3-16.祖師が他力の信を無疑という事実に還元された理由は何か。 他力の信は無疑の事実状態に限定されるのか。

A君 前回他力の信に有って自力の信に無いもの、自力の信に有って他力の信に無いものという議論をしたけど、そもそも他力の信というのは事実状態だけで構成されるものなのか、或いはその状態に加えてある種の思いを含んだものなのか、どちらと考えるのが適当なんだろうか。

B君 うん? 今度は別の切り口から信を理解しようとしているのかい。

A君 そうだよ。今回は前回の続編だ。仏願の生起本末を聞いて「疑心あることなし」というのは心理状態ではあるが、内心の事実といっても良いよね。

B君 そうだね。これまで内心にあった自力の計らいと言われるある種の思いがある時を境にして完全に無くなってしまったのは心理的な事実だといっていいよ。

A君 だから信は事実状態だと言えるよね。前回君も言ったことだけど、大悲に対して無疑になれば、そこにあるのは感受している仏様の大悲ということになるよね。

 

Cさん 「無疑」と「大悲を感受している思い」とは同じだと前回聞いたけど、同じだという理由を分かり易く説明してくれない?

A君 うん。じゃ喩えを出して説明してみるね。適切な喩えになるかどうか分からないけど、目の前にあんこが詰まったまんじゅうが1個あるとしようか。あんこは仏様の大悲のことで、あんこの周りにある薄い皮は疑心のことを喩えているとしよう。薄皮の一部を指で取り去ってみると、その穴からあんこが見える。つまり大悲が顔を出す。大悲が顔を出したということはその部分の皮が無くなっているということだよね。皮が無くなったということは大悲が顔を出しているということだよね。つまり言い方は違っているけど、その言い方はともに同じ事象を表現しているのだと分かるよね。皮が無くなってあんこが見える状態になったことについて、1つは皮の有無という視点から眺めて皮が無くなったという言い方、もう1つはあんこの露出の有無という視点から眺めてあんこが見えるという言い方。その言い方に違いがあるにすぎず、同じ事象を指していることが分かるよね。この喩えでは、あんこが顔を出しているのが「大悲を感受する」ということ。皮が無くなり大悲が顔を出したら、そのあんこを味わうことになる。その味わいが思いだよ。大悲が顔を出したら大悲を味わえるんだ。あんこの場合には食べないことには味わえないけど、大悲の場合は、食べるなどという自前の行為を介在しなくても大悲を味わえるんだ。だから、大悲が顔を出すと直ちに大悲を味わえる。大悲に対して無疑になれば必ず大悲の味がある。それが「大悲を感受している思い」ということになんだ。

B君 うん。同意。

 

Cさん 今度はよく分かったわ。でも「無疑」と「大悲を感受している思い」とが同じ事象を指しているのなら、信は「大悲を感受している思い」としてもいいんじゃないの?

A君 そのとおり。それが前回のテーマだったよね。でも、そのように言うときは「大悲を感受している思い」とはどういうことなのかをもっと説明する必要があるよね。その説明が大悲があることとと大悲に対して無疑の状態になっているという説明になるんだ。その思いは事実状態にまで還元して説明する必要があるんだよ。この「大悲と大悲を感受している思い」と「大悲に対して無疑となっている状態」という2つの言い方を併用することで信をより丁寧に説明することになるんだと思うよ。

 

A君 さて、前回君が「どうすれば信を積極的に言語化できるんだ。」と言ったように、大悲を感受している際の思い(味)は実にさまざまだよね。感情豊かな思いのものから禅的な理解を思わせる思いのものに至るまで実にさまざまな表現がなされているよね。前者の思いには大悲を感受して大悲を悦ぶ思い、浄土往生できるとの思いからの喜びや満足。仏に命の逝く末をゆだねていることの安堵、心の落ち着き、心の軽安などがあるよね。また、後者にはこの世に仏が満ちているという精神世界に新たな局面が開かれたように思わせる心境のものから、ただ南無阿弥陀仏ばかりという禅的境地を思わせるものもあるよね。妙好人の言動を読むにつけ、実にさまざまな思いがあるということが分かるよ。このことを考えると信を積極的に記述して定義することはとても困難であり、不可能なことだと分かる。だから、どのような思いが生じたかによって自力心と他力の信とを区別することはできない。思いを表現した表現は多様だからね。

B君 うん納得。というか、もともと僕はそう考えていたんだ。

A君 これに対し「聞いて疑心あること無し」というのは、ただ一つの事実があるだけだ。疑心と呼ばれる思いがあったのにある時を境にしてそれが完全に無くなってしまったという事実がそれだ。そのほかに紛らわしい複数の事実はない。思いを表した表現には多様性があるけど、この疑心無しというのはたった一つの事実だけだ。誤解を招くことはない。だからさっきの思いを表現するだけではなく、その思いを事実状態にまで還元して説明しなければならないんだ。

 

A君 さて、ここから今回のテーマに入ってゆくよ。そうすると信は「疑心がない」という事実状態に限るのであって思いを含むとは考えてはいけないものなのか、という問題が出てくるよね。これを今回のテーマとしたいんだ。

B君 君は信の本質は仏様の大悲であり、大悲を感受している思いをもって積極的に信の内容にしたいという考え方に立っていたんだったよね。

A君 うん。そうだよ。ここで注意を払わなければならないのは、次の点だよ。無疑つまり本願の三心でいえば信楽の有無によって自力心と他力が区別されるということが真宗学の基本中の基本だが、ある思いをその信に含ませるとなると、その考え方はその基本に反することにならないのかという点だ。だからその点についてどう答えるかということが問題となってくる。また祖師の関連する御自釈の文に対してうまく説明ができなければ、思いを信に含ませるという考えは成立しなくなる。

 

B君 うん。そうなるよね。で、どう考えているのかな。

A君 まず、真宗の基本に反することにはならないと考えている。本願の三心のうちの欲生は決定要期と言われており、往生が決定し、決定した往生を安堵の気持ちをもって期している思いなどと説明されるよね。この欲生は思いではあるが、思いであるが故に欲生は信ではないと否定されることにはならないよね。ただ、その安堵などの思いの有無で自力と他力の判別はできないとされているだけだ。この欲生も突き詰めれば大悲への無疑によって生じている思いであるから、欲生は信楽の義別だとされているんだよね。

B君 なるほど。欲生という思いも信の内容を構成するが、他力信と自力心との決判はあくまでも欲生の思いではなく、その欲生の思いが生じる前提となっている無疑になっているか否かによって決まってくるということなんだね。

A君 そう。大悲に対する疑の有無をもって決めるということと欲生という思いも信の内容になっていると考えることとは別のことなんだ。そのように理解しないと信が内容の乏しいものになってしまうんだ。さっきの喩えでいうと顔を出したあんこの味の方はどうなっているのだ、ということになってしまうだろう。

Cさん A君のいうことは結局こういうことになのかな。つまり信の有無は大悲への有疑か無疑かで区別されるものだけど、信は無疑という事実状態にとどまるものではなく、無疑の事実状態から生じているある一定の範囲の思いも信の内容になり得るということなるのね。

A君 そう。無疑以外のある一定の範囲の思いを信の内容として含ませて理解したとしても、その思いの有無で信の有無を判断することはできない。その理由は思いというのは多様で主観そのものだ。だけど、「疑心がなくなった」というのは主観的ではあっても内心の事実であるから、信の有無はこの事実の有無によって判断することにする。このように信の判断基準を定立するときの考え方と信の内容としてある一定の範囲の思いを含ませて理解するという考え方とは視点ないしはスタンスが違うんだ。後者の考え方は、信の判断基準を定立するときの考え方とは異なり、信を豊かなものとしてあるがままに理解したいという欲求の上に成立しているスタンスだ。それぞれ異なる視点からの考え方だ。信を内容のあるものと理解しつつ、信仮は信楽によって判定すると考えることは論理的に可能であるから真宗の基本に反することにはならないと思うのだよ。

 

Cさん A君の言うことを整理すると、まず信というものを大悲を感じるありのままに理解したいという欲求が先にあり、そのあとに出てきたのが、信の有無についての判断基準を定立する際にはどのように考えたらよいのかを考えればよいという思考手順なのね。

A君 その通りだよ。

B君 では君が言う「大悲を感受している思い」というのは信楽ではなく、欲生のことなのかな。

A君 う~ん。そうではないんだけど、今しばらくは君の考え方にしたがってこれまでのことを整理すると、次の①~⑥のうちの④のようになるかな。

①.まず大悲を感じているありのままに信を理解するというスタンスに立つこと。

②.「仏願の生起本末を聞いて疑心あること無し」という全体が大悲と大悲への無疑をあらわしたものであるということ。

③.「疑心がなくなった」という事実状態と大悲を感じている思いとは一体となった状態であること。

④.③の事実状態と一体になった思いが、欲生であると一応は言えること。

⑤.祖師が信を無疑(の事実状態)に還元して述べている理由を考えること。

⑥.信はどのような内容をもつと考えるのが適当であるのかということ他力信の判定基準を定立することとは別のことであるということ。

Cさん そうすると欲生の範疇に入る思いとは具体的にどういうものかが問題になってくるわね。

A君 そうだね。でもね翻って考えると、上記③の事実状態と一体になった思いが欲生であって、信楽は無疑に限られると考えることについてはかなりの心理的な抵抗を感じるのだ。つまりね信楽を無疑に限定してしまう考え方に立つと、無疑の信楽になったことによって生じる思い、ないしは信楽に伴って生じる思いはすべて信楽とは別のものだと説明せざるを得なくなってしまうよね。それで本当にいいのだろうか。信楽をそんなに狭く限定してしまわなくてもいいという考え方もあり得ると思うんだね。先の喩えで言うと、皮のない状態になってあんこが顔を出したという状態が信楽だということになるけど、それだけだとあんこを見ているだけで味がないのと同じだよ。大悲が心の中に射し込むと必ず大悲の味がする。その味を信楽から切り取ってしまってよいのかなぁと思うんだ。むしろ、信楽というのは無疑の状態になったことに加えてそこから必ず生じる大悲への思いを伴ったものであり、その思いも含めて信楽というのだと理解したいんだよ。

 

B君 それでは信楽と欲生とはまったく同じ内容になってしまうように思うが、それでいいのかなぁ。

A君 それで良いんだ。豊かな内容を伴って存在している一つしかない信について、無疑の字義をも併せ持つ信楽は無疑に重点を置いて信を説明したときの言い方であり、欲生は得生などの思いに重点を置いて信を説明したときの言い方に過ぎないと理解するのが適当なように思えるんだね。至心も同じさ。

 

Cさん 至心、信楽、欲生の三心はもともと一心だということなのね。でも、どうして至心、信楽、欲生と三つに分けられているの?

