3-28.会話編 信の特性(大悲感受の一対性)-所信は本願か名号かの違和感の正体

序章 導入 (問題の提起)

B君 あるブログ(「浅川進の、宗教と私」)に布教師が解説した音声録音の文字起こしが連載されていた。内容の一部として「能信と所信」について解説されていた。

 

A君 どんな解説だったか、簡潔に要約してくれないか。

B君 布教師によれば、「元祖と祖師の能信は同じだが、所信は本願か名号かという明らかな違いがある。」というものだった。

A君 「能信と所信」は「信じる行為ないし状態」と「信ずる内容や対象」を区別するための便宜的な講学上の概念だが、それについて何か感じる所があったのか。

 

B君 所信が本願と名号とそれぞれ異なるのに能信が同じであるという。でも、所信が異なっていても能信が同じであると言える理由がよく分からない。

 

B君 そもそも「能信と所信」という講学上の概念は本当に他力信の真の姿に迫る用語になり得るのものなのかよく分からないんだ。

 

A君 どうしてそんなことを考えたのか。

 

B君 君は「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象であり、つねにその事実状態を観察する事を基点として物事を考えてゆくんだ。」と言ったよね。感受している対象は大悲だが、それは「信じている」とか「信じている対象」と言い換えられるものなのか違和感があるのだ。違和感が残ったまま「所信を本願とする」とか「所信を名号とする」とか言われても、よく整理されていない用語のようにモヤモヤとしたものを感じてしまうんだ。

 

A君 なるほど。「信じる」という一般的な概念と「感受」している状態とにはギャップがあると感じたんだね。

 

B君 信じるという心の作用をどう理解したらいいんだろうか。

 

A君 他力とか自力とかの修飾語を付けて他力の信と自力の信を区別しているが、両者はまったく異った心の作用だから、同じ信という語を使用しているのは、本来、おかしな事なんだ。

 

A君 古代インドでは、信を「①シュラーダー」「②プラサーダ」「③アディムクティ」「④アバカルパヤティ」「⑤パティヤティ」「⑥アディヤサーヤ」「⑦バクティ」と使い分けていたことが藤田宏達氏著「浄土三部経」に書かれている。①~⑤は475頁「信の原語」、②は484頁「念仏と信」、⑥は492頁註(1)、⑦は482頁にそれぞれ記述されている。

 

A君 著者によれば、「①シュラーダー」は真実を置くという語根から作られた語句で、信・信頼の意で広く一般的に使われているとし、無量寿経の東方偈の「信慧」の「信」はサンスクリットの「シュラーダー」に相当するとされている。「②プラサーダ」は「浄信」とか「澄浄」と漢訳され、「チッタプラサーダ」は心が澄み浄化され、喜悦し、満足する状態を指すとされている。「③アディムクティ」は「信解」とか「勝解」と漢訳されており、対象に対して明確に決了し了解し判断する心作用を指し、信を知性的なはたらきと見たことを表しているとされている。「④アバカルパヤティ」や「⑤パティヤティ」は「信順」「信受」などと漢訳され、「⑥アディヤサーヤ」は「深い指向」とされ、「⑦バクティ」はインド思想一般において熱狂的な信を指すとされている。至心信楽の原語は「②プラサーダ」であろうと推測されており、熱狂的な信を指す「⑦バクティ」ではないとされている。

 

B君 それで何が言いたいんだ。

 

A君 漢語に翻訳される際に信という語を当てていても、インドでは信の特性に応じてさまざまな語句が使い分けられていたという事だ。雪という語も日本では細雪、牡丹雪、ドカ雪、粉雪などと使い分けられているが、エスキモーではもっと細かく使い分けられているという事を聞いた事がある。雪が生活に直結する影響を与えれば与える程、雪という言葉を細かく細かく使い分けて使用しているんだ。

 

B君 真宗では他力の信と自力の信とに使い分けているが、使い分けの分析が不十分だから、理解としても不十分なものになってしまうおそれがあると言いたいのか。

 

A君 他力の信と自力の信とは心の作用としてはまったく異なるので、その違いをキチンと理解しなければならないという事を言いたいのだ。雪国の人であれば、細雪と粉雪の微妙な違いを肌感覚で明確に区別できるようにね。

 

第二章 信じるという心の作用と分類、他力信の特殊性

1.一般的な「信じる」という心の作用・効果

B君 どんな違いがあると考えているのか。

 

A君 信じるという心の作用は信を生じさせている作用のことで、信は信じるという心の作用が働いた結果として生じた思いや考えであると言い換える事ができる。神や仏の存在を信じるという卑近な言葉遣いをヒントに一般的に使われている「信じる」という心の作用を分析し、それを成立させている要素を抽出してみようと思う。そこから、両者の違いが明確になってくると思う。

 

A君 仏の存在を信じているという場合、まず、その当人にとって直接認識したり知覚することができないものを「信じる対象」としている。それにもかかわらず、何らかの「理由」によってそれが存在するとの「結論」を得て、しかもその結論に基づいて儀式などの「一定の振る舞い」をするにまで至っているのが「仏の存在を信じている」ということだ。この心理状態を成立させている要素を抽出すると5つになる。①直接認識したり知覚することができない不確実な事柄に関している事、②一定の判断や評価(「結論」)に達している事、③結論に達したことになんらかの理由がある事。④その結論に達していても直接認識したり知覚した訳ではない事。⑤その結論から一定の振る舞いを行うにまで至っているという事。

 

B君 もうすこし各要素について説明してよ。

 

A君 当人にとって①の直接認識したり知覚することができない不確実な事柄であるという要素は、信じるという心の作用の成立に不可欠なことだ。この要素がある事によって②の結論に至るまでには必ず心理的な障壁があるという事になる。この心理的な障壁というのは論理的思考だけでは克服することができない壁の事だ。①が心理的な障壁になっている場合にこの壁を乗り越えて一定の結論に達するという事が信じるという心の作用の本質だと思う。ポイントは、論理的思考によらずにこの壁を乗り越えてしまうということだ。この壁を非論理的に乗り越えてしまえる理由はさまざまあり得る。根拠となる知識や経験などが不確実なものであればあるほど乗り越えるべき心理的な壁はいっそう高くなるが、それを何らかの理由によって乗り越えてしまう心の作用が信じるという心の作用だ。その理由は根拠薄弱なものからしっかりとした根拠があるものと様々だし、非合理的と思えるものであってもよい。その確からしさの程度は問題ではない。まったく合理的な根拠らしい根拠がなくてもよい。迷信などはこれに該当する。だから、信じる心の作用は非論理的な直感力による決断が担っていると言ってもいいと思う。直感力によって心理的な壁を乗り越えて一定の結論に至ったとしても直接認識したり知覚した訳ではないし、直接認識したり知覚した結果、壁を乗り越えたわけでもない。ここがもっとも重要なポイントだ。そして、直接認識(知覚)しているがごとくに振る舞おうとしているということがもう一つのポイントになると思う。これは信じる強度や程度に関わる問題だが、直接認識(知覚)しているがごとくに振る舞おうとしているという程度に至らないと信じるとは言えないのではないかと考えている。私は心理学や宗教心理学のことは知らないので、その正確性は保証しないが、そんなことになるだろうと思う。

 

A君 信じるという作用の効果についてもう少し補足しておくよ。仏の存在というものは直接認識(知覚)できない不確実な事柄だ。不確実な事柄であるにも拘わらず、その存在を直接認識(知覚)しているがごとく態度決定しているのが当人にとって信じているという事だ。信じる作用が不確実な事柄である信じる対象を、直接認識(知覚)しているがごとき存在にまで変容させている。ここに信じるという作用の効果がある。直接認識(知覚)していないのに、信じるという作用の効果によってその対象が「不確実な状態」から「確かなように思える存在」にまで変化して高められていると考えられる。「確かなように思える存在」と表現したのは、直接認識(知覚)していないからだ。

 

B君 心理的な壁を論理的推論によって乗り越えてしまう場合には、信じるとは言わないのか。

A君 確実な証拠と事実に基づいて論理的な論証を加えた結果、心理的な壁を論理的に乗り越えてしまったときは直感力によって結論に達した訳ではない。だから、両者を明確に区別する事が必要になる。しかし、いずれの場合でも直接認識(知覚)している訳ではない。ここに共通項がある。そこで両者を一括して、広義の「信じる作用」とまとめてしまうこともあり得ると思う。この場合には「広義の信じる作用」には直感力と論理的論証の2つがあるということになる。ただしこの2つを截然と区別する事が困難な場合もある。論理的な論証を加えても最後の最後に直感力が働いて結論に到達する事もあり得るからね。

 

B君 信じるという心の作用は誰でもが生まれつき持っている心の作用の事だね。

 

A君 そうだね。生まれつきの作用・効果だから、これからこれを「生来的」とか「狭義の」と表現することがあるよ。

 

A君 「狭義の信じる」とは上記の各要素によって構成されていると考えた場合、この概念が一般的に適切に機能するか否かは、他の具体例で広く検証する必要がある。うまく適用できないときは適当に修正する必要がでてくる。例えば「彼は無実だと信じている」という場合にうまく機能するか、「来年の株価は暴落すると信じている」という場合にうまく機能するか、などなど検証しなければならないが、長くなるので止めておくよ。

 

A君 ただ真宗において自力の信という場合の典型例を1つだけ取り上げて検討しておくよ。自力の信とか自力の計らいの典型は、仏の無条件の救済の場面において自分の善行を根拠(アテ)にして仏の救いが得られると考えたり思ったりしている場合だ。①仏の救いというものは当人にとって直接認識(知覚)できない不確実な事柄で抽象的な観念に留まっているため、将来、救いが得られるかどうか判然としていない。それにも拘わらず、②自分の善行によって救いを得られるとの思いに至っている。その思いに至った主たる理由は、③仏教に対する全般的な信とともに、仏の無条件の救済の場面においても世間通例の因果律があてはまるという根強い思いがあるためだ。この思いがあるために善行を重ねる事によって救いが得られると考えるに至った。そして、⑤実際に善行を実践することになる。①仏の救いは不確実なのに、その心理的な壁を非論理的に飛び越えて②の結論を得た理由が③教えや因果律に対する信と善行だ。これらを根拠として直接認識(知覚)できない不確実な仏の救いを得られると考えていることは、心理的な壁を飛び越えているということだ。しかし、④直接認識(知覚)した訳ではない。これが真宗において廃されるべき自力の信とか自力の計らいだ。廃されるべき理由は、仏の無条件の救済の場面においてこの心の作用が働くと、大悲感受を妨げるものになってしまうからだ。

 

B君 仏の救いを信じるという場合には、信じるという心の作用と信じる対象は概念的に区別できるよね。「仏の救い」が信じる対象を意味する所信で、「仏の救いが得られる」という思いが能信ということになるよね。

 

A君 概念的に区別できる理由をもっとはっきりと確認しておこう。「仏の救い」は将来の不確実な事。これに対して、「仏の救いを得られる」という思いは現在の思い。将来に属する事項と現在に属する事項とに分離してしまっている。信じる対象は未来に属する事項、信じる作用は現在に属する事項だから、概念的に明確に区別できる。この他にも重要な理由があるのだが、とりあえずここで留めておくよ。あとで触れる事になるかも知れない。

 

2.他力信の特殊性

B君 じゃ、他力の信の場合はどうなんだ。

 

A君 他力の信とは祖師の言われる大悲に対する「無疑信」のことだが、意識的には大悲を現在感受している心理状態のことだ。この心理状態は無意識と意識の領域にまたがっており、現在意識としての大悲感受は無意識に根ざしている心作用としてはじまり、その心作用が意識の領域に影響を与えた結果、意識によって大悲感受として捉えられている状態であると私は考えている。ここには、生まれつき持っている心の作用が働く余地はまったくない。「現在意識」の中に大悲が顕れて大悲をいつも現在感受しているからね。ここには心の障壁となるものがない。要素①が成立していない。要素④も存在していない。そのため心理的な壁を飛び越えることも無ければ、飛び越える理由も必要としていない。すでに回心という現象が生じた事によって飛び越えてしまっているのだ。だから大悲をつねに現在意識の中で感受している状態があるだけだ。これが他力の信といわれている状態だ。どうして飛び越えられたのかについては説明不能だ。大悲があったという事しか言えない。論理の言葉で尽くせる限界を超えてしまっているのだ。論理では大悲を伝えることができないため、大経では法蔵菩薩の本願と法蔵菩薩の成仏による本願成就という物語でもって菩薩の悲心が語られているんだ。大経は全体として仏の無条件、無縁の大慈悲心が説かれていると言える。この説かれている大悲がわが身の上に現実化したのが大悲の現在感受であり、他力の信なんだ。

 

B君 では、他力の信においてはさっきの構成要素①~⑤のうち、要素①②③④を欠いており、要素⑤だけしか残っていないという事か。

A君 そういうことだと思う。

 

視覚との比較その1

B君 では、大悲感受は視覚により対象物を視認している状態のようなものか。

A君 ある意味ではそうとも言えるが、重要な差異がある。

B君 どういうことか。

 

A君 意識が大悲を直接感受しているので、視覚によって対象物を直接、視認しているのに似ている。両者とも「直接性」という点では共通している。だから、視認しているときと同じように、大悲を感受しているとは言えても信じているとは言えない。しかし、視覚の場合には明確な対象物がある。正確には視覚の対象物という観念が生まれている。そのような観念が生じるのは視覚の対象がさまざまに変化し、アレはテレビ、コレは本などとさまざまなものを区別しなければならないため対象物という観念を必要としている。生来的に信じるという場合も信の対象は限りなく無限に存在している。人、モノ、金、団体、地域社会などの存在物から非存在まで広範に及んでいる。だから視覚や信じるという場合には対象という観念がどうしても生じてくる。この場合の視覚とか信じるという心の作用は同じ一つの機能であっても、視覚の対象や信じる内容・対象は多数となるので、視覚機能や信じる機能とそれらの対象は「一対多」という関係になる。しかし、大悲を感受する場合はつねに感受するのは大悲だけで、大悲から区別されて感受されなければならないものは何もない。視覚の場合で例えると、視覚の対象物が白一色で他の色とまったく区別する事ができないとしたら、そこに対象物という観念は生じないだろう。白一色の世界だから、白以外に区別されるべきものがないからだ。白という観念すらも生じないだろう。そのようなとき対象物という観念は生まれようがないんだ。大悲を常に現在感受している状態はそれに近いのではないだろうか。感受と大悲とは「一対一」の対応関係しかない。その両者は一対のものなんだ。だから大悲と感受とは一体であり、一対であると感じられることになる。ここに大悲と大悲感受を区別できない理由があると考えている。古来、機法一体という言葉がある。この機法一体の意味は、我が身の上に現実に生じた大悲感受は「摂取するとの大悲をそのまま無疑で受けている南無阿弥陀仏の姿」であり、この心相となっている南無阿弥陀仏は「救う法」と「信じる機」とが一体として成就されているという意味だ。今私が言う「大悲」と「感受」は「救う法」と「信じる機」に相当する。「大悲」と「感受」は機法一体だ。両者を分離できない事を既に昔の人は理解していたのだと思える。

 

視覚との比較その2

B君 視覚の場合、対象物の形状(直線、横線、縦線、斜線、曲線、点)や色、動きなどの諸情報が光として視覚の受容体にとらえられてそれが電気信号に変換されて脳にその興奮が伝達され、線や動き、各種の色などを専門に感知する各部位において各対象がそれぞれ感知され、それがやがて統合されて対象物の全体像として認識されるという経過を辿るのだが、大悲感受は、どのようになるのか。

 

A君 さぁ脳科学者ではないから、そんな事は分からない。が思うに、回心時の大悲感受の際に、大悲を感受する部位が新たに脳内神経ネットワークとして形成されたと考えられる。その回心時の心理状況やそれまで聞いた法語なども記憶として保存された。長期記憶として保存された大悲に関する一群の情報はいつでも引き出され、大悲を感受する特定部位をつねに刺激し続けている。この刺激を受けた特定部位が大悲を感受する。その感受がその神経回路をさらに強固なものとし、意識がその大悲感受を自覚するようになる。このような絶え間ない情報のやり取りが活発に連続的に繰り返されているのだろうと推測される。言い換えれば、大悲を感受させる特定部位と大悲を感受する特定部位との間で情報が絶えず交換され、両者が協働することによって大悲感受を現実化し、恒常的にしている。このためつねに現在意識の中で大悲感受が起こっていると私は考えている。これは丁度、幼少期のほのぼのとした思い出が大人になってもいつでも思い出されてほのぼのとした気持ちになったり、外界から刺激を受けるとその記憶が思い出されて同じ思いや感覚にとらわれる疑似体験をするのと似ているのではないかと思う。

 

B君 他力の信にあっては、視覚の作用や機能とも異なり、信じるという心の機能とも異なっているという事だね。そうなると、大悲感受の状態について、狭義の信じるというのと同じ言葉を使うのは適当ではないということになるんだね。

 

A君 雨がそぼ降るのを眺めて紫陽花の美しさを嘆じているとき、紫陽花の花の美しさを信じているとは言わないように、大悲をつねに感受しているときは大悲の慈悲深さを嘆じるのであって、大悲を信じているとは言わない。

 

決定往生の思い

B君 君はよく元祖の一枚起請文を引き合いに出すよね。「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・(途中省略)・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」は、大悲感受との関係ではどう位置づけられるんだ。

 

A君 大悲感受とは、摂取するとの大悲をそのまま無疑の状態で受けとめている心の状態の事だ。自分の心が南無阿弥陀仏の状態になってしまったことを実感として感じ取ることができる。この南無阿弥陀仏の状態になると、「浄土に連れてゆく」というのが大悲であると感受されるから、「この状態のまま自分は浄土に往生してゆくのだな」と素直に思える。これはごく自然な思いだ。この浄土往生の思いを以下「決定往生の思い」というよ。この決定往生の思いは大悲感受と一体の思いだ。

 

A君 この点に関して言っておきたいのは、十八願文の至心・信楽・欲生の三信を一心と言われている理由についてだ。大悲感受の状態は至心・信楽に相当する。仏の至心である大悲をそのまま無疑の心で感受している状態は衆生の至心であり、信楽だ。心に感受し心に顕れている大悲が至心だと理解しても良い。大悲と大悲感受とは一体・一対の関係にあるからね。大悲感受によって自分は浄土に往生してゆくのだなと素直に思える思いは欲生に相当する。大悲感受の状態から自然と生じる思いだ。至心・信楽からごく自然に生じた欲生の思いだ。これらは心の中で一体となっているので、一心と言われるに相応しいものになる。しかもこの一心は仏の真実の大悲心と一体の心であるから「真実の一心」ということになる。

 

B君 ところで、さっきの古代インドの信との関係で言えばどうなるのだ。

 

A君 「①シュラーダー」は真実を置くという語源からの言葉という事だったが、真実を仏の至心を意味する大悲と理解し、この真実大悲が私の心に置かれたのが信だという理解をすれば、このシュラーダーは至心の状態を表していると言っていいね。ただ、シュラーダーは広く一般的に使われているという事だったから、仏の至心を表す言葉として一般の世俗用語が転用されたものだろう。

A君 「②プラサーダ」は「浄信」とか「澄浄」と漢訳され、「チッタプラサーダ」は心が澄み浄化され、喜悦し、満足する状態を指すとされているという事だったね。仏の大悲は清浄な心であるから、この心に触れて大悲を感受すればその状態は心が清浄になっていると言えそうだ。喜悦し、満足する状態ということになると信心歓喜ということになるから、「②プラサーダ」は至心信楽を表していると言っていいね。また欲生をも含めて表していると言っても良いと思う。

A君 「③アディムクティ」は「信解」とか「勝解」と漢訳されており、対象に対して明確に決了し了解し判断する心作用を指し、信を知性的な働きと見たことを表しているという事だったよね。大悲を感受してみれば、それは大悲の働き以外にはないという事が理解され、同時に自力無功も自然と理解されるから、ここに「明確に決了し了解し判断する心作用」があると言える。真宗でいう「捨自帰他」を理解している思いは「明確に決了し了解し判断する心作用」であり、大悲感受に伴っている知的側面としての心作用であると思う。

A君 「④アバカルパヤティ」や「⑤パティヤティ」は「信順」「信受」などと漢訳されているという事だったね。大悲をそのまま感受していることを表していると理解される。

A君 「⑥アディヤサーヤ」は「深い指向」という事だったね。深い指向とは仏や浄土に心が深く向けられている状態を表していると理解される。我が心を大悲に委ねきって浄土往生へ思いを至していることを想起させるね。

A君 「⑦バクティ」は熱狂的な信とされていたね。大悲感受は静かで穏やかであるから、大悲感受は明らかに「バクティ」ではない。他力信は情熱のような信ではない。

 

分類

B君 視覚が直接対象物を視認しているように、意識が大悲を直接感受しているという事になると、狭義の信じる作用ではないことになるが、広義の「信じる作用」の中に直感力ではない「論理的推論」を含めたように、大悲を直接認識し知覚する他力信を最広義の「信じる作用」として位置づける事は考えられないのか。

A君 うん。そういう考えはあり得ると思う。図示すると次のようになる。

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ただ、私としては、大悲の直接感受は大悲という極めて特殊で稀なものを一対一・一対の対応関係で直接感受しているものであり、広義の信じる作用とはまったく異質なものであるから、最広義の「信じる作用」という分類を設けてその中に入れてしまうのはなじめない。学問的には上記のように整理することは考えられなくはないが、信じる作用とは同類ではなく、異類という感じがしてならないよ。

 

第三章 冒頭の問題の提起に対する筆者の考え 

B君 では、他力の信がそのような状態であるとして、他力の信に「能信と所信」という講学上の用語を使うのはどうなんだろうね。生来的な意味での信じるという場合とはまったく異なるのだから、使うとすれば、「能感」と「所感」ということになるのかな。

