4-2.お差し支えなし、ご注文なし

 妙好人にはすぐれた言動が数多く残されていますが、お園さんという有名な妙好人には、次のような伝記が残されているようです。-以下、引用-出典(「妙好人と生きる」著者亀井鑛氏)

 伊勢の一婦人、自身の胸の始末にかかって、ちょっとも仰せを受け付けずに苦しんでおられた。此のご婦人に向こうて、お園さんが「私がきっと安心できる秘伝を授けるで、二、三年やる気はないか」と言うと、婦人は非常に喜んで「安心さえできることなら、如何なることでも致します」。するとお園さんは「お差し支えなし、ご注文なし」ということを二,三年言いづめにせよと言えば、婦人は喜んで帰り、二,三たつとまたやってきて言うには、「仰せに従って三日間朝から晩まで言いづめに致しましたが、何ともござりませぬ。胸の中は相変わらずおかしなものでございます。が、こんな心でも、ようございりますか」。お園さん曰く、「お差し支えなし、ご注文なし」。「それでも何ともござりませぬ、へんてつもない心中でござります」と言うと、お園さんまた「お差し支えなし、ご注文なし」。婦人はここに於いて凡夫そのままのお救いに初めて気がついて喜び勇まれた。
                             -引用終わり-

 お園さんの「お差し支えなし」「ご注文無し」というお勧めは、如来の慈悲について述べたものです。如来は私に対して何かを求めたり、注文することはない。如来のお救いにさし障りになるものは何一つ無い、ということですが、そのことが分かったので上記のご婦人は回心できたのでした。

 勘どころとは、無視できない重要な要点という意味ですが、如来の慈悲に気づくということが真宗においては無視できない重要なポイントであります。

4-1.当たり前と妙好人

 私の数少ない法友仲間の1人がブログで書いています。妙好人という言葉を使わないようにしている、と。

 信がわかったといっても、人に自慢するようなものではないし、人から特別にほめられるようなものではないし、だれでもが領解できる当たり前のことだという思いからの発想だと思いました。とても共感できます。

 そこにでてくる漫画とそれに合ったコメントもまた素晴らしい。以下、コメントを引用します。

  -引用開始

越前の竹部勝之進という方に以下の句があります。
 タスカッテミレバ
 タスカルコトモイラナカッタ
 ワタシハコノママデヨカッタ

-引用終わり

 おもわず、フッフッフとなります。そのとおりだなぁと。結局、私は前の状態と変わらないけど、大きな違いは、ワタシハコノママデヨカッタ、ということを理解できた点です。この違いは本当に小さいけれど、大きい。

 後生なんか考えても仕方ない、考えても結論は出ない。このような思いは今も昔もかわりません。しかし、今と昔とでは同じ意識ではありません。今は、如来の願心に思いをはせると、後生のことは自分にとってどうでもよいことで、これは如来の領分だった、自分の手の出せない領分だったと知ったのです。

 後生なんか考えても仕方ないという点では、振り出しに戻ったような気分ですが、もともと、一歩も進んではいなかったのです。凡夫が凡夫と知らされた。私がアレコレと気を揉んで心配したことは無駄だったと知らされた、ということに落ち着きました。自分は凡夫だという当たり前のことを当たり前のように知らされたのですから、人に自慢するようなものではないし、人から特別にほめられるようなものではないのです。

 さて、その思いを改めていざ文書を書き残そうと思いきや、きれいに化粧をほどこして、人からなるほどと言われるようにうまくまとめようと思います。外に賢善精進の相を現じようとするのです。祖師は「賢者の信は、外は愚、内は賢。愚身が信は、外は賢、内は愚。」と書かれていますが、私も外づらを賢に仕上げようと常に意識しながら書いています。

 しかし、法然聖人は言われています。愚者にかえりて往生す、と。よって、愚は愚のままでいいじゃないか、という精神でやってまいります。

 最後に、妙好人という言葉ですが、信の人を讃嘆した言葉ではなく、信の徳を讃嘆したものです。一実真如の徳を具足した南无阿弥陀仏が私の心の中で信となったものですから、三世諸仏から信の徳を讃えられるのです。

3-12.明信仏智

“他力の信を得たら、明信仏智の働きで、他力の信だと分かるから、人に尋ねて、これが信かどうかを、確認する必要はない”

A君 今回は、この点について議論してみようか。信を得た人は、直ちに他力の信を得たと分かるものなのかい?

Cさん そんなことはないと思うわ。

B君 僕も、そんなことはないと思うよ。

A君 そう思う理由を説明してくれるかい?

B君 説明するのは難しいけど、僕自身、アレコレといろいろな思いが生じて、心が落ち着くまでにしばらく時間がかかったからね。

Cさん 私もそうだったわ。

A君 じゃ、明信仏智の働きで、他力の信だと分かる、というのは間違っているのかい?