A君 至心、信楽、欲生というのはもともと同じ一心(他力の信)を指し示す言葉だけど一心にはいくつかの特徴があり、そのうちどの特徴に重点を置いて一心を指し示すかによってその呼称が異なっているに過ぎないと考えれば良いんだ。衆生の至心は如来の至心を私の手垢を付けずそのまま受けとった心のこと、その心は仏様の心をそのまま受けとったものなので純粋性という特徴を持つ。純粋性というのは大悲と純粋に向かい合っている心の態度のこと。衆生の至心はその純粋性の極致に至ったものだから至心という言い方になる。大悲への疑いが晴れたという特徴でとらえると信は信楽という言い方になる。浄土往生させるとの大悲に対して無疑になると浄土往生できるとの思いになるところに重点を置いてとらえると欲生という言い方になる。だけど至心、信楽、欲生というのはもともとは同じ一心であり、その一心にある特徴に応じて名づけた別々の言い方が至心、信楽、欲生なんだと理解したいんだ。整理すると次の⑦のようになるよ。

⑦.欲生と信楽とは同じ内容の信。至心もおなじ。一心の持つ特徴に応じて一心の呼び方が異なったものになった。至心は大悲に対する純粋性の極致を表した言い方。信楽は無疑という事実に信を還元したときの言い方。欲生は信を思いとして言い表したときの言い方。

 

B君 じゃあさ、祖師は三重出体を述べていることはどう理解するんだい。

A君 ん?

B君 名号から至心を出し、至心から信楽を出し、信楽から欲生を出すという祖師の解釈のことだよ。同じ心だったらそんな解釈はできないよ。「皆同じ。ハイ終わり。」ということになってしまうじゃないか。

A君 うん。それはね、やっぱり一心のもつ特徴の順に従って解釈されたんだと思うよ。つまり名号として整えられ、名号に込められた仏様の至心をそのまま受けとった私の側の純粋性を至心というならば、その純粋性のゆえに大悲に対して無疑になった。だから至心が信楽の体となる。信楽が欲生の体となるというのは往生させるとの仏様の大悲に対して無疑となったことから往生できるとの思いが出てくる。純粋性という特徴に着目すると無疑という特徴がそこから引き出され、無疑という特徴から欲生という特徴が引き出された。そういうことだと思うんだよね。だけど、そのいずれもが一心の特徴なんだ。中身はまったく同じもの。至心、信楽、欲生と3つの心があると考えず「至心信楽欲生」という6字全体が1つの心に名づけられた1つの名称だと考えても良いくらいだ。

 

C子さん 祖師は無疑をもって一心とされているのではなかったのかしら。

A君 三心釈の所では、如来の至心の故に疑蓋無雑、如来信楽の故に疑蓋無雑、如来の欲生の故に疑蓋無雑。故に一心という理屈だったよね。

C子さん 一心が疑蓋無雑であれば、三心ともに疑蓋無雑の一心ということになるではないかしら。

A君 そのとおりだよ。でも、その論理は、至心、信楽、欲生の三心が実にはもともと一心であるという論証のために言われたことだよね。信楽の字義には至心や欲生とは重点の置き所が異なった特徴や意味があって、至心や欲生も無疑の信楽であることを示すための論理が三心釈なんだ。決して欲生という思いを信から除外するための論理ではないと思うよ。

 

Cさん 至心、信楽、欲生の三心が皆同じ一心であるなら、至心を中心にして信楽も欲生も至心と同じということもできるわよね。また欲生を中心にして至心も信楽も欲生と同じということもできはずよね。

B君 それはもっともだね。

A君 当然にそういうことになるさ。でもね、祖師はそのようには述べていないだ。なぜだろうね。なぜ無疑を字義に持つ信楽をもって三心が一心であることを論証されたのだろうか。至心は大悲を聞き受ける際の純粋な心の態度をいうのだからそれは必ず無疑と同じ意味になってくるよね。だから祖師は十八願名を至心信楽の願というように至心と信楽を合わせて願名とされているよ。でも至心ではなく信楽である無疑を根拠に一心と言われたのは、純粋な心の態度といってもそれはどのような内心の事実をいうのかがまだ明確にはなっていないよね。だから、至心も信楽も欲生も無疑という事実にまで還元することで無疑という字義をもつ信楽を中心にして一心となることを論証されたのだと思う。欲生をもって論証されなかった理由も同様だよ。まとめると次の⑧になるよ。

⑧.至心でも欲生でもなく、信楽を三心の中心に据えて信を理解されたのは、信を事実状態のレベルで理解したこと。至心や欲生では三心が一心であることを説明することができず、至心も信楽も欲生もすべて大悲に対する無疑であると理解することではじめて三心は一心であるという論理展開ができた。それ以外の方法はなかった。だから、無疑という一心のもつ特徴をその字義をもっともよく表している信楽をもって一心を明確に解明された。

 

Cさん じゃあ「聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。本願回向の信なり。」という御文はどう理解すればよいのかしら。

A君 この御文は第1に大経にいう「聞」を説明したものだよね。無疑をもって大悲を聞くのが大経の聞というあり方だと示されたものだ。仏様の大悲を聞くのに疑心をもって聞くのではないと示されたものだよ。この疑心のない聞き方を如実の聞というならば、第2として祖師は如実の聞というのは本願回向の信であると示された。それは大悲を聞くという場はすでに十七願の成就によってお膳立てされていて、私はお膳立てされている場で一方的に如来の大悲を聞くだけでよいように仕上げられている。このことを本願回向と言われたんだね。そしてこの如実の聞を信と言われたのは聞が本願回向の聞であり、聞くままが信であるということを示すために、信を特徴付ける無疑をもって聞を示すのと同時に如実の聞を本願回向の信と言われたんだと思うよ。聞と信とは無疑という点で一致していることを示すための論理だね。だから、この御文も欲生の思いを信から排斥する趣旨の御文ではないと思うよ。

 

Cさん そうすると、祖師のいずれの御自釈の御文も信は無疑のことであると定義したものではないと理解することになるのかしら。

A君 そういうことだね。信を厳密に定義した御文とは言えないと思う。無疑をもって信を定義したと理解すると、無疑以外の思いは信ではないということになりかねないからね。そうなってしまうと欲生は信である無疑の部分とそれ以外の部分に分けて考えることになってしまうという問題が生じることになるからね。

 

B君 信から思いを排除する論理ではないということは分かったけど、信に思いを含めることの積極的な根拠を祖師の書物に求めるとどうなるのかな。

A君 根拠かい?

Cさん B君は根拠、根拠とうるさいのね。

B君 いや、そういうわけじゃないけど、書物を読むときには今議論したことに注意して読んでみたいと思ったからさ。

A君 うん。書物を読むとき、どの点に注意を払って読むかによって読み方が大きく変わってくることがあるから、それは大事なことだと思うよ。さて根拠だけど、祖師は本願の三心についてそれぞれ字義を掘り下げているよね。その解釈には大悲への思いを読み取ることができるよ。それが根拠さ。その他にも祖師の喜びがあふれている解釈やご自釈があるよね。「信は無疑のこと。ハイ終わり。」というだけは深みも何もあったもんじゃないよ。大悲や信は無味乾燥なものじゃない。祖師の三哉文は有名だよね。総序にも生き生きとした祖師の感動があることを感じるじゃないか。それが根拠だよ。君だってそれを感じるから、前回僕に「どうすれば信を積極的に言語化できるんだい。」と言ったんだろう。それが最も大事な根拠さ。自分が大悲について感じていることに忠実になって考えて行ってごらんよ。自分の感じていることに忠実になって考えを深めてゆくことが大事なことだ。その心が哲学するってことさ。

 

B君 なんか誤魔化された感じだけど、まぁいいか。ところで、君が言うように信後の思いというのは豊かなものだけど、人によってそんな思いがあるのかって思うことがあるよね。それは、祖師が衆水海に入りて一味なるがごとしとか道俗時衆ともに同心にと言われたことに照らすと、どう理解すればよいのかってことなんだけどね。

A君 信に含めうる思いというのは抽象的に聞こえるかも知れないが、大悲に対して無疑の状態となって大悲を感受している思いや大悲があると感じている思いのことだよ。これは決して抽象的に言っているつもりではなく、これを感じている人にはすぐにピンとくるはずだ。祖師が同心とか一味と言われているものは、この大悲を感受している思いのことだよ。この大事な所が同じであれば、同心とか一味と言って良いということだよ。それ以外は些細なことなので、はしょってもいいということさ。

 

A君 「ただ南無阿弥陀仏ばかり」という禅的境地を思わせる思いもあるということをさきに述べたけど、最後にこの点について言及しておくね。この出典をいうと一遍上人語録(岩波文庫P65~66)なんだ。一遍上人が「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と詠んだところ、国師は「未徹在」とまだ徹底した悟りには入っていないと返したところ、一遍上人「となふれば仏もわれもなかりなり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠んで印信認可されたというのだ。一遍上人南無阿弥陀仏を強調する一生を貫いた人だけど、この人ほど南無阿弥陀仏を全身全霊にかけて生きた人はいないと評価されているよ。大悲に対して無疑の状態で大悲を感受している思いに生き抜いた人だったんだね。この大悲に対して無疑の状態で大悲を感受している思いが南無阿弥陀仏なんだ。摂取するという仏様に南無している心の状態が至心であり信楽であり南無阿弥陀仏なんだね。この思いを同心とか一味とか言うんだね。真宗においてはこの南無阿弥陀仏がすべてであり、それ以外には何もないんだよ。「教も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏、信も南無阿弥陀仏、証果も南無阿弥陀仏真仏真土も南無阿弥陀仏」とは別のブログで既に言われていることだけど、これはまったくそのとおりなんだと思えるよ。そして、南無阿弥陀仏の思いが「ただ南無阿弥陀仏ばかり」ということになるんだね。真宗の他力の信という心境において禅の瞑想の境地との近似性というか同質性が見いだされるというのだから、信はおもしろいもんだね。

