2-22.声につきて決定往生の思い

声につきて決定往生のおもいをなせ。

 

煩悩のうすくあつきをもかえりみず、罪障のかろきをもきをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて、声につきて決定往生のおもひをなすべし。

             法然聖人 つねに仰せられる御詞(二十七条御法語)

 

 声につきて決定往生の思いをなす、とはどういう事でしょうか。

 

 法然聖人は、善導の「行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順被仏願故」を拝読して回心された方です。南無阿弥陀仏と唱えることは、彼の仏願に順じていることになります。仏願に順じているとは、念仏申して浄土に生まれることがなければ正覚を取らないと誓った本願に順じているということです。順じているとはその仏願のとおり念仏しているということです。念仏申す私の声が私の耳に聞こえたら、本願のとおりになるということが確認できます。本願のとおりになるとは、私の往生は如来の誓いのとおりに決定したということです。私の往生は如来の誓いのとおりに決定したのだから、念仏の声に、自身の往生決定の思いが生じるのです。

 

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を本願召喚の勅命と言われました。唱える声となった南無阿弥陀仏は、如来が私に向かって浄土に往生せよと呼びかける勅命だから、その命に従う思いが生じます。如来の命に従えば、往生決定の思いが生じることになります。

 

 蓮如上人は、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり、と言われました。南無阿弥陀仏のすがたとは、摂取するとの如来の願いを私が受け入れたことであり、南無阿弥陀仏は私が浄土に往生してゆくすがたそのものだったと知られます。そのため、南無阿弥陀仏と唱える我が声を聞くと、私は往生してゆけることを自ら確認するのです。ですから、念仏の声に、決定往生の思いが生じるのです。

 

 法然聖人の法語の中には、「源空の目には、三心も、五念も、四修も皆ともに南無阿弥陀仏とみゆる也」との法語があります。南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いて念仏するほかに別の子細なきなり、です。決定往生の思いの源泉は、法然聖人にとっても南無阿弥陀仏なのです。

 

1-23.正定業と助業との違い

 善導大師は、正行を「阿弥陀仏への礼拝、浄土三部経の読誦、阿弥陀如来の浄土の観察、称名念仏、讃嘆供養」をいうと指定され、そのうちの称名念仏を正定業、その他は助業とされました。

 称名念仏を正定業とするのは、称名念仏が十八願に誓われているからですが、この称名念仏と他の助業とはどこがどう違うのでしょうか。

 十八願で誓われている称名念仏は、至心信楽欲生我国、乃至十念と誓われた念仏であることから、信の上の他力念仏です。この信は、阿弥陀如来の大悲心を心で受けとめたことをいいます。そのため、称名念仏は、如来の大悲心を感受しつつ唱えるものになります。他の助業もまた如来の大悲心を感受しつつ、礼拝、読誦、観察、讃嘆供養するものです。

 大悲心を感受する他力信が内心に起こりますと、心相として南無阿弥陀仏となり、如来の大悲心を憶念する心が起こります。この憶念の心があることから心の中の南無阿弥陀仏を拝み、大悲心成就を味読し、信が生じた不思議を内心で讃嘆する思いになります。信が憶念となり、体に現れ出ると礼拝、読誦、観察、称名、讃嘆供養の行となります。いずれも大悲心を感受し、自己の行いの功徳を求めない、自力の計らいの廃った行です。この点は称名念仏と助業とは共通します。

 称名と他の助業とが決定的に違うのは、称名は南無阿弥陀仏の信が南無阿弥陀仏と口称に現れる点です。他の助業においては、口称のように行中に南無阿弥陀仏が現れることはありません。

 繰り返しになりますが、他力の信とは「阿弥陀仏を南無」と信受していることをいい、ここに私が南無阿弥陀仏となった心相があります。この心相としての南無阿弥陀仏は、如来が私の心中に顕現したものです。如来が顕現したものですから、この如来が浄土に環帰してゆきます。私はこの如来によって浄土へと連れられてゆくのです。ですから、この南無阿弥陀仏が私が浄土往生する往生の行となるのです。私に内心の心相としての南無阿弥陀仏があることによって、私は如来を憶念し、これが称名念仏となります。この称名念仏は凡夫の行としての側面はあるものの、心中の南無阿弥陀仏が憶念の心となり、声となって顕現したものですから、善導は称名念仏を正定業とされました。称名念仏が正定業となるのは、南無阿弥陀仏の心相が往生浄土の行だからなのです。祖師は、これを仏の救済行であるという意味で大行と言われました。

