1-22.念々不捨者
元祖は、
一念十念に往生すといへばとて、念仏を粗相に申せば、信が行をさまたぐる也。念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもへば行が信をさまたぐ也。故に信をば一念に生まるととりて、行をば一形にはげむべし。
禅勝房に示す御詞
と言われています。
ここに「念々不捨者」とは、いうまでもなく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の「念々不捨者」です。
この「念々不捨者」とはどういう意味なのか、考えてみました。
一心専念とは「弥陀の本願・大悲を疑いなく聞き受けた上で大悲を念じること」です。一心は信楽の信であり、専念の念は大悲を憶念する念のことです。
ところで、元祖は、上記の詞において「念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもへば行が信をさまたぐ也」と言われていることから、「念々不捨者」とは行者の行の修し方のことであり、念仏の修し方(行相)として「一形の念仏」と理解していたことが窺われます。一形の念仏とは、一生涯に亘っての不断の念仏のことです。そうしますと、念々捨てざる者とは、衆生が称名念仏を捨てないということを意味することになります。「者」とは衆生のことで、「不捨」は衆生が「称名念仏行を捨てない」という意味になります。
しかし、衆生は口称の念仏を怠ることはないのでしょうか。怠りっぱなしの時間の方が多いのではないかと思います。それでも「念々不捨者」と言えるのでしょうか。
一心専念を私のものとなった南無阿弥陀仏のことだと理解すればスッキリするように思います。
南無は私の信のこと
信は阿弥陀仏を疑いなく聞き受けて仰信していること
阿弥陀仏とは摂取不捨の大悲のこと
南無阿弥陀仏は私が摂取不捨の大悲を聞き受けて仰信している私の心相のこと
です。この摂取不捨の大悲が私の心中に感受されることから、この大悲を憶念する心が自然とわき出てきます。この憶念が自然と口称となります。憶念や口称となる前の心中の大悲を感受している南無阿弥陀仏の心相が往生の行であり、正定之業です。そのため私の行う口称に往生の功はまったくありません。口称に何の功も認めることがないので、私が口称の念仏を怠っていても、私が口称の念仏を励んでも往生には何の支障もありませんし、関係もしません。
私と一体となった南無阿弥陀仏を私が捨てようと思ったり離れようと思っても、如来の大悲は常に私を照護し不捨しています。これが私と一体になった南無阿弥陀仏です。私と一体となった南無阿弥陀仏ですから、たとえ私が念仏の行を怠ることがあったとしても、阿弥陀仏を南無していることは絶えることなく、一生にわたって念々不捨の状態なのです。衆生の「念々不捨者」というのは、行者の行相のことではなく、私の心相としての「南無阿弥陀仏」のことだと理解すれば、衆生が念仏の行を怠るとか、励むとかという問題ではないことが分かるでしょう。