 

A君 他力の信の場合には、その信は一般的な信の場合とは異なるのだから、「能感」「所感」と言い換えてもよいだろう。しかし、「能感」と「所感」とに概念的に分けたとしても、他力の信においては大悲と感受とが別々のものであるとは感じられない。大悲と大悲感受は同じ状態であって区別できない。大悲のままが感受であり、感受のままが大悲という表現をせざるを得ない。要するに区別できないってことさ。この区別できない理由はさっき述べたとおりだ。大悲と感受とは完全に一対一の対応関係・一対の関係となっており、大悲以外に大悲と区別されて感受すべきものがないからだ。この感受は大悲専用の感受であって、その他の目的のために機能することがない。大悲を感受させる特定部位とそこからの刺激を受けて大悲を感受する特定部位とが協働した結果、大悲を感受し、それを意識によって捉えられていることになる。両特定部位は一体・一対となって大悲を意識に感受させている。当人にとって見れば、この大悲と感受の関係は「感受無ければ大悲無し」「大悲無ければ感受無し」「感受あれば大悲有り」「大悲あれば感受あり」という大悲と感受とが完全に一致した関係になる。だから、「能感」と「所感」とを概念的に分けることはできるものの、両者を概念的に分けて所信が本願か名号かと考察する方向に向かう考え方には反対だ。そうではなく、上記の理由から、大悲感受の事実状態は大悲と感受とは分離できないものであると考察し、そのように結論づけるのが正しいと思う。

 

B君 ところで、他力の信にも「能信と所信」という用語を使うと、「所信」は本願か名号かという対立が生まれてくるよね。この対立は意味があるのだろうか。

 

A君 これはまったく意味のない事だと思う。他力の信の内容として本願を信じているとか名号を信じているということはないんだ。他力の信は現在大悲を感受しているだけであり、大悲のままが感受であり、感受のままが大悲なんだ。大悲を感受している感受そのものには本願を信じるという生来的な作用は働いていないし、名号を信じるという作用も働いていない。だから大悲を感受する所には信ずる対象が無い。能信も所信もない。「大悲感受」と「信じる」ということはまったく異なった心の作用だから、そこに「所信」は本願とか名号とかということを持ち込むこと自体が間違っていると思う。

 

B君 元祖の所信は本願、祖師の所信は名号という理解は何を根拠にしているのだろうか。

 

A君 その根拠は「元祖は王本願である念仏往生の十八願に立って教えを説かれたが、祖師は願成就文に立って名号をもって教えを説かれた」という理解をし、その理解から所信は本願、所信は名号と言っていると思われる。しかし、「元祖は本願をもって説かれ、祖師は名号をもって教えを説かれた」という理解が正しいかどうかは横に置いておいて、そのような理解に立ったとしても所信が本願であるとか名号であるというのは間違っていると思う。さっき言ったように、他力の信は大悲の現在感受以外にはない。この胸の内に感受している大悲を言い表すために本願をもって説くか、名号をもって説くかの違いが出てくるものの、それは「発揮」というものであって、信が異なるからではない。また、信の中身としての所信が異なるからでもない。文に現れている違いに着目しつつその違いから元祖と祖師の思想体系が異なると理解した事と所信とを同じように考えたところに間違いの根っ子がある。そうではなく、その文に現れた違いは違いとして理解しつつ、その真意はどこにあるかを考え、元祖や祖師の思想の底流となっている他力信の捉え方が両者間で異なっているのか否かをよくよく深く検証してみなければならないと思う。そのためには「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象であり、つねにどのように感じているかを正しく観察する事を基点として物事を考えてゆく」という基本的スタンスに立って考えてみる事だ。他力信とは「現在意識における大悲感受である」と理解すれば、元祖と祖師の所信が異なるとする発想に対してはたいへんな違和感を感じる事になる。この違和感を大事にして、かつ、大悲感受を基軸なり指標にして論を組み立てるべきなんだ。十八願に顕れた大悲と名号に顕れた大悲に違いはあるのか、また、自分の感じている大悲感受に沿う論理構成はできないかと検討してゆけば、大きく間違えることはないと思う。本願に顕れている大悲や名号として成就された大悲が胸の内に顕れ、同じ大悲として感受しているのが信だという理解が間違っていない限り、元祖と祖師の所信が違うという説に同意する事はできない。おそらく「元祖や祖師の所信」と「元祖や祖師の思想」とを勘違いしているのではないかと思う。この両者は別モノだ。

 

A君 ついでに言っておくと、能行と所行という学派の対立があるが、これも無意味な対立だと思う。仏の救済たる大悲成就が南無阿弥陀仏となって心に届き、心に大悲が感受されている南無阿弥陀仏の状態(心相)の南無阿弥陀仏を所行といっても、或いは、その南無阿弥陀仏が念仏という行為として現れ出たところの念仏を能行といっても、そのどちらも同じ南無阿弥陀仏なのだ。入り口の南無阿弥陀仏をとらえて所行、出口の南無阿弥陀仏をとらえて能行と言ったところで同じ南無阿弥陀仏じゃないか。竜のしっぽを捉えて竜と言い、竜の頭を捉えて竜と言っているようなものさ。すでに南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となったのだから、どこをとらえても同じなのさ。能所不二という言葉が既に造語されているのは、そうした理由があるからだ。

 

第四章 冒頭の問題提起に対する筆者の考え(続編) 

1.他力信と同時に狭義の信じるという作用が働いている場合があること 

B君 でも本願を信じて往生するとか言うよね。この場合信じる内容は浄土往生だ。

A君 その場合は少し違った意味合いが加わることがあり得るんだ。

B君 というと。 

 

A君 他力の信は現在大悲を感受するだけだが、それに伴ってある思いが生じる。その思いとは、先に述べた「決定往生の思い」のことだ。大悲とは浄土に連れ帰るという大悲だから、これを無疑の心で受けると大悲を感受し、浄土に連れられてゆくという思いになる。このさきにある問題が、「浄土往生が実現されるかどうか」という問題だ。大悲を感受していても、この問題はなおも先の①直接認識したり知覚することはできない不確実な事柄に属している。ここに信じるという生来の心の作用が働く余地が出てくる。わが身の上に浄土往生が実現されるかどうか、については「信じる」「信じない」という生来的な心の作用が働く可能性が残っている。現在大悲を感受していれば浄土に連れられてゆくという思いになるから、「浄土往生が実現される」と信じることになるのが自然ではないかと思う向きがあるかも知れない。しかし、「イヤイヤそれは分からないぞ。」と思うこともあるだろう。まだ実現されていないのだからね。ここに浄土往生を「信じる」「信じない」という問題が生じる余地があるのだ。

 

B君 「浄土往生を信じる」という場合にその信の根拠となるのが、大悲感受が我が身の上に事実として生じ起こったことであって、それが根拠となって「決定往生の思い」が信楽の者を浄土往生させると誓った本願が現実化されるだろうから「浄土往生できる」と「信じ」るレベルにまで高められる可能性があるという事なんだね。

 

A君 説明するとそうなる。大悲を感受するために、その他力信とともに生まれつき持っている信じるという心の作用が働いた結果、「将来、死んだ先に浄土往生が実現される」と信じることがあるという事だ。若干補足すると、大悲を感受して決定往生の思いになると、それが十八願文の至心信楽・欲生であり、また願成就文の「聞其名号信心歓喜・願生彼国」の事であると理解できる。十八願文の至心信楽・欲生やその成就文の聞其号信心歓喜・願生彼国は本当の事であったと思える。この思いが「決定往生の思い」を「浄土往生を信じる所」にまで高める根拠になっているということだ。お経に書いてある事は本当だった思えるのだからね。浄土往生も本当の事だろうと信じられることになり得る。

 

B君 じゃ、そうした生来的な意味で「信じ」る場合における所信は本願か名号か、についてはどう思う?

 

A君 「将来死んだ先に浄土往生が実現される」と信じたときの根拠となるのは先に述べたとおり、「大悲を現在感受している事実」や「決定往生の思い」やそれらに伴う先に述べた思いだ。大悲感受やそれに伴う思いなどを媒介せずに観念的にとらえた本願とか名号とかがその信の根拠となるのではない。

 

B君 単に「本願を信じる」とか「名号を信じる」とか言われるが、それはどう理解したらいいんだ。

 

A君 本願や名号を信じるという言い方をする人にどういう意味で言っているのか直接本人に確認してみるしかない。その人が「本願や名号を信じる」という言い方で他力の信を表しているものと理解できた場合には、「本願や名号を信じる」という言い方を自分の脳内で変換して、大悲を現在感受している状態を言い表すために「本願を信じる」「名号を信じる」という言い方をしていると読み替えて理解するしかない。

 

2.歎異抄11条の文

B君 歎異抄には「一文不通のともがらの念仏申すにあうて、なんじは」「①誓願不思議を信じるか」「②名号不思議を信じるか」といひおどろかす者について、唯円はこの二つ(①と②)は「さらに異なることなきなり。」と言われているよね。ここでは、誓願不思議を信じるとか名号不思議を信じるとか、そういう言い方をする事を承認した上で、その理由を述べているよね。

 

A君 そうだけど、唯円は「ふたつの不思議を仔細をも分明にいひひらかずして、人の心を惑わす」とも言っているよね。「誓願不思議を信じる」とか「名号不思議を信じる」とかの意味が分からないままになっていると明確に指摘している。本願を信じるとか名号を信じるという言葉は、その言葉だけでは意味が分からないものなんだよ。

 

A君 唯円はそのことを指摘した上で、この二つは「さらに異なることなきなり。」と言われているが、どんな理由であったか紹介してよ。

 

B君 その部分をちょっと読み上げるよ。便宜的に番号を付ける事にするよ。「①誓願不思議によりて名号を案じいだしたまひて、この名字をとなえんものをむかへとらんと御約束あることなれば、②まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、③生死をいずべしと信じて念仏の申さるるも如来の御計らいなりとおもへば、⑤すこしもみずからのはからいまじはらざるがゆえに本願に相応して、⑥実報土に往生するなり。⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば、⑧名号の不思議も具足して、⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」と言われている。

 

A君 そうだね。注目して欲しいのは③の「生死をいずべしと信じて」という箇所だ。「生死をいずる」というのは将来のことだ。現在「生死の境涯を離れ出た」ということじゃない。つまり信じるという生来の心が作用しうる場面がここにあるという事だよ。そこで唯円は、誓願不思議をむねに「生死いずべし」と信じるとか、名号不思議をむねに「生死いずべし」と信じるという言い方を一応は肯定していると理解できそうだね。

 

B君 そうすると、唯円がこの二つは「さらに異なることなきなり。」と言われている理由をどう理解したらいいんだろうね。

 

A君 さっき言った事をここに当てはめてみると、「生死をいずべし」と信じた場合、その信には根拠を必要とするが、その根拠になるのは大悲を現在感受している状態やそれに伴う決定往生などの思いだ。無疑の状態で感受している大悲は「浄土に連れてゆく」という大悲だから、「生死をいずべし」と信じ受ける可能性がある。そのように信じられる根拠は胸の内につねに感受している現在の大悲とそれに伴う決定往生などの思いにあり、それを離れて観念的にとらえられた本願とか名号とかではない。では、本願をむねとして「生死をいずべし」と信じても、名号をむねとして「生死をいずべし」と信じても同じだというのはどういう訳かというと、実際に胸の内に感受している仏の大悲は、既に仏が説かれおかれた本願の文に顕れ、既に仏が説かれおかれて称讃する名号に顕れているからだよ。本願文に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異があるはずがない。だから、胸の内に感受している大悲を表現するためにその感受している大悲そのものに替えて、本願文に顕れた大悲であっても名号に顕れた大悲であっても、どちらも「生死いずべし」と信じる信の根拠になると唯円は言いたいのさ。言わんとしている事はそういうことさ。「大悲感受の事実」「決定往生の思い」やそれに伴う先に述べた思いがあるために、その感受や決定往生の思いなどを言い表す表現として伝統的に確立している既存の表現である「本願」とか「名号」とかに言い換えて、「⑦誓願不思議をむねに生死いずべしと信じたてまつれば」と説明したり、「⑧名号の不思議も具足して、⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」と説明しているのだ。

 

B君 もう少し、分かりやすく説明してよ。

 

A君 「①誓願不思議によりて名号を案じいだしたまひて、この名字をとなえんものをむかへとらんと御約束あることなれば」というのは、浄土に連れ帰るという大悲の事。「②まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて」というのは、その大悲を現在感受している無疑の状態の事。これがもっとも大事なことだから「まず」と言われている。「③生死をいずべしと信じて」というのは、大悲を現在感受していることによって将来不確かな生死出離について「生死いずべし」と信じる状態にまで至っているという事。「④念仏の申さるるも如来の御計らいなりとおもへば」というのは大悲感受のままに念仏を称えているのは大悲に誘われて称える念仏だから、この念仏は如来の御計らいなりと思えるという事。「⑤すこしもみずからのはからいまじはらざるがゆえに本願に相応して」とは自らの自力の計らいが混じる事がないので、本願文の通り至心に信楽し念仏申しているという事。「⑥実報土に往生するなり」とはそのように信じているという事。「⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」とは、胸の内に感受している大悲を表現するために「誓願」という表現を用い、また大悲感受や先に述べた決定往生の思いなどに至ったことを「誓願不思議をむねに信じたてまつる」と表現しつつ、その感受している大悲が「生死いずべし」と信じる信の根拠になるという事を言わんとしている。「むねとして」というのは「それを理由として」という事。「⑧名号の不思議も具足して」とは、名号は摂取不捨の大悲を信受している心の姿が南無阿弥陀仏という姿である事、その南無阿弥陀仏の心相がわが行として浮かび上がったのが称名念仏だから、誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば当然に「名号を具足する」ことになるという事。つまり摂取不捨の大悲を信受すれば必ず名号を具すという事。「⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」とは、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて大悲感受の状態になっている姿には誓願不思議も名号不思議も具足しており、ひとつになっているという事だ。

 

B君 君のいう事をまとめて整理するとこうなるかな。大悲を現在感受していることによって将来不確かな生死出離について生死いずべしと信じる状態に至って念仏を申しているが、その状態は大悲感受のままに大悲に誘われて称える念仏だから、念仏は如来の御計らいなりと思えるし、自力の計らいが混じることがない状態だから本願文のとおりに至心信楽し念仏申していることになる。この事実状態を根拠として「実報土に往生するなり」と信じられる。「誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」とはこのような心理状態に至っていることを言い、その心理状態が現実に実現されている事実を根拠として「実報土に往生するなり」と信じるに至っているという事。そして名号の不思議については摂取不捨の大悲を信受している心の姿が南無阿弥陀仏という心相であることから名号を心に具足している事になるし、或いは他力の信の上の称名念仏を具足していることにもなるので「誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」ということになる。簡単に言えば、胸の内に大悲を感受している現在に本願に顕された大悲と名号に顕された大悲とが一体になって実現されているということだね。

 

A君 重要な所を少し補足すると、胸の内に大悲を感受すれば、その感受した大悲が「①大経十八願として説かれている大悲であった」とか「②願成就文の名号として成就された大悲であった」と心から分かる。①の大悲と②の大悲は同じだ。無機質のように味気なかった本願の生起本末の教説や称えても空しかった南無阿弥陀仏が仏の大悲を言い表した仏語であったと心から理解して悦べるのは、胸の内に感受している大悲があるからだ。十八願の「至心信楽・欲生・乃至十念」や願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念・願生彼国」とは大悲を聞いて胸の内に大悲を感受して歓喜し念仏申す事だったのか、と心から理解し喜べるのだ。だから、胸の内に感受している大悲をどのように表現すればよいかとなれば、胸の内に感受している大悲に代えて大悲を因願の本願といってもよいし、大悲成就の果上の名号と言い換えてもいい、という事になる。そこから、胸の内に感受している大悲に代えて本願の大悲や名号に成就された大悲をもって教えを説かれることがあるという事だ。本願として表された大悲と名号として成就された大悲とに違いがない以上、胸の内に大悲を感受している現在に本願に顕された大悲と名号に顕された大悲とが一体になって顕現しているということになるのだ。これが「さらに異なることなきなり。」と言われている理由だ。逆に、因願の本願とか大悲成就の果上の名号という場合には、それによって表そうとしているのは、胸の内に感受している大悲ということになる。

 

B君 つまり、大悲を感受している者にとっては、「胸の内に感受している大悲」と「因願の本願とか大悲成就の果上の名号」とは相互に入れ替え可能だという事だね。唯円は「自ら感受している大悲を旨として生死いずべしと信じる」ということを「⑦誓願不思議をむねに生死いずべしと信じる」と言い換えている。また「⑧名号の不思議も具足して、さらに異なることなきなり」と言い換えていると君は理解しているのだね。

 

A君 そういうことさ。

B君 ところで、君は「無機質のような味気なかった本願の生起本末」と言ったが、「本末」の「末」はどうことだと理解しているか。

 

A君 「本末」の「末」とは「今、私が大悲を感受して念仏申している」ことさ。これが現生における果であり、現生においては仏の物語はここでクライマックスを迎える事になる。本当の末・果は「浄土往生を果たす」という事だと思う。この「浄土往生を果たす」というのは未来の事であるから、ここに信じるという作用が働く余地があるんだ。現在胸の内に大悲を感受し念仏しているのが本末の「末」だから、その感受している大悲の由来を遡って大悲を偲ぶと十八願などとその願成就にあったことに深く思いをはせることになって歓喜し、また自分の行く先に思いをいたすと浄土往生の思いになるから大悲を悦ぶ事ができる。今現在は浄土への途中だから、そう言う思いになったり、さらには浄土往生を信じる事ができるようになる。

 

B君 君はさっき「本願(文)に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異はない。」と言ったが、もう少し詳しく説明してよ。

 

A君 十二願・十三願・十七願・十八願・十一願などが成就した相が南無阿弥陀仏の名号だから南無阿弥陀仏は仏の無量光寿そのもの。十八願の生因との関係で言えば、南無阿弥陀仏は至心信楽欲生の信因と乃至十念の行因として作用し、浄土往生させる働きがある。この南無阿弥陀仏は十八願を因として成就された果上の仏ということになる。だから諸仏が御名を称讃する。この名号の働きが私の上に現れたとき、大悲感受となって私の心のうちに大悲が顕れる。私が感受しているのはこのような無量光寿の大悲だ。この大悲は本願として生起された大悲であり、名号として成就された大悲であるから「本願文に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異があるはずがない。」と言ったのだ。私の胸の内に感受されている大悲は本願として顕された大悲であり、かつ名号として顕された大悲だ。本願と言っても名号と言っても同じ胸の内の大悲として実現成就されているものだから、その両者に何の差異はない。「所信が異なっていても能信が同じであると言える理由」はここにある。イヤ、所信に差異などはないということになる。もともと元祖と祖師の所信に差異はなかったんだ。それは大悲感受のほか他力の信はないからだ。所信に差異があると言ったのが間違いだったんだ。

 

3.乃至十念の念仏と尊号真像銘文

B君 つぎに大悲を表すのに念仏に言及して言うこともあるし、念仏には触れないで大悲を言うときもある。これはどういう訳なんだ。

 

A君 大悲を表すのに念仏に言及して言う場合については、「乃至十念を誓った仏の誓意」を問う「十念誓意」という題が安心論題にあるので、そちらを読んで欲しい。要は、乃至十念を誓った仏の誓意は乃至十念という語を使う事によって大悲をよりいっそう具体的に明らかにしたという事だ。この乃至十念の念仏は衆生に自力念仏を要求したものではなく、衆生に対して自力の行を一切求めない大悲を「無作の念仏」として表しているということだ。だから「乃至十念」の念仏には衆生に対して何も求めない仏の一方的な無縁の大悲が現れている。観経下下品の念仏とはこの「乃至十念」の念仏のことだ。大経と観経はこの一点で一致しており、ともに仏の大悲を顕す経として尊重されている。このため大悲を表すのに念仏に言及して言うこともあるし、念仏には触れないで単に大悲と言うときがある。結局、そのいずれでも仏の無条件、衆生に対して何も求めない無作の一方的な大悲を領解して欲しいと仏は願われているという事になるのだよ。「大悲を領解する」というところが最も大事な所だ。十八願の「乃至十念の念仏」を勧めるにせよ、願成就文の「聞名信心」を勧めるにせよ、大悲をそのまま大悲として受けよと説く事を抜かしては何の意味もない。乃至十念の念仏を勧めるという事は御名として成就されている仏の大悲を勧めるという事であって、それ以外に勧めるべきものはない。単に、声帯を振るわせてナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツと発声する事を勧めるという事ではない。

 

B君 尊号真像銘文(浄土真宗聖典第2版643頁)にそのことに関して祖師が述べられている。

A君 紹介して貰えるかな。

 

B君 「信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごごろなく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり。この至心信楽はすなわち十方衆生をしてわが真実なる誓願信楽すべしと勧め給へる御誓いの至心信楽なり。凡夫自力の心にはあらず。欲生我国といふは他力の至心信楽の心をもって安楽浄土に生まれんと思えとなり。①乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。②如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」とある。

 

A君 祖師は、誓いにある名号を称えることを如来が十方衆生に勧め給ふ際に乃至の御言(みこと)を添えた理由について「遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼしめした」と言われている。ここに如来の大悲が顕れている。すなわち、時節を問わず数を問わない念仏とは自力を離れた念仏の事であり、諸行はおろか一片の自力の念仏行すら衆生には求めない仏の摂取不捨の一方的な大悲がこの「乃至十念」に顕されている。如来衆生衆生無作であるということを気づかせるために「乃至」を十念に添えられたというのが祖師の理解だ。だから祖師は結論として「②如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」と言われ、真実の摂取決定心である如来の至心信楽を深くたのむべしと勧められている。「深くたのむべし」とは如来の至心信楽を受容し自力の思いを永久に離れるという事だ。他力の念仏を勧める事は仏の大悲心以外に勧めるべきものはないということだよ。他力の乃至十念の念仏を勧めると言っても聞名信心を勧めると言っても、この名号や乃至十念に顕れた仏の悲心招喚を受け入れること1つに収斂されるのだ。だから両者は同じ大悲を勧めていると理解するのが正しいと思う。どちらの立場に立ってもいいのだ。ひとえに大悲を勧めて「信楽すべし」と勧めるのであれば、ね。他力の念仏を勧める場合には「乃至十念」に顕れた仏の具体的な無作の大悲を教え勧めなければならないし、或いは称名として現れた南無阿弥陀仏は悲心招喚であるとの大悲を教え勧めなければならない。聞名信心を勧める場合も同様に御名に顕れた大悲を勧めなければならない。どちらの立場が正しいという問題ではない。説き方の問題じゃなく、説かれる内容の問題だ。自力の思いを廃させるために衆生無作の大悲を説くことに尽きる。ここをしっかりと押さえていないと不毛な論争の原因となる。

 

A君 このことに関連することだが、以前君とこんな会話をした事を覚えているか?