B君 そこが間違っているといっているのじゃなくて、人に尋ねてこれが信かどうかを確認する必要はない、というところが間違いなんだ。

Cさん もう少し、説明をしてよ。

B君 う~ん。

A君 じゃ、代わりに言うね。
 他力の信という言葉を聞いて、どのように思っていたか、考えてごらんよ。たいていの人は想像しかできなかったはずだ。或いは、地獄一定となったときに如来の救われるというイメージで信をとらえていたと思うんだ。つまり、どのようなイメージを持っていたとしても、それはすべて間違ったイメージだね。

Cさん それは、その通りね。それで・・。

A君 それでって、まだ、分からないのかい?

B君 僕も分からないよ。もっと親切に教えてよ。

A君 つまりね、実際に信を頂く、という経験は、信を頂くまでに思い浮かべていたイメージとはまったく違うものなんだ。予想外も予想外。だから、信前に抱いていた誤ったイメージが強ければ強いほど、実際の経験とそのイメージとのギャップは大きくなる。そうすると、人は、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだね。

B君 あぁ、分かった。つまり、人の認識のありかたに関わる問題なんだ。

A君 そうなんだね。人は言葉の概念をもって物などを認識しているが、人はそのような認識のあり方をしている。机という概念をもってるから、いま見ている物が机か、それ以外かを判断している。ところが、既存の概念をもたないものに遭遇すると、それが何であるのか理解できないんだね。例えば、こんな記事を読んだことがある。大都会のビル群を空中から撮影した写真をビルという物を知らないアフリカ奥地の原住民に見て貰ったところ、そもそも写真だということが理解できなかった。そして、写っている物がビルだと理解することができず、四角い形のものが整然と並んでいるので、きれいな花壇だと認識したという話しだった。他力の信というものに関しては、信前において、概念化して信をとらえていたとしても、それは大間違いだ。つまり、信前においては誤った理解をし、誤ったイメージしか持つことができない。そうした人が如来のまことの願心を聞いて聞き受けたとしても、それが他力信だと直ちに判断することはできないんだ。信について誤ったイメージを強く持っている人ほど心の中でのギャップは大きくなる。だから、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだ。因みに、信後においても信を言葉で表現し、概念化することができたとしても、その概念化された信は実際の信とは違ったものになってしまう。

B君 そう言ってくれれば、よく分かるよ。

A君 だから、蓮如上人は、信心沙汰をするようにと言われたんだと思うよ。

Cさん 自分の身の上に起こったことが他力の信かどうかは、よくよく、聞いてみないと分からないわよね。

A君 他人からいろいろと、他力の信について聞いていくと、ただ如来の願心を仰ぐだけだとか、本願を聞くことだとか、聞いていることがそのまま信だとか言われて、あぁ、やっぱり、私も信心を頂いたんだな、と分かってくるんだね。

B君 僕もそうだったね。

A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?

Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。

B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。

Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。

A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。

Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。

A君 まったく同感だね。自分が問題とすべき問題はなくなっているということに気づき、分かったから、ただ如来の願心を聞いて仰いでいるだけでいいんだと心が落ち着いてくるんだ。心の落ち着き場所は、常に、ここなんだね。だから、僕は自力無功と知らされることは、如来の願心に心を留めさせる働きがあると考えているんだ。自分の心が如来の願心に虫ピンで留められ、動揺しなくなったと言ったら、分かるかな?

Cさん そんな感じね。

B君 そうだね。同感だね。

A君 このことについて、法然聖人は、二種深信の最初の機の深信についてこんな事を言っているよ。最初の機の深信は、「のちの信心を決定せしめんがために、はじめの信心をあぐるなり(「往生大要抄」昭和新修法然上人全集58頁11行目)。この文は誤解しやすいけれど、機の深信とは、わが身をたのみ、わが心の善悪、罪の軽重をはかって本願を疑うような自力心から永久に離れることをいうので、機の深信には、自力心によって再び本願を疑うようなことにはならない効用があるということなんだね。言い換えれば、のちの信心、つまり法の深信を決定せしめ、動揺させないという効用があるということだ。

A君 じゃ、納得して貰ったところで、最後に質問するよ。蓮如上人は、他力の大信とは明らかに知られたり、と言われているが、これは、どういう意味なんだろうね。また、“人に尋ねて、これが信かどうかを、確認する必要はない” ということの根拠になるのかな?

Cさん 根拠にはならないわね。蓮如上人は他力の信心であることが明らかに知られたと言われているだけですからね。私も、いろいろと思った疑問が聞いて解決するにつれ、これが他力の信心であると理解してきたわ。これは後からの理解だけど、私が如来のまことの心を聞き受けて歓喜していることは、以前も今も変わっていないわ。これが他力の信心だと呼ばれていることが後から分かってきたということなのね。