 礼拝、読誦、観察、讃嘆供養の行には、このような如来の顕現ということはありませんので、これらの行を正定業と位置づけることはできません。

 ところが、選択本願念仏集において、称名を五助業の1つとしている箇所があります。

初めに同類の助成は、善導和尚の観経疏の中に、五種の助行を挙げて念仏一行を助成す、これなり。・・・・
上輩について正助を論ずれば、「一向に専ら無量寿仏を念ず」とは、これ正行なり。またこれを所助なり。「家を捨て欲を棄て、しかも沙門となって菩提心を発する」等はこれ助行なり。またこれ能助なり。いはく往生の業には念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんがために・・。

善導は、称名を除いて前三、後一を助業とすると述べているので、「五種の助行を挙げて念仏一行を助成す」というのは元祖の見解です。「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを所助とするので、五種の助行は「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを助成するものであるとの見解であることが分かります。称名もこの「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを助成するということです。

 別のところで元祖は

本願の念仏には、ひとりだちをせさせて、すけをささぬなり。すけといふは智恵をもすけにし、持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、慈悲をもすけにさす也。善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人を念仏にすけささぬとはいう也。
つねに仰せられる御詞

と言われています。ここで助(すけ)させるというのは、念仏以外の行などを往生の資助とする自力の計らいのことを言います。これは信前の思いです。自力の行人は、念仏だけでは往生の行として足りないと思うことから、往生の資助として智恵や持戒をアテにして念仏をすけさせることになるのです。念仏はそれだけで往生の正定業だから、他の助(すけ)は必要ありません。選択本願念仏集にいう五助業の助業とは、自力の計らいとしての往生の資助のことではありません。では、「念仏は五種の助行に助成される」とは、どういう意味でしょうか。

 元祖の晩年の御法語であるとされている元祖の十七条御法語の第十条には、

往生の業成は、念をもって本とす。名号を称するは、念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す。心念の業、生を引くがゆえなり。

とあります。これと関係があるように思います。

ここでは、称名は念を成ぜんがためとありますが、念とは如来如来の大悲心を憶念することです。称名をはじめ、礼拝、読誦、観察、讃嘆供養は、いずれも大悲心を憶念する心へとつながってゆきます。ですから、称名も他の助業と同様に仏を憶念する心を助成すると言われたものではないかと思われるのです。

 以上の同類の助業に対して、異類の助業というものもあります。

 これは信後の止悪諸善のことです。悪行をすれば自ら苦しむことになります。そのような苦悩する状態で念仏を唱えることはできません。やはり幸せを感じる順境の中で念仏を唱えるのが一番です。止悪修善の生活それ自体が念仏を唱えやすい環境となります。その意味で、止悪諸善は信後の念仏を唱えやすくするので、念仏を助成する助業としての意味があります。上輩・中輩に「一向に専ら無量寿仏を念ずる」以外の諸行が説かれていますが、これが助業になるというのです。信を得た後は、諸善は雑行ではなく、助業になるとの元祖の御法語が残されています。

問ふていわく、余仏・余経につきて結縁し助成せむ事は、雑となるべきか答ふ。我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起こらむ上は、他善に結縁せん事、全く雑行たるべからず。往生の助業とはなるべきなり。 
醍醐本 禅勝房への答え

 この他にも、次のような助業もあります。

現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。・・・・・・。
衣食住の3つは、念仏の助業也。これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事も念仏の助業也。
                           禅勝房伝説の詞

この助業も念仏を唱えやすくするという意味です。この元祖の詞によれば、念仏を唱えることを生活の中心に考えよ。念仏を唱えられるように止悪修善を行い、生活をととのえて生きてゆけ。収入を得るのも念仏を唱えんがため、家庭を持つのも念仏を唱えんがため、ということになります。

 元祖のお考えでは、大悲心を憶念し称名する以上に価値のあるものはない。念仏者の生活は、その生活の全てが大悲心を憶念し称名することに費やされてゆく。大悲心を憶念し称名するという唯一最高位の価値を頂点として生活の1つ1つが整序されてゆくのだ、というのでありましょう。

