを、つまり信と念仏とはこのように互いに密接な関係にあることを示したものだよ。念仏往生に顕れた第十八願の信行には信行不離の特質があるということだ。これを平易に言えば、大悲を感受しつつ念仏し、念仏する内側で大悲を感受することができるということだ。

 

A君 私はこのような心理的現象が生じるのは超自然的な現象ではなく、ごくごく自然な現象だと考えている事も付言しておきたい。意識がどのように生じるのか、いつ生じるのか全く分かっていなくても、意識が自然に生じるような自然な現象だと思うんだ。自然現象だから誰にでも起こりうる一般的な可能性があるということだ。「あたかも鉄が磁石に引きつけられるように、誰でもがその大悲に牽かれて大悲の世界に近づいていき、最後には鉄が磁石に接着するように急速に回心現象が起きる。」と思うんだ。祖師が晩年になって他力を「自然」と呼ばれるようになったのもこのような自然な働きであることを感じられたのだろうと思うよ。

3-26.会話編 他力信の特性-回心とは-

B君 祖師は信に一念があると教えられたが、その文言上の根拠は無量寿如来会の「一念の浄信」という文言にある。その上で十八願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の「一念」を信の一念と理解された。この信一念は信が開発する初起一念と理解されているが、ここで疑問に思うのは、この初一念はその初一念のときに自覚的に認識できるのか、或いは初一念時には自覚的に認識できなくても、事後的に実際の信体験の上で初一念を想定ないし認定することができるのか、ということだ。

 

A君 どうしてそんな事を考えたのか。

 

B君 「聞其名号信心歓喜乃至一念」の一念は行の一念とするのが元祖の解釈だが、祖師が大経に直接の根拠の無い信一念をわざわざ異訳の無量寿如来会の文に根拠を求めたのは、祖師の信体験の上から、よほどの事情や理由があってそうされたのではないのかと思うんだ。

 

A君 つまり祖師には初一念のときに自覚的に初一念を認識できた、ないしは事後的に初一念を自ら想定ないし認定することができたと考えているんだね。

 

B君 うん。それにね、少なくとも事後的に初一念を想定することができるものでなければ、信一念は観念的ないしドグマであると言われかねないことになる。

 

A君 君は信一念を観念的な理解にとどめずに、実証主義の立場からさまざまな信体験において信一念を必ず見いだすことができる、と考えているんだね。

 

B君 そう。そのような考えが正しいかどうかは、数多くの信体験のサンプルが必要になるし、そのサンプルは回心という心理的現象が可能な限り正確に叙述された精度の高いものでないといけない。精度の低いサンプルだと誤答につながるおそれがあるからね。

 

A君 確かに信一念を観念的な教義レベルに終わらせるのではなく、信体験に信一念があることを実証的に確認してゆく作業を行った研究はこれまでになされたことはないだろう。そこに目をつけたのはどうしてなんだい。

 

B君 信一念は自覚的には分からないという論調が多く見られるよね。おそらくこの論調は、初一念のときに自覚的に信一念を認識できなければ他力信ではないという主張に対して反駁するところに意味があると理解されるが、事後的にも初一念の有無を想定することができないのか、ということが疑問になってきたんだ。

 

A君 確かに祖師は「建仁元年辛の酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す」とだけ言われていて、自らの信体験を詳述した著作はない。だから詳しい事情は分からないが、建仁元年という年単位のスパン内で信体験があったと認識されていたことは確実に分かる。その信体験が特定の年度に起こったということは、その年の1月に起こったか2月に起こったか、ないしは12月に起こったか分からないというものではないだろうと推測できる。

 

B君 自らの信体験を事後的に評価してみると、あのときに信が開発したと理解されたということなのか、それを知りたいと思ったんだ。

 

A君 信一念が自力が廃って如来の救いを受け入れるときのあるべき理念であるというのは理解できるし、自力の計らいがどこかの時点を境にしてなくなったという実感の上からも信一念の存在を首肯することができる。しかし、初一念を自らの信体験の上に見いだそうとして事後的に認定する作業を丁寧に行うにしても相当な困難がつきまとうのも事実だ。

 

B君 そう。だからここで2つの選択肢が考えられるんだ。①1つは信一念という教義はドグマに過ぎないと理解し、信体験における初一念を認定する作業を放棄する。②2つは信一念はドグマではないし、事後的に信体験の上に見いだすことができるという確信の下に信体験における初一念を認定する作業を行ってみる。僕は②の方向を目指しているのだ。

 