 

*1「還元」の意味

現象学という哲学の1分野において重視されている概念である。人の確信が生じるまでの1つ1つの事実を記述してゆくとその事実が確信成立の条件となっていることが分かる。例えば、今日は日曜だという確信を成立させている条件となっている事実とは、昨日は土曜日だったとの事実や記憶、土曜日だけど仕事に行ったとか、明日は日曜だから夜遅くまでテレビを見て夜更かししたという事実や記憶、今朝テレビを付けると日曜番組をやっていたなどなどの事細かな事実と記憶である。この確信成立の条件を探り、1つ1つの成立条件を掘り下げて確認し整理してゆく作業を還元という。人の心情、感情、信念、世界観などについてもそれを成り立たせている事実に還元すれば他人にそれを事実レベルで伝達することが可能となる。還元という思考方法は共感を得る方法論でもある。現象学はこの還元を応用して哲学的な解明をする思考方法である。この思考方法は仏教の唯識論や唯心論に近いと考える仏教学者もいるよ。参考文献 ちくま書房「現象学は思考の原理である」/著者竹田青嗣明治大学院大学教授

 

*2 祖師が「聞というは仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」と言われたのは、信を無疑という事実状態に還元する思考をとられた結果である。信後において法然聖人の御説法をお聞きになったときの思いを自ら深く内省され、その思いの根源となっているものを探られたとき、大悲と大悲に対して無疑であるということに気づかれたのだと思う。聞が無疑の信であると言われたのは、他力信と自力心を決判するという観点からのものではなく、上記の内省から大経の聞のあり方は大悲を聞いて無疑というあり方をしていることだとの結論に至ったもので、また三心釈はその結論の上に立ちつつ、疑が無くなったことが至心であり、信楽であり、欲生であって三心ともに一心だとする結論を得るための論理を展開した釈である。詮ずるところ、大悲を感受する思いを事実レベルに還元した結果たる無疑を明示しつつ大悲を感受する思いを表現しなければ信の十分な説明とはならない。このため信巻において無疑を前面に打ち出さなければならなかったのである。祖師の大悲への喜びは教行信証の全編に亘って表現されている。信の無疑という説明だけでは信の説明としては不十分だし、大悲を感受する思いだけでも信の説明としては不十分である。「皮が無くなってあんこが見える状態になったこと」は皮が無くなったということとあんこが見えるということをともに説明してはじめて十分な説明となるのと同じである。信は無疑であることを明確に示しつつ大悲への思いを表明している教行信証は祖師が大悲や信をどのように理解されていたかを知りうる解説書であると言えるよ。

3-15.信-有るものと無いもの

他力の信に有って自力の信に無いもの。

自力の信に有って他力の信に無いもの。

 

A君 祖師は「聞というは本願の生起本末を聞きて疑心あること無し。」と言われ、この如実の聞を本願回向の信であるとされているよね。

 

B君 うん。そうだね。

A君 祖師は、どうして他力信を「疑心あること無し」という表現で指定されたのだろうか。考えたことあるかい。

 

B君 質問の趣旨はいったい何だろう。チョット待ってくれないか。えっと、例えば存在する物を特定するときは、その物の色、形状、材質、性質、構成要素、特性、特徴、作用などを積極的に記述することで他の物と区別するよね。でも、祖師の先の表現は信のもつ積極的な特性などをもって記述する仕方ではなく、「疑心がない」といういわば消極的な方法で記述されているよね。A君が言いたいのは、どうしてより積極的な記述をして他力の信を指定しなかったのかということなのかな。

 

A君 そのとおりだよ。

B君 それ以外に記述の仕方がなかったからじゃないかなぁ。

A君 どうして、そう思うの。

B君 だってさ、考えてもごらんよ。どうすれば信を積極的に言語化できるんだい。

 

A君 他力の信を他と区別するということになると、他力の信と区別されるべきものとは「自力の信」ということになるよね。

 

B君 そうだね。そうであれば自力の信と他力の信を明確に区別する方法としては自力の計らい心を意味する「疑心」がないと指摘するのが最も良い方法なんじゃないかな。

 

A君 うん。つまり、それは「自力の信に有って他力の信に無いもの」という観点からの区別だよね。他力の信の積極的な特徴を挙げるという方法ではなく、自力の信のもつ特徴に注目し、その特徴を完全に無くしてしまったのが他力の信だという思考だね。いわば、消極的な方法での指定だよね。

 

B君 そうだね。

 

A君 では、「他力の信に有って自力の信に無いもの」という観点から区別することはできないのだろうか。つまり、他力の信の本質をもって他力の信とするという方法はないのだろうか。

 

B君 う~ん。

A君 他力の信の本質となるべきものはなんだろうか。

B君 それは如来の本願・願心だね。

A君 うん。

B君 つまり、他力の信は仏様の願心そのものだということ。

A君 それらしい根拠を祖師に求めるとしたら、何かあるかな。

B君 う~ん。根拠と言われるとなぁ。

 

A君 「本願の生起本末を聞きて疑心あること無し」という中に他力の信に特徴的な要素を読み取ることはできないかい。

 

B君 疑心あること無し、という以外にかい?

A君 うん。疑心なしという状態になっているときの心の状態を考えてよ。

 

B君 疑心なしという部分を除外すると「本願の生起本末を聞いている」ということになるよね。本願の生起本末とは私の意向と関わりなく、仏様が大悲を起こして一方的に私に大悲をかけられているということだよね。そのことを聞いて無疑の状態になれば仏様の大悲を感受しているということになるね。うん。そう、それが僕の感じている感触なんだ。

 

A君 そうかい。それは良かったね。それと同じような発想で根拠となるようなものがないか考えてみてよ。

 

B君 そうだな。帰命を「本願招喚の勅命」と解釈されていることが根拠になるかな。二河白道の喩えにある西岸からの呼びかけをヒントにされたものであるとは思うが、祖師は自分に本願招喚の勅命が向けられており、その勅命を受けている実感があったんだろうね。それで帰命を如来の招喚と表現されたのだろうと思うね。

 

A君 うん。祖師は愚禿抄(下)に「また弥陀の悲心招喚したまふるによるというは信なり。」と言われている。このことからも祖師は自分に本願召喚の勅命が向けられており、その勅命を受けている実感があり、この実感から悲心招喚を信と言われたのだろうと推測できるよね。

 

B君 祖師も仏様の大悲心を受けていた。だから、帰命につき仏様の「本願招喚の勅命」と言われたのは仏様の勅命を受けているままが信だという意味だと思うよ。

 

A君 うん。同感だ。

 

B君 それから、正念を「選択摂取の本願」とし、また「金剛不壊の心」としていることも根拠になるんじゃないかな。

 

A君 うん。他にはないかな。

A君 他力の信の本質ときたら、三心釈を思い出さないか。

B君 あ~、そうか。疑蓋無雑の根拠は如来の三心にあるということだったよね。

A君 そうだね。

B君 如来の三心がそのまま疑蓋無雑の衆生の三信になるということだったね。

 

A君 そうだね。如来の心が至心だから衆生の心は如来の至心に対して疑蓋無雑となる。これを衆生の至心という。如来の心が衆生を摂取するに何の危ぶみも不安もなく決定している心だから衆生如来信楽に疑蓋無雑となる。これを衆生信楽という。如来の心は衆生を浄土に生まれさせたいという大悲心だから衆生如来の大悲心に疑蓋無雑となる。これを衆生の欲生心というんだったね。

 

B君 そうであれば、他力の信を積極的に記述するならば、如来の至心・信楽・欲生心を「会得する」という言い方になるかな。会得というか、仏様の心が解ったというか、領解というか、感得というか、感受というか、願心が心にあらわれたというか、心中に大悲が印現したというか、仏様が心にあらわれたというか、南無阿弥陀仏の心相になったというか、どういったら最も適切な表現となるのかよくわからないけど、摂取不捨の大悲心を感受したとか、摂取不捨の大悲心が胸にあるということかな・・・。

 

A君 うん。

B君 そんな感じ、かな。

 

A君 大悲を感受している信、つまり感受しているありのままを積極的に正確に表現することはとても難しく不可能だけど、他力の信に有って自力の信に無いものという観点からいえば、他力の信に有って自力の信に無いものは仏様の悲心だと言えるよね。

 

B君 では、どちらの方が適切なんだろう。

A君 ん?