-かつての会話-

A君「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているといったが、それは善導の本願取意の文と言って十八願の三信を省略したものだよね。どうして、善導は三信を省略したか知っているかい。

B君 それはしらない。善導が三信を省略した理由を述べている箇所がないからね。でも、法然聖人は、そのような質問をされて、こう答えているよ。「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われていることを聞いて信順して称名すれば自ずと三心は具足するってね。

A君 よく勉強しているね。それはどこに出ていたの。

B君 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁にでているよ。ある人が、善導の本願取意の文に三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき法然聖人は、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたことが「諸人伝説の詞」にでているってね。

A君 よく分かったよ。じゃあ、称名念仏に際しては先ほどらいの疑念がなくなればいいのかな。

B君 そうです。そうした疑念がなくなって、往生決定の思いになればいいのです。そのような疑念のない念仏を称えられる人は、すでに如来の救いに預かっている人なのです。

-引用終わり-

B君 よく覚えているよ。元祖が「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために(信を)略し給へる也」と言われた理由は「必得往生」というところに間違える事のない仏の摂取の大悲が顕れているからだ。祖師は行巻に「必の言は・・金剛心成就のかほばせなり」と言われている。祖師は「必得」に如来の大悲を感じており、その大悲を知れば信は自然と生じるということだね。

 

A君 そのとおりだ。「必得」の言に広大な衆生無作の大悲心を感じられた結果、金剛心成就に至り、その金剛心成就が善導をして「衆生称念必得往生」と言わしめたということだ。元祖も「称念すれば必得往生」の「必得往生」に「無作の大悲」を見ており、ここで「無作の大悲」を説いているのだよ。

 

B君 「念仏を勧める」という言い方はどのように理解したらいいんだろうか。

A君 単に「念仏を勧める」という言った場合、「乃至十念」の他力念仏の事であるのか、声帯を振るわせてナムアミダブツと発声する事を勧めているのか、曖昧だ。だから、「念仏を勧める」という言い方はどのような意味であるのかをその本人に確認しなければならない。

B君 「乃至十念の他力念仏を勧める」という事と「念仏を勧める」という事は同じ意味ではないのだね。

 

4.結論

B君 「衆生の無作」というのは、自力の行は無用であり、廃されるものだという意味だね。乃至十念の念仏でも名号でも本願でも、いずれであっても仏の無条件、衆生無作の一方的な大悲を領解して欲しいと仏は願われているのだから、他力の信においては、所信が「本願か名号か」という対立は意味がないということになるのだね。

 

A君 そう。本願とか名号というものが指し示しているのは、私の胸の内に感受されている現実化された大悲のことだ。この大悲は仏が生起され名号として成就された大悲が私の上に具体化した大悲だ。この具体化された大悲を表現する際に、その大悲を本願と言ったり、名号と言ったりしているだけであって表現の差異はあっても、信の上でも思想の上でも元祖と祖師の間には何の違いはない。「因願」と「果上の名号」は2つでも、仏が成就し胸の内に感受させている仏の大悲は1つなんだ。このことは大悲を感受している者にとってはごく自然に理解できる事であって、所信が本願か名号かと対立する関係に発展するようなものではない。大切な所だから何度でも強調しておきたい。十二・十三願と十七・十八願とそれらの願成就たる果上の南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となった。このことが大悲を感受する者には理屈抜きで理解できるのだ。そのため本願をもって大悲を勧めるか、名号をもって大悲を勧めるか、或いは両方をもって大悲を勧めるかの立場の違いはあっても、勧めるべきものは同じ大悲一つだ。

 

B君 君は「理屈抜きで理解できることだ。」というが理屈で説明してみてよ。

 

A君 「理屈抜きで理解できる」というのはチョットと言い過ぎたかも知れないが、祖師が大行とは南無阿弥陀仏を称することだと指定し、その出願名を十七願としたのは、まず「南無阿弥陀仏を称する」とは十八願の乃至十念の念仏の事。この乃至十念の念仏は大悲を感受している十八願の信を備えている念仏で、内心に信を具えた念仏だ。この念仏は声帯を振るわせてナムアミダブツと発声する発声自体に意味はなく、発声されている南無阿弥陀仏の法に意味がある。南無阿弥陀仏に意味があるというのは、それが仏の悲心招喚だからだ。このような念仏と念仏に伴う信は祖師が「専らこの行に奉えこの信を祟がめよ」と言われた「行信」のことであり、「この行信に帰命すれば摂取してすてたまわざるがゆえに阿弥陀仏となづけたてまつると。これを他力という。」と言われた「行信」のことだ。この行信とはすなわち南無阿弥陀仏の事だ。出願名を十七願とした理由は南無阿弥陀仏は諸仏も称讃する功徳そのものの御名であるということを示すためだ。念仏を称えることは「諸仏とともに称讃する」という意味ではない。大行とされる称名に破闇満願の徳があるとされる理由も南無阿弥陀仏が行者の信行となったからだ。行巻に「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり。」と述べられているが、称名念仏南無阿弥陀仏そのものである事を明確に示されている。最後の「これ正念」とは真実信心のことであり、その信も南無阿弥陀仏だと示すところに祖師の真意がある。大行たる称名とは信具足であり、しかもその信は南無阿弥陀仏ということだ。十二願・十三願・十七願・十八願の成就である果上の南無阿弥陀仏が今私の信行となり、私が大悲を感受して念仏申しているのは、それらの願と願成就の結果である南無阿弥陀仏にその因があることを示されたのだ。南無阿弥陀仏には無量光寿の徳があるので最勝真妙の正業であるとも言われている。このように私の胸の内に感受されている大悲は十二・十三・十七・十八願という悲願とその成就の御名が直接の因であり、それを感受している信と称名はいずれも南無阿弥陀仏が働いている結果だと言える。このことを大悲感受の者は直感的に理解でき、またそう聞けば容易に理解できるのだ。それは胸の内に大悲感受という事実が開け起こっているからだし、その大悲感受の状態が南無阿弥陀仏であると直感的に理解できるからだよ。

 

A君 因みに、このような信具足の称名が大行だから行中に信を摂していると後世において理解され、大行から大信を別開するいう言い方ができるようになった。元祖の往生決定の思いの上の念仏とはこのような行信のことであり、そこに何らの違いはない。他力の信においても思想としてもだ。元祖の念仏往生の思想に祖師はこの行信を見いだしていたから、元祖の念仏行を大行とし、その念仏行の信を大信と言い方を変えて表現し、その信の本体を改めて無疑と明示されたのだ。

 

B君 元祖や祖師の「発揮」といわれることがあるが、それについてはどう考えているのか。

 

A君 元祖や祖師の「発揮」といわれることについては何の異論はない。その発揮によって大悲を表現する方法が異なることにはなる。しかし、それは「発揮の元」が同じである場合に成立することだ。「発揮の元」とは大悲であり大悲感受だ。もう少し言うと「発揮の元」とは「南無阿弥陀仏が我が身の上に大悲を感受させて南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となった。そのような南無阿弥陀仏が私の上に顕現したのは十二・十三願と十七・十八願とそれらの願成就にあった。」という理解と共感だ。発揮には同じ元になるものがある。異なる表現をすることによって焦点を当てるポイントを明確にし、同じ元となっている大悲や大悲感受をよりいっそう深く理解されるように工夫したのが発揮という事だ。元祖と祖師の考えは思想としては異なるものとして評価されうるのかも知れないが(但し私はそうは思わない)、その思想の元になるものは同じだ。前にも言ったが、「異同」を問われる問題については、「同」と「異」をバランスよく理解した上でバランスよく説明しなければならないんだ。元祖と祖師に発揮があるからといって、元祖と祖師の所信が違うという事にはならない。概念的思考の得意な人は元祖と祖師の説かれ方の違いに着目して思想としての違いとして論を展開する方向に注力しようとするが、そうではなく、元祖や祖師の思想の底流となっている他力信の捉え方が同じだとする方向で思考を展開することがもっと重要な事なんだ。

 

第五章 補論 

B君 その他にも聞きたい事があるんだ。ある質問者が「十八願は念仏往生の願と法然聖人はおっしゃって、念仏する者を浄土に迎え取るという阿弥陀様の本願を信じて念仏すべし、と歎異抄はなっていますが、・・」「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生するという信心がピンとこないんですけど・・。」という発言があった。それに対して布教師は「どっちが正しくて、間違っているという言い方じゃないんです。」と回答していた。質問者が感覚的なことを問題としているのに対して、布教師は異なる法義であってもそれは「発揮」ということであって、どっちが正しくて間違っているというものではないと回答していた。質問に対する回答としてはかみ合っていないキライがあると感じたのだが、僕が興味を覚えたのは「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて、念仏して往生するという信心がピンとこないんですけど・・。」という質問者の感覚は何に由来しているのか、ということなんだ。

 

A君 それで。

 

B君 質問者は大悲を悦んでいる人だ。それなのに「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生するという信心」がピンとこないというのは、そのような信の理解が自分の感じているものとかなりズレているということだろうと思う。どうして、そのような事が起こるのか、分からないんだ。

 

A君 なるほど。その言い方は、かなりまどろっこしいね。この中には信という事が実質的に3回も出てくるからね。これが一つの理由になっているのだろう。

 

B君 3回というのは?

 

A君 「十八願の念仏する者」というのは、「大悲を感受している信のままに念仏している者」という事だから、ここに1回信が出てくる。このあとに「本願を信じて」とあるのでこれが2回目、「念仏して往生するという信心」が3回目になる。信心が入れ子のようになっているんだ。コレをもっと簡単に言い直せば、「念仏するものを救う本願」と思うて念仏する信と言えるよ。このほうがスッキリする。でも、意味は変わらない。信をとってしまって、無条件で救う悲心とか、無作の大悲、摂取不捨の大悲という言い方の方がもっと心にしっくりとくるね。

 

B君 さっき君は元祖の一枚起請文の「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・・(途中省略)・・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」は欲生だ言ったが、その言い方は心にしっくりとくるのか。

 

A君 それはしっくりしている。「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思って」いるし、「皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思って」いるからね。その思いは現在の思いであり、将来の往生を信じているというものとは違うんだ。

 

B君 どう違うというのか。

 

A君 南無阿弥陀仏とは、摂取するとの大悲をそのまま受けとめている心の状態の事だ。だから大悲感受の状態を意味している。自分の心が南無阿弥陀仏の状態になってしまったと実感として感じ取ることができる。この南無阿弥陀仏の状態になると、浄土に連れてゆくというのが大悲であると感受されるから、この状態のまま自分は浄土に往生してゆくのだなと素直に思える。これはごくごく自然な思いだ。しかし、「浄土往生は本当にできるのか」という問題は先に言った「不確実な直接認識したり知覚することはできない不確実な事柄」としてまだ残っているのだ。これは知性の問題だ。だから、本当に浄土往生できるかどうかは死んでみなけりゃわからんという本音が心の底にある。そういう意味で「将来の浄土往生を信じている」とは言えないのだ。

 

B君 そうすると君のいう事をまとめると心を3つの心層に区分できるということになるよ。1つは「大悲感受の状態」(Aの状態)、2つは「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取っている状態」(Bの状態)、3つ目は「将来の浄土往生を信じている」状態(Cの状態)。この3つの状態があるというのだね。

 

A君 そういうことになるね。因みに私はAの状態とBの状態にはあるが、Cの状態にはないということになるね。

 

A君 上記のAの状態は至心・信楽に相当する。仏の至心である大悲をそのまま無疑の心で感受している状態は衆生の至心であり、信楽だ。心に感受し心に顕れている大悲が至心だと理解しても良い。大悲と大悲感受とは一体・一対だからね。上記のBの状態は欲生に相当する。Aの状態から自然と生じる思いだ。至心・信楽からごく自然に生じた欲生の思いだ。これらは心の中で一体となっているので、一心と言われるに相応しいものになる。これをボールを例にたとえれば、Aの状態が球の「真核」であり、Aの状態とBの状態とが不可分一体となって球の「中核層」を形成し、Cの状態がそれらの上に「表層」を形成していると言える。

 

A君 しかし、Cの状態はAやBの状態とは一線を画される。その理由は、生まれつきの信じるという心の作用がAやBの状態に働いたことでCの状態に至るのだが、妙好人の中にはCの状態に至っている人もいれば、「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っている人もいるだろう。すべての人が「死んだら間違いなく浄土往生だ」と信じているわけではないのだよ。

 

B君 「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取っている状態」(Bの状態)と「将来の浄土往生を信じている」状態(Cの状態)とは、区別が付きにくいが、確かに「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っている人にとっては、自分は「将来の浄土往生を信じている」状態になっているのか、一度は悩ましく自問自答することになるだろうね。

 

A君 「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っているとき、これは本当に他力の信なんだろうか、間違ったものを掴んでしまったのではないだろうかという思いが出てきて、悩んだりする事があるが、その区別はあまり気にする事はない。

 

B君 面白いもんだね。信じるという一般的な概念を分析的に解析してゆくと、信じる作用とは異なる心の作用があることが分かるんだね。そして、それを分類すると「狭義の信じる作用」「広義の信じる作用」と「最広義の信じる作用」と整理できた。この「最広義の信じる作用」には、先の「Aの状態とBの状態」になっているものと「Aの状態とBの状態とCの状態」になったものの2つを含むと理解する事になるんだね。

 

A君 だから、信じるという言葉が使われた場合、その人はどのような意味で使っているのかを正しく理解しなければならないという事だよ。Aの状態とBの状態とCの状態をひっくるめて信じるという言葉を使っているのか、Aの状態とBの状態を指しているのか。Cの状態だけに信じるという言葉を使っているのか、或いはそれ以外なのか。よくよく質問して確認しなければならないのが、この信じるという言葉なんだよ。それぞれ心の作用としては異なっているのだからね。

 

A君 歎異抄唯円の言葉として「⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」という言葉があったが、再往すれば、この「信じたてまつれば」とは、Aの状態とBの状態とCの状態をひっくるめて信じるという言葉を使っているのか、Aの状態とBの状態を指しているのか、そのいずれであってもおかしくはない。いずれにも解釈できる。Cの状態だけに信じるという言葉を使っていると決め打ちしなくてもいいよ。因みに「再往すれば」とは「翻って考えてみれば」ということだ。

 

A君 さて、さっきの君の質問に戻ろうか。表現の差異によってどうして質問者の受け止め方が違ってくるのか、というのが君の疑問なんだろう?

 

B君 そうなんだ。

A君 これには理由があるんだ。

B君 どんな?

 

A君 大悲を感受している者にとって大悲は有り難いものさ。だから、大悲を感じさせる言葉や表現に対しては心が敏感に反応するようになっている。しかし、反応が鈍くなる表現もあるのだよ。

 

B君 「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生する信心」という言い方は大悲から遠くなるのか?

 

A君 そうじゃない。現在大悲を感受していることに重要な意味があると思っている者にとっては現在感受している大悲がもっとも重要で大切なことであって、生きている上においてこれ以上に至高なモノはない。その大悲を感受している状態に代えて「信」とか「信心」と言われても何となくヨソヨソしい感じがするんだ。さっきも言ったが、「大悲感受」と、「信心という言葉」の間になにがしかのギャップを感じるんだ。どうしてそんな感じがするのかと言えば、感受している大悲をただただ仰ぐばかりなのに、どうして自分の側である信という言葉を持ち出すのか、という思いがあるためだ。ココは肌感覚の問題になってくるのだが、大悲を感受している者にとっては大悲をただただ仰ぐばかりであって「自分の側」に視点を向ける事はないので信という言葉は不要なんだ。「大悲」と「大悲感受」とは一体・一対だということを言ったが、そこでも同じことが言える。「感受」している自分の方はどうでもよくて、「大悲」だけでいいんだ。大悲だけで大悲感受になるからね。だから、いっそのこと、「信」とか「信心」という言葉を使わないで「摂取する大悲」という言い方の方が心にしっくりとくる。面白いだろう。あれだけ信が欲しいと思っていたのに信はいらないという事になるのだからね。これは大悲が成就された果上の南無阿弥陀仏にある「南無」が自力の思いを消尽させ、自力の思いに替わって「南無の無疑信」として私に備わったためだ。大悲を感受する南無の信が自分の意識下の心底深くに意識されない状態で備わってしまい、意識としてはただ大悲を感受するようになってしまったからだ。信そのものを意識する事はできないが、大悲は感受できる。だから大悲を仰ぐばかりとなる。他力の信を「仰」信というだろ。ただ人に行信の「信」を説明する場合には信の内容を説明しなければならない手前、どうしても信という言葉を使ってしまう。信という言葉を使って説明していても、自分でも何かヨソヨソしさを感じる。本当は信じるという言葉は使いたくないんだ。だから自分の心の内でハッキリと意識されている大悲感受を信という言葉に代えて多用するようにしているのさ。

 

A君 さて、反応が鈍くなる理由としてその他に考えられる事は、「念仏して往生する」という将来の事に関してはさほどの関心が向かないのかも知れない。その人がそうだと言っているのではないよ。一般的に考えられる理由という事だよ。世間でもよく言われるよね、「1年後の10万円よりも目先の1万円」というようなものさ。だから「本願を信じて浄土に往生できる信」と言われても、大悲を感受させる刺激としては十分なものにはならないということもあるのさ。しかし、肉体が衰えていよいよ命終が近いと感じたときには「浄土に往生できる」という言葉は非常に大きな慈悲を感じさせる、たいへんな意味を持った言葉として胸に迫ってくる。また、健康な現在でも今臨終という思いになってみれば、その有り難さはいや増しになるだろう。つまり、「念仏して往生する」という言い方に問題があるのではない。どう感じるかは本人の心の状態次第なのさ。現在は毎日大悲に感泣するという事はなくなったが、自分の臨終が近づけば近づくほど大悲に感泣してしまうだろうということを私は直感的に感じている。かつて臨終が身近に感じたときは大悲に感泣したからね。だが、忙しい毎日の生活で臨終を忘れるようになると、それとともに大悲に感泣する機会はずいぶんと減ってしまった。それでも臨終時には大悲に感泣してしまうことを直感的に理解しているんだ。自分にとって生命の危機的状況である臨終時が大悲を感受させる最大の機会になるとね。

                        

3-27.会話編 他力信の特性(現在性)-平生業成とは-

B君 平生業成と念仏往生の法義の違いについて布教師が解説した音声録音の文字起こしが、あるブログ(「浅川進の、宗教と私」)に掲載されていた。

 

A君 私も読んだが、そこで述べられていた平生業成と念仏往生の各法義を簡潔に要約して紹介してくれないかな。

 

B君 平生業成は、「阿弥陀さまのお助け」と「私が浄土へ参ることが定まる利益」との関係において阿弥陀様のお助けの働きには時間というものは存在しないことを表した法義であるということだった(要旨)。

 

B君 念仏往生は、浄土往生の果に対する因は如来の徳が私に備わっている事であり、その徳が私に備わっている事を、聖道の行に相対させるために念仏行で表す法義であるということだった(要旨)。

 

B君 この両者の法義は異なっており、区別しなければならないという趣旨の解説だったが、君はどう考えているのか。

 

A君 両者の名目が表そうとしている法義は互いに異なっているというのは理解できるが、異なっているというだけでは物足りない気がする。

 

B君 どういうこと。

 

A君 平生業成や念仏往生という名目やそれが表そうとしている法義は一体どういう具体的事象について述べたものか、またその事象の何について注目した概念であるのか、どのような意図の下に作られた法義であるのか、もっと深掘りしてみることが必要だと感じた。

 

B君 具体的事象とは、平生業成や念仏往生という法義を考える上で考察の対象になる現象の事だね。

 

A君 そう。考察の対象となる具体的事象とは大まかに言えば、元祖・祖師や妙好人の内心に大悲を感得し、念仏している事象のことだ。「内心に大悲を感得している状態」を以下、単に「内心の現象」ということがあるよ。

 

A君 平生業成や念仏往生という名目は、その内心の現象を観察し、その時代時代に応じた要請を受けて、宗教上の一定の目的の下に造語された用語だ。最初に押さえておかなければならない事は「内心の現象」とその現象を「観察」するということだ。次に考えなければならない事は、その内心の現象のどこに着目し、どのような時代の要請を受けて何を表すために成立した名目であるのか、ということだ。

 

A君 まず、「内心の現象」を「観察する」ということから議論しようか。

 

B君 平生業成や念仏往生の名目や法義の成立に先行して「内心の現象」が存在している、というんだね。

 

A君 その現象が先行して存在しているから、それを表す名目や法義が登場してくるんだ。

 

B君 「内心の現象」を大まかに言えば、仏の大悲を感得している現象の事だと言ったが、大まかにではなく、もう少し詳細に言えばどういうことになるのか。

 