A君 そう。つまり、自分の心に開け起こった信が信前に聞いていた他力信というものに相当するのかどうか、後から認識し始めたということだね。その理解に至ったのは、さっき言ってくれたように、自力無功と知らされて如来の願心から心が動揺して離れてしまわないようになってしまったことと関係があるんだ。常に自分の心が如来の願心を仰ぐという状態にあることは、とても不思議なことなんだね。これは自分の意志や心によって現れた精神現象じゃないということだけは分かる。だから、如来の願心から生じた信心と理解するしかないと思うようになるんだ。願心を信受した者であれば誰しもがこのような理解に至るのだと思うが、それは、如来の願心が働いている結果だと思う。その意味で、蓮如上人は、他力の大信心とは明らかに知られたり、と言われたのだと思うね。

Cさん それで、明信仏智の働きで、他力の信だと分かる、という言い方は間違いだとは言えないのね。

A君 僕は、そう考えている。
 それに、明信仏智とは、他力の信のことだから、明信仏智の働きで他力の信だと分かるというのは、他力の信自体に他力の信と分からせる働きがあるということなんだけど、それが他力の信であるということは、自力無功と知らされたことで時間の経過とともに次第に認識されてくるものであって、信一念にたちどころにこれが他力の信だと認識させられてしまうようなものではないんだね。

3-11.三願転入 その3

T君 A君は、十八願だけを聞けばいいと言っているというじゃないか。

A君 ん? そんなことは言っていないよ。

T君 先日、K君が君からそんなことを聞いたと言っていたよ。A君から、直ちに救われたければ十七願十八願の願心を聞けと言われたってね。

A君 あ~、そうことであれば、確かにそう言ったよ。

T君 それじゃ、十八願だけを聞けばいいと言っているということじゃないか。

A君 そうじゃないよ。直ちに救われたければ十七願十八願の願心をそのまま聞けと言ったんだよ。

T君 どこが違うんだ。

A君 大違いさ。単に十七願十八願だけを聞けばいいと言ったんじゃないよ。直ちに救われたければ十七願十八願を聞け、と言ったんだ。直ちに救われたければ、ね。

T君 どういうことだ。

A君 じゃ、説明するよ。もし、迂回の行として諸善を行じて臨終来迎を頼み、往生を願うのであれば、十九願所定の三心をもって諸善の行に励めばいいさ。でも、そうじゃなくて、直ちに救われ、真実報土に往生したいと願うのであれば、十七願十八願の願心をそのまま聞け、ということさ。わかるよね、この違い。

T君 まぁ、わからんでもないさ。でも、十七願十八願の願心をそのまま聞けない人はどうすればいいんだ。

A君 また、同じ話か。

T君 すぐに聞き開けない人のために、阿弥陀如来は十九願を建てて調機誘引しているのじゃないか。すぐに聞けるのであれば、十九願を建てた意味はない。十九願が不要というのは、阿弥陀如来の頭の上に立った思い上がりだ。十九願の諸善の行を修してこそ、善ができない本当の実機が分かるだ。

A君 う~ん。いろいろと思い違いをしているようだね。

T君 どう思い違いをしているというんだ。

A君 ま~、順番に説明するから、しばらく我慢して聞いておくれよ。

A君 十七願十八願は、十九願や二十願の心行に堪えられない衆生、つまり自力では決して生死出離のできない者のために、阿弥陀如来が代わって往生の行を行じ、その者を往生させ成仏させる行を成就してその者を救うと誓われた願だ。十七願は諸仏によって南无阿弥陀仏という御名が讃歎され、その讃歎によって御名が衆生に広説され、衆生に御名を聞かせることを誓った願だ。その御名は、御名を聞けば信心歓喜できるように仕上げられている。そして衆生が御名を聞いて信心歓喜し、念仏する者を浄土往生させることを誓ったのが十八願だが、この十八願の眼目は、御名を聞いて信心歓喜させることにある。その教証は十七願十八願成就文だ。そして、大経では、十七願の御名を聞いて信心歓喜する十八願の機だけが真実報土に往生できるとされている。

A君 つまり、十七願十八願は自力では生死出離のできない者のために、阿弥陀如来が代わって往生の行を行じ、それをもって衆生を往生させ成仏させる願だから、一切の自力の行を行わずに浄土往生ができるんだね。だから、十七願十八願の前には、一切の自力の行は必要としないんだ。ここが大事なところだけど、要するに、ただ御名のいわれを衆生に聞かせて救うというのが十七願十八願の選択の願心だ。

A君 十九願だが、自分の修する諸善万行を修して浄土往生を果たしたいと願う者もいるだろうから、そういう者のために阿弥陀如来は十九願を建立した。そして、十九願所定の三心と行を行った者のために臨終に来迎することを誓った。十九願文を読めば分かる。諸善万行を修して浄土往生を果たしたいと願う者であれば、誰でも十九願の機にはなり得る。但し、十九願の自力の心行とを円満に成就しなければならない。それができなければ、十九願の救いからは漏れてしまう。また、円満に成就したとしても、大経では、仏智を疑う罪によって報土往生はできないとされている。だから、十九願の機は、諸善万行を修して化土往生を果たしたいと願う者のための願なんだ。

A君 二十願は、阿弥陀仏の御名を称えて浄土往生を果たしたいと願う者もいるだろうから、そういう者のために建立したものだね。この場合も大経には、二十願の信と行が成就しても、仏智を疑う罪によって報土往生はできないとされている。