B君 「他力の信に有って自力の信に無いもの」「自力の信に有って他力の信に無いもの」という2つの特徴のうちどちらが大事な特徴なのだろうかってことさ。

 

A君 どうしてそんなことを考えたのかな。

B君 だって、他力の信を積極的に記述する適切な表現となると言葉につまってしまうだろう。さっきのように。それに対して、大悲に対して疑心無しと言った方が概念的に明確だと思うんだよね。それまで心の中にあったある思いが無くなったという方が白黒のコントラストがはっきりして分かり易いよ。

 

A君 一理あるけど、他力の信に有って自力の信に無いものという観点からの区別も必要不可欠だよ。両方とも他力の信の特徴なんだからね。

 

B君 でも、願心に対して無疑の状態であれば、当然に大悲を感受しているということになるんじゃないか。

 

A君 うん。君や僕にとってはそれは至極当然のことだけど、例えば本願を疑っていないと本気で思っている人がいるとしようか。

B君 うん。

A君 その人はそのままの救いだから求めることは何一つとしてありません、ということも言っているとしようか。他力の信か自力の信か区別できるかい。

B君 難しいよね。

A君 でも、その人が大悲は感受していないとしたら。

 

B君 大悲を感受しているか否かはその人でなければ分からないことだけど、疑いがあるかないか自分の心の内を探してみて、それらしき疑いの心はないという感触を持つ人はいるかも知れないよね。

 

A君 うん。

 

B君 そういう人には、大悲心が心の中に満ちているのが信だよということを伝えて、はたして自分はどうなんだろうかと内省して貰うことが必要になってくるよね。

 

A君 そうだよね。そして、その逆もありうるよ。つまり、大悲がありがたいと思いつつも、念仏を一生懸命に称えることで往生の足しにしたいと思っている場合だね。

 

B君 うん。そうか。だから他力の信に有って自力の信に無いもの、自力の信に有って他力の信に無いもの、という2つの観点からの自己検証が必要になるんだね。

 

A君 うん。そう思うんだ。もともと他力の信を表す「帰命」というのは、大悲の感受と大悲への無疑という2つの特徴を備えたものだと理解したいところだね。

 

A君 覚如上人は、次の様に化導されていることは知っているよね。

「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり」「善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず。」(真偽検証様ブログからの転載)

 

B君 うん。これは自力無功の思いとなったところから生じている放下(ほうげ)の思いを述べたものだと理解しているよ。「仏様に自分の行く末をおまかせ」という状態だよね。仏様のなされるがままにまかせるという心境だね。

 

A君 うん。ではどうして「如来におまかせ」できるのだろうか。どういう心理状態にあるからおまかせできるようになるのだろうか。

 

B君 それは大悲心を感得しているからだ。感得している大悲があるから、その大悲におまかせできるということだよ。大悲を感得してもいないのに「自分の命の行き先をおまかせする」ということはないんだ。もしあったとすればそれは深信因果による聖道の智恵によるものか、或いは、自己の運命を受け入れざるを得ない状況下におかれた者がその運命を受け入れるときの心境だよ。浄土門においては仏様の大悲を介在しない信や道はないんだ。仏様の本願を聞き胸に摂取不捨の大悲をじかに納めるから、大悲に私の命をおまかせできるんだよ。

 

A君 うん。そうだと思うが、おまかせには2つの種類があると思うんだ。一つは君が言うように自己の運命を受け入れざるを得ない状況下におかれた者がその運命を受け入れるときの心境であり、もう一つはその受け入れざるを得ない運命を如来の手にゆだねるという心境。この2つが大悲におまかせしている者の心境だと思うよ。後者があるから前者のおまかせという思いが生じるのだと思うけどね。

 

B君 祖師が地獄は一定住みかぞかしと言われたのはその前者だと考えられるね。

 

A君 うん。ところで、これまで他力の信たる帰命には、必ず、大悲の感得と感得している大悲への無疑の2つの特徴があると説明して誘導してきたけれど、実はこの2つは同じものなんだ。大悲を感得しているということは大悲に対して無疑であり、大悲に対して無疑であるということは大悲を感得しているということなんだが、実感としては内心に大悲があると感じているだけだよ。南無阿弥陀仏というのはその実感に名づけたもので、摂取不捨の大悲を胸に頂いている状態のこと、或いはそのように感じさせている働きのことをいうと理解したいね。祖師が仏願の生起本末を聞いて疑心有ること無しと言われていることはこの1つのことを指していると思うんだよ。

 

B君 祖師が無疑というだけに留まらず、帰命を本願招喚の勅命とか言われたり、無疑心を開示するのに仏様の三心を先行して釈されているのは、その1つのことを2つに分けて言われたものだということだね。

 

A君 うん。そうだね。そして、冒頭の本願回向の信とは仏様の大悲が胸中におさまっている状態をいうんだ。祖師は同箇所で無疑の心のほかに仏様から回向され私の胸に納まっている大悲をちゃんと押さえておられるんだよ。大悲と大悲への無疑はただ1つのことだから、祖師は一心と言われたんだと理解したいね。

 

Cさん じゃあ、どうすればその大悲を頂けるの。大悲を感じることができない、自力の計らいは依然と続きまくる。どうすりゃ良いんだと思っている人にはどう言ってあげれば良いの。そんな人に計らいを捨てよと言っても、大悲を感得せよと言ってもとうてい無理なことよね。

 

A君 うん。だからこれから僕の言う言葉を、イヤ、誰の言葉であってもいいんだけど、その言葉の意味をよく考えてね。

 

 仏様の大悲は苦悩する私と共にある完全無欠なお慈悲です。それは地獄の最下層の底の底にまでゆき届き地獄の底からすくい上げてくれる涯底のない深い深いお慈悲 /どこまでも私に追いついてくる無限のお慈悲 / 私がどこに生まれ変わろうと地獄に堕ちようとも私と共にあり続け私を摂取する無始から続く永遠のお慈悲 / 浄土往生は百即百生で欠け目がなく万に一つ取りこぼすことがない完全円満なお慈悲 / 一人も欠けることが無くみなみな救う無窮のお慈悲 / 条件をつけることのない無限定この上ない極善のお慈悲 / 私の方で足すものは何一つとして無いこの身このままの完成された円満なお慈悲・・などなど。他にもいろいろなバリエーションがあるけどね。

 自力の思いに囚われて苦悩している人は、この言葉の意味を来る日も来る日もよくよく考えて欲しいな。苦悩が深い人ほど何かしら気がつくことがあるよ。そのとき思いもかけず大悲心を感得するかもしれない。気づいたら、いつのまにか自力の思いが無くなっていたということになるかもしれない。そのとき、もう一度「他力の信に有って自力の信に無いものとは仏様の大悲心」「自力の信に有って他力の信に無いものは大悲心に対する私の計らい」ということを思い出して欲しいな。その両方が心にストンとおちて解ったらそれで信のことは終わり、だよ。

会話編 3-14 大信と大行

B君 A君はよく「阿弥陀仏に南無している心の状態」が信だというよね。

 

A君 うん。よく言うよ。

 

B君 その信の相は南無阿弥陀仏だから、その信が大行だと言うんだよね。

 

A君 うん。そうだね。

 

 

B君 祖師は称名が行だとされているけど、信も大行だと言うのはなぜなんだい。

 

A君 心の相が南無阿弥陀仏となっている状態だからだよ。大行は称名念仏と指定されているけど、念仏は南無阿弥陀仏とも言われているよ。大行が南無阿弥陀仏であるなら信の状態となっている南無阿弥陀仏だって大行と言って良いよね。

 

 

B君 祖師は大信と大行とを区別しているんじゃないのかな。

 

A君 概念的には区別されているけど、如来の大悲の救済という本質においては大信と大行に何の違いは無いんだよ。大行や大信はいずれも仏様の大悲がわが身の上に現れるあらわれ方になづけたものだ。大行や大信は仏様の救済そのものなんだ。そういうわけで、祖師も仏様の大悲というくくりで大行も大信も理解されているよ。

 

 

B君 どうしてそう言えるのかな。

 

A君 大行は称名と指定されたあと、「称名は念仏。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」と言われているからね。

 

B君 それで。

 

A君 それで「正念」というのは行をあらわし、信をもあらわしている。愚禿抄(下)に「汝一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。」と善導大師が言われた「正念」を「正念の言は選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。」と言われていることからそれが分かるよ。

 

 

B君 それはどういう意味なのかな。

 

A君 その「選択摂取の本願」というのは、仏様の選択摂取の大悲心のこと。選択摂取の本願というとき十七願と十八願を指して言われることがあるよね。祖師は十七願を真実の行願、十八願を真実の信願とされている。それで「選択摂取の本願」は仏様の十七願十八願の両願の願心を、「第一希有の行」は十七願の願心によって起こされた「汝」が行う念仏行を、「金剛不壊の心」は十八願の願心から起こされた汝の信をそれぞれ意味している。願を仏様の正念とし、汝の第一希有の行と金剛不壊とを仏様の願と同じ正念としているということは、仏様の正念が汝の正念となるということだろうね。仏様の大悲の救済は仏様の十七願十八願の願いに始まり、十七願の願いによって仏様の第一希有の行が汝の第一希有の行たる念仏行となり、十八願の願いによって仏様の願が金剛不壊の心になるということなんだろう。仏様の正念である願つまり仏様の至心信楽欲生心が私の正念たる行と心になっているという理解だ。これらに同じ正念という言葉を使っているということは、これらはともに同じ仏様の救済であると理解されていたのだろう。

 

B君 ふ~む。

 

A君 仏様の衆生救済に大という表現を与えることがあるが、大行も大信も中身は同じものなんだ。中身というのは仏様の大悲心によって成就され、やがて私の信となり行となる南無阿弥陀仏のこと。大悲心を担った南無阿弥陀仏が生きた私の心のすがたとなっているときの南無阿弥陀仏を大信と言い、生きた私の念仏行となったときの南無阿弥陀仏を大行と言うんだね。ある物語のストーリーが原稿用紙に書かれているときを小説と言い、芝居として上演されたときは脚本とか演劇というように呼び方は変わっても同じストーリーである以上、これを読んだり見たりしている人の心には同じようなストーリーが刻み込まれるよね。そのストーリーにあたるのが仏様の大悲心であり南無阿弥陀仏だよ。仏様の願心たる大悲心が私の心に刻まれたとき私の心は阿弥陀仏に南無しているのでその南無阿弥陀仏を大信といい、そして大悲心を感受しながら大悲心に誘発されて私の称念となったときの南無阿弥陀仏を大行というのだよ。いずれも信や行に大がつくのは如来の大悲心による救済が必ずこのような信や行という形をとるんだ。だから単に行とか信というのではなく、大行とか大信というのだ。

 

B君 つまり、行とか信というのは大悲心が存在する形式と言って良いよね。大悲心が形式をとるのは大悲心を私に認識させるためだ。そのために大悲心は南無阿弥陀仏という文字形式や音声形式となり、大悲を感受するとき阿弥陀仏に南無するという南無阿弥陀仏がそれを聞いた者の心の形式になり、南無阿弥陀仏を称念することが行の形式になるということだね。

 