1-22.念々不捨者

元祖は、
一念十念に往生すといへばとて、念仏を粗相に申せば、信が行をさまたぐる也。念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもへば行が信をさまたぐ也。故に信をば一念に生まるととりて、行をば一形にはげむべし。
                          禅勝房に示す御詞
と言われています。

ここに「念々不捨者」とは、いうまでもなく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の「念々不捨者」です。

この「念々不捨者」とはどういう意味なのか、考えてみました。

 一心専念とは「弥陀の本願・大悲を疑いなく聞き受けた上で大悲を念じること」です。一心は信楽の信であり、専念の念は大悲を憶念する念のことです。

 ところで、元祖は、上記の詞において「念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもへば行が信をさまたぐ也」と言われていることから、「念々不捨者」とは行者の行の修し方のことであり、念仏の修し方(行相)として「一形の念仏」と理解していたことが窺われます。一形の念仏とは、一生涯に亘っての不断の念仏のことです。そうしますと、念々捨てざる者とは、衆生称名念仏を捨てないということを意味することになります。「者」とは衆生のことで、「不捨」は衆生が「称名念仏行を捨てない」という意味になります。

 しかし、衆生は口称の念仏を怠ることはないのでしょうか。怠りっぱなしの時間の方が多いのではないかと思います。それでも「念々不捨者」と言えるのでしょうか。

 一心専念を私のものとなった南無阿弥陀仏のことだと理解すればスッキリするように思います。

 南無は私の信のこと
 信は阿弥陀仏を疑いなく聞き受けて仰信していること
 阿弥陀仏とは摂取不捨の大悲のこと
 南無阿弥陀仏は私が摂取不捨の大悲を聞き受けて仰信している私の心相のこと

です。この摂取不捨の大悲が私の心中に感受されることから、この大悲を憶念する心が自然とわき出てきます。この憶念が自然と口称となります。憶念や口称となる前の心中の大悲を感受している南無阿弥陀仏の心相が往生の行であり、正定之業です。そのため私の行う口称に往生の功はまったくありません。口称に何の功も認めることがないので、私が口称の念仏を怠っていても、私が口称の念仏を励んでも往生には何の支障もありませんし、関係もしません。

私と一体となった南無阿弥陀仏を私が捨てようと思ったり離れようと思っても、如来の大悲は常に私を照護し不捨しています。これが私と一体になった南無阿弥陀仏です。私と一体となった南無阿弥陀仏ですから、たとえ私が念仏の行を怠ることがあったとしても、阿弥陀仏を南無していることは絶えることなく、一生にわたって念々不捨の状態なのです。衆生の「念々不捨者」というのは、行者の行相のことではなく、私の心相としての「南無阿弥陀仏」のことだと理解すれば、衆生が念仏の行を怠るとか、励むとかという問題ではないことが分かるでしょう。

5-2.地獄に堕ちきった所で呼び声を聞く?

地獄に堕ちきった所で呼び声を聞く?

 “ 自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の  釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。”
と説き、だから、“ 精一杯善をせよ。” と勧める人がいる。

これって、本当?それとも間違い?

 間違いです。しかも極めて悪質な嘘です。

A君 どうして、間違いといえるのかな?

B君 これは地獄秘事をベースにした異義だね。

A君 地獄秘事ってなんだい。

B君 「真宗異義異安心の研究」という本が永田文唱堂から出版されていて、その420
頁に記載されているよ。
「地獄一定と落ち切った上で、法を信じて浄土へ往生を遂ぐ。吾が身は悪しき徒らものなりと思いつめてとあるによりて、なにかはすてをき、機を強く信ぜねばと云ふたは、邪義と云ふではなけれども、甚だ心得違いと云ふものぢゃ(真宗系大系本28頁)」
ってね。

A君 地獄秘事の特徴は、信機を地獄に堕ちきるだと理解し、この信機を先とし、信法を後とする異義のことだけど、冒頭の見解は同時であることを注意しているが、それでも間違いなのかい?

B君 言葉では「同時に助かる」と言っているが、同じ系列の異義だと思うよ。
   だってさ、悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると(同時に)如来の呼び声を聞いて助かるというのだから、悪人と知らされて地獄に堕ちるのが先で、如来の声を聞くのが後であることは明らかだよ。 
A君 (納得できない様子で)う~ん。マーそうなんだけど、 どうして異義だというのか、もっと説得的な理由が聞きたいなぁ。

B君 まず、他力信心とはどういうものであるかを正しく理解しないとその誤りは理解できないよ。

A君 では、君は他力信とはどういうものだと理解しているのかな?

