3-9.如来回向

A君 聴聞しているのは如来回向の救いの法っていうけど、如来回向とはどういうことか、分かるかい?

B君 簡単に事じゃないか。如来回向というのは、如来が救いの法を私にさし向けているということだよ。

A君 うん、そうなんだけど、さし向けているというのは、具体的にどういうことになんだい?

B君 救いの法を聞いているってことだね。

Cさん じゃあ、救いの法というのは、どういうことかしら?

B君 救いの法というのは、如来がすでに私の浄土往生を決定させた、だから、安心して浄土に来いよ、という如来の願心のことだね。如来の願心が私を救う法なんだ。

A君 じゃ、如来の願心を聞いているのが、如来回向ということなんだね。

B君 そうだね。

Cさん じゃ、聴聞していることが如来の回向を受けているって事なの?

B君 聴聞じゃなくて、聞即信の聞ということさ。信に至らなければ回向を受けているとは言えないよ。

A君 そうなのかい? 僕はそうは思わないな。

B君 どうして?

A君 如来の願心を聴聞しているということは、その聴聞をしているがままが救いの法を既に回向されており、救いの法を受けているということだよ。

B君 信が生じなくてもかい?

A君 そうだね、信が生じなくても既に回向を受けているということさ。たとえ、信が生じなくてもさ、如来の願心を聴聞しているということは、既に如来の願心が私に届けられているということだよ。
 もう少し言えば、釈迦が世に出られて大経を説かれ、大経に説かれた阿弥陀仏の本願を信受した無名の人々がその教えを留め、その中から、龍樹、天親という聖人が現れ、世に如来の本願を現し、さらに曇鸞へとつながり、善導が中国に浄土教を広め、日本に法然聖人という偉大な天才があらわれ、広く念仏往生の道を説かれ、祖師はその教えを体系だてて真宗の基礎を築き、その後、日本全国に真宗が弘まったというのは、十七願にその成就が誓われた御名の力が人々の上に表れたものだよね。だから、既に本願の教えを聴聞している人には、如来の本願力が届いているんだ。真宗だけではない。浄土宗や時宗において如来の本願を聞いているということであっても、如来の本願力が届いているんだ。

Cさん 私もそう思うわ。だから、私は、もう既に如来の救いの中にあったんだと気づけたのよ。

A君 B君、どうだい。如来の救いが既に私に届いていたから、私はその事実に気づいたのではないかい?

B君 そうだね。信が生じる前から、如来の願心が救いの法として私に届いていたんだよな。

A君 如来の救いは観念的ではなく、現実の歴史の中の人々に願力が働き、歴史が作られ、現在の私はその大きな歴史の中にあって如来の大悲心を聞いているという事実には、何か、大きな縁起を感じないかなぁ?

Cさん そうね。感じるわね。

A君 私という存在もその大きな縁起の中の存在であり、既に如来の救いの法が様々な縁起によって私に届けられているってことに、僕は新鮮な驚きを感じて欲しいと思っているんだ。

A君 そうすると、確認するよ。聴聞とは、何を聞くことになるんだろうか。

Cさん 如来の救いの法が既に私に届いていて、私の往生は決定しているということを聴聞させていただくのね。

A君 そうだね。そして、その救いの法とは如来の大悲心のことであり、その大慈悲心を聞き受けるんだよ。その大悲心が私の上に働いているということを聞くんだ。

B君 それに関連するけど、天親の浄土論に「不虚作住持功徳成就」「不虚作住持功徳成就は、けだしこれ弥陀如来の本願力なり。・・いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩四十八願と今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もて力を成ず。力もて願につく。願徒然ならず。力虚説ならず。力、願にあひかなふて畢竟してたがわず。かるが故に成就という。」とあるよね。

B君 僕は、この文句が大好きなんだ。願と力は虚説ではなく徒然でもない、ということは、願力のとおりになるということだから、私は間違いなく助かるということだからね。

Cさん つまり、願と力は虚説ではなく徒然でもない、ということなら、私の浄土往生は決定しているということなのよね。ここを聞くのが聴聞なのよね。

A君 いゃ~。今日は、ひさびさに感動させられたよ。 

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