B君 そこでA君の信体験を聞かせてくれないかな。

 

A君 ん?君の研究材料にしたいと言うんだね。まぁいいか。参考になるかどうか分からないし、君を収拾のつかない解決困難な混乱に導く事になるかもしれないよ。

 

B君 それでもいいから聞かせてくれないか。

A君 では、一つの参考程度に聞いておいてほしい。

 

A君 私が人生後半にさしかかったある日の夜、自宅ベッドの上でふと天井を見上げたとき、病院の病床で同じように天井を見上げている自分を想像してみた。老病によっていずれはそうした日が確実に来ることは間違いがないと思ったとき、蓮如上人の「雑行雑修自力の心を振り捨てて一心に阿弥陀如来、我らが今度の一大事のご後生、御助け候とたのみ申して候。たのむ一念のとき往生治定、御助け一定と存じ喜び申し候。」という文がふと思い出された。わざわざ宿善を積む難行によらずとも自力の思いを振り捨てて帰命すれば救われるんだと思えた。このとき人生で初めて心から阿弥陀仏に救われてみたいという思いになった。それで死のことが再び、問題になりはじめた。

 

B君 それ以前は救われたいという思いになったことはなかったのか。

 

A君 大学入学時に「阿弥陀如来に救われると壊れない幸せになる」と聞いたときはそうなりたいと願うようになったが、私の言う「初めて救われたい」という思いはその思いとはまったく異質なものだ。

 

B君 どうちがうのか。

 

A君 「壊れない幸せになりたい」という思いは「自力の思いを振り捨てて帰命する」という救済の視点というか要の抜けた、あこがれめいた思いに過ぎない。

 

B君 「自力の思いを振り捨てて帰命する」という救済の視点が定まったことで、その意味を知りたいと思うようになったんだね。

 

A君 単に意味を知りたいというだけではなく、そこにしか如来の救済が現実的に起こる場所はないという思いや感覚になったんだ。                                       

B君 なるほど。「壊れない幸せ」という観念に踊らされるのではなく、お聖教の文の中に「現実的な救済」が書かれていると理解したということだね。

 

A君 そう。これが長らく続いた呪縛から自由になった最初の踏み出しになったと思う。

 

B君 それで君の言う「死の問題」とはどういうことか。

 

A君 臨終に向かったときに自分の心の状態に大きな問題がある事に気づいてしまったということだ。これは以前から心に感じていた問題ではあったが、自力も他力も何も分からないまま死んで逝くことの重大さを再び思い出したということだ。頼るべきものや体を失って命を永遠に向かって放り出すとき、いい知れない不安に陥るという心の問題はまだ解決されないまま残っており、もう一度この心の問題に取り組もうと思ったということさ。

 

B君 それで。

 

A君 自力の思いを振り捨てて帰命すればその心の問題が解決がついて救われると思ったのだが、自力の思いというものがそもそもどういうものか分からなかった。だから帰命ということも分からなかった。そう思うとこれらを理解できない限り信は得られないと思えて落ち着かない気持ちになった。だから、二十歳代後半に精神的に捨てたはずの真宗を、もう一度はじめから自分の力だけで、他人の影響を受けずに心から納得のいくまで勉強し直してみようと思い立ったのさ。

 

B君 独自に勉強したのか。

 

A君 そう。可能な限り真宗の本をネットで購入したり、本願寺で購入して読んでみたよ。本を読んでも自力の思いと帰命のことは分からなかった。だからインターネットで法話の情報を入手しては本願寺などに説法を聞きに行ったり、とびきり優秀な知人が某会を脱退して信も得ているとネットで公表していたので、その人に東京まで来て貰ったりもしていた。しかし、いずれもいずれも聞いても分からない。何一つとして心から分かったという感じがしないんだ。

 

B君 うん。

 

A君 何一つとして自力も他力も分からないという思いのまま助かりたいと思って、宿善になるとかつて聞いていた正信偈などの拝読をその頃毎日数回から十数回の頻度でこっそりと行ったりもしたし、それに伴って念仏も称えてみた。拝読という読誦正行に相当な重きを置いていたのだが、そのうち読誦は自分が続けてできる行ではないと思うようになり、面倒くさい拝読よりも念仏の方が浄土の行としては簡単で効率的だと思うようになった。

 

B君 うん。念仏以外の行はある意味すべて難行だ。それで。

 