B君 他力信心というのは、浄土に生まれさせるという如来の願心である摂取決定心を無疑の心で受けとめることだよね。

A君 無疑の心で受けとめることを信楽というんだね。それで無疑の心で願心を受けとめると、どういう思いになるのかな?

B君 無疑で受けとめるから、私の浄土往生は決定し、浄土に生まれられるという思いになる。これが信法。

A君 信機は?

B君 無疑で受けとめるから、如来の願心によって浄土に往生できる。だから、自力は無功という思いにもなる。これが信機だね。

B君 信法も信機も、ともに如来の摂取決定心を無疑の心で受けとめるところから生じる思いだね。無疑の心で受けとめることから同時に生起するんだ。「無疑で受けとめるから2つの思いが同時に生じる」というところが大切な所だね。
 冒頭の異義は、この大切な所をすっぽりと抜かしてしまっているよ。それに信機とは地獄に堕ちきることではないんだ。

A君 なるほど、君の言う他力信とはどういうものか分かったよ。だから、信機を先とし信法を後とする地獄秘事も冒頭の異義も、君の言うところの「最も大切な所」が抜けているので、間違いだというんだね。

B君 そうで~す。

A君 さて、他力信とはどういうものか分かったところで、冒頭の異義はどこが間違っているのかな。1つ1つ順番にいこうか。冒頭の異義は、この地獄秘事に「自力一杯求めて、自分は善ができぬ悪人と知らされたとき」ということを付け加えている。この点が地獄秘事とは違っているね。

B君 1つめは、地獄に堕ち切って如来の呼び声を聞くというところが間違いだ。

A君 地獄の堕ち切って聞く、というところが間違いなのかい、それとも、如来の呼び声を聞くという所が間違いなのかい?

B君 両方とも間違いだね。

A君 へー。面白いね。「如来の呼び声を聞く」という所も間違いなのかい。

B君 うん、間違いだね。如来の呼び声を聞くことはないよ。

A君 少し説明してよ。

B君 声を聞くというのは、通常、聴覚器官に音波が届き、そこから電気信号に変換されて脳に伝達され、脳内において音声として認識され、その音声のもつ言語的な意味を理解するということだよね。

A君 そうだね。

B君 そのような意味で如来の声を聞くことはない。
 如来の呼び声を聞く、というのは、人から如来の願心のあることを聞いて、その願心を無疑の心で受けとめている状態を指しているのであって、文字通りに如来の声を聞くのではないよ。

A君 そのとおりだね。昔から、阿弥陀様の呼び声を聞く、ということが言われていたようだけど、如来の呼び声を聞くというのは実に間違いやすい表現だ。

A君 次に、「地獄に堕ち切ったところ」で聞くというのが間違いだというんだね。

B君 そう。地獄に堕ちることはない。地獄に堕ち切らなくても他力の信は生じる
よ。
 それに「地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされる」のが信機ではない。信機とは、「浄土に往生できるのは如来の願心である摂取決定心によるのであり、自力の思いでは往生は不定、自力は無功」という思いになることだよ。

A君 でも、悪人であるとの自覚のない善人も、他力信を得るときには、如来の働きによって、本当の自分の姿は極悪人で地獄の釜の底に落とされるような自分だと知らされるということがあるんじゃないのか。

Cさん 「地獄の釜の底に落とされる」というのは、どうも私の実感とは違うのよね。

B君 真宗でいう信機というのは、さっきも言ったけど、自力では如来のお救いには預かれないという自力無功の思いのことをいうんだ。極悪人と知らされて地獄に落とされるという我が身の本当の姿(実機)を知らされた、ということではないんだ。 

A君 そこなんだね、問題は。
 地獄秘事や冒頭の異義は、善導の二種深信を誤って理解したことから生じた異義であると思われるのだが、善導の二種深信のうちの信機を「自分の本当の姿(実機)が知らされることだ。」と誤解しているから、「自分は善ができぬ悪人と知らされ地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされる。」などと間違ったことを言うハメになるんだね。そして、さらには自分は善ができぬ悪人と知らされるために、自力一杯善を求めよと要求するようになるんだ。

B君 善導が「出離の縁あることなし」と言われたのは、「自力で出離できるようなことは過去には一度もなかった。これから先の将来においても自力で出離するなどということがあることはない。」ということであって、自分の善などでは往生は不可と知らされたことを言っているんだ。これを自力無功というんだ。

A君 では、どうして自力無功という思いになるのかな?