A君 内心に生じている事象のことだから正確かつ詳細に述べるのは困難だが、共通項として言えるのは、自力の思いと言われるようなある種の思いや計らいが無くなり、大悲を感得している内心の現象のことだ。自力の思いとか計らいに関しては、私の場合に限定していえば別項(3-26)で詳しく述べたから、そちらを参考にして欲しい。

 

B君 大悲を感得するとどういう思いになるのか。

 

A君 大悲を感得すると、その大悲は私を浄土往生させるという大悲であると分かるから有り難いと思うとともに、その大悲に命の行き先を委ねてしまう思いになる。そのため浄土に生まれられるという思いになる。この浄土に生まれられるという思いを「決定往生の思い」という。「大悲の感得」と「決定往生の思い」に着目してほしい。また両者にはどのような関係があるのかにも着目して欲しい。

 

B君 次に、内心の現象を「観察する」とはどういうことか。

 

A君 内心の現象を意識を用いて眺め、思索し一定の評価や意味づけを与えるという事だ。ある事象に焦点をあてて仔細に眺めて分析し評価する心の機能のことだ。注意力といっても良いと思う。

 

B君 観察している状態とは、具体的にどのような状態なのか。

 

A君 そのことに答える前提として前置きしておきたい事がある。大悲を心で感受しているときに関する心の有様についてだ。その心の有様を大まかに言うと、①大悲を感受している意識状態と②意識が大悲から離れて「内心の現象」を眺めてアレコレと考えている意識状態の2つがある。意識状態は①から②へ、また②から①への切り替えが自由にできる。意識が大悲から離れたり、再び意識が大悲に向けられて大悲を意識している意識状態へと、意識は自由に移動できる。外界に意識を集中しなければならないときは大悲の事は忘れているが、外界に注意を向ける必要が無くなってぼんやりしているときには、意識が自然と大悲に向き、大悲を感受するようになる。いや、大悲を微弱ながらも感受しているから意識が大悲に自然と向かうと言うべきかな。

 

B君 意識を大悲に向けて大悲を意識している状態とは、どんな状態なんだ。

 

A君 観察者としての意識を大悲に向けると、大悲を感受する明確な意識状態になる。それで大悲の内側に入ったように感じになり、ただ大悲を仰ぐことになる。そこでは観察する自分という存在(自我)が薄れてしまう。大悲に委ねるという思いになるから、意識を集中させる事がなくなる。このため観察対象と観察者という2項対立の関係が緩んでしまい、自分という存在(自我)が薄れてしまうのではないかと思う。

 

B君 その状態では観察する自分という存在(自我)が完全に無くなってしまうのか。

 

A君 自我意識は薄れるものの、完全に無くなる事はない。自我は自我として存在している事を感じている。

 

B君 大悲を仰ぎ、大悲を感受する状態のまま、自我は自我として存在している事を感じているということだね。

 

A君 そう。そして意識が少し大悲からそれると、内心の現象と意識とが観察対象と観察主体とに分離されて、意識はアレコレと疑問に思ったり、考えたりする。これが観察している状態だ。この観察作用は、唯識で心所法の中の不定法に位置づけられている「尋・伺」に相当すると思う。講談社学術文庫「世親」(三枝充真)260頁の「推求」と「推究」参照。

 

B君 種類の違う心の状態や機能が併存しているということかな。

 

A君 そう。①大悲を感受する心の意識状態と②アレコレと考える意識状態が区別されつつも同時に併存することもある。大悲を感受する心の意識状態の中にいてどうしてこのような事が起こったのかと同時にアレコレと考えることもあるし、アレコレと考えずにひたり切ってしまうこともある。そのような状態から現実に戻って聖教などを読むと「さもあらん」という思いになってアレコレと思索することになる。この思索中に大悲を感受しつつ思索する事もあるし、そうした状態から脱していることもある。

 

B君 大悲を感受する意識状態とかアレコレ考える意識状態と言われても、分からない人にはとても分からない説明だが、分かるように説明してくれないか。

 

A君 何も難しい話をしているわけではないよ。例えば、怒りが猛然とわき上がってきた経験はあるかな。怒りではなくとも何らかの感情でもいい。

 

B君 そりゃあるさ。

 

A君 そのとき、怒りがわき上がってきたことを冷静に眺めている経験をした事はないかな。

 

B君 怒りがわき上がってきてそのまま感情を爆発させてしまうときは、冷静にその怒りを眺めていられる余裕はないが、抑制できる程度の怒りであれば、冷静に眺めている自分を感じることがあるよ。怒っていても冷静に自分を分析している自分がいるし、怒りが収まったあとは、どうして怒ったのかなど自分の心を分析することもできる。

 

A君 そのような経験はだれにでもあると思うが、自分の心を眺める心の行為はもともと持っていた心の機能が発揮されたものだ。そのような機能は生まれつき備わっている機能だ。

 

A君 さて、「怒りなどの感情がわき上がってきた状態」を「大悲を感受している状態」に置き換えてくれれば、分かり易いと思う。

 

B君 「感情がわき上がっている状態」を冷静に眺めているのがさっきの尋伺(アレコレと考える)の状態に相当し、「怒りの中に埋没してしまって冷静ではいられなくなった状態」がさっきの「大悲を感受して委ねきっている意識状態」に相当すると言いたいんだね。

 

A君 そういうことだ。「大悲を感受している状態」と「感情のわき上がり」が大きく異なっているのは、大悲を感受している状態はおだやかで波乱はなく、静かで慈愛に満ちているということ。また常に微弱ながらも大悲を感受しているから意識が自然とその大悲に向かう。意識が大悲に向うと大悲感受を意識する明確な意識状態に移行する。

 

A君 ところで、自我意識は注意をその対象に向けたときに意識される、意識する主体を意識している意識だ。対象にのめり込むと自我意識は薄れてゆく。禅の境地と真宗の信に親和性が認められると言われているのは、信の状態で自我意識が薄れ、大悲に埋没すれば自我意識を感じ無くなる心境に到達する事があるからだと思う。

 

A君 大悲を感受する意識状態の信とそれを尋伺する意識、同じ心の中に異なった機能がある。意識はいつでも自由に移動させる事ができ、大悲に意識を向けて大悲の中に入り込んで大悲を感受する事もできるし、そこから離れて大悲を眺める事もできる。これは大脳のもつ高次脳機能のひとつだろうね。

 

B君 そのことは平生業成や念仏往生の法義を理解することとどう関係するんだ。

 

A君 平生業成や念仏往生とは、いわば大悲を感受している状態を横から眺めて観察(尋伺)し、その大悲を感受している状態をどのように説明したらよいか、あるいはその状態はどのような宗教的な意味を持っているのかとアレコレと考えている場面(悟性を働かせている場面)で使われる用語であり、一定の宗教的教えを担っている概念だ。それは、ともに同一の内心の事象について観察し宗教思想として考察した結論を教えたものだから、互いに異質ではあり得ないし、相反するものにはなりえない。

 

B君 「平生業成と念仏往生の異同を述べよ。」という問題が出されたとしたら、「同じ」であると言える場面があると言いたいんだね。

 

A君 「2つの事象の異同」を問われた場合、両者はまったく異なっていて共通点は一切無いのか、全く同じであって異なる点は全くないのか、或いは、異なる点は見受けられるが、同じ点も見受けられるのか、を検討しなければならないよね。「平生業成と念仏往生の異同を述べよ。」と問われたならば、法義として異なるということを言っただけではその一部しか回答していない事になる。

 

B君 両者が同一の事象について述べられた法義だという君の主張は分かったから、先を続けてよ。

 

A君 では平生業成の法義について、もう少しつぶさに述べてゆくよ。

 

A君 平生業成とは「阿弥陀さまのお助け」と「私がお浄土へ参ることが定まる利益」との関係を表した法義であり、阿弥陀様のお助けの働きには時間というものは存在しないという事だったよね。この意味はすぐに理解できたかな。

 

B君 読んですぐに理解はできなかったけど、よく読むと分かった感じになったよ。

聖道の行は行果が現れるのに時間がかかるが、阿弥陀様のお助けの働きには時間というものがない。だから、働きが現れると同時にその利益として「浄土へ参ることが定まる」という他力救済の法義を表しているということだった。

 

A君 そういうことだが、「阿弥陀さまのお助け」とは具体的にどのような事象として私の上に現れてくるのかについては言及されていなかったので、それを自分の頭の中で補って考えなければならない。そのためにこれまで時間をかけて述べてきたんだ。

 

B君 つまり「阿弥陀さまのお助け」は具体的には大悲を感受している状態として現れてくるというんだね。

 

A君 そう。「阿弥陀さまのお助け」が具体的な心的事象として現れたのが、大悲を感受している状態だ。これは信のことだね。もちろん「阿弥陀さまのお助け」は念仏行としても現れるのだが、称名は平生業成とは直接関係しないので、ここではとりあえず横に置いておくよ。大悲の働きはまず大悲感受の信として顕れる。この信に必ず伴うのが「私がお浄土へ参ることが定まる利益」だということになる。

 

A君 「私が浄土へ参ることが定まる利益」とは往生決定のことだ。大悲感受の信の信益として往生が決定したということだ。「阿弥陀さまのお助け」に時間という観念はないとの解説だったよね。その言わんとするところは、「阿弥陀さまのお助け」の働きが現れたと同時にその利益が与えられるという他力救済の原理を平生業成は表そうとしているということだが、その意味する所を一言で言えば、起信と同時に信益があるということになる。大悲の働きによって信が起こるということは、大悲を聞くままが即ち信という聞即信の法義が平生業成にはあるということになるし、信益同時という法義があるということだ。この法義の根拠を求めると、願成就文の「聞其名号・信心歓喜・(乃至一念至心回向)・願生彼国・即得往生・住不退転」に求められるだろう。つまり祖師の聞即信・現生不退(現生正定聚不退転)の法義を継承しているということだよ。

 

A君 平生業成には他にも重要な意味があると思っているよ。

B君 というと。

 

A君 大悲が働く場は「現在」しかないということだ。過去でもなく未来でもなく、

現在にしか大悲は現れ出ないということさ。

 

B君 つまり大悲は「過去のどこかの時点で働いたことがあったが、現在ではもう働いていない。」ということではなく、また「現在は働いてはいないが、未来に働く。」ということでもないということだね。

 

A君 そう。それが「平生」に込められた重要な意味だ。ここでいう「現在」とは、「現在」と認識されている現在の事だ。これを「現在意識」と言っても良い。「私達は常に現在を生きている」とか「永遠の今を生きている」というときの現在や今のことだ。平生は現在とか今ということと同義だ。死ぬまでの生きている間という未来を含んだ意味ではない。

 

A君 ここから重要なことが導かれる。

B君 どんなことか。

 

A君 私は信前に「将来、仏によって助けられる」と思っていた。この思いには2種類あって、一つは宿善を積んだ将来に仏の救いに預かることができるという思い、もう一つは、私は善行を積まなくても仏の力によって将来に仏の救いに預かることができるという思いだった。

 

B君 うん。それで。

 

A君 「現在働いている大悲を現在享受すること」と「将来の救いを願う思い」とは、相互に相容れない関係にある。「将来の救いを願う思い」がある間は、「現在働いている大悲」を現在享受することはできない。だから「将来仏によって助けられる」という思いは、現在働いている大悲の働きを阻害することになる。大悲はつねに現在働いているのだから、その働きをそのまま発揮させればよい。流れている水は流れるままにすればよい。吹いている風は吹いているままにすればよい。大悲の働きは大悲のままにすればよい。それを妨害してはならない。大悲の働きを妨害しているのが「自力の計らい」とか「疑蓋」と言われるものなのさ。

 

B君 「自力と申すことは行者のおのおのの縁にしたがひて、・・(途中省略)・・わがはからいのこころをもって心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。」と祖師は言われている(親鸞聖人御消息・聖典第2版746頁)。どうしてこのような思いが自力といわれて嫌われるのかな。

 

A君 今の話に関連させて言えば、大悲は現在働いているのに、行果が将来にしか現れない自力聖道の行を大悲を享受するに際して持ち込もうとすると、現在働くべき大悲が現在働かなくなってしまうことになるからだ。「わがはからいのこころをもって心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうな」そうとしているのは、将来助けられると思ってそうしようとしているものだから、大悲の現在の働きを将来の救いの事と先送りにしてしまい、大悲の働きを享受することを阻害していることになるんだ。自力の計らいと言われるのは他力救済に反する自分の思いを差し挟むからだ。

 

B君 そうすると、「心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうしよう」と思うか思わないかが重要ではなくて、現在働いている大悲を現在享受しようとしない事が問題だと言うのだね。

 

A君 そういうことさ。その良い例が「私は悪人だから助からない」と自己を卑下する思いだ。この思いも現在働いている大悲を現在享受しようとしない思いだよね。同じ理由で、この思いも自力の計らいになるんだ。

 

B君 「心口意のみだれこごろをつくろひめでとうしよう」と思うと否とを問わず、「いずれ将来助けられる」と思っている思いも「自分は助からない」と思う思いも、どちらも現在を場として働く大悲を働きを阻害する自力の計らいになるということだね。

 

A君 私が信前において「いつか仏の力によって将来に救いに預かることができる」と嬉しくなったときの思いも、その正体は実に自力の計らいだったんだよ。思うに、この自力の計らいというものは、その根っこは無意識の心の奥に根付いて地下茎のように張りめぐらされており、それが意識内に現れてくるとさまざまな思いとなって心を覆ってしまうものだと思う。

 

B君 自力の計らいを「疑蓋」というのは言い得て妙な表現だね。

 

A君 ところで、大悲の働きが私の心にそのまま働くと大悲を享受し、大悲を感受することになるのだが、「大悲の働きが私の心にそのまま働く」とは、大悲の働きと私の心の間に自力の計らいがいっさい介在していないことだ。だから、大悲を感受している状態とは自力の計らいが廃った状態であり、自力の計らいが廃った状態とは大悲を感受している状態ということになるんだ。

 

A君 そして、自力の計らいの根っこが無くなってしまうと、これまで自力の思いを生じさせていた部分に大悲が入れ替わって充満することになるので、大悲が感受されるようになる。微弱ながらも大悲が感受されるようになるから自然と意識が感受されている大悲に向かうようになる。意識が大悲に向かうとより明確に大悲感受が意識されるようになる。そうなると、感受される大悲に命を委ねる思いになり、決定往生の思いに展開してゆくのだと思う。その結果、御名を憶念し自然と念仏を称えられる事になるんだよ。仏様の清浄な涙の一滴が疑蓋の根っ子を消滅させ、やがて心に広がって大きな意識として増幅され大河となって念仏として体外へと出てゆくというイメージだろうか。

 

A君 話を元に戻すよ。以上の事を踏まえると、平生業成という法義はチョット長くなるが、次のように言い換える事ができる。「仏の大悲は常に私の現在意識を働く場として働き、その働きは大悲を現在感受する事象として心中に現れる。ひとたび大悲を感受すれば大悲は常に心に働き続け、常に現在大悲を感受できる。」「その大悲を感受すると同時に往生決定の思いになる。」とね。

 

A君 上記の「」内の表現はこれからしばしば使用したいのだが、長くなるので簡単な表現に置き換えたいと思う。「仏の大悲は常に私の現在意識を場として働き、・・(途中省略)・・ひとたび大悲を感受すれば、・・(途中省略)・・常に現在大悲を感受できる。大悲を感受すると同時に往生決定の思いになる。」ということを全てひっくるめて簡単に「南無阿弥陀仏の心的状態」ということにするよ。「大悲に摂取されて大悲を受け入れている」ことを表している言葉が南無阿弥陀仏だから、これを南無阿弥陀仏の心的状態と言い換えることができる。南無阿弥陀仏は心の状態をも表しているのだ。最初に述べた「内心の現象」はこのことだよ。

 

B君 心が南無阿弥陀仏の状態になっていることは、平生業成だけではなく、念仏往生が表す法義にも当然に備わっていることじゃないのか。

 

A君 平生業成も念仏往生も「南無阿弥陀仏の心的状態」を前提としている名目であり、法義だ。ただ、同じ事象を眺めていてもどこに重きを置いて眺めるか、またどのような宗教思想的意味を与えて説明するかによって説明方法や説明用語が異なってくる場合がある。「大悲は現在を場として働き、大悲を感受すること常にして、その大悲感受により往生決定(の思い)に安住する」という心の状態そのものに着目し、それは仏様のお助けが働いたからだと理解し、そのような宗教的意味づけを与えれば、平生業成の法義になる。これに対して、念仏往生は、その南無阿弥陀仏の心の状態を前提として、往生の因果の因は自力の思いを離れた信具足の念仏にあると行行相対して示すところに重きを置いているということだったよね。

 

B君 心の状態が南無阿弥陀仏となり、その心の状態がそのまま称名となったのが他力の念仏だよね。この他力念仏は大悲の徳がそのまま行者の心身に備わっているので念仏が往生の因となるというのが念仏往生の法義だというんだね。君がよく言う「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行となって往生する」ということだね。

 

A君 念仏往生の場合には、南無阿弥陀仏の信行を仏様が選び取られた選択本願の念仏であり、これが往生の因であると理解し、信具足の選択本願念仏が往生行であるとの宗教的意味づけを与えた上で、その信具足の選択念本願仏行を諸行と相対させる所に念仏往生の主張があるということになる。念仏往生は平生業成とは少しばかり違う軸足に立っていることが理解される。これを私なりに言い換えると、念仏往生は平生業成の法義を含み持っているが、他力念仏を諸行と相対させるために往生の因として選択本願念仏を前面に押し出した法義だということになる。だから、両者はまったく同じだとは言えないが、もとになっている根っこは同じだ。

 

B君 平生業成には念仏を諸行と相対させる意図はないが、念仏往生にはその意図がある。その違いによって、往生の因を信具足の念仏行をもって表すか否か、信の状態に着目して仏様の力用による他力救済を強調するか否かの違いになってくるということだね。

 

A君 平生業成が指し示している事象は心が南無阿弥陀仏の状態であるから、念仏往生の信と同じだ。だから平生業成は当然に称名念仏として展開してゆく事を予定している法義だ。言い換えると、念仏往生のうちにある信と信益に特に注目してその関係を取り出して説明した法義が平生業成だと思う。

 

B君 元祖が一枚起請文に「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・・(途中省略)・・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」と言われているよね。

 

A君 「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思う」とか「決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う」が信であり、「疑いなく往生するぞ」と思うところに信益としての決定往生が信と同時にあるということが分かるよ。だから元祖の上記法語にも平生業成と同じように「聞其名号・信心歓喜・(乃至一念至心回向)・願生彼国・即得往生住不退転」の思想があるんだ。

 

B君 では南無阿弥陀仏の状態をどうして異なる法義として表さなければならなかったのかという問題に移るが、どうしてなんだい。

 

A君 念仏往生は、聖道門の寓宗であった浄土門を聖道門から区別し独立した宗として建てるには、聖道の行果とはまったく異なる法義を建てて顕さなければならなかった。これは元祖の時代的要請だった。聖道の行果に相対して往生の因果を顕すために選択本願念仏往生という名目と法義が必要だった。その念仏とは如来の徳が私に備わっていることを顕す信具足の他力念仏のことだ。この念仏に備わった仏の徳によって私の往生が果たされるというのが聖道に対する念仏往生の主張だったんだ。

 

B君 それに対して、平生業成は、仏の徳が備わるのは仏の救いが現れたときに直ちに備わることを顕す法義であり、仏の救いは何らの計らいをまじえずに大悲を感受する信として現れ、その信のときに往生が決定することを主張する法義だったんだね。

 

A君 平生業成は自力念仏では現在の仏の救済には預かれない事を示す明確な目的の下に信と信益の関係に着目し仏様のお救いが働くやいなや、その救済が現れて同時に往生決定の信益が与えられるという他力救済を表すところにその意義や目的があったんだ。これは自力・他力を問わず念仏が盛んになった世相を背景に、他力による救済を明らかにしなければならない時代的要請に応えるための名目だと言える。

 

A君 その法義は、願成就文に淵源を持つ祖師の現生不退とか現生正定聚不退転の思想と同じ法義だし、上記の元祖の一枚起請文にもその思想は現れていると言える。だから平生業成という名目は、名目だけが新しくなったものであり、その法義は決して新しいものではない。

 

B君 今回、「他力信の特性(現在性)-平生業成」というタイトルにしたのには何か意図はあったのか。

 

A君 先の項(1-30)に他力信の特性の1つとして「③現在性」を挙げたが、その現在性とは先に述べたとおりだ。仏の大悲は常に現在意識を場として働き、その働きは現在大悲を感受する事象として現れる。ひとたび大悲を感受すれば大悲は常に現在意識(心)に働き続け、常に現在大悲を感受し続けてゆく。この特性を「現在性」と言ったのさ。この現在性という信の特質を表すには平生業成の方が適している。だから「他力信の特性(現在性)-平生業成」というタイトルにしたんだ。

 

B君 先の項(1-30)に「⑲念仏発動性は、信は無量光寿の大悲を感受すれば必ず念仏行として発動するということ。念仏行として発動しない信はないということ。⑳念仏一体性は、信は念仏発動の心源として念仏と一体であるということ。念仏は無量光寿の救いの法源として、また大悲を感受させる法源として信と一体であるということ。」の2つが挙げられていたが、この二つの特質は念仏往生に現れた信の特質ということかな。

 

A君 そうだね。この2つは平生業成では表せない信の特質だ。⑲念仏発動性は、信は必ず念仏にて往生するぞという思いになる。念仏とは私が声帯を使って音声化する行為に価値があるのではなく、称される南無阿弥陀仏の心的状態が仏徳を顕しているから、信は、その心的状態を顕している念仏にて往生するぞという思いになり、必ず念仏として発動するようになるということを、⑳念仏一体性は、念仏(南無阿弥陀仏)は仏徳を顕しているから、大悲感受の信を発動させ、信を刺激し継続させる事になるということを、つまり信と念仏とはこのように互いに密接な関係にあることを示したものだよ。念仏往生に顕れた第十八願の信行には信行不離の特質があるということだ。これを平易に言えば、大悲を感受しつつ念仏し、念仏する内側で大悲を感受することができるということだ。