A君 何も分からないまま死んで逝くことの重大さに気づいたことから感じた、あの取り返しの付かない不安感はあたかも潮が引いてはまた満ちるように不安と安定とが交互に繰り返す日々が続いたんだ。その思いから法話を聞き求めるのだが、聞いても聞いても分からない。不安な気持ちになると救われたいという思いが心をとらえて離さないようになっていった。日々、そんな思いに囚われる時間が次第に長くなっていったように思う。そんなときだよ。こんな心の状態のまま死んで逝くのかとはじめて死に臨んだときの心境が現実の問題になったんだ。つまり現在の心境は命終時の心境とまったく変わらない。命終時の心境が現在の心境だということになると、命終の心境が極めて身近になるとともに死がグッと身近なものに思えるようになった。現在の心境が命終の心境であると理解できたことで現在と命終とが現実問題としてひとつにつながったんだ。そうなると、今日、明日死ぬかも知れない。そうなったらどうなるんだろうと深刻な気持ちに陥った。それでますます他力の信が欲しい、阿弥陀仏に救われたいと心から願うようになった。そう願うようになるとますますこのまま死んだらどうなるのかという思いに囚われる時間が長くなってゆき、ますます苦悩するようになった。その2つの思いが繰り返しながら続くんだ。これは心の病理現象じゃないかと思った。

 

B君 いずれ助かるだろうとは思わなかったのか。

 

A君 いや、思った時期があった。病理段階が深刻化する前にいずれ助かるだろうと思えた時期があった。必ず助けるとの大悲があると思っていたからね。だから、いずれは助かるだろうと思えたときはそれは嬉しかったものさ。でも、その救いがいつになるのかと考えると再び不安に陥った。いずれは助かるだろうと思うものの心は苦しかった。これが「若存若亡」と言われるものかと思ったよ。

 

B君 それでだんだんと絶望するようになっていったのかな。

A君 それはまだもう少し先の話。その前に自力の思いというヤツに気づいたのさ。B君 自分の心の中に自力の思いがある現実に気づいたんだね。

A君 そう。他力の信が欲しい。助かりたい、助かるだろうという思いが自力の心だと気づいてしまったんだよ。

 

B君 何がきっかけで気づいたのかな。

 

A君 助かりたいという思いは、まだ助かっていないという思いの裏返しだ。まだ助かっていないという自覚的な思いがあるから助かりたいという思いになって念仏を称えるという心理状態になっている。この心の中で起こっている現実に気づいたとき、この心理状態から一歩も抜け出ることができないことに気づいたのさ。念仏を称えてもまだ助かっていない状態のままだ。来る日も来る日も自分は助かっていない現実に否応もなく気づかされる。そのときにこの心理状態から抜け出られない限り、他力の信は得られないし、助かることはないのだと思えたんだ。そしてこのとき、これが捨てるべき自力の思いだと気づいてしまったのさ。

 

B君 蓮如上人の「雑行雑修自力の心を振り捨てて」の自力の心がどういうものか

分かり始めたということだね。

 

A君 諸善を行じて助かろうという思いはもともとなかったが、読誦という助業を念仏に優先させていた思いが雑修、念仏で助かりたいとの思いが自力であると思った。その頃、その教学上の区別は付いていなかったが、雑行雑修という行をなす思いというものはみな助かりたいという思いを共通にしており、この助かりたいという思いが自力の心だと感じたんだ。

 

B君 うん。自力の計らいという問題は深刻な自分の心の中の問題であると分かったんだね。

 

A君 そう。これはたいへん深刻な問題だった。その心理状態から抜け出ようとしても一歩たりとも抜け出ることができない。抜け出ることができない時間が無為に過ぎてゆくだけで、このまま死んで逝くしかないのかと思えた。そう思うと助かりたいと思うが、この思いがそのまま自力の心で、助かりたいと思えば思うほどその自力の思いで心が完全に八方塞がりになってしまう。心が厚さ1メートル以上もあるゴム状の球体の中に閉じこめられて、内側から壁に体当たりでぶつかっても跳ね返されてしまう思いだった。自力の思いの事を「薄皮一枚ままならぬ。」と表現された妙好人がいたことを思い出したが、とてもそういう感覚ではなかったよ。

 

B君 その心理状態に陥って説法を聞いていたんだね。

 

A君 そう。だからどうすればこの八方塞がりの状態から抜け出られるのかとばかり布教師に質問していたよ。

 

B君 聞くべき所を聞かず、自分の心ばかりを見ていたんだね。

A君 そう。

B君 自分の心ばかりを見るのではなく、大悲を聞くんだと教えられなかったのか。

 

A君 教えられた。でもその意味が皆目分からなかった。「その大悲が分からないから質問しているだ。」などと食ってかかる勢いで質問したよ。

 