A君 そういうことだね。大行とか大信は大悲心の存在形式に名づけた名称であり、その本質は大悲心なのだ。存在形式があるから認識できるが、存在形式がなければ人には大悲心を認識することができない。だから大悲心はその形式をとらないことにはその存在を認識されないんだ。

 

B君 仏様の立場から言うと、人にその存在が認められなければ大悲心が存在する意味がないことになってしまうよね。だから、存在が認められるように南無阿弥陀仏という文字や音声の姿をとった。その六字には仏様の大悲心を表す意味と法蔵菩薩のストーリーがある。摂取して捨て給わぬというのがその意味で、仏願の生起本末がそのストーリーだ。その意味するところが重要だね。その意味が理解されなければ六字の形をとっても人は大悲心を認識できないことになってしまう。そして私が南無阿弥陀仏の意味を認識するだけではなく、私が直接、南無阿弥陀仏を感受できるように仕上げ、行としても実践できるように仕上げられたんだね。

 

A君 その通りだね。

 

 

B君 ところで、仏様の大悲を感受している思いがあるというが、これはどういうことなのかもう少し詳しく説明してくれないかな。

 

A君 仏様の大悲を感受している思いを考えてみると、おおざっぱに言えばつぎのようになるよ。南無阿弥陀仏阿弥陀仏は①摂取不捨せんという大悲を、②南無は大悲をそのまま受け入れること。そのような意味であることは既に聞いたり読んだりして知識として知っていた。しかし、仏様の大悲が私にかけられているということをこれまでに幾度となく聞いても、それが分からず幾度となく反問したり煩悶したりしていた。自力の思いに囚われてその思いから抜けられずに煩悶していたときに、そのまま救うとの仏様の大悲に気づき仏様の大悲を感受するようになった。自分の身の上に大悲が感受されたとき、その大悲を受けているままが摂取して捨て給わぬ阿弥陀仏に南無していることだと理解できた。これが南無阿弥陀仏となった心の状態であると理解できたし、この南無阿弥陀仏は私が浄土往生できるすがたそのものであるということも分かったし、この南無阿弥陀仏の心相のままに私は浄土往生できると分かった。これが仏様の南無阿弥陀仏の働きだということも理解できた。それで、称える念仏の南無阿弥陀仏も仏様(の働き)であると理解できた。南無阿弥陀仏の心の状態のままに称えるのが口称の大行だと理解できたのだ。これらが私にとって仏様の大悲を感受している思いだね。

 

B君 仏様の大悲を感受してそのように理解したというんだね。

 

A君 正確に言うならば、仏様の大悲を感受してそのように理解できたのか、そのように理解できて仏様の大悲を感受するようになったのか、よく分からないんだよ。さっき言った気づきとか感受とか理解というのは直感的で感覚的なものであって論理的なものではないから、どうなってそうなったのか、などということはよく分からないんだ。だからうまく説明できないので、もどかしく思うよ。

 

B君 なるほどね。どちらであるしても、大悲心を感受していることにはある思いが伴い、ある思いの下に大悲心を感受しているってことだね。

 

A君 そうだね。それを信知といっても良いよね。そのような信知があるので、仏様の大悲の働きが心に働いているときの働きを大信という言い方で呼んでもよいし、その働きが念仏行という形で現れたとき大行という言い方で呼んでも良いと分かるんだ。行と心との違いはあるが、いずれも仏様の大悲の働きであるから大行も大信も仏様の大悲による救済という一括りで理解すれば良いんだということも分かるんだ。だから、大行を能行で理解するか所行で理解するかという議論はあまり意味のない議論だよ。また、折衷的な能所不二の称名とかという用語は分かりにくい哲理的用語だ。能所不二というのは、御名をそのまま現わした称名・称名に現れた御名という意味だが、大悲を感受して南無阿弥陀仏の心相のままに称える称名のことだ。仏様の大悲による救済は大悲心を感受することで必ず信と称名というあり方になる。そのあり方が大悲のあり方だと理解しておけば十分だよ。

 

 

B君 信も大行だと言うのであれば、称名大行を大信といっても良いのかい。

 

A君 いいと思うよ。南無阿弥陀仏の心相のままに称念するままが信のすがただよ。それ以外に信のすがたはない。

 

B君 称名大行を大信と言ったり大信を称名大行と言ってしまうのは概念の混乱になるのではないのかな。

 

A君 確かにそうなってしまう。だけど、もともと生きた人間の上に大悲心が働き、その働きを心で受けとめた者の念仏行というのは、仏様の大悲による救済そのものだ。これを大行というのであればこの大行には大信があるし、大信は放っておいても自然と称名大行となってゆく。大信と言っても称名大行と言っても大悲心の現れ方を人間が便宜的に概念的に区別しているだけのことではないかと思う。大悲心を聞信し大悲心を感受した人に現れる大悲心の現れ方を仏様は「至心信楽欲生我国乃至十念」と一括りで言われているだけだ。仏様の大悲心を受けていると実感している限りは、その概念的区別はさして重要な問題ではないと思うよ。学問的には大行と大信を区別し、その概念を精緻なものにしてゆくことに意味がないわけではないと思うが。

 

 

B君 祖師は称名と大信は不離の関係にあるという意味のことを言われているけど(*1)、君に言わせれば、称名大行は大信を含み、大信も称名大行を含んでいるということになるのかな。

(*1)親鸞聖人御消息(7)を以下に引用

信の一念・行の一念ふたつなれども信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし。・・信と行とふたつときけども行をひとこえするとききて疑わねば行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。

 

A君 そうだね。

 先にも言ったことだが、十七・十八願による大悲心の救済は私の第一希有の念仏行となり、私の金剛不壊の心となる。選択摂取の本願、第一希有の行、金剛不壊の心の3つは等価な仏様の救済そのものだから、祖師は正念の一言でまとめられたのだと思う。仏様の正念である願が私の正念たる行と心になっているという理解だね。仏様の救済というのは南無阿弥陀仏による救いなのだが、南無阿弥陀仏というのは摂取して捨て給わぬ大悲心を意味している。その意味する大悲心を私に聞かせて大悲心を知らしめて、その南無阿弥陀仏が私の大信となり大行となることを予定している救いだ。その大悲の救いは必ず大信となり大行となる。南無阿弥陀仏の大悲心を聞けば、私の心は大悲心を感受し、感受した大悲心に導かれて念仏を称えるようになる。この称名を大行というのであれば、当然に大信を含んだ称名大行だ。大信の欠けた称名にそのような大という資格を与えることはできない。また、大信は仏様の大悲による救済の現れであるから、その大信にはいわば称名大行の種を孕んでいるようなものだ。大信中に称名大行の種がなければ大信ということはできない。大信に称名大行の種があるから称名大行が現れてくるんだろう。だから、称名大行といおうが大信といおうがそれらは仏様の救済である以上互いに互いを内包しあっているんだよ。南無阿弥陀仏の救済には大信も称名大行もある。だから私が南無阿弥陀仏を頂けば南無阿弥陀仏がそのまま私の大信となり、称名大行となる。逆に私の中に開け起こった大信や私の称える称名大行には南無阿弥陀仏がある。だから祖師は「称名は最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」と言われたのだと思うよ。祖師の心の中では「これらはみな仏様の働きだ。」との思いがあったのだろうよ。

 

A君 これを分かってもらうために君にやってほしいことがあるんだよ。

 

B君 なんだい。

 

A君 「称名は最勝真妙の正業なり、正業は念仏なり、念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」のあとに続けて言って欲しいんだが。

 

B君 うん。

 

A君 正念はさっき言ったように称名行を表すことがあるし、信を表すことがあるよね。それで、正念が称名を表しているときは「正念は称名。称名は最勝真妙の正業・・・。」と続けることができるよね。

 

B君 できるね。

 

A君 ではやってみると「正念は称名、称名は・・念仏、念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念」と続くよね。

 

B君 うん。

 

A君 じゃあ今度は「正念」を大信だとすると、「正念は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は念仏、念仏は称名」とつながるよね。

 

B君 うん。

 

A君 このようなことが際限もなく続いてゆくことが分かるかい。

 

B君 分かるよ。やってみようか。「称名は最勝真妙の正業 正業は念仏 念仏は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は正念 正念は称名 称名は最勝真妙の正業 正業は念仏 念仏は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は正念なり。正念は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は念仏 念仏は最勝真妙の正業 最勝真妙の正業は称名なり。称名は・・(*2)」と同じことがぐるぐると円を描く様にずっと際限もなく続いてゆくね。

 

A君 どうだい。一つ一つが全体として一つになっているように感じられないかな。

 

B君 これらは仏様の願心から起こり、一つの全体となって続いていくということを言いたいんだね。

 

A君 その通りだよ。

 その一つ一つが仏様の救いそのものなんだ。だから一つ一つが互いに関連しあって必ず円環を形成して全体となってゆくんだ。だから称名念仏南無阿弥陀仏を含み、南無阿弥陀仏は信を含み、信は称名念仏を含むということが言えるし、称名念仏南無阿弥陀仏や信を含み、南無阿弥陀仏称名念仏や信を含み、信は南無阿弥陀仏称名念仏を含むとも言えるんだ。この関連性を念頭に置くと大行は大信を含み、大信は大行を含むといっても良いと思うのだよ。ただ注意して欲しいのは、ここで言っている称名とか念仏とか南無阿弥陀仏というのは、どれも私の称名であり私の念仏であり私の心の内の南無阿弥陀仏のことであって、他人の称名が大行であるとか、他人のものとなっている南無阿弥陀仏が大行だと言っているのではないんだよ。

 

 

B君 ではどうやったら、その救いの円の中に入れるんだい。

 

A君 もう一度さっきのことをよく見てごらん。(*2)と表示した所だよ。称えている念仏が仏様による最勝真妙の正業だ。最勝真妙の正業というのは最勝真妙の浄土に生まれられる仏様の最勝真妙の往生行のことだ。だから念仏を称えることが私の浄土往生が定まった証だということが分かるよね。自分の計らいを入れる余地はないと分かるはずだし、それが仏様の大悲心の現れだということも分かるはずだ。それで南無阿弥陀仏にて往生するという思いになれるよ。