B君 さっきも言ったけど、如来の大悲心を聞いて受け入れるとき、これまで自分の自力の思いは何の役にも立たなかったと知られるのだが、それは、大悲心によって往生が決定していたと知られるからだよ。自力一杯善を求めた結果ではないんだ。

Cさん そう。大悲心を受け入れるだけでいいのよ。だから、罪悪感が深まることもなく、また善人にもなれないまま往生できると私は分かったの。

A君 各自の実感の上でも、機の深信の理解の上でも、冒頭の異義は間違っているということだね。それに、「自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。」なんてことを言っている人は、元祖、祖師、蓮如上人らの中には一人としていないよね。

A君 冒頭の異義では、「自力一杯求めて、自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄に堕ちきって如来の声を聞く」と言っているが、自力一杯求めて、自分は善ができぬ悪人と知らされる、という所も間違いなのかい。

B君 そこも大きな間違いだね。
 この異義は、自力一杯求めれば誰でもが自分は善ができぬ悪人と知らされるということを前提としており、善ができぬ悪人と知らされるために自力一杯求めよと勧めるのだが、そこが間違っている。

A君 どうしてそこが間違いなの。

B君 それでは自力が間に合う、ということになってしまう。

A君 もう少し詳しく説明してよ。

B君 自力一杯求めてゆけば自分は善ができぬ悪人と知らされて地獄に堕ちる、そのとき助かるというんだから、悪人と知らされることに自力が役立つことになる。だけど、自力は役立たない。

A君 そうだね。往生は如来の願力ひとつで決定するのだから、自力が役に立つことはない。そのことが自力は無功という思いになるんだ。

B君 冒頭の異義は、悪人の自覚を要求する点で間違いだ。
 自分は善人であるという自覚のある人でもその自覚のあるままで助かるからね。冒頭の異義は、善ができぬ悪人と知らされれば助かる、知らされなければ助からないということだけど、自分は善人であるという自覚のある人でもその自覚のあるままで助かる。だから、悪人と知らされて助かるというのは間違いだね。

A君 君の言う善人というのは、実は悪人なんだけど悪人と認識していないだけの人なのかも知れないが、元祖は、「善人は善人ながら往生する」と言われているし、「罪は十悪五逆のもの、なをうまると信じて、小罪をもをかさじと思うべし。いかにいはんや善人をや」(つねに仰せらける御詞)と言われているね。

A君 B君は、悪人と知らされるまで善を求めたことがあるのかい?

B君 お恥ずかしながら、やりませんでした。
 でも一生懸命に善を行えば、善ができない自分が知らされるというのは本当のことだと思うけど、それで地獄の釜の底に叩き落とされる、という悲痛な思いになるとは、チョット考えられないなぁ。

C子さん 私は悪人という自覚があったわ。だけど、その自覚があったために阿弥陀仏に救われることはないと思っていたの。
 でも、元祖は、自己の罪を卑下して往生は不定だと思うものは、本願他力を知らない者だと言われているわ。自分の悪性を卑下していたことが間違いだと知ったわ。

A君 それで、自分は地獄の釜の底に叩き落とされたのかい?

Cさん そうじゃないけど。

A君 じゃあ、悪人と知らされたときに救われたのかい?

Cさん 私はずっと自分は悪人だと思っていたから、救いから漏れていると思い続けていたの。突然、悪人だと知らされたわけではないわ。

A君 B君とCさんの話を聞いていると、悪人であるという思いや善人であるという思いとは関係なく、救われるということかな。

B君 関係ないよ。問題は別の所にあるんだ。

A君 どういうことかな。

B君 自力の計らいって奴が大問題だね。善悪は問題ではない。

A君 ふむ。

B君 善人であれば、自分の善を頼りにして救いを求めるということが問題になるんだし、悪人の場合は、悪人だから救いからもれているという思いを持っていることが問題となるんだ。

A君 詳しく説明してよ。

B君 如来の大悲は、上は龍樹・天親から下はダイバまで一切の者を救うという慈悲だから、大悲から漏れている人はいない。いないけど、Cさんのように「自分は悪人だと思っていたから、救いから漏れている」という思いを抱えている人はその大悲が信じられないから、往生は決定という思いになれないんだね。だから、Cさんのような思いは大悲を疑う疑心なんだ。
 逆に、自分は善人だと思っている人には、自分の善をアテにして助かろうという思いがある。この思いがあるために往生は決定という思いになれないんだ。だから、このような思いも大悲を疑う疑心なんだ。その疑心こそが大問題なんだ。

A君 それで?