 

A君 私はこのような心理的現象が生じるのは超自然的な現象ではなく、ごくごく自然な現象だと考えている事も付言しておきたい。意識がどのように生じるのか、いつ生じるのか全く分かっていなくても、意識が自然に生じるような自然な現象だと思うんだ。自然現象だから誰にでも起こりうる一般的な可能性があるということだ。「あたかも鉄が磁石に引きつけられるように、誰でもがその大悲に牽かれて大悲の世界に近づいていき、最後には鉄が磁石に接着するように急速に回心現象が起きる。」と思うんだ。祖師が晩年になって他力を「自然」と呼ばれるようになったのもこのような自然な働きであることを感じられたのだろうと思うよ。

3-26.会話編 他力信の特性-回心とは-

B君 祖師は信に一念があると教えられたが、その文言上の根拠は無量寿如来会の「一念の浄信」という文言にある。その上で十八願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の「一念」を信の一念と理解された。この信一念は信が開発する初起一念と理解されているが、ここで疑問に思うのは、この初一念はその初一念のときに自覚的に認識できるのか、或いは初一念時には自覚的に認識できなくても、事後的に実際の信体験の上で初一念を想定ないし認定することができるのか、ということだ。

 

A君 どうしてそんな事を考えたのか。

 

B君 「聞其名号信心歓喜乃至一念」の一念は行の一念とするのが元祖の解釈だが、祖師が大経に直接の根拠の無い信一念をわざわざ異訳の無量寿如来会の文に根拠を求めたのは、祖師の信体験の上から、よほどの事情や理由があってそうされたのではないのかと思うんだ。

 

A君 つまり祖師には初一念のときに自覚的に初一念を認識できた、ないしは事後的に初一念を自ら想定ないし認定することができたと考えているんだね。

 

B君 うん。それにね、少なくとも事後的に初一念を想定することができるものでなければ、信一念は観念的ないしドグマであると言われかねないことになる。

 

A君 君は信一念を観念的な理解にとどめずに、実証主義の立場からさまざまな信体験において信一念を必ず見いだすことができる、と考えているんだね。

 

B君 そう。そのような考えが正しいかどうかは、数多くの信体験のサンプルが必要になるし、そのサンプルは回心という心理的現象が可能な限り正確に叙述された精度の高いものでないといけない。精度の低いサンプルだと誤答につながるおそれがあるからね。

 

A君 確かに信一念を観念的な教義レベルに終わらせるのではなく、信体験に信一念があることを実証的に確認してゆく作業を行った研究はこれまでになされたことはないだろう。そこに目をつけたのはどうしてなんだい。

 

B君 信一念は自覚的には分からないという論調が多く見られるよね。おそらくこの論調は、初一念のときに自覚的に信一念を認識できなければ他力信ではないという主張に対して反駁するところに意味があると理解されるが、事後的にも初一念の有無を想定することができないのか、ということが疑問になってきたんだ。

 

A君 確かに祖師は「建仁元年辛の酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す」とだけ言われていて、自らの信体験を詳述した著作はない。だから詳しい事情は分からないが、建仁元年という年単位のスパン内で信体験があったと認識されていたことは確実に分かる。その信体験が特定の年度に起こったということは、その年の1月に起こったか2月に起こったか、ないしは12月に起こったか分からないというものではないだろうと推測できる。

 

B君 自らの信体験を事後的に評価してみると、あのときに信が開発したと理解されたということなのか、それを知りたいと思ったんだ。

 

A君 信一念が自力が廃って如来の救いを受け入れるときのあるべき理念であるというのは理解できるし、自力の計らいがどこかの時点を境にしてなくなったという実感の上からも信一念の存在を首肯することができる。しかし、初一念を自らの信体験の上に見いだそうとして事後的に認定する作業を丁寧に行うにしても相当な困難がつきまとうのも事実だ。

 

B君 そう。だからここで2つの選択肢が考えられるんだ。①1つは信一念という教義はドグマに過ぎないと理解し、信体験における初一念を認定する作業を放棄する。②2つは信一念はドグマではないし、事後的に信体験の上に見いだすことができるという確信の下に信体験における初一念を認定する作業を行ってみる。僕は②の方向を目指しているのだ。

 

B君 そこでA君の信体験を聞かせてくれないかな。

 

A君 ん?君の研究材料にしたいと言うんだね。まぁいいか。参考になるかどうか分からないし、君を収拾のつかない解決困難な混乱に導く事になるかもしれないよ。

 

B君 それでもいいから聞かせてくれないか。

A君 では、一つの参考程度に聞いておいてほしい。

 

A君 私が人生後半にさしかかったある日の夜、自宅ベッドの上でふと天井を見上げたとき、病院の病床で同じように天井を見上げている自分を想像してみた。老病によっていずれはそうした日が確実に来ることは間違いがないと思ったとき、蓮如上人の「雑行雑修自力の心を振り捨てて一心に阿弥陀如来、我らが今度の一大事のご後生、御助け候とたのみ申して候。たのむ一念のとき往生治定、御助け一定と存じ喜び申し候。」という文がふと思い出された。わざわざ宿善を積む難行によらずとも自力の思いを振り捨てて帰命すれば救われるんだと思えた。このとき人生で初めて心から阿弥陀仏に救われてみたいという思いになった。それで死のことが再び、問題になりはじめた。

 

B君 それ以前は救われたいという思いになったことはなかったのか。

 

A君 大学入学時に「阿弥陀如来に救われると壊れない幸せになる」と聞いたときはそうなりたいと願うようになったが、私の言う「初めて救われたい」という思いはその思いとはまったく異質なものだ。

 

B君 どうちがうのか。

 

A君 「壊れない幸せになりたい」という思いは「自力の思いを振り捨てて帰命する」という救済の視点というか要の抜けた、あこがれめいた思いに過ぎない。

 

B君 「自力の思いを振り捨てて帰命する」という救済の視点が定まったことで、その意味を知りたいと思うようになったんだね。

 

A君 単に意味を知りたいというだけではなく、そこにしか如来の救済が現実的に起こる場所はないという思いや感覚になったんだ。                                       

B君 なるほど。「壊れない幸せ」という観念に踊らされるのではなく、お聖教の文の中に「現実的な救済」が書かれていると理解したということだね。

 

A君 そう。これが長らく続いた呪縛から自由になった最初の踏み出しになったと思う。

 

B君 それで君の言う「死の問題」とはどういうことか。

 

A君 臨終に向かったときに自分の心の状態に大きな問題がある事に気づいてしまったということだ。これは以前から心に感じていた問題ではあったが、自力も他力も何も分からないまま死んで逝くことの重大さを再び思い出したということだ。頼るべきものや体を失って命を永遠に向かって放り出すとき、いい知れない不安に陥るという心の問題はまだ解決されないまま残っており、もう一度この心の問題に取り組もうと思ったということさ。

 

B君 それで。

 

A君 自力の思いを振り捨てて帰命すればその心の問題が解決がついて救われると思ったのだが、自力の思いというものがそもそもどういうものか分からなかった。だから帰命ということも分からなかった。そう思うとこれらを理解できない限り信は得られないと思えて落ち着かない気持ちになった。だから、二十歳代後半に精神的に捨てたはずの真宗を、もう一度はじめから自分の力だけで、他人の影響を受けずに心から納得のいくまで勉強し直してみようと思い立ったのさ。

 

B君 独自に勉強したのか。

 

A君 そう。可能な限り真宗の本をネットで購入したり、本願寺で購入して読んでみたよ。本を読んでも自力の思いと帰命のことは分からなかった。だからインターネットで法話の情報を入手しては本願寺などに説法を聞きに行ったり、とびきり優秀な知人が某会を脱退して信も得ているとネットで公表していたので、その人に東京まで来て貰ったりもしていた。しかし、いずれもいずれも聞いても分からない。何一つとして心から分かったという感じがしないんだ。

 

B君 うん。

 

A君 何一つとして自力も他力も分からないという思いのまま助かりたいと思って、宿善になるとかつて聞いていた正信偈などの拝読をその頃毎日数回から十数回の頻度でこっそりと行ったりもしたし、それに伴って念仏も称えてみた。拝読という読誦正行に相当な重きを置いていたのだが、そのうち読誦は自分が続けてできる行ではないと思うようになり、面倒くさい拝読よりも念仏の方が浄土の行としては簡単で効率的だと思うようになった。

 

B君 うん。念仏以外の行はある意味すべて難行だ。それで。

 

A君 何も分からないまま死んで逝くことの重大さに気づいたことから感じた、あの取り返しの付かない不安感はあたかも潮が引いてはまた満ちるように不安と安定とが交互に繰り返す日々が続いたんだ。その思いから法話を聞き求めるのだが、聞いても聞いても分からない。不安な気持ちになると救われたいという思いが心をとらえて離さないようになっていった。日々、そんな思いに囚われる時間が次第に長くなっていったように思う。そんなときだよ。こんな心の状態のまま死んで逝くのかとはじめて死に臨んだときの心境が現実の問題になったんだ。つまり現在の心境は命終時の心境とまったく変わらない。命終時の心境が現在の心境だということになると、命終の心境が極めて身近になるとともに死がグッと身近なものに思えるようになった。現在の心境が命終の心境であると理解できたことで現在と命終とが現実問題としてひとつにつながったんだ。そうなると、今日、明日死ぬかも知れない。そうなったらどうなるんだろうと深刻な気持ちに陥った。それでますます他力の信が欲しい、阿弥陀仏に救われたいと心から願うようになった。そう願うようになるとますますこのまま死んだらどうなるのかという思いに囚われる時間が長くなってゆき、ますます苦悩するようになった。その2つの思いが繰り返しながら続くんだ。これは心の病理現象じゃないかと思った。

 

B君 いずれ助かるだろうとは思わなかったのか。

 

A君 いや、思った時期があった。病理段階が深刻化する前にいずれ助かるだろうと思えた時期があった。必ず助けるとの大悲があると思っていたからね。だから、いずれは助かるだろうと思えたときはそれは嬉しかったものさ。でも、その救いがいつになるのかと考えると再び不安に陥った。いずれは助かるだろうと思うものの心は苦しかった。これが「若存若亡」と言われるものかと思ったよ。

 

B君 それでだんだんと絶望するようになっていったのかな。

A君 それはまだもう少し先の話。その前に自力の思いというヤツに気づいたのさ。B君 自分の心の中に自力の思いがある現実に気づいたんだね。

A君 そう。他力の信が欲しい。助かりたい、助かるだろうという思いが自力の心だと気づいてしまったんだよ。

 

B君 何がきっかけで気づいたのかな。

 

A君 助かりたいという思いは、まだ助かっていないという思いの裏返しだ。まだ助かっていないという自覚的な思いがあるから助かりたいという思いになって念仏を称えるという心理状態になっている。この心の中で起こっている現実に気づいたとき、この心理状態から一歩も抜け出ることができないことに気づいたのさ。念仏を称えてもまだ助かっていない状態のままだ。来る日も来る日も自分は助かっていない現実に否応もなく気づかされる。そのときにこの心理状態から抜け出られない限り、他力の信は得られないし、助かることはないのだと思えたんだ。そしてこのとき、これが捨てるべき自力の思いだと気づいてしまったのさ。

 

B君 蓮如上人の「雑行雑修自力の心を振り捨てて」の自力の心がどういうものか

分かり始めたということだね。

 

A君 諸善を行じて助かろうという思いはもともとなかったが、読誦という助業を念仏に優先させていた思いが雑修、念仏で助かりたいとの思いが自力であると思った。その頃、その教学上の区別は付いていなかったが、雑行雑修という行をなす思いというものはみな助かりたいという思いを共通にしており、この助かりたいという思いが自力の心だと感じたんだ。

 

B君 うん。自力の計らいという問題は深刻な自分の心の中の問題であると分かったんだね。

 

A君 そう。これはたいへん深刻な問題だった。その心理状態から抜け出ようとしても一歩たりとも抜け出ることができない。抜け出ることができない時間が無為に過ぎてゆくだけで、このまま死んで逝くしかないのかと思えた。そう思うと助かりたいと思うが、この思いがそのまま自力の心で、助かりたいと思えば思うほどその自力の思いで心が完全に八方塞がりになってしまう。心が厚さ1メートル以上もあるゴム状の球体の中に閉じこめられて、内側から壁に体当たりでぶつかっても跳ね返されてしまう思いだった。自力の思いの事を「薄皮一枚ままならぬ。」と表現された妙好人がいたことを思い出したが、とてもそういう感覚ではなかったよ。

 

B君 その心理状態に陥って説法を聞いていたんだね。

 

A君 そう。だからどうすればこの八方塞がりの状態から抜け出られるのかとばかり布教師に質問していたよ。

 

B君 聞くべき所を聞かず、自分の心ばかりを見ていたんだね。

A君 そう。

B君 自分の心ばかりを見るのではなく、大悲を聞くんだと教えられなかったのか。

 

A君 教えられた。でもその意味が皆目分からなかった。「その大悲が分からないから質問しているだ。」などと食ってかかる勢いで質問したよ。

 

B君 大悲が分からないから自分の心しか見えないんだね。

A君 そうだね。これには参った。もう自分ではどうにもこうにもならなくなった。

B君 それが自力と他力の断絶という絶望感だね。

 

A君 そう。絶望するしかなかった。助かりたいと思った瞬間、それがすぐに自力の思いに転化するのだからね。本当に「自力地獄」といっていい状態だよ。これが自力の思いに囚われた者の心理状態だ。祖師が「疑網」と言われた意味が分かったような気がしたよ。自分の助かりたいという思いがマスクメロンの網状の1本1本の固い筋のようにたちまち心を覆って心を閉じこめてしまう感覚だ。

 

B君 それからどうなったのか。

A君 この悶々とした状態がしばらく続いたよ。

B君 その先を聞かせてくれないか。

 

A君 「自力地獄」に陥るとそこから抜け出ることはできないと観念しかけていたとき、ある布教師の説法で如来の大悲が私にかけられていることと大悲が届いているということをことを聞いた。それが心に残って、それはどういうことなのだろうかと自問自答した。そうこうするうちに、形のない大悲が大経という形を取って七高僧へと本願が連綿と伝え続けられ、それが現代にいたって法話という形を取って今私が大悲を聞いているのだと気づいたのさ。そのとき、連綿と伝えられてきた大悲はこうした歴史的な具体性をもった力になって私に届いていたのかと思えるようになった。そしてこの大悲の力はその後どうなってゆくのだろうかというところに思いを至したとき、この大悲の力は私をそのまま浄土へと引き連れてゆくのかなぁと思えた。そのときに頭の中で何かがはじけて分かったような気がして、大悲を感受する思いになり、感涙するようになった。このときを「A時点」というよ。このときはこれが救いであるのなら、何と簡単な救いであろうか、これ以上に易しい救いは他にはないと感じたよ。

 

B君 大悲が届いていると気づいてどうなった。

 

A君 そう気づいても救いらしき手応えはないままだ。後生のことは分からないままだし、地獄の底で仏の呼び声とやらは聞いていない。手応えがないから自分はまだ救われていないという根強い思いはそのまま心の中に残ったままだった。

 

B君 それで。

 

A君 ある日、その同じ布教師の説法を聞いたとき、その布教師が話す阿弥陀仏の慈悲の言葉が、あたかも阿弥陀仏自身が私に語りかけているような感覚になった。これが大悲が届いているということなんだと納得できた。このとき、阿弥陀仏の直の声が聞こえたということではないよ。「あたかもそう聞こえた」ということだよ。そのことはそのときにも自覚的に認識していたことだった。いうなれば布教師の言葉に阿弥陀仏の大悲が乗って私に直接届いたという感覚であったから、「あたかもそう聞こえた」ということだ。この時点をB時点というよ。

 

B君 それで。

 

A君 ご示談の時間になったので、そこで真っ先に質問した。「今日は布教師の先生の言葉が阿弥陀仏が説法しているかの如く聞こえて、大悲が私に届いていることが分かった。さあ、問題はここからどうすればよいのか。」と質問したのさ。今から思えば、ずいぶんと間抜けな質問をしたと思うが、そのときはそれなりに必死だったんだ。

 

B君 どのような回答があったのか。

 

A君 「もうそれで終わり。気づけば終わり。」だと言うんだ。「大悲が届いてることに気づいたのに救われていないと言うのは迷いが深い。」とも言われた。

 

B君 すぐに理解できたのか。

 

A君 理解できなかった。大悲が私に届いている思いとともに大悲に感涙する自分がいるものの、他に何ひとつ変わったことはなかった。これでおしまいと言われても、救いというものがどういうものなのか分からなかった。

 

B君 それで。

 

A君 大悲を感受しているものの、このままが救いであると言われても本当にこんなに簡単な救いであっていいのか、という思いがあった。また、大悲を感受して感涙しているものの、これが他力の信心ではなかったら、私の後生は一体どうなるのだろうかという思いも残った。

 

B君 それで。

 

A君 それで繰り返し繰り返し自問自答したし、祖師が住まわれた稲田にあるお寺に行って得られるはずのない指南を祖師に求めた。何かが感じられるかも知れないと思って祖師の見返り橋に立ってみたりもした。言葉としての教えは聞くことはもちろんできるはずもないが、ここに行って気づいたことは、仮に私が救われていないとしてももう自分のできることは何ひとつ残されていない、ということだった。後生がどうなるのかについてはこれまでと同じように何も分からない。このまま死んで逝くしかない状態は何も変わることがなかった。でも、その命終時に私がどうなるかは今この私に届いてる阿弥陀仏の大悲次第だと気づいて思いが変わってしまったんだ。心が翻ったような感覚、命終の先に体ごと倒れ込んで飛び込んでいくような感覚を覚えた。大悲のままに死んで逝けばよいだけだったと思えた。その後はただただ大悲に感涙するだけだった。この時を「C時点」というよ。

 

B君 それが君の回心の体験だったんだね。

A君 今思えば、そうだったのかなと思える。

 

B君 信一念というのが分かったのか。

 

A君 いや、いつが信一念だったのかはそのときそのときに自覚的に分かったわけではない。ある状態から別の状態へと確実に変化したということは分かる。その時点が「A時点」という瞬間なのか「B時点」という瞬間なのか、「C時点」という瞬間なのか、或いは「A時点からC時点」を含んだ連続した期間にかけて生じた変化だったと理解して良いのか、そのときは正直言って分からない。ただ有り難うございますと感涙するだけで精一杯だった。

 

B君 それが、自力から他力へ変わってしまったと考えている根拠なんだね。

 

A君 そう。根拠はそれしかない。

 

B君 その後、死んだ後どうなるかという不安や助かっていないのじゃないかという不安は起こってこないのか。

 

A君 起こってこない。「大悲を感受するがまま」という思いが心を占めてしまっているので、そのような不安は起こらない。

 

B君 「それが他力の信じゃないとしたら」という思いは出てこないのか。

 

A君 出てくる。しばらくの間出てきたし、今でも出てくるが、それが不安を伴うものではなくなってしまった。大悲を感受していればそれだけでよい。大悲を感受できなくなったり、再び後生の問題が不安になってきたら、そのときはそのときだし、そのときでも大悲は私とともにあり、私が仮に地獄に堕ちようとも大悲は常に私とともにあり、仏と私とは一心同体だと図らずも開き直ってしまった気分だ。

 

B君 では、君が考える信前と信後の違い、つまり回心とは何だというのか。

 

A君 信が欲しいとか助かりたいという思いはなくなってしまい、これで地獄に堕ちるのであれば、感受している大悲もろともだという心の据わりができた。自力の思いが心を占めていたのがすっかり無くなってしまった。以前は感受できなかった大悲が心に感受できるようになった。それだけだ。人がどういう意味で回心という言葉を使うのかは分からないが、自分が回心という言葉を使うとしたら、この状態の変化にしか使うことができない。

 

B君 じゃ、その回心は何を契機として起こったと考えているのか。

 

A君 回心は、救われたいのに自分では乗り越えられない自力の壁に突き当たった苦悩と大悲が自分に届いているという思いの2つを契機として起こる心の現象だと思う。大悲を聞かされても、自力の思いから抜け出る事ができない大きな苦悩がなければ回心は生じないし、そうした苦悩があっても大悲を聞いて自分に届いていると理解されなければ回心は生じないと考えている。

 

B君 「救われたいという思い」や「自力の思いから抜け出る事ができない苦悩」は心の内側から起こった思いだから、これを「内薫」と名づけるとすれば、大悲を聞くというのは心の外からの働きかけだから、これを「外薫」と名づけることにしようか。内薫だけでは回心は生じないし、外薫だけでも回心は生じない。この両方が揃ったとき回心が生じるというんだね。

 

A君 そう思う。内薫は自分が意図的に意識して起こした思いではないし、本願を聞くというのも外からの働きかけだ。だから、回心は自分の心の中で起こった現象ではあるものの、自分(自我意識)とは無関係に勝手に生じ起こった現象のように思える。自分の意識(自我意識)を中心にして言うと、自分の意識とは関係なく心が勝手に無意識のうちに「救われたい」と思うようになり、自分の心が勝手に無意識のうちに「自力の思いから抜け出る事ができないと苦悩」するようになり、大悲が届いている事も外からの働きによって気づかされ、自力の思いがきれいに消えてしまったのだから、心が回転して転換したというに相応しいと思う。この回心は自分とは無関係に勝手に起こったものだとしか思えない。自分の力が足りたということはなかったし、自分の力はすべて自力の思いとなって跳ね返されたという思いしかないので、自分の力は間に合うものではないと思えるのだ。

 

B君 その内薫と外薫を君は本願力だというんだね。

 