B君 大悲が分からないから自分の心しか見えないんだね。

A君 そうだね。これには参った。もう自分ではどうにもこうにもならなくなった。

B君 それが自力と他力の断絶という絶望感だね。

 

A君 そう。絶望するしかなかった。助かりたいと思った瞬間、それがすぐに自力の思いに転化するのだからね。本当に「自力地獄」といっていい状態だよ。これが自力の思いに囚われた者の心理状態だ。祖師が「疑網」と言われた意味が分かったような気がしたよ。自分の助かりたいという思いがマスクメロンの網状の1本1本の固い筋のようにたちまち心を覆って心を閉じこめてしまう感覚だ。

 

B君 それからどうなったのか。

A君 この悶々とした状態がしばらく続いたよ。

B君 その先を聞かせてくれないか。

 

A君 「自力地獄」に陥るとそこから抜け出ることはできないと観念しかけていたとき、ある布教師の説法で如来の大悲が私にかけられていることと大悲が届いているということをことを聞いた。それが心に残って、それはどういうことなのだろうかと自問自答した。そうこうするうちに、形のない大悲が大経という形を取って七高僧へと本願が連綿と伝え続けられ、それが現代にいたって法話という形を取って今私が大悲を聞いているのだと気づいたのさ。そのとき、連綿と伝えられてきた大悲はこうした歴史的な具体性をもった力になって私に届いていたのかと思えるようになった。そしてこの大悲の力はその後どうなってゆくのだろうかというところに思いを至したとき、この大悲の力は私をそのまま浄土へと引き連れてゆくのかなぁと思えた。そのときに頭の中で何かがはじけて分かったような気がして、大悲を感受する思いになり、感涙するようになった。このときを「A時点」というよ。このときはこれが救いであるのなら、何と簡単な救いであろうか、これ以上に易しい救いは他にはないと感じたよ。

 

B君 大悲が届いていると気づいてどうなった。

 

A君 そう気づいても救いらしき手応えはないままだ。後生のことは分からないままだし、地獄の底で仏の呼び声とやらは聞いていない。手応えがないから自分はまだ救われていないという根強い思いはそのまま心の中に残ったままだった。

 

B君 それで。

 

A君 ある日、その同じ布教師の説法を聞いたとき、その布教師が話す阿弥陀仏の慈悲の言葉が、あたかも阿弥陀仏自身が私に語りかけているような感覚になった。これが大悲が届いているということなんだと納得できた。このとき、阿弥陀仏の直の声が聞こえたということではないよ。「あたかもそう聞こえた」ということだよ。そのことはそのときにも自覚的に認識していたことだった。いうなれば布教師の言葉に阿弥陀仏の大悲が乗って私に直接届いたという感覚であったから、「あたかもそう聞こえた」ということだ。この時点をB時点というよ。

 

B君 それで。

 

A君 ご示談の時間になったので、そこで真っ先に質問した。「今日は布教師の先生の言葉が阿弥陀仏が説法しているかの如く聞こえて、大悲が私に届いていることが分かった。さあ、問題はここからどうすればよいのか。」と質問したのさ。今から思えば、ずいぶんと間抜けな質問をしたと思うが、そのときはそれなりに必死だったんだ。

 

B君 どのような回答があったのか。

 

A君 「もうそれで終わり。気づけば終わり。」だと言うんだ。「大悲が届いてることに気づいたのに救われていないと言うのは迷いが深い。」とも言われた。

 

B君 すぐに理解できたのか。

 

A君 理解できなかった。大悲が私に届いている思いとともに大悲に感涙する自分がいるものの、他に何ひとつ変わったことはなかった。これでおしまいと言われても、救いというものがどういうものなのか分からなかった。

 

B君 それで。

 

A君 大悲を感受しているものの、このままが救いであると言われても本当にこんなに簡単な救いであっていいのか、という思いがあった。また、大悲を感受して感涙しているものの、これが他力の信心ではなかったら、私の後生は一体どうなるのだろうかという思いも残った。

 

B君 それで。

 