B君 元祖は、念仏往生要義抄にもこう言っているよ。
問うていはく、他力の様いかん。
答えていはく、ただひとすじにわが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんと思ひて申すを他力の念仏といふ。            
善悪をかえりみないということは、それに囚われないということだね。

A君 それは分かったけど、それと冒頭の異義の誤りとどう結びつくんだい。

B君 もう少し待ってね。如来の大悲は、善人を善人のまま救うという大悲だから、元祖は、
「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとはいふなり。」
と言われているよ。

A君 念仏にすけささぬ、とはどういうことかな。

B君 念仏を独り立ちさせることをいうのだけれど、念仏ひとつで往生できるということに不信がある者は、念仏に自分の才覚や修善などを加えないと助からないという思いを持つことになる。そのような人は自力疑心のために往生不定の思いになる。
 これに対して、念仏は如来が私の往生のために与えて下さったものだという信のある人は、往生は決定したという思いがあるために自分の才覚や修善などを念仏に加えることはない。これを念仏にすけささぬ、というんだ。

A君 そうすると、元祖は、「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人」を他力の念仏を称えている人であるといっているのだね。

B君 そう。だから、自力疑心のなくなった善人は、善人のまま決定往生の思いで念仏申せばいいんだよ。

A君 君の言いたいことはわかったよ。善人のまま救われるというのだから、「自分の姿は極悪人で地獄の釜の底に落とされる」ということはないし、「信を得るために自力で善を一生懸命に求めることも必要ない」と言いたいんだね。

B君 そう。だから、善ができぬ悪人と知らされれば助かるということが救いの条件になることなど一切ないんだ。ただ大悲心を聞くだけなのだよ。 

A君 君も、なかなかハッキリというようになったね。

B君 君の影響だよ。

ここからはAの独り言

① まことの善ができないということは、真宗を聞く前から既に気づいていたことではないでしょうか。無条件のそのまま救うという如来の大悲を聞きながら、どうして、そこからさらに地獄に堕ちるという思いが生じるまで善をしなければならないのでしょうか。如来の救いとはまったく関係のない廃悪修善の教えに振り回されているだけではないでしょうか。
 如来の願力によって既に浄土往生が決まっているということを聞くのが真宗であり、廃悪修善をすることを要求するものではありません。

② 善を追究したその極限において自分は悪人と知らされて地獄に堕ちるという思いに至ったとしても、その思いは他力の信ではありません。悪人と知らされて地獄に堕ちるという思いになったことを機の深信というのであれば、この機の深信は他力の信ではなく、自力の信です。

③ 冒頭の異義は、「自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき以外には如来に救われることはない」ということを含意しているが、これは「善ができぬ悪人と知らされたこと」を条件として助かるということを主張しているのと同じです。
 しかし、如来の救いには、そのような前提条件はありません。悪人と知らされた者だけを救うという本願ではありません。

④ 如来の呼び声を聞くというのは、如来の大悲心を聞くということです。大悲心を聞くことに何の条件もありません。大悲心を聞くということは、大悲心を心に聞き受けて無疑の心となり、この大悲心に乗託する思いとなり、また、自力の計らいが廃ることです。大悲心に乗託する思いが法の深信であり、自力の計らいは何も役立つものではなかったという自力無効の思いが機の深信です。他力の信においては法の深信も機の深信もともに大悲心を無疑の信で聞き受けていることから生じる思いです。ですから、他力の信における法の深信には機の深信が、機の深信には法の深信が必ず伴っていますから、一具の信といいます。どちらかがどちらかの前提条件となるものではありません。

⑤ 地獄の釜の底にたたき落とされることが呼び声を聞くための条件だというように、如来の呼び声を聞くための条件を1つでも設定してしまいますと、如来の呼び声を聞くために必要な条件が無限に必要になってきます。地獄にたたき落とされるには、自分は悪人と知らされなければならない。悪人と知らされるためには死にものぐるいで諸善に励まなければならない。善をするには睡眠時間を削っても励まなければならない。また、健康でなければ善は励めないから、健康にも注意をしなければならない。いつになったら、他力の世界に入ることができるのか分かりませんから、臨終に間に合わないということにもなりかねません。

