4-9.いただけた
慈悲には形がありません。そもそも慈悲というものがどういうものか、分かりません。分からないものをいただくことはできません。ここが乗り越えられない壁でした。八方塞がりでした。法話を聞いても、「分からない、分からない、全く分からない。」といつもこぼしていました。
如来の慈悲が私に届いていると分かったとき、もらい方を問題としなくて良いことが分かりました。慈悲が既に届いていたので、届いていると分かっただけで良かったのでした。救うという慈悲であることが分かれば良かったのでした。如来が救うとされている私の「救われるべき状況」がどのような状況なのかを理解していなくても良かったのでした。「救われるべき状況」が解消されて安心したということもありませんでした。ただ、慈悲があることが分かれば良かったのでした。慈悲が届いていると分かったことが慈悲をいただくということでした。
せっかく慈悲をかけられていても、その慈悲を分かってあげられなければ、慈悲はなんにもなりません。慈悲をいただくとは、慈悲に気づいて分かって上げられることだと気づきました。
4-8.いただく
「私をもろテー、おッ気軽に。どなたでも。」の「もろテー」は、嫁に「もろテー」ということで、夫となる人からみれば、お嫁にきていただくということです。
真宗でも「いただく」ということがあります。その場合は、お慈悲をいただくといいます。いただくのは如来のお慈悲ですが、お慈悲は物やお嫁さんと違い、形がありません。形がある物であれば、手にとって受け取ることができます。慈悲には形がありません。いただくといっても手にとって受け取ることはできません。そもそも慈悲というものがどういうものか、分かりません。分からないものをいただくことはできません。法話を聞いても分からない、分からない、全く分からないとこぼしていました。如来の慈悲が分からなかったのです。ここで完全に行き詰まりました。乗り越えられない壁でした。八方塞がりでした。
4-4.如来の気
如来は私を助ける気。私は助けて貰いたい気。
これであれば互いに気が合いそうですが、実際には合いません。
どうしてでしょうか。
如来は私を無条件で救う気。
このままで救われるというが、私は、このままで救われた気にはなれないと思っているからです。
では、気を合わせるにはどうすればよいでしょうか。
如来は救いのあり方を変えることはありません。その意味では如来はとてつもな
く頑固者です。そうしますと、私の方の思いが変わるしかありません。どう変わるとよいのでしょうか。
お園さんが言われたように、如来の慈悲にご注文無し、お差し支え無しと聞くしかないのです。頑固者の言うことは、だまって聞くしかないのです。
私が如来に対して救いを求め、自力を添えるというベクトルがなくなれば、如来が無条件で救うというベクトル(慈悲)だけが残ります。この状態を一向専念阿弥陀仏といいます。
4-3.方向違い
分かったことは、方向が違っていたということです。
自分の努力次第で信を得られると思っていましたが、そうではありませんでした。自分に何かが足りないから救われないのだと思って努力していましたが、そうではありませんでした。既に如来は救うと言われていたのでした。私はその如来の慈悲に気づくだけで良かったのでした。信を得る上でよかれと思ってしていた行は如来の救いとは逆の方向でした。私が救いを求めて進もうとしていたベクトルの方向と如来の救いのベクトルとは真逆でした。私は如来からの救いを受け入れるだけで良かったのでした。如来の救いのベクトル(慈悲)は、「私の行はなにもいらぬ。そのまま救う。」ということでした。