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1-16.雑修

1.論考編

 雑行の次に、祖師は正助行について専修と雑修とがあり、専修には五つの専があるとされています(浄土真宗聖典第2版395頁「正助について専修あり雑修あり」等)。この五専は五正行の各正行の一行を専らに修することで、専礼、専読、専観、専称、専讃嘆の5つです。この専に対して、雑修は助正兼行することと定めています。つまり、専修と雑修の区別は、修する行体が専ら1つであるか、複数であるのか、の違いによる区別です。能修の行相という観点からの区別です。

 五専修のうちの専称は唯称仏名と区別されていることに注意が必要です。「専修に二種あり。一つにただ仏名を称す、二つに五専あり。」と言われる唯称仏名です。

 唯称仏名は十八願に適った正定業としての称名、いわゆる弘願念仏のことです。 化身土巻に「横超とは、本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり。これすなわち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。」と言われ、自力の心を離れた称名行が真実行であり、専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗と言われております。そして、そのように念仏は既に行巻に表したと言われています。この念仏が唯称仏名です。
 これに対し、専称以外の四専はいずれも助業とされていることを考えますと、五専の中の専称はその他四つの専修と同じ助業としての地位(分斉)しか与えることのできない行であると祖師が理解されていることが分かります。つまり五専の1つの専称とは、正定業としての称名ではなく、その行を行じる行者が助業としての地位しか与えてない自力の称名のことです。正定業と助業の区別が付いた能修の心相からの称名を唯称仏名といい、正定業と助業の区別が付いていない能修の心相からの称名を専称といっておられることが分かります。専称と唯称仏名との区別は行体による区別ではなく、行者の能修の心相として自力の思いがあるか否か、による区別です。
 その上で、祖師は、自力の専修と雑修の能修の心相にも、定専心、散専心、定散雑心があるとされています。専心とは一行を専ら修するときの能修の心と解説されています。定心は専観における息慮凝心のことでしょうか。散心とは専礼、専称、専読、専讃嘆における廃悪修善の心ということでしょうか。

 五専と雑修とはいずれも報土往生の行ではありません。専称について、祖師は、本願の徳号をおのれが善根とするがゆえに信を生ずること能わず、といわれています。本願の徳号はそのいわれを聞き受け入れるべきものであるのに、自らの善根にしようという自力の思いで称名しているので、信が生じることはないのです。雑修については、「正行のなかの・・・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。」と言われています。

 ところで、祖師には、専称でも雑修とされている例があります。

   仏号むねと修すれども現世をいのる行者をば、
   これも雑修となづけてぞ千中無一ときらはるる。

 この「仏号むねと修すれども」というのは、上記の五専のうちの専称のことでしょうが、現世を祈るという目的違いの思いが混入し混じっているので、雑修と言われたのでしょうか。しかし、専修と雑修とを能修の行相という観点から明確に区分したのに、専称の中のある思いでなす行をさらに雑修の1つとして再分類することは、自ら定めた助正兼行か専修かの基準からは判別できない例外を設けてしまったことになります。専称の中に、さらに雑修と専称とが区別されることになるいうことです。そうしますと、大分類上は専称でありながら雑修に属するとされる例外的な専称がさらに広がってゆきはしないかと憂慮されます。これは概念的に区別する考え方に立つと困った事態になります。いっそのこと自力念仏は、一貫して専称と呼称するか、自力の思いが混在しているので雑修の1つであるとするか、どちらかに統一して欲しいものです。

 そうはいっても、このような分類にこだわる必要はありません。分類はその人その人の解釈です。専称であれ雑修であれ、十八願によって決定往生の身になりたいと思って称名行を往生の資助とする心で行う以上は、十八願心からみればいずれも自力の計らいとして捨てられるべき範疇の思いや行であります。この自力の計らいを差し挟んで行う行として雑行や雑修があると理解しておけば十分でしょう。


 ところで、十七願で誓われた御名の成就のいわれを聞き、浄土往生が決定していることを聞きながら聞き誤り、専称や雑修することを自己の善行であるように考えて行じる者のために、阿弥陀仏は二十願を建立されました。この自己の善行である専称(やその他の助業)をもって浄土往生を願う行者を二十願の行者といいます。この行者は専称を修し、又はその他4つの助業を修しつつ専称することになります。しかし、二十願の行者は臨終まで往生不定の思い(不安)がつきまとうことになります。そこで現生で往生決定の思いに住したいと切に願って専称や雑修を修することになりますが、そのような行を修してもその願いが叶うことはありません。専称や雑修は十七願十八願で誓われている生因ではないからです。十八願には十八願に相応しい行因があるのです。その行因とは十七願で誓われた南无阿弥陀仏の成就を聞き信楽して御名を称することなのです。十八願の行者は、浄土往生を願いながら専称を修したり、その他4つの助行を修しつつ専称するということはありません。称名等を修することを資助として往生したいという思いがないのです。信楽によって往生決定の思いが既に生じているからです。二十願の行者の大きな誤りは、専称や雑修を修して決定往生の身になるという思いを十七願十八願の救いに持ち込もうとすることに大きな間違いがあります。自力の計らいに囚われておりますと、そのうち一歩たりとも自力の囚われから抜け出ることができない自分であることに気づきます。まるで、自力の思いが殻となって、自らの心をその内側に閉じこめてしまいます。そこから抜け出ることのできない状態に呻吟することになります。このような状態を私は、勝手に「自力地獄」とネーミングしましたが、そのような状態に陥るのは自分の思いや自分の心ばかりを眺めているからです。このような状態から抜け出るには、自分の思いはいったん横に置いておいて、如来は何を私に願っているのかを聞くことです。十八願の救いに遭うには十七願成就の御名のいわれ(=浄土往生が決定していること)を聞くしかありません。聞けば、如来が私の往生を決定されていたということが心にしみ入ってくるはずです。そのとき、自力の計らいから解放されて自由になります。