3-8.三願転入 その1

A君 祖師は、どうして三願転入の文を書かれたんだろうね?

B君 やっぱり、祖師は聖道自力の行から、どこかの段階で浄土の法門に入られて念仏行をされていたのではないかと思うんですよね。祖師は既に比叡のお山で常行念仏をされていたと聞いたことがあります。

Cさん 比叡のお山で修行されていた時点で既に十九願から二十願の行者になっていたということね。

A君 そういう可能性はあるだろうね。法然聖人の門下に入ったときは、二十願の行者だったのだろうね。

B君 でも、この三願転入の御文は、前2つの法門の廃捨すべき事を自分にこと寄せて述べられたという説もありますよね。

Cさん あるけどさ、ご自分のこととして難思往生の心を起こしき、とか、難思議往生を遂げんと発す、と述べられているように思えるわ。

A君 そうすると、祖師は十八願に転入するまでのことを如来の慈悲との関係でどのように受けとめているのだろうか?

B君 それは、願海に入って深く仏恩を知れりと言われているのだから、それらの過程は、いずれも如来の大悲心によってなさしめられたと感激されていたのだと思うな。

Cさん 私も同感だわ。

A君 観経と阿弥陀経に隠顕ありと解釈され、十九願にも二十願の果遂の誓いにも大悲心による誘引の働きがあったと述べられているので、僕も同感だね。

B君 そうすると、A君に聞きたいのだけれど、信を得るまでに十九願の行からはじめて、その行が難行であることを知り、二十願の専称といわれる自力念仏を行うという経過を誰しもが辿らなければならないって考えていいのかな。

A君 さぁね。よく分からないね。ただ、そのようなことを考えるとしたら、十八願に転入するまでの永い期間を考えてみなければならないと思うな。

B君 どういうこと?

A君 長く流転を重ねてきた間に、聖道自力の行を行い、その難行から脱落して敗壊の菩薩となり、その後、浄土門に入ってもその自力の行に執着し、それでも出離できず、口称の念仏を専称してきた魂の永い過去があったのかも知れない。過去の長い生命の歴史を考えると、誰でもがそのような経過を辿るのかも知れないってことさ。

B君 そうかも知れないけど、それは実証できないことだよね。

Cさん そうよ。誰にもそんな過去のことは分からないわよ。それなのに、十八願に転入するまでの永い期間に十九願の行や二十願の行を行ってきたというのは、無意味よ。

A君 僕も無意味だと思うよ。分からないことだからね。

B君 今生のことだけに限って考えてみてよ。

Cさん そうよ。生まれてくる前の過去の話なんてどうでもいいじゃないの。

A君 まぁ、そうだね。今生に限っていえば、一度十九願の行や二十願の行を行わなければ十八願に転入できない、なんて言うつもりはないし、そんなことは間違っていると思うよ。ただ、どのような機の人かによって答えは変わってくるかもしれないね。

B君 それ、どういうこと?

A君 たとえば、現代でも聖道難行の自力の行を行っている人はいるよね。その人が難行に敗れてしまったとしようか。その人にとっては浄土往生しか方法はないことになるから、浄土往生したいという思いになるかも知れない。そして、これまでの行をやってきたという思いに執着していたとすれば、観経に説かれるように定善の行や散善の行をもって浄土往生できると誘引する必要がある。そのために、如来は十九願を立てられたと理解できる。
 これに対して、聖道自力の行を行う気持ちの乏しい人に対して定善の行や散善の行をもって浄土往生できると誘引したところで、できっこないとすぐにあきらめてしまうだろう。そうした人には、自力の行を必要としない南无阿弥陀仏の救いを説かなければならないんだ。それを勘違いして易い行なので自分にもできると思って専称の行を行って浄土に往きたいと願う。そうした人には、果遂の誓いとして二十願を立てられた。それでも、臨終まで往生できないことに我慢できない人には十七願と十八願を立てられた。結局、如来は機に応じて十九願、二十願、十八願をそれぞれ別に独立した救いの道として用意されたのだと思う。

B君 そうすると、真宗を聞いている人は、現生の救いを聞いているのだから、そんな人に聖道難行の自力の行を勧めたって意味ないよね。

Cさん 意味ないどころか、無駄な回り道をさせていると思うわ。

A君 でも、人は誰でも、自分の行を足しにして救いを求めるという思いはあるだろう? そういう人をどう導けばいいのかな。やっぱり、自力の行をやらないと、の思いが思い上がりだったとは気づかないのじゃないかな。

B君 そうだけど、その人が自力の行をやらせなければ、その思いが思い上がりだったと気づかない人だと、分かるものなのかなぁ。

Cさん そうよねぇ。

A君 じゃあ、分かったら、自力の行を勧めてもいいってことになるのかな?

B君 機を見抜けるというところに思い上がりを感じるなぁ。 

Cさん そうよ。誰もそのようなことは分からないと思う。この人には十九願の諸善を勧めた方が早く信が得られるとか、予め分かるという人がいれば、その人に会ってみたいものだわねえ。

A君 そうだね。同感だ。信を得た人に分かっているのは、ただ、如来の願心を聞き受けなければ自力の計らいは絶対に廃らないってことだね。信に導くためにその機にあう説法として諸善を奨める、という芸当ができるのは、仏の智慧のある者にしかできないことだと思うよね。

B君 それに、如来が十九願を立てられた願底には、大悲心による誘引があると祖師は述べられていても、諸善を勧めた方が早く信が得られる、という論理は述べておられないと思うんだ。祖師の言われていることは、ただ、十八願海に転入したのは、如来の大悲心が常に働いていたということにあり、その願心は十八願海に入れしめるということだから、如来の願心を理解できるならば、その願心を受けとめて、祖師が言われるように十九願と二十願を永く離れなければならないといけないってことだね。

Cさん そうね。三願転入の御文を根拠として、自力一杯求めよ、なんていうのは、如来の願心を理解していない者の言うことだわ。

A君 もう布施などの諸善に疲れたという人に対して、まだまだ善ができるとか布施ができる。自力が廃るまで善を勧めなけむればならない、と教えることは、罪なことだよ。何度も言うようだけど、そもそも、善ができない自分だと知って自力が廃るものではないんだ。

Cさん 自力一杯求めない者に自力が廃ったということはない、と言われると、そう思ってしまうのよね。

A君 それはそれで正しい言い方だけど、受け取りようによっては誤解してしまうんだよね。

B君 そう。自力一杯求めない者に自力が廃ったということはない、ということの正しい意味は、願心を聞き受けたいと思いながらも、自力の計らいを交えないではいられない者が如来の願心を聞くことで自力が廃るという意味なんだけど、自力一杯もとめないと自力は廃らないと誤解してしまうんだよね。

Cさん そうした誤解が生じることを狙って、そんなことを言っているって疑いたくなるわ。

A君 もっともだね。だから説く方は、ただ、浄土往生を決定させたという願心とその願心を聞き受けると言うことだけを伝えればいいんだよ。

B君Cさん そうそう。そう思うわ。