A君 それで繰り返し繰り返し自問自答したし、祖師が住まわれた稲田にあるお寺に行って得られるはずのない指南を祖師に求めた。何かが感じられるかも知れないと思って祖師の見返り橋に立ってみたりもした。言葉としての教えは聞くことはもちろんできるはずもないが、ここに行って気づいたことは、仮に私が救われていないとしてももう自分のできることは何ひとつ残されていない、ということだった。後生がどうなるのかについてはこれまでと同じように何も分からない。このまま死んで逝くしかない状態は何も変わることがなかった。でも、その命終時に私がどうなるかは今この私に届いてる阿弥陀仏の大悲次第だと気づいて思いが変わってしまったんだ。心が翻ったような感覚、命終の先に体ごと倒れ込んで飛び込んでいくような感覚を覚えた。大悲のままに死んで逝けばよいだけだったと思えた。その後はただただ大悲に感涙するだけだった。この時を「C時点」というよ。

 

B君 それが君の回心の体験だったんだね。

A君 今思えば、そうだったのかなと思える。

 

B君 信一念というのが分かったのか。

 

A君 いや、いつが信一念だったのかはそのときそのときに自覚的に分かったわけではない。ある状態から別の状態へと確実に変化したということは分かる。その時点が「A時点」という瞬間なのか「B時点」という瞬間なのか、「C時点」という瞬間なのか、或いは「A時点からC時点」を含んだ連続した期間にかけて生じた変化だったと理解して良いのか、そのときは正直言って分からない。ただ有り難うございますと感涙するだけで精一杯だった。

 

B君 それが、自力から他力へ変わってしまったと考えている根拠なんだね。

 

A君 そう。根拠はそれしかない。

 

B君 その後、死んだ後どうなるかという不安や助かっていないのじゃないかという不安は起こってこないのか。

 

A君 起こってこない。「大悲を感受するがまま」という思いが心を占めてしまっているので、そのような不安は起こらない。

 

B君 「それが他力の信じゃないとしたら」という思いは出てこないのか。

 

A君 出てくる。しばらくの間出てきたし、今でも出てくるが、それが不安を伴うものではなくなってしまった。大悲を感受していればそれだけでよい。大悲を感受できなくなったり、再び後生の問題が不安になってきたら、そのときはそのときだし、そのときでも大悲は私とともにあり、私が仮に地獄に堕ちようとも大悲は常に私とともにあり、仏と私とは一心同体だと図らずも開き直ってしまった気分だ。

 

B君 では、君が考える信前と信後の違い、つまり回心とは何だというのか。

 

A君 信が欲しいとか助かりたいという思いはなくなってしまい、これで地獄に堕ちるのであれば、感受している大悲もろともだという心の据わりができた。自力の思いが心を占めていたのがすっかり無くなってしまった。以前は感受できなかった大悲が心に感受できるようになった。それだけだ。人がどういう意味で回心という言葉を使うのかは分からないが、自分が回心という言葉を使うとしたら、この状態の変化にしか使うことができない。

 

B君 じゃ、その回心は何を契機として起こったと考えているのか。

 

A君 回心は、救われたいのに自分では乗り越えられない自力の壁に突き当たった苦悩と大悲が自分に届いているという思いの2つを契機として起こる心の現象だと思う。大悲を聞かされても、自力の思いから抜け出る事ができない大きな苦悩がなければ回心は生じないし、そうした苦悩があっても大悲を聞いて自分に届いていると理解されなければ回心は生じないと考えている。

 

B君 「救われたいという思い」や「自力の思いから抜け出る事ができない苦悩」は心の内側から起こった思いだから、これを「内薫」と名づけるとすれば、大悲を聞くというのは心の外からの働きかけだから、これを「外薫」と名づけることにしようか。内薫だけでは回心は生じないし、外薫だけでも回心は生じない。この両方が揃ったとき回心が生じるというんだね。

 

A君 そう思う。内薫は自分が意図的に意識して起こした思いではないし、本願を聞くというのも外からの働きかけだ。だから、回心は自分の心の中で起こった現象ではあるものの、自分(自我意識)とは無関係に勝手に生じ起こった現象のように思える。自分の意識(自我意識)を中心にして言うと、自分の意識とは関係なく心が勝手に無意識のうちに「救われたい」と思うようになり、自分の心が勝手に無意識のうちに「自力の思いから抜け出る事ができないと苦悩」するようになり、大悲が届いている事も外からの働きによって気づかされ、自力の思いがきれいに消えてしまったのだから、心が回転して転換したというに相応しいと思う。この回心は自分とは無関係に勝手に起こったものだとしか思えない。自分の力が足りたということはなかったし、自分の力はすべて自力の思いとなって跳ね返されたという思いしかないので、自分の力は間に合うものではないと思えるのだ。

 

B君 その内薫と外薫を君は本願力だというんだね。

 