 

 

B君 最近、A君は念仏の主観的意味を決めるものはその念仏を称える人の心の状態や思いだという考えのもとに、南無阿弥陀仏の心相となったことや浄土往生が決まったことを悦ぶ浄土願生の思いがその者が称える念仏に大行の意味や浄土往生の行の意を与えると述べたよね。

 

A君 うん。確かにそう書いた。

 

B君 意味を与えるというのはどういうことなのだい。

 

A君 心は絵描きであり、同時に心は絵描きによって絵を描かれるカンバスだという喩えを聞いたことはないかな。

 

B君 唯心論だよね。

 

A君 そう。自らの心が自らの心の上に絵を描いて、描かれた絵をその心が眺めて認識する。認識されたものはすべて心が生み出したものだというのが唯心論の基本的な考え方だよね。無意識の心の働きによって認識の対象が心に具象化され、それが意識によって認識され、その具象化された対象に意味や概念を与える。再び対象を認識したときそれを概念で理解し、そこから意味を読み取り、あれこれと判断する。僕にはこれは真理の一面であるように思えるんだ。妻という言葉を例にして考えてみようか。妻という言葉を聞けば、だれでも妻という言葉の持っている意味を理解できるよね。妻という概念がみんなの共通の概念となっているから妻という言葉を聞けばその意味を理解できる。概念というのは心の中にあるイメージのことだと思えばいいんだけど、そのイメージというのは心が作り出したものだよ。それで、ある女性を妻と呼ぶとき、その人の心は妻という概念をその女性に与えてその女性を妻と認識している、という構図になるんじゃないかと思えるんだ。妻を一例にとったけど、人が持っている概念や意味はすべて心が作り出したイメージであり、そのイメージを使って物事を認識したり、理解したり、考えたりしているんじゃないかと思うんだ。

 

B君 その考えでは、大行とか大信というのも概念だよね。

 

A君 そうだね。もともと念仏を称えるという行為は、細分化するとさまざま事実や状態を構成要素として成立しているものだよね。この行為にどのような意味があるかという問題は、この行為にどのような意味を与えるかという問題であり、それは心が決めることなんじゃないかって思えるのさ。

 

B君 それで。

 

A君 例えば、ある念仏は自力の念仏だというとき、それを言っている人は自力の念仏という概念とか他力の念仏という概念を持っていて、ある念仏が自力の念仏か他力の念仏かをその概念を適用して判断していることになるけど、その人はどのような念仏を自力の念仏と言っているのか他力の念仏と言っているのかをよくよく聞かないと分からない。僕は自力の念仏というとき、「我が行を浄土往生の資助になるとして称える念仏」を想定している。これに対して他力の念仏というのは「我が行を浄土往生の資助になるという思いはきれいさっぱり無くなってしまって、仏様の大悲によって往生できるという思いで称える念仏」を想定している。このような想定では、念仏の自力他力はその人の称える心や思いで決まってくるということだよね。そして、仏様の大悲によって往生できるという思いは仏様の大悲を感受しているところに生じる思いだから、仏様の大悲を感受している思いがあるか無いかで自力他力の区別することになる。仏様の大悲を感受している思いは自分の心の中にある心理的事実だから、その事実のあることは自分で認識できる。それで、この事実がありそうな人なのか無さそうな人なのかを判断して、念仏を含めて自力か他力かを区別しているということになる。区別しているということは他人に自力とか他力とかの概念を与えているということだね。これは他人の言動を見たときのことだが、自分の心のあり方を見たときにも同じことが言えるよ。自分に仏様の大悲を感受している思いがあるから、ここからこの大悲の感受が南無阿弥陀仏となった心相であると理解でき、その理解から南無阿弥陀仏の心相は私が浄土往生してゆくすがたであるとの思いとなり、私の称念する南無阿弥陀仏は仏様の表れであるとの意味を念仏に与えることになる。つまり、念仏は大行であると分かった。この分かったということを、先に述べた「心が意味を決める」という考えに照らして言い換えると、大悲を感受できた心の状態が念仏に大行の意味を与えたということになるのではないかと思えるのだよ。

 

B君 大悲を感受して南無阿弥陀仏が仏様の大悲だと信知したことから、南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆくすがたを表しているという意味をその南無阿弥陀仏から読み取り、念仏にその意味を与える。そして、念仏から称えている南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆくすがただという意味を読み取ることになるんだね。

 

A君 そう。だから、南無阿弥陀仏は称名、称名は南無阿弥陀仏であり、いずれも私の往生してゆく私のすがたであり往生の行であるという思いが起こるんだね。その思いが大悲を感受している大信なのだよ。

 

B君 だから、祖師は大行と大信は不離だと言われたんだね。

 

A君 そうだね。それは元祖聖人の思いでもあるよ。「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の子細そうらわず」「三心四修と申す事の候ふは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候なり」とは元祖聖人の仰せだが、祖師はこの思いを元祖聖人から聞かれていたのだろう。「信の一念・行の一念ふたつなれども信をはなれたる行もなし。・・・信と行とふたつときけども行をひとこえするとききて疑わねば行をはなれたる信はなしとききて候ふ。」と言われた中の最後の「ききて候ふ。」とあるのは元祖聖人から聞かれたということだね。

 

1-27.念仏-念仏に付与される主観的意味合いは何によって決まるのか。

※7/5に修正し、差し替えました。

 

 真宗でいう念仏とは口で南無阿弥陀仏と称えることです。口で称えるというのは、自分の体の声帯を使い、聴覚によって知覚され得る音に変換することをいいます。念仏は称える者の心相ないし思いという心的要素、南無阿弥陀仏を音声化する神経学的・生化学的・物理学的運動過程と音声化された南無阿弥陀仏の音声の3つの要素から構成されています。ある思いに基づいて音声化して称えているのは私ですから、念仏はまぎれもなく私の行為であり、私以外の誰の行為でもありませんし、音声化された南無阿弥陀仏はその私の行為の一部(最終形態)です。心的要素と音声化する過程と音声とは切り離すことができませんから、この三者は分かちがたく一体のものになっています。これらのすべてはいわば物質的現象に還元できるものばかりだと推測されますが、このような念仏にどのような意味があるのでしょうか。ポイントは心的要素がどのようなものであるかによって念仏に付与される意味あいが決まってくるという事です。心の状態や思いが念仏の意味を決定するのです。

 念仏は私の行ですから、信前において念仏行をわが浄土往生の行との思いで念仏に励むことがあります。祖師が「本願の嘉号をもっておのが善根となす」と言われている自力念仏のあり方がそれです。我が行を往生の資助にできるとの思いから南無阿弥陀仏に手を伸ばし、念仏を往生の善行としての意味合いで励むのです。信後においてはわが行をわが往生の行とする思いはありません。このような思いの違いは何によってもたらされるのかといえば、私には浄土往生の行はなし得ないとの思いになっているか否かによります。私には浄土往生の行はなし得ないという思いになれば、私の行じる行に往生行としての意味合いを付与することができなくなってしまいます。私の行じる行から往生行としての意味合いを付与する思いが完全に消え去ってしまうと、あとに残るのは南無阿弥陀仏だけです。ですから、他力信心の願生者にとって意味のある念仏とは南無阿弥陀仏だけになってしまうのです。祖師が「称名はすなわち・・・念仏なり、念仏は南無阿弥陀仏・・なり。」と釈されているのは、こういう理由からであると推測されます。
 ではその南無阿弥陀仏からどのような意味を受けとられたのかといえば、祖師は同じ箇所で「称名は最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏・・・なり。」と言われています。最勝真妙の正業が南無阿弥陀仏であると理解されていたことがわかります。最勝真妙の正業というのは仏様の衆生救済行のことです。南無阿弥陀仏は仏様が最勝真妙の救いとして成就されたものです。仏様の救済行が南無阿弥陀仏であることから、往生行の意味合いが完全に消し去られた私のなす行にそれまでの自力往生行としての意味合いとは全く異なった私の往生行としての意味が新たに南無阿弥陀仏によって付与されることになるのです。元祖聖人が「南無阿弥陀仏 往生の行は念仏を先と為す」と言われたのはそのような意味合いからでした。

 では、どうして祖師は「最勝真妙の正業が南無阿弥陀仏である」との理解に達したのでしょうか。「しかれば御名を称すれば衆生の一切の無明を破し衆生の志願をみてたまふ。」と言われている所から推察すると、祖師には無明と呼ばれるような本願疑惑心が晴れて心から仏様の大悲心を悦び、大悲心による浄土往生を喜ぶ思いがありました。この思いは、摂取せんとの阿弥陀仏に南無した心相になったところにのみ生じる思いです。南無阿弥陀仏の救済行は、これを受けた者の心相を阿弥陀仏に南無する心相へと完全に転換する働きがあります。きれいさっぱりに自力の思いを消し去り南無する心相に転換させてしまいますので、この心相から大悲を感受し往生は決定との願生の思いが生じることになります。仏様の救済行にあるこのような働きを実感されていたため、南無阿弥陀仏が最勝真妙の大行であると言われたのでしょう。この念仏者の胸の内にある思いとは、何を差し置いても仏様の最勝真妙の大悲を感受する思いであると言わなければなりません。その思いには大悲によって往生できるとの思いもありますから、「本願の嘉号をもっておのが善根となす」ような思いが起こらなくなってしまうのです。「念仏は浄土にうまれるたねか、地獄におつべき業か総じて以て存知せず」という祖師の言葉を歎異抄は紹介していますが、人の智恵で最勝真妙の大行を理解することはできません。最勝真妙の大悲によって南無阿弥陀仏の心相となり、ここから浄土に生まれられるとの思いが生じる心の仕組みはもとより、その仕組みから将来どのようなことが引き起こされるのか、に関しては人間の知恵で計り知ることはできません。そのため上記の歎異抄の言葉になったのでした。