A君 内薫を過去からの本願力との縁によるもの、外薫を現在の本願力との縁によるものという理解をすれば絶対他力という考えが成立する。でも、それとはちょっと違った解釈も成立すると思うよ。

 

B君 どんな解釈か。

 

A君 内薫は心の不安が意識レベルに到達せず無意識のレベルに留まっていたものが、やがて意識されるレベルまで次第に強くなってきたということ、外薫は説法を聞く事による気づきという心理的な影響や効果のことだ。宗教色を一切取り払ってこの回心という宗教的心理現象を理解し解明しようとすると、シナプス結合という脳神経回路の構築とシナプス結合の強弱が心の作用を決定し、決定された心の作用が意識に上って意識に提示されるという大脳神経学的現象に原因を求めざるを得ない。回心が自力の思いを生じさせていたシナプス結合が消失ないし弱体化されて、大悲を感じる新たなシナプスの再結合が促されたことによって生じた心の心理作用であると考えることもできる。そう考えると回心は真宗独自の現象ではなく、他の宗教でもあり得る自然現象だとの理解も可能になってくる。

 

B君 もともと仏教では三界唯一心心外無別法といって、すべての現象を心に還元する立場に立っているが、この立場と整合性をとろうとすると、君のように理解する事になるのか。

 

A君 いや、それは分からない。阿弥陀仏の本願力という外薫が固然とした実在として心の外にあるという考え方もありうる解釈だとは思うが、大悲が心の外に実在するという認識が間違いであるにせよ何にせよ、大悲が届いているという認識は私の心が認識したことでもあるので、その認識が内薫とともに協働して回心を生じさせたと理解する事も可能となる。つまりは内薫も外薫も自分の心の働きだということになる。大悲を感受する心の作用はこれまでになかった神経回路の再構築によって生じている自然現象のように思う。

 

B君 本願力による回心か心のもともと持つ作用としての回心か、ということだね。

 

A君 その両者は対立するものではない。心のもともと持っている作用としての回心であると理解しても、心の作用として生じたその作用そのものが本願力だと理解することができるからね。心の作用の全てが解明されて何らかの手かがりを得ることがあれば、もっと確実に回心という宗教的心理現象に迫ることができるだろう。

 

B君 そうすると、どちらかに固執する必要もないということだな。

 

A君 そう。肝心なのは心の自然現象としての捨自帰他が現実に起こり、大悲を感受しつつ念仏称えて生きてゆく事と念仏称えて大悲を感受しながら死んで往く事であって、その現象を説明する学解などの哲理が大事なのではないからね。哲理は所詮哲理に過ぎない。本当のものではない。

 

A君 横道にそれてしまったが、本題に戻ろうか。

 

A君 私の信体験をどう理解するかについては、いくつかの解釈が考えられる。①1つは信一念が判然としない体験は他力の信ではないと考える。②2つは信一念を「A時点」又は「B時点」又は「C時点」に求めて他力信と認定する。③3つは信一念を信体験の上に求める知的作業を放棄して、「A時点からC時点」にかけて自力の思いが廃って本願にゆだねたことで十分とし、他力の信と認定する。

 

A君 さあ、君ならどの立場をとる?これが君の提示した問題意識を追求してゆくとぶちあたる困難な課題だよ。でも、だれでもがぶつかる問題だと思うがね。

 

B君 信一念の教義に忠実な立場は①か②になる。③はとりにくい。君はその問題についてどう考えているのか。

 

A君 あまり結論を急ぐなよ。

B君 ②の立場はとっていないのか。

 

A君 仮に②を取ると、信一念を「A時点」とするか「B時点」とするか「C時点」とするかの認定に困難がつきまとう。

 

B君 具体的には?

 

A君 信一念を「A時点」に求める場合、A時点において存在した「まだ助かっていないという思い」をどう理解すればよいのかという悟性の問題が生じる。この思いは自力の思いではないとしなければ、信一念を「A時点」に求める立場は成立しない。

 

A君 「まだ助かっていないという思い」が無くなった「C時点」に信一念を求めるとすると、A時点で大悲を感受した思いをどう理解すればよいのかという悟性の問題が生じることになる。A時点での大悲感受の思いは信ではないとしなければ「C時点」に信一念を求める立場は成立しない。

 

A君 「B時点」に信一念を求めると、「A時点」に求める場合の問題点と「C時点」に求める場合の問題点を同時に抱え込むことになる。

 

A君 このように②に立つと困難な問題がつきまとう。一番簡単で楽なのは①か③の立場をとることだ。

 

A君 そもそもこのような問題が生じたのは、事後的に信一念を認定しようとする作業は悟性を唯一の頼りとする。悟性というのは知的な心の作用の事だ。論理や概念を重視した心の作用の事だ。しかし、信は悟性ではない。悟性ではないとすればなんだというのかというとよく分からない。悟性ではないから、一応、感性の領域の問題だとしておくよ。信という感性の領域の問題を悟性が取り扱うと、悟性は教義を重視することになるから、教義に合致しているか否かだけを考えて①の結論をだすことになる。逆に③を承認すると信一念の教義を捨て去るか、信一念の概念を再構築するかの決断をしなければならなくなる。ここに悟性を重視することの問題性がある。

 

B君 悟性を重視すると君の信は他力の信ではないということになってしまいかねないよね。

 

A君 実は、自分自身でもそのように考えたことがある。そのことは上に述べたとおりだし、今でもときどきそう考えることがある。でも、これが他力信ではないために地獄に堕ちるようなことがあったとしても、そのときは大慈大悲の仏も私ともに地獄に堕ちて下さる、私は仏とは一心同体という心の据わりがある。だから、他力信ではないとしても心や気持ちの上では何の問題もないのさ。

 

B君 心の状態としてはそれでいいのだろうが、悟性はどうなったのか?

A君 悟性を重視しなければ何の問題も起こらないさ。悩まなくてすむ。だから個人的には親和性を覚えるよ。

 

B君 そりゃあそうかもしれないが、なんかモヤモヤした感じが残るよ。

 

A君 そのモヤモヤ感は他力信に対して悟性的アプローチ(悟性的思索)をとるときに生じてくる問題だよ。君が感じるモヤモヤ感は悟性が満足していないモヤモヤ感だ。このようなモヤモヤ感は阿弥陀仏というものの存在を考えるときにも出てくる。でも他力信はこの悟性的アプローチに対して超然としているのだ。そんな悟性が何になるという超絶感が他力信にはある。悟性的アプローチでは到達し得ない領域にあるのが証果や他力信だと思う。だから、悟性によって他力の信や回心を理解しようとしても、いずれどこかの時点でこの悟性的アプローチは完全に放棄されなければならない運命にあるように思える。

 

B君 たとえば、死を迎えたときとか。

 

A君 そうだね。そのときは悟性は完全に役立たなくなる。大悲に命をまかせるだけだ。さて、この続きの詳細は別の機会にしようか。それまでに一応の答えを用意しておくよ。納得のゆく答えを用意できるかどうか保証はしないけどね。ただ先取りして言っておくと、私は、A時点で大悲心を聞き受ける回心(捨自帰他)が不足なく成立し、成立した回心の意味を悟性が正しく理解したのがC時点だったと目下のところ考えている。C時点の思いが回心の完成型ではあるが、回心が成立して自力世界への後戻りができなくなったのはA時点であると思う。初一念はこの1度限りだ。B時点やC時点の感情や思いのことは初一念ではない。B時点のそれはA時点の初一念に伴って生じた後続する感情や感覚であったり、C時点のそれは悟性的認識による納得感・モノ落ち感であると思う。初一念はその直後から感情面に深い影響を与え、心の状態(落ち着き状態)を決定する要因になる。また思想面に至るまで幅広くかつ深く影響を及ぼし、その影響は長期的には宗学の修得や行動(念仏行や表現活動など)にも及んでゆく。妙好人は一生涯、臨終の際までその影響下にあるのではないかと思う。

1-30.他力信の特性

他力信の特性を列挙してみる。信の特性はこれらに限定されるものではないし、いくつかは重複している。感じるままに考えたもので教学的に整理したものではない。
①.大悲感受性
②.事実性
③.現在性
④.未来指向性
⑤.過去因縁性
⑥.純真性
⑦.意識非対象性
⑧.無所得性
⑨.非言語性
⑩.仰信性
⑪.信順性
⑫.分離性・委託性
⑬.静寂性
⑭.不変性・確定性
⑮.仏因仏果性
⑯.所与性・回向性
⑰.受動性・受容性・自力無功性
⑱.平等性・無縁性
⑲.念仏発動性
⑳.念仏一体性
㉑.機法一体性
㉒.無意識性
㉓.連続性
㉔.隔絶性

①の大悲感受性は、信は無量光寿の大悲を感受するものであるということ。大悲を感受しているのが信であり、大悲の感受以外に信と呼べるものは何もないということ。
②の事実性は、信は心に属する事実であるということ。信は単なる思想や考えなどではなく、無量光寿の大悲を受けていることを事実として実感できるということ。
③の現在性は、信は常に現在に属しており、過去の一時期のものではないし、未来に属するものではないということ。無量光寿の大悲はつねに現在において感受するものであるということ。
④の未来指向性は、信には往生決定という未来指向性もあるということ。
⑤の過去因縁性は、信は無量光寿との浅からざる過去からの因縁を喜べるということ。
⑥の純真性は、信は無量光寿の大悲を受けるときには一切の計らいが介在せず大悲を純真にそのまま受けるものであるということ。
⑦の意識非対象性は、信は意識の対象にはならないということ。無量光寿の大悲を受けているとの思いがあるものの、その思いと大悲が意識の対象となるだけであり、信が意識の対象になることはないということ。
⑧の無所得性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるだけであり、何かを得たという実感を伴うものではないということ。大悲には五感で感得できる実在感のようなものはないということ。
⑨の非言語性は、大悲の感受は概念として言語化することができないということ。大悲は言語化することができる対象領域にはないということ。あえて信と大悲を言語化すれば南無阿弥陀仏となるということ。
⑩の仰信性は、信はただ無量光寿の大悲を仰ぐばかりであるということ。
⑪の信順性は、信は任せよとの無量光寿の大悲に信順するものであるということ。
⑫の分離性・委任性は、信は後生の問題を如来の領域の問題であって私が解決すべき問題ではなかったと自分の責任領域から分離して、無量光寿に私の往き先を委ねきってしまうということ。
⑬の静寂性は、無量光寿は静寂であること虚無のごとくであり、信は動乱することがなく、静寂であるということ。
⑭の不変性・確定性は、信は変動せず変化がないということ。大悲を感受している思いが不変的にあり続けるということ。往生は確定したとの思いが不変的にあり続けるということ。
⑮の仏因仏果性は、信は無量光寿が成就した仏因仏果によって生じるものであるということ。信の全因縁は仏の無量光寿にあるということ。
⑯の所与性・回向性は、信は無量光寿によって与えられるものであって、自ら求めて得られるようなものではないということ。
⑰の受動性・受容性・自力無功性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるしかないということ。自分から無量光寿を掴みにいこうとしたり、自分の心を制御・作動させることを手段として無量光寿に触れようとしても触れられるものではないということ。信には自力及ばずの思いが必ず伴っているということ。
⑱の平等性・無縁性は、信はいつでもどこでもどんな状況にあっても心の中に開け起こるものであるということ。能力、才覚、思い、善悪など自分の側に属する一切のものは信に関係するものではないということ。無量光寿の大悲はそれらに無縁の平等の大慈悲であるということ。
⑲の念仏発動性は、信は無量光寿の大悲を感受すれば必ず念仏行として発動するということ。念仏行として発動しない信はないということ。
⑳の念仏一体性は、信は念仏発動の心源として念仏と一体であるということ。念仏は無量光寿の救いの法源として、また大悲を感受させる法源として信と一体であるということ。
㉑の機法一体性は、信と念仏は無量光寿の大悲によってもともと一対の機受として仕上げられているということ。計らい煩うことがないように信と念仏は大悲が仕上げているということ。衆生に作為を求めるものではないということ。
㉒の無意識性は、信は無意識の領域に深く根をおろしており、意識せずとも大悲を感受し、また無意識のうちに念仏として発動するようになるということ。感受も念仏も自然になさしめられ、ことさらに作為を必要としていないということ。
㉓の連続性は、信は大悲が無量光寿へとわがいのちをつなげてゆくと感じさせるものであるということ。
㉔の隔絶性は、信は世間で起こる縁起の影響を受けることはなく、信もまた世間における縁起に影響を与えることがないということ。信を得た者の我執などの思いが三業として起業して世間に善・悪の影響を与えることはあっても、信と世間とは隔絶しているということ。

自分は大悲から隔絶されていると心から感じている方がいるとすれば、その隔絶感は、自力の思いに覆われた心が自力と他力が完全に断絶していることを素直に感じ取っている絶望感であると言える。この絶望感はやがて自力の思いが廃ることを予兆させるものである。この自力と他力の断絶を自分の力で乗り越えようとしても不可能である。ここに大悲からの救いを受け入れる回心が成立する契機がある。大悲は受け入れるしかないから、意図することなく自力が廃捨されて回心が自然と起こるものである。この回心ののちは、これまで感じていた仏との隔絶感は消失してしまい、大悲を感受する心の世界が開けて仏と自己とに連続性があることを感じられるようになる。ここに信の不思議と面白みがある。

3-25.会話編 念仏往生(続々) 南無阿弥陀仏 妙味と教学

B君 信の味わいは教学とは別だと考えている人は多いように見受けられるが、君はどう考えているのか。

A君 信の妙味とは大悲を感受していることから味わえる感じや思いのこと、摂取不捨の阿弥陀仏に南無(信順無疑)となっている心の状態を基点として生じる思いのことだ。最近法友となった人から「南無阿弥陀仏を与えられている実感があるからそこに喜びが生じる。」とのコメントを貰ったが、その実感や喜びが信の妙味だね。

B君 自分の信を語るに教学を語る事で代替しようとする人もいるが、自分の妙味を感じるがままに話をしてくれる人もいるよね。
A君 妙味を感じるがままに話をしてくれても見事に教学に合致している事に気づくことがあるよ。信を明かした大経の教説を学問化・体系化したのが教学だから当然といえば当然なんだが。

B君 何か身近な例を挙げてくれないかな。
A君 先日アップした「3-24会話編」についてお便りをくれた人がいた。その方が述べている妙味を紹介するよ。
-引用-
南無阿弥陀仏が往生の証拠とお聞きして「南無阿弥陀仏が完成して南無阿弥陀仏という証拠が届いている世界に生まれさせて頂けて南無阿弥陀仏のおいわれをお聞きするご縁に恵まれて私の往生が決まってしまっていることを喜べるまで阿弥陀さまが全部お手回しして下さっていたこと」を、よかったなぁ嬉しいなーって思えるまでお育て頂いたことを改めて喜ぶご縁になりました。われとなえわれ聞くなれどつれてゆくぞの親のよび声。お念仏はいつもお慈悲に満ちて頼もしいですね。
-引用終わり-

A君 以上を分節して解説してみようか。
①.南無阿弥陀仏が完成して南無阿弥陀仏という証拠が届いている世界に生まれさせて頂けて南無阿弥陀仏のいわれをお聞きするご縁に恵まれて私の往生が決まってしまっていることを喜べるまで阿弥陀さまが全部お手回しして下さっていたこと。これを①とする。
②.よかったなぁ嬉しいなーって思っていること。これを②とする。
③.お念仏はいつもお慈悲に満ちて頼もしいですね。これを③とする。
①は法蔵菩薩が因願を成就し、果上の御名を回向したことと信の発得は仏の全因縁であることを語ったもの。
②は回向された御名が信となったことを語ったもので、十八願成就の聞信のこと。③は十八願の称名のことで、大利を得るとされている念仏と信が不二であること。を述べている。

B君 妙好人の話される言葉の中には教学とぴったりと一致する内容が含まれているということだね。もう少し詳しく説明してよ。
A君 大経には、法蔵菩薩四十八願、ことに十二願と十三願、十七願と十八願・十一願が成就されて光の仏となられた事が説かれている。その十二と十三の願成就は法蔵菩薩が正覚を開き、無量の光と無量のいのちの仏となったことを、それらの願と十八、十一の願成就は法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となったことを、十七の願成就は法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった不思議を諸仏が現に讃嘆・証成していることを意味している。釈迦の大経所説の説法はその十七願成就の証ということになる。

B君 「法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった」とはまま言われていることだが、その真に意味するものはなんだろうか。
A君 法蔵菩薩が無量の光といのちの南無阿弥陀仏となった、その南無阿弥陀仏を因願に対して果上の名号というのだが、この名号は、仏覚を開かれた阿弥陀仏智慧と大悲の世界においては衆生の往生成仏がすでにこの名号によって完全に決まってしまっていることを意味している。説法でしばしば聞くと思うが、「名号のおいわれを聞く」とは「法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった」ことを聞くということなんだ。衆生からすればどんなに仏の摂取決定心にあがらい続けても必ず仏になることが決まってしまっているということだ。私の未来の果は既に定まっているので何ら自力の行を必要とすることなく仏の救済にあずかることができる。これこそが真に意味する所だ。

B君 私の未来の果が成仏という果となることが決まっているのであれば、その因は何だというのか。
A君 その因が南無阿弥陀仏だ。

B君 南無阿弥陀仏が因とはどういうことか。
A君 法蔵菩薩が無量光・無量寿南無阿弥陀仏となったことによって衆生を摂取するに何の疑心疑退もない仏の摂取決定心が果上の御名として成就した。この仏の摂取決定心を聞いて無疑の心となり、この信となった南無阿弥陀仏が往生の因となるということだ。
B君 つまり阿弥陀仏の願心が成仏の因ということか。
A君 そうだ。

B君 そうであるならば、どうして信心正因ということをいうのか。往生浄土が既に決まっているのであれば信は不要ではないのか。
A君 仏の摂取決定心中において私が浄土往生することは既に決まっているが、それが現に実現して次生に私が成仏するか否かは、仏の摂取決定の大悲を受け入れた現在の信によって決まる。だから信心正因ということをいうのだ。

B君 私が浄土往生することが既に決まっているということは、いずれ信を得ることも決まっているということか。
A君 そう。確定している。誰もがいずれ今生か次生か遠生に仏の大悲心を領解することが確定している。

B君 いずれ信を得ることが確定しているのであれば、信を求める事は不要ではないのか。
A君 「阿弥陀仏の報土に往生することが確定している」ということをどのように受け取るかは人それぞれになるが、「報土往生することが既に決まっている」ということを聞いて無疑の心で受けとめて歓喜する人もいる。同じことを聞いても不定の信に留まる人もいる。或いは、信を求める事は不要だと考える人もでてくるだろう。それが宿縁というものだ。大経には不定の信に留まり疑情胎宮に閉じこめられた人であっても「仏智乃至勝智を信じ、諸々の功徳をなして信心回向すれば自然に化生する」と説かれ、これに対し、南無阿弥陀仏の成就によって私の往生は決定していることを聞いて信心歓喜し浄土往生を願ずるようになれば弥陀浄土に蓮華化生したのち「智慧明らかにしてみな自然虚無の身無極の体を受けることになる。」と説かれている。現在の信不信がその報土往生の岐路となるので信心正因という事が言われるのだ。

B君 つまりどんな人であっても南無阿弥陀仏の成就によって将来の報土往生は決定しているが、信不信によって次生の報土往生か、遠い先の報土往生かが分かれてくるということだね。

A君 ここで私が面白いと思うのは、仏の大悲心である摂取決定心において決定している果が現在の無疑信を開くということだ。
B君 普通は現在の因によって未来の果が決まると考えるのが常識的だよね。
A君 常識的にはそうなんだが、真宗の信は逆なんだ。既に仏によって報土往生が決定しているということを聞いて無疑となる信なんだ。果上の御名によって私の浄土往生が決まってしまっており、それを聞くことで信が生じる。未来の果が現在に影響を与えて無疑の信を開くとも言えるし、果上の御名によって報土往生が決まってしまったという思想が無疑の信を開くとも言える。仏の大悲心や果が変わることはないので無疑の信も変わることがない。これは通常の理解を超える信だよね。もう一度言うと、果上の御名によって報土往生が決まった。そのことを聞くことで無疑の信が開けた。その信が次生の報土往生を決める正因になる。その全因縁は法蔵菩薩の大悲心と御名の成就にある。だから祖師は遠く宿縁を慶べと言われている。

B君 決定要期という言葉があるが、今のことと関係しているのかな。
A君 関係しているよ。往生成仏という未来の果が決定していることを無疑の心で受けたとき、その決定した果を期する思いが生じる。その思いは元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて」と言われる往生決定の思いだ。未来の果が不定な状態で往生を期待するのではなく、既に決まった浄土往生を期待する思いだ。不定な状態で往生を期待する思いを不定希求の思いという。この不定希求の思いがあるために不足を補おうとして念仏を称えるのだが、その称名は自力の行に堕してしまうのだ。既に決まった報土往生を期待する思いの念仏には不足の思いがないので自力の思いが混じることがない。これが如実の行であり如実の信だ。南無阿弥陀仏の願心に相応しているから如実と言われる。

B君 諸仏が御名を不可思議真実功徳であると称讃するとはどういうことか。
A君 凡夫が仏として生まれる因縁はすべて願力成就の御名にあるから御名の不可思議功徳を諸仏は讃嘆し証成している。祖師は大悲の成就たる御名を大悲回向と言われ、浄土往生の真因は願力回向によるとされている。この大悲回向によって信が次々に開けてゆくので、弥陀の因果が衆生世界に縁起して無限の菩薩を生み出していることになる。この不可思議を讃嘆しているということだ。その讃嘆は、法蔵菩薩の願心のとおり現に信を生ぜしめている南無阿弥陀仏の不可思議を証成することにもなる。