T君 それで、どうだというのだ。

A君 つまり、十七願十八願は自力の心行に堪えられない者を真実報土往生させるために建立された願だから、その願にしたがって往生を願う者は、すべて十七願によって成就された御名を聞き、信を得て報土に浄土することができるんだ。そこには、自力の行は不要であり、ここに自力の行を持ち込もうとすると自力疑心として嫌われることになる。これに対して十九願も二十願も自力の行を行うことが必要であり、その行は各願に所定された行とされている。つまり、十七願十八願の救いと十九願二十願の救いとはまったく異なる原理に立ったものだから、その両者の救いは連続するものではなく、十七願十八願の救いは十九願二十願とはまったく独立した別個の救いなんだ。

T君 ・・・・。

A君 そうすると、十七願の御名を聞いて十八願の信を得て浄土往生したいと願う者は、ただ、十七願十八願の願心にしたがって、御名のいわれを聞けばよいのさ。そこに諸善万行などの自力の行を持ち込んではいけないんだ。十八願の信を得るために十九願の行から始めなければならないというのは、ただ御名のいわれを聞かせて救うという十七願十八願の選択の願心に反し、願心に背くことを教えることになる。簡単に言えば、無条件の救いを求める者に対して、自力の行を勧めることは、無条件の救いに条件を付けることになってしまうんだね。

T君 ・・・・。

A君 分かるかな。自力の行を不要とする十七願十八願の救いに、自力の行を励めというのは、いかに十七願十八願の心を踏みにじるものであるのか、ということが。十七願十八願の救いにはない条件として、十九願所定の信をもって所定の行を行わなければ十七願十八願の救いには遭えないのだとしたら、十九願の救いとは別の法門である十七願十八願を建立した意味が無くなってしまうのさ。

T君 ・・・・。でも、十九願の行をしなければ自力が役立たないと知らされないじゃないか。

A君 そこにも大きな間違がある。自力が役に立たないと知らされ、本願に帰命するのは、如来の真実の大悲心を聞くからであって、諸善を励んだ結果ではないんだよ。如来の涯底のない大悲心の前に直面したとき、自然と自力の思いは廃ってしまうんだ。

T君 ・・・・。 

A君 自力の計らいは如来の願力が私にかけられていることを知ることによって廃るのであって、善ができないと知らされるからでもないし、地獄は一定と知らされるから自力が廃るものでもない。

T君 地獄一定と知らされるから自力が廃るんだよ。祖師はそう言っているじゃいか。

A君 祖師は、歎異抄に地獄は一定住みかぞかしと言われているけど、地獄一定と知らされるから自力が廃るとは言われていない。

T君 自力が役に立たないと分かるから自力が廃るんだ。そうに決まっている。

A君 そうじゃないんだ。自力の思いは、如来の大悲心を受けるから消尽してしまうんだ。間違いのない真実の大悲心と聞かせれるから、自然とその大悲心を受け入れてしまうんだ。大悲心を受け入れるとき、自然と自力の思いはなくなる。大悲心にお任せとなるからね。

T君 ・・・・。

A君 君は、如来の大悲心をもっともっと深く知るべきだよ。そこからがスタートだ。自分が善ができる者かどうかなどと自己を詮索してもよいが、それよりも大事なことは、如来の大悲心を聞くことだよ。聞けばそれで終わりだ。だから、平生、臨終を問わず、信心歓喜し、心から喜んで念仏を称えられるようになるんだ。

T君 しかし、十九願の行をしなければ自分は善はできない悪人であるとは知らされないじゃないか。

A君 そうだね。それは君の言うとおりかも知れない。しかしね、その考えには、大きな問題があるんだよ。

T君 どんな問題があるというんだ。

A君 まず、十九願の行とは、法蔵菩薩のような至誠心をもち、決定の信をもって発願回向して修善を行わなければならない。そして、頭燃を払うが如く善を行って知らされるのは、自分は菩薩のような至誠心を持ち得ない不善の凡夫ということだ。

T君 それが知らされればいいじゃないか。

A君 まぁ~、そう先走らずに話を聞けよ。話を続けるとね、至誠心をもって善を行じれば、菩薩のような至誠心を持ち得ない不善の凡夫のすがたをしていることが分かるだろう。しかし、それは、先ほど述べたように法の深信を伴うものではないんだ。祖師は、愚禿抄に「自利の信心」と細注している。確かに、出離ができないというのが自分の真実のすがたであろうが、そのすがたを知ったからといって、自力を離れ、如来の救いを深信するには至らないのだ。祖師は、法の深信と結びついた機の深信を金剛他力の信だと言われているが、法の深い信を伴わない信でなければ、自力の思いから離れられないのだ。

T君 どうして、そんなことが分かるのだよ。

A君 おいおい、他力の信心は機法二種一具の信だということは君も知っていることだろ。法の深信を伴わなければ、いくら出離ができない真実の自己の姿が知らされても、それは他力信ではない。