 まず、ここで押さえておきたいことは次のことです。
 浄土に生まれられるとの願生の思いが生じたことによって、念仏の「私の行じる行としての側面」に報恩行としての意味を付与することがはじめて可能となります。自力往生行としての意味合いが完全に否定された念仏に報謝の行としての意味を新たに与えることができるようになるのです。祖師は「至徳を報謝せんがために真宗の簡要をひろふて、つねに不可思議の願海を称念す。」と言われましたが、これは念仏行の「私の行じる行」としての側面に報謝の意味を新たに付与したものです。信心の行者の念仏は、仏様による清浄最勝真妙の働きから南無阿弥陀仏の心相と願生の思いが生じ、南無阿弥陀仏の心相からはそのありのままに南無阿弥陀仏の念仏が称えられ、私の往生は決定されたとの浄土願生の思いからは報謝の念仏が称えられることになります。南無阿弥陀仏がもともとは仏様の領域に属するものであることを考えれば、念仏の本義はあくまでも仏様の最勝真妙の正業であり大行であるとしつつも、その大行をわが往生の大行として受けとった信の者の念仏にはその仏様の大行たる救済行に呼応した報謝としての意味合いが念仏に込められることになるのです。仏様の大行と私の報謝の行とがみごとに呼応して分かち難く一体となって醸成されているのが私の称える念仏なのです。
 次に、念仏は報謝の行という意味だけにとどるものではありません。より根源的で重要なことは次のことです。私の報謝の行としての念仏は仏様の救済行である南無阿弥陀仏を受け入れてそれに感応し、私の心相が南無阿弥陀仏となったありのままに称えるものです。その南無阿弥陀仏の心相のままに南無阿弥陀仏を称えることは仏様の大行そのもの、南無阿弥陀仏がそのまま現れ出でたものです。このため、あるがままに口に現れ出でた南無阿弥陀仏の念仏は仏様の大行であり、かつ、それがそのまま私の往生行になるとの意味が念仏に与えられることになります。南無阿弥陀仏となった心相は、南無阿弥陀仏が仏様の大悲であるとのメッセージを南無阿弥陀仏から受け取り大悲心のありのままを感受している心の状態です。この心の状態になった私は、この南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく心の相(すがた)であり、この相が大悲そのものであると受けとめているのです。この心相を大信といいますが、この心相になったことによって、念仏は仏様の大悲であるとの意味合いを念仏に与えることになります。念仏には音声化された最終形態である南無阿弥陀仏が現れているからです。南無阿弥陀仏を感受し受けとった南無阿弥陀仏の大悲心が念仏に現れていると理解し、この念仏となった南無阿弥陀仏が私を浄土往生させると受けとめることになるのです。南無阿弥陀仏から受けとった大悲の意味を今度は念仏に付与することになるのです。この意味を付与された念仏を大行念仏と呼ぶことにします。私を往生させる働きのある仏様の大行たる南無阿弥陀仏がそのまま私の大行となったとき、南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく相であると受けとめたところの至心信楽から欲生心たる願生の思いが生じ、念仏に仏様の大行に対する報恩行としての意味合いが加わるのです。さらには、仏様からすれば私が念仏を称えないことには南無阿弥陀仏を成就した意味がなくなってしまいます。だから、どうしても私に念仏を称えて貰い浄土往生を果たさせなくてはならない宿命を仏様は背負っています。私には仏様から南無阿弥陀仏を頂かないことには往生できるすべは一切ありません。仏様と私とは私が浄土往生できるか否かの一点において運命共同体の関係(相互相依の関係)に入ってしまっているのです。大行念仏は私からすれば仏様の大悲心に誘発されて大悲を悦ぶ行や報謝の行としての意味合いで称え、仏様からすれば私を浄土往生させる大行たる働きが生身の私の上に生きた念仏として私に称えられることによって、その所期の目的を果たすことができるのです。大行念仏は、私の称える念仏あっての大行念仏です。この意味で大行念仏は仏様と私の協働の行とも言えます。仏様と私とはともに大行念仏を共有し、仏様は大悲をもって称えさせ、私は大悲に触発されて称えさせられたりして称えているのです。これが十八願文にある「至心・信楽・欲生我国」の大信となった上での「乃至十念」の念仏です。この念仏においては、南無阿弥陀仏となった心相とこれによる願生の思いという心的要素が大行としての意味や浄土往生行としての意味を念仏に付与し、派生的に報謝の行としての意味を付与するのです。念仏に付与された根源的な意味は、摂取不捨の大悲を南無する者の心がその感性(心情)で受けとめてその意味を領解してしまうので、念仏に仏様の大悲と救いを見いだし、この度の浄土往生を悦んで南無阿弥陀仏を称念し、声となった南無阿弥陀仏に仏様を見いだして仰信するようになるのです。このことを善導大師は「行に就(つ)きて信を立つ。」と言われ、元祖聖人は「声につきて往生の思いをなせ(す)。」と言われました。南無阿弥陀仏の声(行)が私を浄土往生させる仏様の大悲心の現れであると受けとめるので行に就きて信が生まれ、声につきて浄土往生の思いが生じるのです。
 念仏に以上の意味付けをしているのは、仏様の大行たる南無阿弥陀仏のとおりに南無した心相とそこから生じた願生の思いですが、そのような意味づけをしているもともとの根源は南無阿弥陀仏(の働きや意味)にあります。言い換えれば、南無阿弥陀仏にある大悲が私の心に自らの大悲を刻印し、心に刻印された大悲が私の心理作用を介して念仏に上記の意味付けを新たに与え、私の心はその大悲の意味を感受して念仏を称えるのです。この過程には自力の思いという夾雑物が一切混じることがないので、この大行念仏を他力の念仏と言ったり、この働きを南無阿弥陀仏の一人働きと言ったり、全分他力と言ったりします。

 以上が冒頭の問いに対する答えとなりますが、詰まる所、仏様の働きは南無阿弥陀仏に込められている言葉の意味にあるということになります。言葉の持つ意味は人の心に働きかける作用をもつものです。この意味が仏様の命になっているのです。言葉の意味を理解できる心を持つ人類の心を救う唯一の手だてはこの言葉の意味だけなのでしょう。仏様は言葉のもつ意味に姿を変えられて、私の心に働きかけているとも言えます。真宗の信の局面とは異なりますが、世間においても「あの人の一言で救われた。」などと言うことがあります。精神的に行き詰まってしまった人が人の言葉によって心が軽くなって救われたということはよくある現象なのでしょう。まして南無阿弥陀仏は人の心を表した言葉ではなく、仏様の心を表した言葉ですから、その言葉から仏様の摂取し捨て給わぬ心の意味をそのまま受けとればよいだけです。それを聞き受ければ現世での仏様の救済は完了し、そののちは仏様の心光によって常に照護されるがごとく凡夫のありのままで喜び喜び南無阿弥陀仏を称念する生活となります。

6-4(3).質問と回答 4の続き(2)

質問4の続き(2)
 質問ですが、法蔵菩薩阿弥陀仏になる際に、私を救うために、果てしない時間修行をし、阿弥陀仏の名号を作られたとのことですが、阿弥陀仏の視点で考えた時に、私に名号を渡す苦労と名号を作ったときの苦労を比較したら、渡す苦労なんて大したことのないくらい簡単なことだと思います。(名号を作って、私のところまで届けるまで相当大変ですが、そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのではと思います。)ですが、私は名号を受け取れていません。仏願に順じないと救われないとのことですが、仏願に順ずるということがどういうことなのかいまいちわかりません。詳しく教えていただけないでしょうか?

 

回答4の続き(2)
 質問者の方は南無阿弥陀仏と称えることはまったくないのでしょうか。南無阿弥陀仏と称えているのであれば、名号を既に受けとっています。受けとっているから南無阿弥陀仏と称えることができるのです。ですから、仏名を称えることが如来の大悲に既に遇っていることであり、仏名を称えることで既に如来の救いに遭っているのです。仏名を称えることが如来の救いであると知り、仏名を称えさせんという仏願を聞いて計らうことなく仏名を称えることを仏願に順じるといいます。仏名を称えさせんというのが仏願ですから、仏願に順じるとはその願いの通りに仏名を称えることをいいます。
 では、仏名を称えながらも「私は名号を受け取れていない」と思ってしまうのは一体どういうことかと言えば、仏名を称えさせるのが如来の願いであるということを知らない、理解していない、心からそのように受けとめていない、まったく誤認してしまっているということです。これを不信(疑蓋)といいます。これに対して、仏名を称えることが仏願に従うことであると知り、その仏願を計らうことなく仏名を称えているのを信(疑蓋無雑)といいます。同じように念仏を称えながらも、その称名の意味を正しく領解しているか否かで信と不信とが分かれるのです。信の人は仏名を称えさせんという仏願を文字通りそのまま受け取り、不信の人は仏願に気づかないため皆目仏願が分からない状態にあり、私はまだ救われていないと思い込んでしまっているのです。この疑蓋に生死を繰り返して流転してきた原因があるとして祖師は正信偈に「生死輪転の家に還来するは決するに疑情をもって所止とす」と言われています。信は阿弥陀仏の大悲心から生じるものですが、これを信じようとする心のない者のために阿弥陀仏は南無の信じる心を摂取不捨の阿弥陀仏と一体に称える南無阿弥陀仏として成就してあります。阿弥陀如来は信じる心も往生浄土の徳も円満に用意されているので衆生にとって何の不足もありません。三世諸仏は南無阿弥陀仏の救いを信じるようにと如来の救いが円満であることを衆生に証成しています。この証成の有様を善導大師は「十方恒沙の仏舌を舒(のべ)てわれ凡夫の安楽に生じることを証したまう」「悲心は利物の大悲心なり。慚愧す恒沙の大悲心」と法事讃に言われています。これは阿弥陀仏も諸仏も衆生に信が生じることに向けて一心同体の大悲を抱かれている有様を述べたものです。衆生がこの救いを信ぜず流転してゆくことについて諸仏が嘆く様を善導大師は「もしこの証によりて生じることを得ずは六方諸仏の舒舌(じょぜつ)ひとたび口より出でて以後ついに口に還り入らずして自然に壊爛(えらん)せん。」と言われました。不信な私がいるために諸仏の舌を壊爛させていたのでした。阿弥陀仏もまた涙を流して嘆き給うたことでありましょう。大悲心に触れたとき、大悲心を知らない人の心がはじめて大悲心を感受するのですが、ここに大悲と信の不思議があります。それまでは如来の大悲心に触れることがないために質問者の方のように「そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのでは」との思いを抱くのですが、善導大師は「ただ衆生の疑ふべからざるを疑うを恨む」と言われています。
 如来の大悲心から「称えさせん。救わん。」として成就された南無阿弥陀仏の御名を如来の大悲心であると受け取り称名するのが信であり、仏願に信順することです。仏願に順ずるとはどういうことか詳しく教えて欲しいとのご要望ですが、この外に特別な子細はありません。法然聖人が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の子細そうらわず」「三心四修と申す事の候ふは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候なり」「この他におくふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ、本願にもれそうろうべし」と言われているとおりです。南無阿弥陀仏如来の救いであり如来の大悲であるとの外に何の子細もないのです。この信・不信のことは学問、知識、理解の浅深といったたぐいのことで解決がつくような問題ではないため、とてつもなくやっかいです。祖師が難信であると言われ、大経にも往きやすい浄土に人がいないと説かれています。信を頂くことが簡単でないことは、これから先、否応なく身に滲みて知らされることでしょうが、お近くに信を得られた人や信を得られた布教師の方がいらっしゃるならば、直接面談のお願いをして自らの心の内を吐露し、よくよくお話しを聞いて下さい。聞いたからといって言葉で容易に信まで導くことができるものではないので、しばらく時間がかかるかも知れませんが、称える称名とともに如来の大悲が私に届いていたと気づけば瞬時にして今生での救いは完了します。そのとき「聞其名号信心歓喜」はそのとおりであったと知られます。