⑥ 善を追究すれば悪人と知らされて地獄に堕ちる思いに至ることができる、その先に如来の呼び声を聞くのだ、ということであれば、自力を尽くした結果として他力の世界に入ることができるということを承認することになります。しかし、自力で他力信の世界に入ることはできません。これを祖師は、「しかるに薄地の凡夫、底下の群生、浄信獲難く、極果証しがたし。何をもってのゆえに。往相の回向によらざるがゆえに、疑網に纏縛せられるがゆえに。いまし如来の加威力によるがゆえに、博く大悲広慧の力によるがゆえに、清浄真実の信心を獲」と言われています。如来の大悲広慧の力によるがゆえに、自力疑心が廃るのです。如来の大悲によってのみ自力が廃るのです。

⑦ 冒頭の異義の大きな誤りは、如来の救いを聞く条件として、「善ができないと知らされる所まで自力一杯善を求め、地獄の釜の底に堕ちるという思いになること」という条件を設定したことにあります。この間違いから、「如来の大悲広慧の力によるがゆえに自力疑心が廃り清浄真実の信心を獲る」という教えに反するものとなり、また、平成業成という教えでありながら、臨終までに救われないかも知れない、臨終にも救われないかも知れないという大きな不安を抱かせたまま会員に宿善を求めるさせる間違いを犯しているのです。

5-1.信が生じる論理 

如来の声を聞けば、名号を与えられて信が生じる。”

この表現 あり? なし?


A君 “如来の声を聞けば、名号を与えられて信が生じる。”という言い方は、ど
うだろうか、何か問題はあるかな?

B君 何か、違和感を感じるなぁ。

A君 どんなところに違和感を感じるんだい?

B君 如来の声を聞くということと、名号を与えられるということと、信が生じる
ということが、別々にあるように思えるというところかな。

Cさん 私もそう思うわ。如来の声を聞くということがあって、それからそれを原
因として名号が与えられて、次にそれを原因として信が生じるという理解がされる言い方だわ。

A君 それは間違っているのかい?

B君 間違っているでしょう。如来の声を聞いているままが信であり、その信は私
が摂取不捨の如来に南无しているということだから、如来の声を聞いていることと信とは別々のことじゃないし、私が摂取不捨の如来に南无しているのが信だから、名号を与えられたことと信が生じることとは別のことではないよ。

Cさん もう少し、説明をしてくれる?

B君 如来の声を聞くというのは、私の浄土往生は如来によって決定しているとい
うことを聞くということだね。如来は私を浄土往生させるという摂取決定心を持っているということを聞くということだね。本当に如来の声を聞くという事じゃない。

A君 本当に如来の声を聞くという事じゃないとすれば、誰の声を聞くんだね。

B君 それは、如来の願心を伝える説教師の声を聞き、その声によって如来の願心
を聞くということだよ。

A君 つまり、いってみれば、また聞き、ということだね。

B君 また聞きでも、如来の願心に虚偽はなく、真実まことの心で私を浄土往生さ
せると誓われていると聞くことで、自力の計らいが取り除かれるのだね。

A君 どこがポイントになるんだい。

B君 大切なポイントは、如来の大悲心が真実まこと、真実まことの大悲心という
ところだね。ここが要の中の要なんだ。

A君 どうしてそこがポイントなのかな?

B君 大経には法蔵菩薩が真実まことの心で衆生を救済しようと大悲心をもって願
われ、世自在王仏によって諸仏の浄土を都見され、四十八願を建立されたことが説かれているけど、その願いとその願いを成就するための衆生救済の行が真実まことの心ででなされ、諸仏に称賛される御名を成就された。衆生がその御名を聞いて喜ぶのは、仏様の真の心で浄土が建立されて衆生の浄土往生が決定されたと知るからなんだね。だから、阿弥陀如来が真の心で私を救う、と聞くことが阿弥陀如来の願心にかない、諸仏の心にもかない、釈迦如来の心にもかなうことなんだよ。