T君 ・・・・。

A君 法の深信は、如来の真実まことの大悲心を聞くから生じるんだ。また、如来の真実まことの大悲心を聞くから自力の思いが消尽するんだ。ともに、如来のまことの大悲心を聞くから生じるのだ。

A君 だから、十九願の行をしなければ自分は善はできない悪人であるとは知らされても、それは如来の救いではないのだよ。

A君 それにね、自分は善はできない悪人であるとは知らされても、知らされなくても、如来の真実まことの大悲心を聞くことで他力の信は開け起こるんだよ。善悪の凡夫だれでもが、如来の救いの対象なんだ。私は如来の大悲心から漏れていないということを知れば、自分は善凡夫であると認識しようが、自分は悪凡夫であると認識しようが、それはどちらでもいいんだ。どちらであろうが、如来の大悲心は間違いなく私に向けられているのだからね。

T君 悪人であるという認識が無くても救われるというのか。

A君 そうだよ。そんなことは当たり前じゃないか。如来の十八願は、悪人であることを正しく認識した者だけを救うという本願だ、とでもいうのかい? 十七願は諸仏に御名の成就を証誠してもらい、讃歎してもらい、衆生に御名の成就を聞かしめて救うという本願だ、衆生は諸仏の証誠し讃歎する御名を聞いて信心歓喜すればいいんだよ。その信心の成就を誓ったのが、祖師が教行信証の信巻において信願といわれた一八願さ。

T君 君の言うことは、僕がこれまで聞いてきたこととは、ずいぶん違うよなぁ。

T君 僕はこれまで、一生涯、善に励まなければ救われないと思っていた。道は遠いなぁと何度も心が重く、くじけそうになってなったよ。そんなときは、自らを励ましてやってきたけど、君の話を聞くと心が軽くなるようだよ。

A君 如来の大悲心は、聞く者に安堵感を与えるものさ。生死の問題は凡夫の手の負える問題ではないから、如来が本願を建てて救うと誓われたんだ。私の生死の問題は如来の領域の問題なんだ。如来が解決される問題だから、凡夫が手を出せない。だから、如来のに任せきってしまうんだよ。そうすると、いやでも如来の大悲心に悲泣し、安堵するものさ。

T君 すぐには心の整理できないけど、もう一度よく考えてみるよ。

A君 下手な考え休むに似たりと言うが、下手な考えでも、自分で考えてゆくことが大事だよ。分からなかったら、いつでも、おいで。

T君 ああ、お願いするよ。

3-10.三願転入 その2

K君 君は、如来の大悲心をそのまま聞けというけれど、そのまま聞けない人はどうすればいいんだ?

A君 どうすればいいんだって聞くけど、そのまま聞くしかないんだよ。

K君 それでもそのまま聞けない人はどうすればいいんだ?

A君 それでもそのまま聞くしかないんだよ。

K君 それでもそのまま聞けない人はどうすればいいんだ?

A君 君は一体全体、聞けないことを開き直っているのか、それとも聞けないことに悲壮な思いでいるのか、どっちなんだい。

K君 開き直ってはいないけど、どうしても君みたいに素直に聞けないんだよ。

A君 ふん。では、自分は素直に聞けない自分だということは素直に認めるんだな。

K君 あぁ。だから、私のような者のために阿弥陀仏は十九願と二十願を用意してくれたんじゃないのかい?

A君 ふーん。君は聞けないからといって、そっちに行ってしまうのか。それじゃ、
浄土往生は決定したと聞いても、諸善に励むという無駄事をするっていうんだね。

K君 それは無駄事じゃないよ。無駄にならないように十九願や二十願があるんじゃないか。

A君 十九願や二十願の行を実践していれば、いつかは、浄土往生は決定したと聞けるようになるというのだね。

K君 そうだよ。地獄一定と知らされて信心決定するんだよ。

A君 じゃあさ、言わせて貰うけど、今日死ぬという事態は誰にでも訪れるよ。そのときも、浄土往生は決定したと聞いてもそれを信じず、十九願や二十願の行を実践するというのかい?

K君 しかたないじゃないか。

A君 それでは、臨終往生を待つということになってしまうのではないかい。

K君 聞けない以上、そうなるけど、仕方ないじゃないか。

A君 君はいつも仕方ないと言い訳しているけど、死んで迷いの世界を流転するのも仕方ないと自分に言い訳しながら、死んでゆくということだね。

K君 仕方ないじゃないか。

A君 まぁ、死ぬまでそういっていればいいけど、本当にそれでいいんだね。

K君 よくはないけど、仕方ないじゃないか。

A君 あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕おもいはんべり、まことに宿善まかせとは言いながら、述懐のこころしばらくもやむことなし、という言葉を君に贈るよ。