6-4(2).質問と回答 4の続き

質問4の続き
 法蔵菩薩から阿弥陀仏になるにあたり、48願成就しなければ仏にならないと誓われていますが、全ての衆生、虫、鳥、草木等の類全てを救い終えて初めて法蔵菩薩から阿弥陀仏になれるという意味ではなく、全ての衆生を救うために、法蔵菩薩が修行をし、準備を整え、さぁ、どんな衆生でも救ってあげるから、どんと救われなさいと、待ち構えている状態ということでしょうか? 全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になれたということでしょうか?

 

回答4の続き
 回答4でも書きましたが、如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全円満に確定してしまっています。ですから、質問者の方が言われるように「全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になった」ということです。その如来の救済の準備は予想外に用意周到なものですから、よくよく注意して聞かなければ気づきません。
 如来の摂取決定心は南無阿弥陀仏として既に私に回向されていますから、私や貴方は南無阿弥陀仏と称念することができます。この称念が如来の摂取決定の現れです。念仏という形をとった如来の摂取決定心に気づくことによって必得往生の信が生じます。私が称える念仏が如来の救済でありその他に救済はないと気づく信です。私の救いは南無阿弥陀仏として既に成就されていると信知する信です。言い換えれば、南無阿弥陀は「必得往生。必ず浄土往生させる。」との如来の摂取決定心であり、この南無阿弥陀が私の救済であると受け入れたことを信と言います。
 この如来の摂取決定心・願心は南無阿弥陀仏として私や貴方に既に届いているのですが、私から離れた所に届いているのではありません。極めて身近な所、これ以上に身近な所はないというほど身近なところに届いています。そのため私や貴方が受けとろうと努力しなければならない行は何もないのです。ただ私がその願心を聞くだけでよいように仕上げられている救いです。これ以上にはないというほど極めて身近なところに救いがすでに届いているのです。それが私の称えている念仏です。如来は「南無阿弥陀仏は成就した。あとは衆生、自ら救われる努力をせよ。」と突き放し、衆生の行を要求する仏ではありません。私が力んで如来の救いをつかみ取ろうとして行じる行がまったく無用なように完全・円満・欠け目のない救いを南無阿弥陀仏として成就しています。私の称える念仏がそのあかしなのです。そのため私が行じるべき行は何一つも無いと知り、私が称える南無阿弥陀仏如来の救済であると受け入れるだけです。この受け入れによって現生不退となります。南無阿弥陀仏如来の救いであると聞くだけですから、これ以上に用意周到な救いは他にはありません。如来の摂取決定心は私に何らの行も要求していないので、あとは如来の摂取決定心ありと聞き、摂取決定心・願心を受け入れるだけ。これを受け入れた信について蓮如上人は「取りやすの安心」と言われています。私や貴方がなすべきことは念仏のうちに如来の摂取決定の願心ありと聞いて受けとめるだけです。聞けば「我が往生ははや成就しにけり」との信が自然に生じます。この信が私に成就されれば現生での救いは完了です。あとは上尽一形の念仏を臨終まで称えつつ「辛かったこの世さらば。」と臨終を迎え、わが行く先にある浄土に如来とともに往生するだけです。
 以上が如来が用意した救済の準備です。救済の準備といっても如来が私の浄土往生をすでに円満に成就しているので、南無阿弥陀仏の成就の他に如来の方で足すべきものは何もないし、衆生の方で何かを足さなければならないものも何一つとして残されていません。南無阿弥陀仏一つで私の救済は完全なものとして完結してしまうのです。私の往生のために私がなすべき行は何一つとしてない、南無阿弥陀仏一つで救済を果たし遂げるところが如来の救いの真骨頂です。これが如来の救いっぷりです。如来が救済のために準備し成就した南無阿弥陀仏の救済がいかに用意周到なものであるかを理解いただければ幸甚です。

6-4.質問と回答 4

質問4
 質問ですが、なぜ法蔵菩薩は、今現在救われていない人がいるにも関わらず、阿弥陀仏になることができたのですか? 48願が成就しなければ仏にならないと誓われており、10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。仏の世界は時間という概念がなく、過去から未来の時間において考えた場合、どこかの段階で、すべての衆生が救われるということで、阿弥陀仏になれたということですか?

回答4
 {48願が成就しなければ仏にならないと誓われており10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。}{その誓いにも拘わらずどうして先に成仏されたのか。}との疑問は誰でもが抱く疑問だと思います。曇鸞大師は浄土論註下巻において火㮇(かてん)の喩えを使って如来の巧方便を説明していますが、それがこの疑問に対する回答になるかと思い紹介します。浄土論には「かくのごとくして菩薩は巧方便回向を成就す。」とあり、この巧方便について曇鸞大師は、
 「巧方便とはいわく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに菩薩すでにみずから成仏す。たとえば火㮇をして一切の草木を摘みて焼きて尽くさしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに火㮇すでに尽くるがごとし。その身を後にしてしかも身先立つをもっての故に巧方便と名づく。」
とし、菩薩はその願事を成就したと述べています。
棒の先に火を点火し草木を焼き尽くそうとして棒先の火を草木に押し当てて草木に火を燃え移らせたが、無尽にある草木はまだ焼き尽くされていないのに棒は草木よりも先に自ら燃え尽きてしまったという喩えです。棒が草木よりも先に燃え尽きたことを菩薩が成仏したと表し、一切衆生の煩悩を焼き尽くさないと成仏しないと誓いながらも一切衆生の煩悩という草木はまだ焼き尽くされていない先に成仏したことを菩薩の巧方便というとするのです。如来は一切衆生を一人残らず救い尽くすという摂取決定の心をもって一切の衆生を救いとる方便としての南無阿弥陀仏を成就し、衆生に回向した事を巧方便回向成就といわれたのです。南無阿弥陀仏という仏にならない限り一切衆生を救えないことから法蔵は「身を後にしてしかも身先立つ」ことにして先に南無阿弥陀仏という仏になられた。これは質問者の方が言われるようにどこかの段階ですべての衆生が救われるということが確定したことで阿弥陀仏になったということです。如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全に円満に欠け目なく確定してしまっているのです。先の火㮇の喩えで言えば、草木に火が燃え移り、棒が燃え尽きた時点ですべての草木が燃え尽くされる事に既に確定してしまったのです。祖師が信巻に引用する「一切衆生はついに定めて大信心をうべきがゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性というなり。仏性は如来なり」という涅槃経の文の意味もここに通じているように感じられます。阿弥陀仏が既に十劫の昔に成仏されたことから善導大師は十八願のとおり衆生が称念すれば「必得往生」であると言われました。善導大師もこの「必得往生」に表された法蔵菩薩の巧方便力、摂取決定心を感受されていたことでしょう。

 ちなみに、以下は私の味わいです。
 南無阿弥陀仏となっても菩薩の誓いは必ず守り通さなければなりません。仏になったからといって過去の自分の誓いを自ら破るような事があっては仏にはなれません。そこで、南無阿弥陀仏でありつつも法蔵は菩薩のままであり続けなければならなかった。その菩薩であり続けている菩薩とは一人一人の心の内にあって無量劫の過去から現在まで私に寄り添いながら修行している内なる法蔵です。私が畜生界に生まれたときは法蔵も私とともに畜生となり、私が地獄の住人となったときには法蔵も私とともに地獄にあり、常に私に寄り添いながら「仏にならん」「仏にさせん」と励み続けてきた。それは、法蔵から見れば私は法蔵であり法蔵は私であり、私と離れることができないからです。その法蔵の無量劫に亘る救済の尽力(内薫)と既に成就された南無阿弥陀仏の本願力(外薫)とが協働することによってようやく今生において私は信に恵まれた。私の内なる信となった法蔵は、それでも私が浄土に生まれるまでは浄土に環帰し再び阿弥陀仏にはなることはないのです。私とともにでなければ法蔵は仏にはならないと誓ったからです。だから信となった法蔵は私とともに浄土往生し、私とともに再び仏となるのです。法蔵菩薩の無限の大慈悲、摂取決定心、巧方便とはこのような救い方であると私は思っています。祖師は上記の信について「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。」と示されました。法蔵菩薩の涯底のない大悲心を知れば、如来の大悲心が信であるからこの心が報土の真因となると釈された意が多少なりとも理解できるように思います。