B君 上記①は御名の成就と諸仏の讃嘆によって大悲が回向されており、釈迦弥陀の大悲によって調熟されてきた全因縁を悦ぶものだということになるかな。
A君 そう。釈迦弥陀は慈悲の父母種々に善巧方便しわれらが無上の信心を発起せしめたまひけり、という和讃のとおりだ。仏の大悲を感じ取っているから言えることだ。この感受が信のすべてなんだ。

B君 ②は、①の大悲の回向を受けて信順無疑となって大悲を受け入れて歓喜している様を表している。これが他力の信相であり、願成就文の「聞其名号信心歓喜」ということだね。南無阿弥陀仏が届いているいう実感があるから喜べるというコメントも同じことを言われたものだね。
A君 摂取するという大悲に南無(信順無疑)しているので、この心相を南無阿弥陀仏と名づけて良い。
B君 ③は自力を交えずに念仏を称えている様相を述べたものだね。
A君 そう。南無阿弥陀仏の心相のままに称えている如実の念仏行だ。これが信具足の称名大行だよ。大悲を感受するままがままに称える念仏だから念仏が頼もしいという表現ができる。真に頼もしいのは、念仏を称える心の中に感じている大悲なのだ。

B君 それが念仏往生ということだね。
A君 法蔵菩薩の正覚成就の証である南無阿弥陀仏が私の往生成仏の因果となって私の往生が決定し、次生に報土往生してゆく。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり行となって往生してゆく。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏 往生の業が念仏往生だ。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏という一言になる。この一言の南無阿弥陀仏に私の往生と弥陀の両因果のすべてが収まっていると言うことだね。これが念仏往生だということだよ。

B君 つまり、南無阿弥陀仏は弥陀正覚成就の証。南無阿弥陀仏は報土往生の因果。私の信行は既にこの南無阿弥陀仏に用意されている。このため現象界に私の信行となって必ず現われる、ということだね。
A君 南無阿弥陀仏は弥陀正覚成就と報土往生の因果の証であるから、南無阿弥陀仏から行を出すと「南無阿弥陀仏 往生の業」となる。さらに信を出すと大行と大信となる。信行を御名に摂して言えば「弥陀正覚成就の証 南無阿弥陀仏」になる。弥陀正覚成就の証を御名に摂して言えば、「南無阿弥陀仏」になる。元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞ」と言われたのはそういう心だと思う。

B君 阿弥陀仏の正覚成就の証である南無阿弥陀仏を名号大行、南無阿弥陀仏を称名する行を称名大行というよね。でも南無阿弥陀仏の信となったのを大行とは言わないのは、なぜなんだろうね。
A君 さあね。でも私は南無阿弥陀仏の信となったのを大行と言って良いと思う。信も南無阿弥陀仏だからね。名号大行たる御名に自力疑心がまじわらずそのまま大悲を心に映し取っている如実の信だ。喩えれば、御名が鏡に映り込み、鏡の中に映し取られた御名が御名そのものであるように両者はぴったりと相応して何の差異もないようなものだ。そうはいっても信は御名の複製物であるというのとは違う。無形の大悲がそのまま私の心中に入り込んだのが信であって、信は大悲だ。大悲を感受している味わいを表現するとそうなる。

B君 君が「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」という言い方をするのは、そういう味わいからなんだね。 
A君 そう思う。それにね、表現を簡潔にすることは議論する際に効率的だし、思考するに適している。誤解の無いように言っておくが、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」という捉え方や思想は古くからあったことだ。

B君 君の発想や物事を考える視点は「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」ということに尽きてしまうのかな。
A君 そう。たったこれだけを基点にして考えてゆくと観念的になりがちな行信論を自分なりにきちんと整理することができるようになるよ。念仏往生という教説も「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」ということを忠実に伝える教えであるはずだという単純な発想にも繋がってくる。

B君 その表現は信の味わいをなるべく忠実に表現しつつ、教学的使用にも耐えられるようになっているということかな。
A そう。法蔵菩薩の大悲の願と私の往生の因果が同時に成就されていることを表し、かつ自力疑心が一点も混じることのない他力の信の境地を端的に表している表現だと思うよ。南無阿弥陀仏とはもともとそういうものなんだ。

B君 僕は教学と味わいは別だという発想をする人が多いのは残念であり、それは誤った風潮だと思うが、どう思う?
A君 信が開けた者にとっては、本来、教学と生きた味わいとは融合しているはずだ。仏と大悲と信と念仏について、大悲を感受している思いに照らし合わせながら、その思いに忠実に組み立てたのが教学だから、教学は信を表現した1つの方法だと思う。そういう視点に立つと、紹介したような方々が教学の修得に力を入れて勉強し、教学を味わい深い視点から解説できるようになって欲しいと思うんだ。元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の仔細なきなり」と言われているのは、法蔵菩薩の正覚と衆生往生の因果の同時成就という教説やその味わいを背後に控えた信の深みを簡潔に表現されたものだと思うが、このような親しみやすく信の妙味を表現してゆくことが信を受けた人に課せられている使命ではないだろうか。

3-24 会話編 念仏往生(続編) 南無阿弥陀仏が往生決定の証拠になるとは?

〔設 問〕

御文(四帖目8通)に次の文がある。この文と念仏往生の教えとは異なるのか。

当流の信心決定すといふ体はすなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますときその正覚すでに成じたまひしすがたこそいまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

 

A君 上記の文には口称の念仏は一度も登場していないため、念仏往生を教えたものであると理解することに困難を感じる向きがあるかもしれないね。

B君 整合性をとりにくいとすれば、上記の文をどうとらえるのだろうか。

A君 某所ブログで、南無阿弥陀仏が(決定往生の)証拠だと述べた某氏に対して上記文を挙げつつ文証はこの一箇所であり、「この1箇所のみを殊更に重視する」と反論するコメントが投稿されていた。

 

B君 真宗教義上の問題を文証の多寡で決着を付ける態度は良い事なのだろうか。

A君 文証が何カ所あるかという数の問題ではない。その内容が念仏往生の教えにとってどういう位置づけになるのかを考える事が大事だと思う。

 

B君 上記の文は念仏往生の教えとは異なってはいないと君は考えているのだね。

A君 そう。元祖法然聖人の念仏往生の教えを理解するに際しては、あまり口称に拘泥せず、南無阿弥陀仏による往生が念仏往生であると理解しておけば良いと思う。

 

B君 念仏往生をどう理解すればそういう結論になるのかな。

A君 元祖の念仏往生の教えは十八願による往生のことで、念仏とは十八願の乃至十念のことだが、この念仏は至心・信楽・欲生の三信を具備した念仏であり、御名を如実に行じる念仏のこと。大経の十七願及び十七願成就文と十八願成就文とを一連に理解し、得られたところの阿弥陀仏の救いの在り方に照らせば、念仏往生を如来大悲の願力たる南無阿弥陀仏による往生とか、如来の御名を往生の真因とする往生の事だと理解して良いと思う。

 

B君 念仏往生は大経に由来すると理解して良いのかな。

A君 そう。十八願の往生については上記の成就文の他にも大経下巻の「衆生往生因往観偈」に「その仏の本願力、御名を聞きて往生せんと欲へば皆ことこどく彼国に到りて自ずから不退転に到る」とある。「胎化得失章」に「もし衆生ありて明らかに仏智ないし勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生七宝の華のなかにおいて自然に化生し・・身相・光明・智慧・功徳もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん」「弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは大利を失すとする。この故にまさに明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし」とある。「流通分弥勒附属章」にも「仏弥勒に語りたまわく、それかの仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす」とある。念仏往生の淵源は以上の文にある。

 

B君 御名を往生の真因とするとは、どういうことかな。

A君 御名を往生の真因とするとは機受の上で御名が信となり行となることをいう。

 

B君 それはどういう意味か。称名は如実の行と言われる理由と合わせて述べてよ。

A君 御名が行者の行となっていることを如実修行というのだが、祖師の高僧和讃曇鸞讃」に次の和讃がある。

不如実修行といへること鸞師釈してのたまわく、一者信心あつからず若存若亡するゆえに。二者信心一にならず決定なきゆえなれば、三者信心相続せず。余念間故とのべたまふ。三信展転相成す。行者心をとどむべし。信心あつからざるゆえに決定の信なかりけり。決定の信なきゆえに念相続せざるなり。念相続せざる故決定の信を得ざるなり。決定の信を得ざる故信心不淳とのべたまふ。如実修行は信心ひとつに定めたり。

祖師は浄土文類聚鈔において淳心・決定心・相続心の3つを「淳一相続心」とし、「一心すなわち深心、深心すなわち堅固深信、・・無上心、無上心はすなわち淳一相続心、淳一相続心はこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば・・」と言われ、「二尊の大悲によりて一心の仏因を得たり」と言われている。淳一相続心は一心のことだと言われ、その一心が仏因だとされている。仏因とは仏になる因ということで一心が仏因であるというのだ。「如実修行は信心ひとつに定めたり」と同じ意味の文章は本典にもある。本典には「一心これを如実修行相応となづく」と言われている。

B君 それはどういうことか。

A君 如実修行相応とはもともと真如法性に適った修行の事だが、阿弥陀仏たる摂取不捨の大悲に南無した心相は南無阿弥陀仏となり、この南無阿弥陀仏の心相が南無阿弥陀仏の口称となる。この信行はともに南無阿弥陀仏という真如法性に適った如来の大行に相応している。如来の大行に相応した心が如来回向の一心であり、この一心から顕現している口称の念仏は御名の大行がそのまま顕現したものだから大行と呼ばれるに相応しいものになる。如実修行相応とは真如法性に適った修行の事ではあるが、それは信の有無によって決まるので「如実修行は信心ひとつに定めたり」とか「一心これを如実修行相応となづく」と言われたのだと思う。御名がその行者の信とならなければ称名が如実修行となることはないから、真宗では信が往生の真因とされている。

 

B君 つまり蓮如上人が言われる「六字の心」とは「摂取せん」との大悲の招喚に「南無」したことをいい、南無阿弥陀仏が私の心相となればその心相は「如実修行」となるが、そうでなければ「不如実修行」になってしまうということかな。

A君 そう。「六字の心」となった心相が他力の信。この信の有無次第で称功を見ない如実の念仏行となるか、不如実修行とされる念仏行となるかが分かれる。心相が南無阿弥陀仏の相になっているから南無阿弥陀仏と称える口称の行はその心相と相応するので、その行も「如実修行相応」と言われ、そうなってなければ「不如実修行」になる。このことをまずもって理解しておくことが必要だと思う。

 

B君 その信について蓮如上人は「他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなりと落居す」と言われているんだね。

A君 そう。摂取不捨の大慈悲たる南無阿弥陀仏に帰命する状態は南無阿弥陀仏の心相となった状態であり、その上で南無阿弥陀仏と称する行は南無阿弥陀仏に相応するので、その称名は南無阿弥陀仏如実に行ずる行相となって「如実修行相応」と言われる念仏となる。南無阿弥陀仏そのものが信となり行となる。その信行は南無阿弥陀仏そのものだ。信と行が不二であると言われる理由はここにあるし、信即称名・称名即信とされる理由もここにある。

 

B君 そのことと念仏往生とはどう関係するのかな。

A君 念仏往生の念仏とは南無阿弥陀仏に相応する如実の念仏のことだが、如実念仏の行者は信の決定によって十八願力の往生が決定することになる。善導大師は信を各所で強調されている。①「一心に信楽して往生を求願すれば上一形を尽くし下十念を収む。仏の願力に乗じてみな往かざるはなし」②「信を生じて疑いなければ仏の願力に乗じてことこどく生ずることを得(観経疏玄義分)」③「無量寿経にのたまふがごとし。仏阿難に告げたまわくそれ衆生ありてかの国に生ずるものは皆ことごとく正定の聚に住す。十方の諸仏みなともに彼の仏を讃嘆し給う。もし衆生ありてその名号を聞きて信心歓喜すなわち一念に至るまでせん。かの国に生ぜんと願ずれば即往生を得て不退転に住す」と。またこの経をもって証す。またこれ証生増上縁なり(観念法門)」④「弥陀の本弘誓願は名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで定めて往生を得と信知して即ち一念に至るまで疑心あることなし。故に深心という」⑤「然るに弥陀世尊、本深重の誓願を発して光明・名号をもって十方を摂化し給ふ。ただ信心をもって求念すれば上一形を尽くし下十声・一声等に至るまで仏願力をもって易く往生を得。」⑥「名を聞きて歓喜して讃ずればみなまさにかしこに生ずることを得べし(往生礼讃)」などを紹介できる。

B君 上記の下線部分が帰命の一心を表しているんだね。既に摂取不捨の大悲に帰命していることで摂取不捨の利益にあずかっているので称名以前に往生は決定となっている。この決定した往生が念仏往生といわれるんだね。

A君 十八願力による往生決定は信によって決定するという事だ。

B君 つまり願力の信心による往生決定の事だね。

A君 そう。念仏往生とは願力の信による往生決定とまったく同じなのだ。蓮如上人が「信心決定すといふ体はすなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。」と言われているように南無阿弥陀仏の六字のすがたとなった信心による往生の事だ。

 

B君 その心相が発露した称名念仏行と諸善とを行として相対し、そのどちらを往生の行として定めるかを明確にするときに、往生の行は称名念仏行であるとされたのが善導であり元祖なんだね。

 

A君 そう。その念仏行が往生行となるか否かは信いかんによる。だから善導を継承した元祖も称名行だけではなく信をも強調されている。例えば①「煩悩のうすくあつきをもかえりみず、罪障のかろきをもきをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて声につきて決定往生のおもひをなすべし(法然聖人つねに仰せられる御詞二十七条御法語)。」②「ただ心の善悪をもかへりみず罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなえば声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりてすなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へばやがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり(往生大要抄)。」③一枚起請文には「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもひとりて申す他に別の子細候はず。」といわれている。「南無阿弥陀仏にて往生するぞというおもひ」とか「決定往生のおもひ」が祖師の言われる「一心の仏因」のことだ。祖師は念仏正信偈で元祖について「生死流転の家に還来するはこと決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ること必ず信心をもって能入とすと」と言われている。

 

Cさん 蓮如上人は五帖目8通(浄土真宗聖典1195頁)に十八願を「南无阿弥陀仏といふ願」と呼ばれていたけど、念仏往生と関係があるの?

A君 おおありだよ。ちょっと考えてみて。

 

Cさん エッと十八願は「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」よね。「至心信楽欲生我国」は真実信心、「乃至十念」は数を問わない如実の念仏行よね。

A君 「至心信楽欲生我国」は真実信心、それを蓮如上人の言葉でいうと・・・。

Cさん 蓮如上人の言葉で言うと、タノム。

A君 タノムを別の言葉で言うと・・。

Cさん アッそっか。帰命とか南无だわね。

 

A君 「若不生者不取正覚」が成就されると・・・。

Cさん 摂取不捨ね。ってことは阿弥陀仏だわね。摂取して捨てざれば阿弥陀と名づくと観経にあったわよね。

 

A君 となると・・・。

Cさん 「至心信楽欲生我国、若不生者不取正覚」が成就すれば、タノム者を摂取して捨てたまわず、だから、南无阿弥陀仏というわけね。

A君 そう。それを機法一体の南無阿弥陀仏という。しかも「乃至十念」も如実の南无阿弥陀仏だろ。

Cさん 十八願では信ある者が摂取されるから南无阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏ね。

A君 そう。だから十八願は私の身の上に南无阿弥陀仏の成就を誓った願なんだ。

 

Cさん じゃ十七願はどうなの。十七願も御名の成就と回向を誓った願なんでしょ?

A君 そうだけど十八願は私が南无阿弥陀仏になることを誓った願だと理解できる。

Cさん 十七願で誓われた御名の成就と諸仏の讃嘆による回向が私の上に働いて私が南无阿弥陀仏になったって訳ね。

A君 そう。十八願の信行が成就された姿が十七願に誓われた南無阿弥陀仏の御名ということだ。蓮如上人は「信を得るとは本願を心得るなり、本願を心得るとは南無阿弥陀仏を心得るなり」と言われているけど、この意味はもう分かったよね。

Cさん ええ。十八願が私の上に成就すると、私の心相が南無阿弥陀仏になるのよね。私の心相が南無阿弥陀仏になるということは、タノム者を助けるという南無阿弥陀仏のおいわれのとおりになるということね。それは私が阿弥陀仏に摂取されて浄土往生してゆく私の姿なのね。それが南無阿弥陀仏なのね。

 

B君 だから南無阿弥陀仏が真実浄土往生の証拠となるというのだね。

 

A君 そう。私が阿弥陀如来に摂取されている心相が南無阿弥陀仏、その心相が行となったのが南無阿弥陀仏称名念仏。ここで気づくことはないかい?

Cさん 何かしら。分からないわ。

 

A君 Cさんは、元祖の至心釈を知らないかい?

Cさん よくは知らないけど、善導大師の有名な御文に関する釈ね。

A君 そう。法然聖人は至心とは内外相応をいうと理解しているよね。私の心相も南無阿弥陀仏、行相も南无阿弥陀仏だよ。これは内外相応だよね。

Cさん アッそうか。信を得て念仏する姿が凡夫の至心なのね。分かったわ。

 

A君 信を得て念仏を称えている姿のほかに凡夫の至心はないんだよ。その凡夫の至心は仏様の至心なんだ。本願のまことを深信し念仏を称えることを元祖は、聖道における総の至誠心と区別され別の至誠心と言われている。祖師は念仏のみぞ真実にておわしますと言われた。念仏は称えられる御名が真如にかなったものだという理解を示されたものだと思うが、心相も外相もただ南無阿弥陀仏の真実あるのみだということなんだろうね。

 

B君 ますます南無阿弥陀仏は真実浄土往生の証拠になってくるよね。

A君 そう。信ある人は南無阿弥陀仏が往生決定の証拠であることを信によって領解するが、信の無い人にはそれが自らの往生決定の証拠であるとは分からないものなんだ。

Cさん 「南無阿弥陀仏が往生決定の証拠」という文は御文章に多くは書かれていないけど、真宗教義にとってとても大事なことを教えている御文だと分かったわ。それは念仏往生の教えと同じ意なのね。

 

A君 御名の成就によって往生は確定した。それが南無阿弥陀仏という意味だから、蓮如上人は「他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなり」と言われたんだ。

-上記のCさんの会話部分は既出の「会話編6」の字句を若干に修正したもの

 

Cさん 信心正因称名報恩という教えは念仏往生の教えと異なっているの?

A君 違いはないよ。いずれも南無阿弥陀仏を真因とする往生の事だ。

 

Cさん どうして言い方が違ったものになるの?

A君 念仏往生の外相として現れた念仏を諸行に対比して元祖は念仏を勧められた。それは聖道自力仏教が仏教の中心であった時代に念仏による浄土往生を浄土仏教として独立開宗するために念仏を強調する言い方になった。祖師は念仏往生の教えを本願力回向という観点から念仏を大行大信として組み立て直され、またその称名大行たる念仏に報恩としての意味を与えた。蓮如上人は自力称名念仏が盛んな時代にあって信を強調して他宗と区別する必要があったので称名を報恩行として強調された。

 

Cさん 言い方の違いだけなの?

A君 元祖、祖師、蓮師三者三様であるが、いずれも願力回向の南無阿弥陀仏を浄土の真因とする大経往生を言われたものだ。大悲を感受する信を心に収めた称名は大行であり、かつ報恩行なんだ。称名大行を強調するか称名報恩を強調するかはそれぞれの時代の要請に合わせて変容し得るが、どの時代にあっても南無阿弥陀仏たる大悲を信行の因とする聞名往生という本質部分は少しも変わることはない。その本質部分が念仏往生であると理解しておけば言い方に拘泥する必要はないし、その言い方の違いで念仏往生の理解に違いが生じることはない。拘泥すると無用な論争になりかねない。

 

B君 最初に君は「あまり口称に拘泥しない」と言ったが、それはどういう意味か。

A君 称名報恩と言っても、報恩たる念仏行は大悲の感受に伴って相続されるものだ。それは淳一相続心での念仏だから如実の大行であることに違いはない。報恩行だからこそ自力疑心の混じらない如実の大行だと言える。称名を報恩行と位置づけても念仏を軽視することにはならない。つまり口称念仏に与える意味に拘泥する必要はないということが一つ目。二つ目は「憶念の心つねにして仏恩報じる思い」があれば心で憶念しているだけでも良いということ。外相に声として表さなくても良い。憶念の心が常にあれば声にしなくても念仏往生となるから、念仏の軽視にはならないよ。

3-22.会話編 念仏往生 念仏の勧めとは?