A君 内薫を過去からの本願力との縁によるもの、外薫を現在の本願力との縁によるものという理解をすれば絶対他力という考えが成立する。でも、それとはちょっと違った解釈も成立すると思うよ。

 

B君 どんな解釈か。

 

A君 内薫は心の不安が意識レベルに到達せず無意識のレベルに留まっていたものが、やがて意識されるレベルまで次第に強くなってきたということ、外薫は説法を聞く事による気づきという心理的な影響や効果のことだ。宗教色を一切取り払ってこの回心という宗教的心理現象を理解し解明しようとすると、シナプス結合という脳神経回路の構築とシナプス結合の強弱が心の作用を決定し、決定された心の作用が意識に上って意識に提示されるという大脳神経学的現象に原因を求めざるを得ない。回心が自力の思いを生じさせていたシナプス結合が消失ないし弱体化されて、大悲を感じる新たなシナプスの再結合が促されたことによって生じた心の心理作用であると考えることもできる。そう考えると回心は真宗独自の現象ではなく、他の宗教でもあり得る自然現象だとの理解も可能になってくる。

 

B君 もともと仏教では三界唯一心心外無別法といって、すべての現象を心に還元する立場に立っているが、この立場と整合性をとろうとすると、君のように理解する事になるのか。

 

A君 いや、それは分からない。阿弥陀仏の本願力という外薫が固然とした実在として心の外にあるという考え方もありうる解釈だとは思うが、大悲が心の外に実在するという認識が間違いであるにせよ何にせよ、大悲が届いているという認識は私の心が認識したことでもあるので、その認識が内薫とともに協働して回心を生じさせたと理解する事も可能となる。つまりは内薫も外薫も自分の心の働きだということになる。大悲を感受する心の作用はこれまでになかった神経回路の再構築によって生じている自然現象のように思う。

 

B君 本願力による回心か心のもともと持つ作用としての回心か、ということだね。

 

A君 その両者は対立するものではない。心のもともと持っている作用としての回心であると理解しても、心の作用として生じたその作用そのものが本願力だと理解することができるからね。心の作用の全てが解明されて何らかの手かがりを得ることがあれば、もっと確実に回心という宗教的心理現象に迫ることができるだろう。

 

B君 そうすると、どちらかに固執する必要もないということだな。

 

A君 そう。肝心なのは心の自然現象としての捨自帰他が現実に起こり、大悲を感受しつつ念仏称えて生きてゆく事と念仏称えて大悲を感受しながら死んで往く事であって、その現象を説明する学解などの哲理が大事なのではないからね。哲理は所詮哲理に過ぎない。本当のものではない。

 

A君 横道にそれてしまったが、本題に戻ろうか。

 

A君 私の信体験をどう理解するかについては、いくつかの解釈が考えられる。①1つは信一念が判然としない体験は他力の信ではないと考える。②2つは信一念を「A時点」又は「B時点」又は「C時点」に求めて他力信と認定する。③3つは信一念を信体験の上に求める知的作業を放棄して、「A時点からC時点」にかけて自力の思いが廃って本願にゆだねたことで十分とし、他力の信と認定する。

 

A君 さあ、君ならどの立場をとる?これが君の提示した問題意識を追求してゆくとぶちあたる困難な課題だよ。でも、だれでもがぶつかる問題だと思うがね。

 

B君 信一念の教義に忠実な立場は①か②になる。③はとりにくい。君はその問題についてどう考えているのか。

 

A君 あまり結論を急ぐなよ。

B君 ②の立場はとっていないのか。

 

A君 仮に②を取ると、信一念を「A時点」とするか「B時点」とするか「C時点」とするかの認定に困難がつきまとう。

 

B君 具体的には?

 

A君 信一念を「A時点」に求める場合、A時点において存在した「まだ助かっていないという思い」をどう理解すればよいのかという悟性の問題が生じる。この思いは自力の思いではないとしなければ、信一念を「A時点」に求める立場は成立しない。

 

A君 「まだ助かっていないという思い」が無くなった「C時点」に信一念を求めるとすると、A時点で大悲を感受した思いをどう理解すればよいのかという悟性の問題が生じることになる。A時点での大悲感受の思いは信ではないとしなければ「C時点」に信一念を求める立場は成立しない。

 

A君 「B時点」に信一念を求めると、「A時点」に求める場合の問題点と「C時点」に求める場合の問題点を同時に抱え込むことになる。

 

A君 このように②に立つと困難な問題がつきまとう。一番簡単で楽なのは①か③の立場をとることだ。

 