A君 そうはいっても、1つだけ、大切なアドバイスをしておくよ。それはね、如来の大悲心を聞けばね、どんな人でもそのまま大悲心を聞き受けられるようにになっているだよ。聞くには何の造作も入らないことなんだ。それが、選択の本願の働きなんだ。選択の本願には、誰にでも聞き受けさせる力用があるんだ。でもね、君が何十年と聞いても聞けないというのは、如来の大悲心を正しく説く人にあっていないからなんだ。必ず、絶対の幸福に救うというのが本願だと説くのは、正しく大悲心を説いていることにはなっていないんだよ。

K君 どういうことなんだい。

A君 まず、十七願の心をよく理解して欲しいんだ。
 十七願はね、四十八願すべての願を成就した証として、阿弥陀如来の御名を諸仏が讃嘆しなければ仏にはならないと誓った願だよね。そして、法蔵はその四十八願をすべて成就して浄土を建立した。ということは、十七願は既に成就されて、南无阿弥陀仏となられたんだね。そのため、釈迦をはじめとする三世諸仏は南无阿弥陀仏を讃嘆し、救いがたき凡夫が南无阿弥陀仏によって救済されることを広説され、それが大無量寿経となった。その大無量寿経においては、自力では生死を出離できない救いがたき凡夫のために、凡夫が何の造作もなく救われてゆく南无阿弥陀仏が成就されたから、そのことを聞くだけで信心歓喜できるようになったと説かれている。阿弥陀如来は、凡夫は修行しても決して救われることのない者だと見抜かれて、凡夫が仏になるための行をなされた。それが成就したことを告げているのが十七願十八願成就文だ。その成就文から十八願は信成就を誓った願だと祖師は考えられた。だから、十七願によって成就した御名を聞けば、自ずと十八願の信が成就することになっているんだよ。これが南无阿弥陀仏の本願力なんだね。だから、平成においても、臨終においても、如来の願心を聞けば、たちどころに信が開けるようになっているのだ。

K君 じゃ、十九願はなんのためにあるんだよ?

A君 十九願はね、諸善を行って浄土に往生しようと願う者のために建てられたんだ。君が諸善を行って浄土に往生しようと願う者であるならば、浄土往生を願って臨終に至るまで、いや、臨終に望んでも諸善に励めばいいさ。でも、今すぐにでも救われたいと願うのであれば、十七願十八願を建てられた如来の選択の願心を聞くことだね。聞くは信だから、聞即信というのじゃないか。また、そうだから、平生業成の教えというのじゃないか。

A君 君が十九願にこだわるそもそもの理由は、祖師が書かれた三願転入の御文にあるのだろうが、祖師は、十九願の諸善を励めば二十願にすすみ、さらに十八願海に転入するから諸善に励め、とはどこにも言っていないよ。祖師は、如来の願心を信楽すべしと勧められているだけだよ。阿弥陀如来も諸善を励めとは勧めていないよ。釈迦は諸善往生した者は智慧のない者だと言われて、蓮華化生する智慧ある者になることを勧めているが、それは如来の大悲心を聞いて歓喜することを勧められているんだよ。

K君 僕がこれまで何十年と聞いてきたのは、無駄だったということなのか?

A君 んーっ、無駄と言えば無駄だったけど、遠回りした分、如来の願心を必ず聞き受けることができるよ。それが如来の誓いだからね。祖師は十九願の願底には如来の大悲心があると言われ、如来の調機誘引の大悲をかんぱいされているけど、君も調機誘引されたんだろうと思うよ。

K君 じゃ、このまま調機誘引されてゆけばいいんじゃないか?

A君 君がただ今救われたいと心から願うなら、直ちに十八願の法門を聞くべきだけど、君がそうは願っていない、というのであれば、君は君で信じる道を行くしかないだろうね。面々の御計らいというところかな。

A君 さて、どうするんだい。直ちに十八願を聞くのか、聞かないのか、死は君を待ってはくれないよ。

3-9.如来回向

A君 聴聞しているのは如来回向の救いの法っていうけど、如来回向とはどういうことか、分かるかい?

B君 簡単に事じゃないか。如来回向というのは、如来が救いの法を私にさし向けているということだよ。

A君 うん、そうなんだけど、さし向けているというのは、具体的にどういうことになんだい?

B君 救いの法を聞いているってことだね。

Cさん じゃあ、救いの法というのは、どういうことかしら?

B君 救いの法というのは、如来がすでに私の浄土往生を決定させた、だから、安心して浄土に来いよ、という如来の願心のことだね。如来の願心が私を救う法なんだ。

A君 じゃ、如来の願心を聞いているのが、如来回向ということなんだね。

B君 そうだね。

Cさん じゃ、聴聞していることが如来の回向を受けているって事なの?

B君 聴聞じゃなくて、聞即信の聞ということさ。信に至らなければ回向を受けているとは言えないよ。

A君 そうなのかい? 僕はそうは思わないな。

B君 どうして?

A君 如来の願心を聴聞しているということは、その聴聞をしているがままが救いの法を既に回向されており、救いの法を受けているということだよ。

B君 信が生じなくてもかい?