B君 「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、念仏は勧めていない」とある布教師が言ったことを契機として、阿弥陀仏は念仏を勧めていない、いや、勧めているという議論が始まったばかりだが、君はどう考えているのか。

 

A君 「阿弥陀仏は念仏を勧めているか否か」という問題の立て方というか、その表現がどうもしっくりと来ない。阿弥陀仏の場合には、「念仏を勧めているか否か」という言い方ではなく、「我が名を称えられん。称えん衆生をば摂取せんと願われているか否か」という言い方であればとてもしっくりとくる。このような問題の立て方をすれば、どういう展開になったか興味深いね。ただし、答えはどちらも願われていると回答すると思うけどね。この問題は阿弥陀仏の願いとはどういうものかがポイントになりそうだね。

 

C子さん 私には大悲を感受している思いがあるから、南無阿弥陀仏を称えると仏様と悲喜交流しているような感じになるわ。気づけばいつのまにか称念している自分に気づくのね。仏様が称えるなと言われたとしてもこの称念は止まることがないと思う。常に感じている大悲の感受がその念仏に先行しているのね。感受に応じて念仏しているので私の称える念仏であっても私の行ではないという思いにもなるのよね。私の行であるなら行を勧められているという言い方には何の違和感もないけど、念仏は大悲感受の自然の行であって私の行ではないだから、阿弥陀仏が念仏を勧めるとか勧めないとかという範疇の問題ではないように思えるの。その議論には仏の悲願とか大悲という観点が抜けているように感じるわ。

 

B君 そんな感じもするが、どのように論理的に説明してゆけばよいのだろうか。

 

A君 阿弥陀仏の救いのあり方を出発点として考えてゆくしかないだろうな。新たな問題が生じたときは、常にそうした思考が求められる。議論の展開次第では、議論の前提となっている阿弥陀仏の救いのあり方に関する理解の仕方が相互に異なっていたことに原因があったのかとあとから気づくことがあるし、前提となっている理解は共通しているけれども、その後の論理展開の過程で異なる意見に枝分かれしていったことに気づくこともある。だから、最初に行うべきは、議論を始める前提となる阿弥陀仏の救いのあり方に関する基本的な理解を明示しておくことが大事になる。これが本題を考える上での出発点だ。これをおろそかにすると議論が空転するばかりで、互いに悪感情しか残らなかったという結果にもなりかねない。

 

A君 もうひとつ大事なことがある。それは「念仏を勧めている」とか「まかせよと勧めているのであり、念仏は勧められていない。」とは、それぞれどういう意味で言われたのかを確定しておかなければならない。議論がしっくりと来ない原因はここにもある。また「念仏は勧めていない。」とはどのようなシチュエーションで言われたのかによっては答えは変わってくる。

B君 シチュエーションやその意味によってはあり得る表現だということかな。

A君 そうだね。

B君 「まかせよと勧めているのであり、念仏は勧めていない」とは必ずしも念仏往生を否定する趣旨にはならないと考えているのか。

A君 そう考えている。

B君 どうしてそう思うのかな。

A君 そのことを理解するには、私の理解する「阿弥陀仏の救いのあり方」を最初に聞いて理解して欲しい。次に願成就の文と観経下々品の文について考えてみよう。

 

B君 阿弥陀仏の救いのあり方について、どう考えているのかな。

 

A君 最初に大経の所説や教相から考えてみよう。大経思想を要約して阿弥陀仏の救いのあり方を言うと十七願・十八願とその各成就文に集約される。「十七願の誓い」は我が名を諸仏に称讃されんという願いだが、これは一切の衆生を浄土往生させる働きのある我が名の成就を誓い、諸仏に我が名の成就とその功徳を証成讃嘆して貰い、諸仏に我が名が讃嘆されるのを衆生に聞かせて信心歓喜させるという大悲を顕している。「十八願の誓い」は「十七願の誓い」に従って我が名が諸仏に讃嘆されるのを聞いて我が救いを至心に信楽して我が国に生まれられると思うて我が名を称えられん。かかる機の衆生を浄土往生させるという大悲を顕している。その各成就文は御名たる南無阿弥陀仏による救いが円満に成就されていることを仏が保証し証成したものだ。この大経思想を真宗の教学風に構成し直せば、「十八願成就の相である南無阿弥陀仏は、摂取不捨の大悲を具現し十八願力として作用していることを今まさに諸仏は讃嘆しており、讃嘆されている南無阿弥陀仏はこれを聞いた衆生の上で十八願に誓われた信因と行因となり浄土往生が決定する」となる。これは大悲を受け入れた者の心相が南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏を称念する念仏行が往生行になるということだ。これが衆生の上に顕現する大悲心の現れ方だ。

 

B君 うん。

A君 次に、本願成就文の「聞其名号信心歓喜」は浄土往生の真因が成就されるのは大悲の成就を告げる御名を聞くことによる、と教えたものだ。信因と同時に行因も成就する真宗の至極を教えたものだが、「心相と行相に現れた南無阿弥陀仏の御名が真実浄土往生の真因である」ということになる。これをひと言でいうと「南無阿弥陀仏を聞かせて救う」となる。

 

B君 じゃ次。観経下々品の悪人往生の文だ。観経下々品には「汝もし念ずるにあたはすばまさに無量寿仏の御名を称すべし」「かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。」と説いているが、その教説は先の大経思想と整合するのかそれとも相反するのか。

 

A君 表現上の差異はあるものの、その勧める信因・行因は完全に一致している。「無量寿仏の御名を称すべし」と釈迦仏が勧めているのは、一切の自力の行や一切の自力の思いを廃捨させ、ただ仏の御名を称すること、ただそれだけで往生は決定して往生行となる大悲を教え勧めたものだ。「心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称する」の信は十八願の信すなわち「聞其名号信心歓喜」と同じ信であり、その行は乃至十念の本願念仏と同じだ。信行とも一致している。その信行について祖師は大行・大信の順番で教えられているが、大行・大信とは阿弥陀仏の大悲たる南無阿弥陀仏のことだ。

 

B君 じゃ念仏往生とは?

A君 念仏往生という思想は、阿弥陀仏の救いのあり方を端的に表現したものだが、十八願による往生を念仏往生という。十八願は信因として三信を、行因として乃至十念の念仏を定めているが、この十八願の信因と行因はともに「南無阿弥陀仏」であるから、南無阿弥陀仏を真因とする浄土往生のことを念仏往生というと理解して良い。大悲たる南無阿弥陀仏の大行と大信を浄土往生の真因とする往生のことだ。念仏往生は大行と大信から構成されることを明らかにしたのが祖師の本典だ。

 

A君 念仏往生の念仏とは信を具足した称名あるいは信を内包している称名のことだ。行者の外形に顕現している念仏行をとって念仏往生というのだろうが、元祖が「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず」とともに「決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いと(る)」と言われている信行によって浄土往生するというのが念仏往生の思想だ。

B君 念仏往生とは南無阿弥陀仏を往生の信因とし行因とする浄土往生のことだね。短く言えば南無阿弥陀仏で往生するということが念仏往生なんだね。

A君 そうだよ。念仏往生の念仏とは称名としてあらわれた南無阿弥陀仏のことだ。衆生が声帯を震わせてナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツと一語一語を連続して発語する行いは南無阿弥陀仏の大悲が私の上に作用している行である、と心に領解しているか否かで往生の得否が定まる。領解すれば往生が定まる。領解していなければ往生不定となる。この領解によって定まった往生を念仏往生というんだ。この領解によって仏の御名が称名念仏に全顕されたものになって、称名が即大行となるんだ。「全顕」とは御名の働きの全てが顕れているというほどの意味だ。

 

A君 善導の光号摂化の教えは光明・名号の働きによって往生することと光明・名号の働きが信因となって往生することを顕したものだ。ここから両重の因縁というのだが、光明・名号という大行と光明・名号の働きによる信という大信の2つを明かした浄土往生だから、これは念仏往生と同じ思想だということが分かるだろう。また浄土論註の覈求其本釈も阿弥陀仏の十八願力による浄土往生を顕したものだから、これも念仏往生と同じ思想だ。表現が異なるだけで、大悲他力で浄土往生するものだから、念仏往生と同一の思想だ。同じ事象を指す語としていろいろあることが分かるだろう。

 

B君 いよいよ本題ね。まず「阿弥陀仏はまかせよと勧めている」とは、君はどういう意味に理解しているのか。

 

A君 「阿弥陀仏にまかせる」というのは、南無阿弥陀仏に全顕されている本願大悲、善導の二河喩にはその大悲を「呼ばう」と喩えられ、祖師は行巻の六字釈で帰命は本願招喚の勅命とされているが、この大悲招喚に呼応して大悲を心に受け入れることや大悲を受け入れている心の状態のことだ。「まかせる」とはその大悲を心に受容し大悲の働きにゆだねきっている他力信のことを表現したものだ。元祖の言う「南無阿弥陀仏にて往生が決定するぞと思い取る」思いのこと。この思いは南無阿弥陀仏と完全に相応しているので「一心」といわれる信となるんだ。信は摂取せんの大悲たる南無阿弥陀仏に相応するものなんだ。

 

B君 阿弥陀仏に我が往生のいかんをまかせるとどうなるのか。

A君 大悲を聞いてその大悲にまかせると、浄土往生の真因としての南無阿弥陀仏が行者の上に信因・行因として成就されるので、その後には後念相続としての本願念仏が全顕する。これが十八願の念仏往生だね。この意味で「阿弥陀仏にまかせよ」と勧めるということは念仏往生を勧めるのと同じことになる。

 

B君 祖師の六字釈は、称名行が不回向の行であることをあらわされたものであると理解しているが、この釈は行に関する釈にとどまらず、信にも関わってくるのか。

A君 当然信に関わってくる。祖師の六字釈は称名行は行者にとっては不回向の行であることをあらわされたものだが、裏を返せば、称名は実には南無阿弥陀仏そのものであるから行者の行ではなく、仏から回向された大行だということだ。その仏の大行は行者に対して大悲招喚の大悲として現れ出て全顕されているから、そこに信が開け起こっており、行者の大行には大信が具足している。これは称功として信が生じたのではない。大悲の願力たる南無阿弥陀仏によって信が開けたのだ。南無阿弥陀仏による信が開け起こって称える念仏が南無阿弥陀仏の大行そのものとなるのだ。行者の大行となったその大行に大信は当然に備わっており、行者の大行は行者にとって大信となっている。祖師は六字釈中に善導の「必得往生」の必得を釈して「即得」とし「即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」と言われている。行者の大行となった称名から大信を別開しているのだ。大行は大信の故に大行となるのだよ。信がなければ称名は大行とは言われない。

B君 つまり、もともと行者側の心相である帰命を如来大悲の招喚として理解されたのは、念仏行者の心相たるべき帰命は大悲招喚を受け入れた行者の信を表し、その信のうえの念仏行はもはや行者の行ではなく、仏の大行そのものだというんだね。

A君 そう。だから祖師の六字釈は称名行が大行であるということを表すと同時に行者のものになった大行には大信を具備していることをも表しているということだ。大悲の招喚によって大信と大行がともに成就されていることを表されているんだよ。

 

B君 じゃ「阿弥陀仏にまかせる」が念仏往生と同じことを勧めているのだとしたら、「念仏は勧めていない」をどのように理解したら、念仏往生を必ずしも否定した趣旨にはならないというのかな。

A君 信が開け起こるのは大悲にまかせ、大悲を受け入れる以外にない。大悲は摂取不捨の願心として顕われる。南無阿弥陀仏はその摂取不捨の願心成就を全顕し、衆生の浄土往生に万に一つの間違いもない大悲成就を伝えるものだ。称名行をあとまわしにしても南無阿弥陀仏として伝えられている大悲の成就を聞いて心から受領し安堵すれば信は生じ、念仏は自然に後続する。この考え方を端的に表しているのが成就文の「聞其名号信心歓喜」の文だ。この文は衆生が大悲を稟受する究極の信の成就を表し、その信の因は大悲を聞く聞そのものであると教えたものだ。「念仏は勧めていない」を、大悲の聞信を先に勧め、その後に称名行は自然に発露するという考えを示したものであるとすれば、念仏往生を否定したことにはならないと理解できる。つまり機相の上では最初に大信が生じ、そののちに大行たる称名念仏が称えられるという事象の起こる時系列で考える考え方に立ったものと言える。

 

B君 観経下々品の教え方はそれとは異なっているよね。

A君 異なっている。観経では「汝もし念ずるにあたはすばまさに無量寿仏の御名を称すべし」だからね。

B君 教え方は異なるが、そこから生じる結果は同じということか。

A君 そう。教え方は違っているが、願心を受けとめるという結果は同じだ。善導の「一心専念弥陀名号・・是名正定之業」に続いて「順彼仏願故」とあるように無量寿仏の御名を称すべしとの教えを受け入れることは、「称名しつつ」その称名が阿弥陀仏の悲心招喚の願心にかなうことだとしてその願心たる摂取不捨を聞き受けているということだ。大経ではその「称名」を省いているだけで、南無阿弥陀仏の願心を聞くことを勧め、それを聞いて受け入れていることを聞其名号と言われているんだ。表現は異なれど摂取不捨の願心を領受し自力が廃捨されて信が生じる結論は同じだ。

 

B君 教え方が異なるのに、どうして同じ結果が生じるのだ?

A君 そのようなことが可能になるのは、念仏は大悲たる南無阿弥陀仏が全顕したものであり、南無阿弥陀仏は念仏として顕現するからだよ。名号がその働きによって称名へと全顕するので名号即称念といい、称念は名号が全顕したものなので称名即名号という。同じように名号はその働きによって信心へ全顕するので名号即信心といい、信心は名号が全顕したものなので信心即名号という。だから、称名即信心、信心即称名ということも言える。これが真宗の至極だ。ここで名号を仏願と言い換えても良い。仏願・名号とその機受の相である信心称名、これらはすべて南無阿弥陀仏の大悲が大悲のままに働いている大悲の諸相だ。だから大悲たる南無阿弥陀仏の働きによって大経の「聞其名号信心歓喜」が成立するし、念仏に現れた大悲たる南無阿弥陀仏の働きによって観経下々品の教え方が成立する。いずれの教えであっても、その教えから生じる機受の結果は同一の信行(南無阿弥陀仏)となる。

 

B君 大経と観経の説かれ方の差異は、願心を受け入れる際に、称名しつつその称名が仏願にかなうことだと受け入れるか、南無阿弥陀仏の成就を聞いて仏願を受け入れるかだけの違いだというんだね。

A君 そのとおりだよ。ともに摂取不捨の願心を受け入れることに違いは生じない。だから、善導の十八願取意の文のように信を省いて念仏を称える者を救うのが大悲だと言い換えてしまってもよいし、祖師のように願成就文に立って十八願を信願であると理解してもよい。それは称える念仏も大悲を仰ぐ信も南無阿弥陀仏という大悲たる大行の働きによるものだからだ。信に働く南無阿弥陀仏によって如実の称名は称えられるし、念仏に働く南無阿弥陀仏の大悲によって信は開け起こる。そのいずれの場合も南無阿弥陀仏の働きによって浄土往生の真因たる信因と行因が完全円満に具備されるのだから、念仏を先に出して信を後にしても良いし、信を先に出して念仏を後にしても良い。その先後によって仏の救いのあり方に異なるところが生じることはないのだからね。いずれも南無阿弥陀仏による往生決定だ。名号たる念仏を先に出して信を後にする場合には、その先に出した念仏は救いの法という意味合いが前面に出てくる。名号による信を先に出して念仏を後にする場合には念仏は報謝という意味合いが前面にでてくるが、機受の相の上で信と称名に先後をもうけているだけで、本来は信と称名は一体のものだ。念仏はつねに救いの法として感受され、同時に報恩行となるものだ。それは信がそのように感受させているのだ。その信もまた大悲の顕現であるから、大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称名・称名即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称名即信心・信心即称名となるのだ。

 

B君 そうすると「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、念仏は勧めていない」との言い方は十八願を信願と理解する立場や聞其名号の教えと親和性があるというのか。

A君 そう理解することが可能だ。機受の相の先後に着目した言い方だ。この場合、念仏は報恩行という理解につながりやすい。

 

B君 シチュエーションによってはあり得るということを言ったが、それはどういうことか。

A君 例えば「念仏往生を勧められて念仏を称えて助かりたいと思っているが、なかなか救われない」と信仰を吐露した人がいたとしようか。ここで問題となっている念仏は自力の念仏であることは明らかだ。しかし、南無阿弥陀仏の御名だけが真実浄土往生の真因である以上、それと異なる自力の行や自力の思いは廃されなければならない。諸行はもちろん念仏行も自力の行に留まっている限り往生の真因にはならない。「念仏を称えて助かりたい」と思っている心を廃捨させて願心を聞き受けて貰うには、念仏では助からないことを明確に伝えるしかない。この人に阿弥陀仏は念仏を勧めていると伝えても、その人はそれまでと同じ気持ちで念仏することを続けるだろう。この場合には「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、(自力)念仏は勧めていない」と勧めることは大悲を受け入れ、自力念仏の思いを廃捨させるのに有効な説法になり得る。これは大経の「御名を聞きて信心歓喜」するように導く大経所説に親和性がある説き方だと言える。念仏という自己の行に重きを置く思いを改めさせて、大悲を聞く事に力を入れて大悲を勧める教え方になる。

 

B君 対機説法としての説き方として有効であり、許容できるということだね。逆に阿弥陀仏は念仏を勧めているという説き方が有効である場合とは、どういう場合なんだ。

A君 例えば、「聞其名号と聞いていますが、聞いても聞いても救われません。」という人がいたとしようか。その人に大悲を聞き受けるんだと勧めても、きっとこれまでと同じような聞き方をこれからも続けるだろう。その場合には、聞き方が問題ではないと知らせるために「阿弥陀仏は念仏を勧めているから念仏を称えることが阿弥陀仏の願いに称(かな)うことなんだ。」と教え勧めることが有効になるのではないだろうか。

 

B君 つまり、そのどちらの説き方が有効であるのかは、説教を聞く人の心の置き所によって変わってくるということだね。

A君 聞という行や称名という行が自力の行として行われる限り、浄土往生の真因はその人に成就されることはない。その自力の思いを廃捨してもらい大悲を受け入れて貰うにはその人の心の置き所が念仏行か聞法かに応じて「聞き方は問題とならない。ただ念仏を称えることが大悲に称うことだ」と勧めたり、或いは、「阿弥陀仏は念仏を勧めてはいない。ただ大悲を聞くだけだ」と勧めることになる。大経の説き方や観経下々品の説き方は真実大悲を受け入れて貰うための仏の便法であると思う。

 

B君 そうすると、大経の説き方や観経下々品の説き方のいずれが良いのかということを議論すること自体意味が無くなってしまうんだね。

A君 そう。意味がなくなってしまう。理解しておきべきことは最初に言ったように「南無阿弥陀仏の御名と大悲だけが真実浄土往生の真因である」ということだ。大悲を心から受け入れて貰うための便法としての説き方は、機に応じて念仏を強調する説き方になるか、聞くことを強調する説き方になるか、の違いはあるが、大悲を聞き受けて貰う事が最も大事なことだ。そのことを聞き受けた精神世界では、先の大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称念・称念即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称念即信心・信心即称名の意味がすんなりと分かるようになる。これが阿弥陀仏の救いの現れ方だからだ。ここに真宗の至極があると思う。最初にC子さんが言ったように、大悲を領解すれば、大悲を感受して南無阿弥陀仏を称念することで仏と悲喜交流している思いになり、わが行ながらもわが行ではないという思いになる。勧められるべきは、このような大悲への思いを現実に生じさせる働きをもつ如来の大悲たる南無阿弥陀仏である、ということを強調したい。あとは観経下々品の「称名しつつ」阿弥陀仏の悲心招喚の願心を受けることを勧めるのか、称名行をあとまわしにして大悲たる南無阿弥陀仏を受領すれば信は自然に生じ、念仏は自然に後続するという考え方に立って大悲を受け入れることを勧めるかは機に応じて使い分ければよいことだと思う。このような理解に到達すれば、それ以上の議論は不要になると思うんだ。

 

C子さん 念仏の先後が重要な問題ではなく、念仏の先後を問わず大悲を領解することが大事だと言ってくれれば、とてもよく納得できるわね。大悲という観点が抜けると議論がおかしな方向に進んでいくのね。

 

A君 信前の人に仏の説く説かれ方に2つの説かれ方があるということを述べたが、信後はどうかというと、心の中に阿弥陀仏の大悲を常に頂いているので、C子さんが言うように自然に南無阿弥陀仏を称念するようになる。これが十八願成就の姿だ。そのため阿弥陀仏は念仏を称えられんと願われていると聞かされると、その仏の大悲を感受し念仏をまた称えることになる。また、摂取するとの仰せであると聞かされるとその大悲を感受して念仏をまた称えることになる。どちらも信心の行者にとっては仏の大悲を感受させる言葉としてすんなりと受け入れる事ができるんだ。大悲を感受している者にとって、それらの言い方はともにしっくりと心に落ち着く言い方になるから首肯できるんだ。信も称名もともに大悲の顕現であるから、大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称名・称名即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称名即信心・信心即称名ということが容易に理解できるのだよ。

 

C子さん 阿弥陀仏の願いとは「摂取せん」という願いであるといえるし、「念仏を称えられん。念仏を称える衆生を摂取せん」という願いであるとも言えるということね。どちらも摂取せんという願いであることに違いがないから、すんなりと受け入れることができるわね。

 

A君 「念仏を称える衆生を摂取せん」という大悲を聞き受けるときは称名が信の内容になるが、単に「摂取せん」という願いを受け入れるときは称名は報恩行となるのだから信の内容にならないのではないかと思う向きがあるかも知れない。しかし、前者の称名も後者の称名も南無阿弥陀仏と相応した信の上の行であり、その南無阿弥陀仏が称名として顕現しているだけであるから、何の違いはない。さきに言ったように信とは南無阿弥陀仏と相応するものなんだよ。また、後念相続する念仏によって阿弥陀仏は念仏を称えられんと願われていることを感受することになるから、称名は信の内容にもなってくる。いずれの場合であっても何の違いは生じない。称名は救いの法の顕現であると同時に報恩行という意味合いをもっている。前者より念仏往生といってもよいし、後者より信心正因称名報恩といってもよいのだが、どちらも南無阿弥陀仏を信因・行因とする浄土往生に違いはない。言葉は異なるが、心の中に生じている同一の事象を指し示している。

 

A君 ちなみに、選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」とあるが、この「先とす」は諸行や助業をうしろに置き捨てて念仏行を先とするという意味だから、ここでの議論には関係しないよ。

 

B君 冒頭の「念仏往生 念仏の勧めとは?」に対する回答としては、どうなるのかな。

A君 仏の大悲たる南無阿弥陀仏を心から頂く事を勧められているということ。それは、諸仏や善知識が摂取不捨の大悲を聞くことを勧めらている、あるいは、念仏を称えられんと願われている念仏を称えつつその摂取不捨の大悲を頂くことを勧めているということだ。阿弥陀仏はただただ摂取の願心を受けとめて我が名を称せられんと願われているだけだよ。