A君 如来の真の願心を聞けば、信心歓喜するということは分かったけど、御名を
与えられるというのはどういうことかな。

B君 御名を与えられるというのは、2つの意味があると思う。1つは、摂取不捨
阿弥陀仏を私が南无するということで、信そのものを意味しているということ。2つは私が称えるために南无阿弥陀仏が与えられているということだね。

Cさん 最初の摂取不捨の阿弥陀仏を私が南无する、というのは、如来が真実まこ
との心で私を浄土往生させると誓われていると聞く、ということと同じなのね。

B君 如来の真実まことの願心を聞き、その願心を仰いでいることを摂取不捨の阿
弥陀仏を私が南无しているということだね。これを信ともいうんだね。

A君 信の上にはただ南无阿弥陀仏と称える。称えている姿以外に信心の姿はない。
そのような姿になることを名号を与えられている、ともいうのだね。

B君 そうだね。

A君 そうすると、如来の声を聞けば、名号を与えられて信が生じる、というのは、
如来の声を聞くというも、名号を与えられたというも、信が生じるというも、結局、同じことを言い表した表現ということだね。

Cさん それを別々にいうのは、誤解させる言い方になってしまうわね。

B君 それに、如来の声を聞くという言い方をするけど、如来の真の願いを聞く、
とか、如来が浄土に迎えると呼びかけられているその願いを聞くということをキチンと説明をしなければ、よく分からない表現になってしまうよね。

A君 如来の真の願いを聞く、というのは、どうなることなんだい?


B君 例えば、お母さんの言いつけを聞くという例で言えば、言いつけのとおりに
する、ということだよね。言いつけられてその通りにしないのであれば、言いつけを聞くとは言わないよね。それとおなじさ。如来の真の願いを聞く、というのは、その願いのとおりになると言うことさ。

A君 その願いのとおりになる、というのは、どういうことなんだい?

B君 その願いをかなえるということさ。その願いが浄土にこいというのであれば、
浄土に往きますとなることさ。その願いが仏にするということであれば、仏にして頂きますということさ。至心に信楽して我が国に生まれると思え、ということであれば、至心に信楽して我が国に生まれると思う、ということさ。

A君 そのとおりだね。では、どうしたら如来の願いのとおりになるのかな?

B君 如来が至心をもって浄土に生まれさせると疑いもなく信じて願われているこ
とをそのとおりと聞くことだね。それ以外にはない。

A君 そのとおりだね。

4-11.自分の解決課題ではない(課題の分離)

 冒頭の「課題の分離」とは、相手の課題に対して、それは私の解決すべき課題ではないと切りはなすことです。

あなたが悩んでいる問題は本当にあなたの問題だろうか。その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。
                      アルフレッド・アドラー

 アドラー流に言えば、後生の解決は自分が解決するべき課題ではない、それは阿弥陀如来が解決すべき課題なのです、と言えば驚かれるでしょうか。後生は自分の問題ではないのか、と。

「その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。」とアドラーから示唆され、私は考えました。

 「後生を放置したら困るのは如来だ。」と。

 ま~、死ぬという問題は自分の問題なのですけれど、後生は如来の問題であるのです。

 如来は後生において私を浄土に生まれさせることができなければ如来になれないのです。如来はそんな誓いを建ててしまったのです。だから、私の後生という問題は、如来の問題となってしまったのです。如来の問題になってしまった瞬間に後生は私の解決すべき問題はなくなってしまったのです。ここに信が置かれ、往生は治定との思いに住している信を他力金剛の真心といいます。

4-10.どうしたらいただけるの

 どうしたら慈悲を頂けるのかと悩んでいたことは、大きな思い違いが原因でした。

 私の方が何かをどうにかしなければならないと思っていました。しかし、それが思い違いでした。何かをどうにかするということではありませんでした。慈悲が届いていることを聞けば良かったのでした。浄土往生は決定していると聞けば良かったのでした。私はこのまま死んでゆけば良かったのでした。

 思い違いをしていたことが分かったので、どうしたら慈悲を頂けるのかと悩むことはなくなりました。

 如来の慈悲においては「お差し支えなし」「ご注文無し」だから、悩むことはなかったのでした。如来の慈悲が私にそのことを気づかせてくれたのでした。

 どうしたらいただけるの?という疑問に対する回答が与えられてその疑問が氷解するのではなく、そのような疑問を持つこと自体が間違っていたと分かりました。質問自体が意味をなさず、間違っていることに気づかなかったのです。