A君 そうだね、信が生じなくても既に回向を受けているということさ。たとえ、信が生じなくてもさ、如来の願心を聴聞しているということは、既に如来の願心が私に届けられているということだよ。
 もう少し言えば、釈迦が世に出られて大経を説かれ、大経に説かれた阿弥陀仏の本願を信受した無名の人々がその教えを留め、その中から、龍樹、天親という聖人が現れ、世に如来の本願を現し、さらに曇鸞へとつながり、善導が中国に浄土教を広め、日本に法然聖人という偉大な天才があらわれ、広く念仏往生の道を説かれ、祖師はその教えを体系だてて真宗の基礎を築き、その後、日本全国に真宗が弘まったというのは、十七願にその成就が誓われた御名の力が人々の上に表れたものだよね。だから、既に本願の教えを聴聞している人には、如来の本願力が届いているんだ。真宗だけではない。浄土宗や時宗において如来の本願を聞いているということであっても、如来の本願力が届いているんだ。

Cさん 私もそう思うわ。だから、私は、もう既に如来の救いの中にあったんだと気づけたのよ。

A君 B君、どうだい。如来の救いが既に私に届いていたから、私はその事実に気づいたのではないかい?

B君 そうだね。信が生じる前から、如来の願心が救いの法として私に届いていたんだよな。

A君 如来の救いは観念的ではなく、現実の歴史の中の人々に願力が働き、歴史が作られ、現在の私はその大きな歴史の中にあって如来の大悲心を聞いているという事実には、何か、大きな縁起を感じないかなぁ?

Cさん そうね。感じるわね。

A君 私という存在もその大きな縁起の中の存在であり、既に如来の救いの法が様々な縁起によって私に届けられているってことに、僕は新鮮な驚きを感じて欲しいと思っているんだ。

A君 そうすると、確認するよ。聴聞とは、何を聞くことになるんだろうか。

Cさん 如来の救いの法が既に私に届いていて、私の往生は決定しているということを聴聞させていただくのね。

A君 そうだね。そして、その救いの法とは如来の大悲心のことであり、その大慈悲心を聞き受けるんだよ。その大悲心が私の上に働いているということを聞くんだ。

B君 それに関連するけど、天親の浄土論に「不虚作住持功徳成就」「不虚作住持功徳成就は、けだしこれ弥陀如来の本願力なり。・・いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩四十八願と今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もて力を成ず。力もて願につく。願徒然ならず。力虚説ならず。力、願にあひかなふて畢竟してたがわず。かるが故に成就という。」とあるよね。

B君 僕は、この文句が大好きなんだ。願と力は虚説ではなく徒然でもない、ということは、願力のとおりになるということだから、私は間違いなく助かるということだからね。

Cさん つまり、願と力は虚説ではなく徒然でもない、ということなら、私の浄土往生は決定しているということなのよね。ここを聞くのが聴聞なのよね。

A君 いゃ~。今日は、ひさびさに感動させられたよ。 

3-8.三願転入 その1

A君 祖師は、どうして三願転入の文を書かれたんだろうね?

B君 やっぱり、祖師は聖道自力の行から、どこかの段階で浄土の法門に入られて念仏行をされていたのではないかと思うんですよね。祖師は既に比叡のお山で常行念仏をされていたと聞いたことがあります。

Cさん 比叡のお山で修行されていた時点で既に十九願から二十願の行者になっていたということね。

A君 そういう可能性はあるだろうね。法然聖人の門下に入ったときは、二十願の行者だったのだろうね。

B君 でも、この三願転入の御文は、前2つの法門の廃捨すべき事を自分にこと寄せて述べられたという説もありますよね。

Cさん あるけどさ、ご自分のこととして難思往生の心を起こしき、とか、難思議往生を遂げんと発す、と述べられているように思えるわ。

A君 そうすると、祖師は十八願に転入するまでのことを如来の慈悲との関係でどのように受けとめているのだろうか?

B君 それは、願海に入って深く仏恩を知れりと言われているのだから、それらの過程は、いずれも如来の大悲心によってなさしめられたと感激されていたのだと思うな。

Cさん 私も同感だわ。

A君 観経と阿弥陀経に隠顕ありと解釈され、十九願にも二十願の果遂の誓いにも大悲心による誘引の働きがあったと述べられているので、僕も同感だね。

B君 そうすると、A君に聞きたいのだけれど、信を得るまでに十九願の行からはじめて、その行が難行であることを知り、二十願の専称といわれる自力念仏を行うという経過を誰しもが辿らなければならないって考えていいのかな。

A君 さぁね。よく分からないね。ただ、そのようなことを考えるとしたら、十八願に転入するまでの永い期間を考えてみなければならないと思うな。

B君 どういうこと?