A君 そもそもこのような問題が生じたのは、事後的に信一念を認定しようとする作業は悟性を唯一の頼りとする。悟性というのは知的な心の作用の事だ。論理や概念を重視した心の作用の事だ。しかし、信は悟性ではない。悟性ではないとすればなんだというのかというとよく分からない。悟性ではないから、一応、感性の領域の問題だとしておくよ。信という感性の領域の問題を悟性が取り扱うと、悟性は教義を重視することになるから、教義に合致しているか否かだけを考えて①の結論をだすことになる。逆に③を承認すると信一念の教義を捨て去るか、信一念の概念を再構築するかの決断をしなければならなくなる。ここに悟性を重視することの問題性がある。

 

B君 悟性を重視すると君の信は他力の信ではないということになってしまいかねないよね。

 

A君 実は、自分自身でもそのように考えたことがある。そのことは上に述べたとおりだし、今でもときどきそう考えることがある。でも、これが他力信ではないために地獄に堕ちるようなことがあったとしても、そのときは大慈大悲の仏も私ともに地獄に堕ちて下さる、私は仏とは一心同体という心の据わりがある。だから、他力信ではないとしても心や気持ちの上では何の問題もないのさ。

 

B君 心の状態としてはそれでいいのだろうが、悟性はどうなったのか?

A君 悟性を重視しなければ何の問題も起こらないさ。悩まなくてすむ。だから個人的には親和性を覚えるよ。

 

B君 そりゃあそうかもしれないが、なんかモヤモヤした感じが残るよ。

 

A君 そのモヤモヤ感は他力信に対して悟性的アプローチ(悟性的思索)をとるときに生じてくる問題だよ。君が感じるモヤモヤ感は悟性が満足していないモヤモヤ感だ。このようなモヤモヤ感は阿弥陀仏というものの存在を考えるときにも出てくる。でも他力信はこの悟性的アプローチに対して超然としているのだ。そんな悟性が何になるという超絶感が他力信にはある。悟性的アプローチでは到達し得ない領域にあるのが証果や他力信だと思う。だから、悟性によって他力の信や回心を理解しようとしても、いずれどこかの時点でこの悟性的アプローチは完全に放棄されなければならない運命にあるように思える。

 

B君 たとえば、死を迎えたときとか。

 

A君 そうだね。そのときは悟性は完全に役立たなくなる。大悲に命をまかせるだけだ。さて、この続きの詳細は別の機会にしようか。それまでに一応の答えを用意しておくよ。納得のゆく答えを用意できるかどうか保証はしないけどね。ただ先取りして言っておくと、私は、A時点で大悲心を聞き受ける回心(捨自帰他)が不足なく成立し、成立した回心の意味を悟性が正しく理解したのがC時点だったと目下のところ考えている。C時点の思いが回心の完成型ではあるが、回心が成立して自力世界への後戻りができなくなったのはA時点であると思う。初一念はこの1度限りだ。B時点やC時点の感情や思いのことは初一念ではない。B時点のそれはA時点の初一念に伴って生じた後続する感情や感覚であったり、C時点のそれは悟性的認識による納得感・モノ落ち感であると思う。初一念はその直後から感情面に深い影響を与え、心の状態(落ち着き状態)を決定する要因になる。また思想面に至るまで幅広くかつ深く影響を及ぼし、その影響は長期的には宗学の修得や行動(念仏行や表現活動など)にも及んでゆく。妙好人は一生涯、臨終の際までその影響下にあるのではないかと思う。

1-30.他力信の特性

他力信の特性を列挙してみる。信の特性はこれらに限定されるものではないし、いくつかは重複している。感じるままに考えたもので教学的に整理したものではない。
①.大悲感受性
②.事実性
③.現在性
④.未来指向性
⑤.過去因縁性
⑥.純真性
⑦.意識非対象性
⑧.無所得性
⑨.非言語性
⑩.仰信性
⑪.信順性
⑫.分離性・委託性
⑬.静寂性
⑭.不変性・確定性
⑮.仏因仏果性
⑯.所与性・回向性
⑰.受動性・受容性・自力無功性
⑱.平等性・無縁性
⑲.念仏発動性
⑳.念仏一体性
㉑.機法一体性
㉒.無意識性
㉓.連続性
㉔.隔絶性