A君 長く流転を重ねてきた間に、聖道自力の行を行い、その難行から脱落して敗壊の菩薩となり、その後、浄土門に入ってもその自力の行に執着し、それでも出離できず、口称の念仏を専称してきた魂の永い過去があったのかも知れない。過去の長い生命の歴史を考えると、誰でもがそのような経過を辿るのかも知れないってことさ。

B君 そうかも知れないけど、それは実証できないことだよね。

Cさん そうよ。誰にもそんな過去のことは分からないわよ。それなのに、十八願に転入するまでの永い期間に十九願の行や二十願の行を行ってきたというのは、無意味よ。

A君 僕も無意味だと思うよ。分からないことだからね。

B君 今生のことだけに限って考えてみてよ。

Cさん そうよ。生まれてくる前の過去の話なんてどうでもいいじゃないの。

A君 まぁ、そうだね。今生に限っていえば、一度十九願の行や二十願の行を行わなければ十八願に転入できない、なんて言うつもりはないし、そんなことは間違っていると思うよ。ただ、どのような機の人かによって答えは変わってくるかもしれないね。

B君 それ、どういうこと?

A君 たとえば、現代でも聖道難行の自力の行を行っている人はいるよね。その人が難行に敗れてしまったとしようか。その人にとっては浄土往生しか方法はないことになるから、浄土往生したいという思いになるかも知れない。そして、これまでの行をやってきたという思いに執着していたとすれば、観経に説かれるように定善の行や散善の行をもって浄土往生できると誘引する必要がある。そのために、如来は十九願を立てられたと理解できる。
 これに対して、聖道自力の行を行う気持ちの乏しい人に対して定善の行や散善の行をもって浄土往生できると誘引したところで、できっこないとすぐにあきらめてしまうだろう。そうした人には、自力の行を必要としない南无阿弥陀仏の救いを説かなければならないんだ。それを勘違いして易い行なので自分にもできると思って専称の行を行って浄土に往きたいと願う。そうした人には、果遂の誓いとして二十願を立てられた。それでも、臨終まで往生できないことに我慢できない人には十七願と十八願を立てられた。結局、如来は機に応じて十九願、二十願、十八願をそれぞれ別に独立した救いの道として用意されたのだと思う。

B君 そうすると、真宗を聞いている人は、現生の救いを聞いているのだから、そんな人に聖道難行の自力の行を勧めたって意味ないよね。

Cさん 意味ないどころか、無駄な回り道をさせていると思うわ。

A君 でも、人は誰でも、自分の行を足しにして救いを求めるという思いはあるだろう? そういう人をどう導けばいいのかな。やっぱり、自力の行をやらないと、の思いが思い上がりだったとは気づかないのじゃないかな。

B君 そうだけど、その人が自力の行をやらせなければ、その思いが思い上がりだったと気づかない人だと、分かるものなのかなぁ。

Cさん そうよねぇ。

A君 じゃあ、分かったら、自力の行を勧めてもいいってことになるのかな?

B君 機を見抜けるというところに思い上がりを感じるなぁ。 

Cさん そうよ。誰もそのようなことは分からないと思う。この人には十九願の諸善を勧めた方が早く信が得られるとか、予め分かるという人がいれば、その人に会ってみたいものだわねえ。

A君 そうだね。同感だ。信を得た人に分かっているのは、ただ、如来の願心を聞き受けなければ自力の計らいは絶対に廃らないってことだね。信に導くためにその機にあう説法として諸善を奨める、という芸当ができるのは、仏の智慧のある者にしかできないことだと思うよね。

B君 それに、如来が十九願を立てられた願底には、大悲心による誘引があると祖師は述べられていても、諸善を勧めた方が早く信が得られる、という論理は述べておられないと思うんだ。祖師の言われていることは、ただ、十八願海に転入したのは、如来の大悲心が常に働いていたということにあり、その願心は十八願海に入れしめるということだから、如来の願心を理解できるならば、その願心を受けとめて、祖師が言われるように十九願と二十願を永く離れなければならないといけないってことだね。

Cさん そうね。三願転入の御文を根拠として、自力一杯求めよ、なんていうのは、如来の願心を理解していない者の言うことだわ。

A君 もう布施などの諸善に疲れたという人に対して、まだまだ善ができるとか布施ができる。自力が廃るまで善を勧めなけむればならない、と教えることは、罪なことだよ。何度も言うようだけど、そもそも、善ができない自分だと知って自力が廃るものではないんだ。

Cさん 自力一杯求めない者に自力が廃ったということはない、と言われると、そう思ってしまうのよね。

A君 それはそれで正しい言い方だけど、受け取りようによっては誤解してしまうんだよね。

B君 そう。自力一杯求めない者に自力が廃ったということはない、ということの正しい意味は、願心を聞き受けたいと思いながらも、自力の計らいを交えないではいられない者が如来の願心を聞くことで自力が廃るという意味なんだけど、自力一杯もとめないと自力は廃らないと誤解してしまうんだよね。

Cさん そうした誤解が生じることを狙って、そんなことを言っているって疑いたくなるわ。

A君 もっともだね。だから説く方は、ただ、浄土往生を決定させたという願心とその願心を聞き受けると言うことだけを伝えればいいんだよ。

B君Cさん そうそう。そう思うわ。