①の大悲感受性は、信は無量光寿の大悲を感受するものであるということ。大悲を感受しているのが信であり、大悲の感受以外に信と呼べるものは何もないということ。
②の事実性は、信は心に属する事実であるということ。信は単なる思想や考えなどではなく、無量光寿の大悲を受けていることを事実として実感できるということ。
③の現在性は、信は常に現在に属しており、過去の一時期のものではないし、未来に属するものではないということ。無量光寿の大悲はつねに現在において感受するものであるということ。
④の未来指向性は、信には往生決定という未来指向性もあるということ。
⑤の過去因縁性は、信は無量光寿との浅からざる過去からの因縁を喜べるということ。
⑥の純真性は、信は無量光寿の大悲を受けるときには一切の計らいが介在せず大悲を純真にそのまま受けるものであるということ。
⑦の意識非対象性は、信は意識の対象にはならないということ。無量光寿の大悲を受けているとの思いがあるものの、その思いと大悲が意識の対象となるだけであり、信が意識の対象になることはないということ。
⑧の無所得性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるだけであり、何かを得たという実感を伴うものではないということ。大悲には五感で感得できる実在感のようなものはないということ。
⑨の非言語性は、大悲の感受は概念として言語化することができないということ。大悲は言語化することができる対象領域にはないということ。あえて信と大悲を言語化すれば南無阿弥陀仏となるということ。
⑩の仰信性は、信はただ無量光寿の大悲を仰ぐばかりであるということ。
⑪の信順性は、信は任せよとの無量光寿の大悲に信順するものであるということ。
⑫の分離性・委任性は、信は後生の問題を如来の領域の問題であって私が解決すべき問題ではなかったと自分の責任領域から分離して、無量光寿に私の往き先を委ねきってしまうということ。
⑬の静寂性は、無量光寿は静寂であること虚無のごとくであり、信は動乱することがなく、静寂であるということ。
⑭の不変性・確定性は、信は変動せず変化がないということ。大悲を感受している思いが不変的にあり続けるということ。往生は確定したとの思いが不変的にあり続けるということ。
⑮の仏因仏果性は、信は無量光寿が成就した仏因仏果によって生じるものであるということ。信の全因縁は仏の無量光寿にあるということ。
⑯の所与性・回向性は、信は無量光寿によって与えられるものであって、自ら求めて得られるようなものではないということ。
⑰の受動性・受容性・自力無功性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるしかないということ。自分から無量光寿を掴みにいこうとしたり、自分の心を制御・作動させることを手段として無量光寿に触れようとしても触れられるものではないということ。信には自力及ばずの思いが必ず伴っているということ。
⑱の平等性・無縁性は、信はいつでもどこでもどんな状況にあっても心の中に開け起こるものであるということ。能力、才覚、思い、善悪など自分の側に属する一切のものは信に関係するものではないということ。無量光寿の大悲はそれらに無縁の平等の大慈悲であるということ。
⑲の念仏発動性は、信は無量光寿の大悲を感受すれば必ず念仏行として発動するということ。念仏行として発動しない信はないということ。
⑳の念仏一体性は、信は念仏発動の心源として念仏と一体であるということ。念仏は無量光寿の救いの法源として、また大悲を感受させる法源として信と一体であるということ。
㉑の機法一体性は、信と念仏は無量光寿の大悲によってもともと一対の機受として仕上げられているということ。計らい煩うことがないように信と念仏は大悲が仕上げているということ。衆生に作為を求めるものではないということ。
㉒の無意識性は、信は無意識の領域に深く根をおろしており、意識せずとも大悲を感受し、また無意識のうちに念仏として発動するようになるということ。感受も念仏も自然になさしめられ、ことさらに作為を必要としていないということ。
㉓の連続性は、信は大悲が無量光寿へとわがいのちをつなげてゆくと感じさせるものであるということ。
㉔の隔絶性は、信は世間で起こる縁起の影響を受けることはなく、信もまた世間における縁起に影響を与えることがないということ。信を得た者の我執などの思いが三業として起業して世間に善・悪の影響を与えることはあっても、信と世間とは隔絶しているということ。

自分は大悲から隔絶されていると心から感じている方がいるとすれば、その隔絶感は、自力の思いに覆われた心が自力と他力が完全に断絶していることを素直に感じ取っている絶望感であると言える。この絶望感はやがて自力の思いが廃ることを予兆させるものである。この自力と他力の断絶を自分の力で乗り越えようとしても不可能である。ここに大悲からの救いを受け入れる回心が成立する契機がある。大悲は受け入れるしかないから、意図することなく自力が廃捨されて回心が自然と起こるものである。この回心ののちは、これまで感じていた仏との隔絶感は消失してしまい、大悲を感受する心の世界が開けて仏と自己とに連続性があることを感じられるようになる。ここに信の不思議と面白みがある。