会話編 3-14 大信と大行

B君 A君はよく「阿弥陀仏に南無している心の状態」が信だというよね。

 

A君 うん。よく言うよ。

 

B君 その信の相は南無阿弥陀仏だから、その信が大行だと言うんだよね。

 

A君 うん。そうだね。

 

 

B君 祖師は称名が行だとされているけど、信も大行だと言うのはなぜなんだい。

 

A君 心の相が南無阿弥陀仏となっている状態だからだよ。大行は称名念仏と指定されているけど、念仏は南無阿弥陀仏とも言われているよ。大行が南無阿弥陀仏であるなら信の状態となっている南無阿弥陀仏だって大行と言って良いよね。

 

 

B君 祖師は大信と大行とを区別しているんじゃないのかな。

 

A君 概念的には区別されているけど、如来の大悲の救済という本質においては大信と大行に何の違いは無いんだよ。大行や大信はいずれも仏様の大悲がわが身の上に現れるあらわれ方になづけたものだ。大行や大信は仏様の救済そのものなんだ。そういうわけで、祖師も仏様の大悲というくくりで大行も大信も理解されているよ。

 

 

B君 どうしてそう言えるのかな。

 

A君 大行は称名と指定されたあと、「称名は念仏。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」と言われているからね。

 

B君 それで。

 

A君 それで「正念」というのは行をあらわし、信をもあらわしている。愚禿抄(下)に「汝一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん。」と善導大師が言われた「正念」を「正念の言は選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。」と言われていることからそれが分かるよ。

 

 

B君 それはどういう意味なのかな。

 

A君 その「選択摂取の本願」というのは、仏様の選択摂取の大悲心のこと。選択摂取の本願というとき十七願と十八願を指して言われることがあるよね。祖師は十七願を真実の行願、十八願を真実の信願とされている。それで「選択摂取の本願」は仏様の十七願十八願の両願の願心を、「第一希有の行」は十七願の願心によって起こされた「汝」が行う念仏行を、「金剛不壊の心」は十八願の願心から起こされた汝の信をそれぞれ意味している。願を仏様の正念とし、汝の第一希有の行と金剛不壊とを仏様の願と同じ正念としているということは、仏様の正念が汝の正念となるということだろうね。仏様の大悲の救済は仏様の十七願十八願の願いに始まり、十七願の願いによって仏様の第一希有の行が汝の第一希有の行たる念仏行となり、十八願の願いによって仏様の願が金剛不壊の心になるということなんだろう。仏様の正念である願つまり仏様の至心信楽欲生心が私の正念たる行と心になっているという理解だ。これらに同じ正念という言葉を使っているということは、これらはともに同じ仏様の救済であると理解されていたのだろう。

 

B君 ふ~む。

 

A君 仏様の衆生救済に大という表現を与えることがあるが、大行も大信も中身は同じものなんだ。中身というのは仏様の大悲心によって成就され、やがて私の信となり行となる南無阿弥陀仏のこと。大悲心を担った南無阿弥陀仏が生きた私の心のすがたとなっているときの南無阿弥陀仏を大信と言い、生きた私の念仏行となったときの南無阿弥陀仏を大行と言うんだね。ある物語のストーリーが原稿用紙に書かれているときを小説と言い、芝居として上演されたときは脚本とか演劇というように呼び方は変わっても同じストーリーである以上、これを読んだり見たりしている人の心には同じようなストーリーが刻み込まれるよね。そのストーリーにあたるのが仏様の大悲心であり南無阿弥陀仏だよ。仏様の願心たる大悲心が私の心に刻まれたとき私の心は阿弥陀仏に南無しているのでその南無阿弥陀仏を大信といい、そして大悲心を感受しながら大悲心に誘発されて私の称念となったときの南無阿弥陀仏を大行というのだよ。いずれも信や行に大がつくのは如来の大悲心による救済が必ずこのような信や行という形をとるんだ。だから単に行とか信というのではなく、大行とか大信というのだ。

 

B君 つまり、行とか信というのは大悲心が存在する形式と言って良いよね。大悲心が形式をとるのは大悲心を私に認識させるためだ。そのために大悲心は南無阿弥陀仏という文字形式や音声形式となり、大悲を感受するとき阿弥陀仏に南無するという南無阿弥陀仏がそれを聞いた者の心の形式になり、南無阿弥陀仏を称念することが行の形式になるということだね。

 

A君 そういうことだね。大行とか大信は大悲心の存在形式に名づけた名称であり、その本質は大悲心なのだ。存在形式があるから認識できるが、存在形式がなければ人には大悲心を認識することができない。だから大悲心はその形式をとらないことにはその存在を認識されないんだ。

 

B君 仏様の立場から言うと、人にその存在が認められなければ大悲心が存在する意味がないことになってしまうよね。だから、存在が認められるように南無阿弥陀仏という文字や音声の姿をとった。その六字には仏様の大悲心を表す意味と法蔵菩薩のストーリーがある。摂取して捨て給わぬというのがその意味で、仏願の生起本末がそのストーリーだ。その意味するところが重要だね。その意味が理解されなければ六字の形をとっても人は大悲心を認識できないことになってしまう。そして私が南無阿弥陀仏の意味を認識するだけではなく、私が直接、南無阿弥陀仏を感受できるように仕上げ、行としても実践できるように仕上げられたんだね。

 

A君 その通りだね。

 

 

B君 ところで、仏様の大悲を感受している思いがあるというが、これはどういうことなのかもう少し詳しく説明してくれないかな。

 

A君 仏様の大悲を感受している思いを考えてみると、おおざっぱに言えばつぎのようになるよ。南無阿弥陀仏阿弥陀仏は①摂取不捨せんという大悲を、②南無は大悲をそのまま受け入れること。そのような意味であることは既に聞いたり読んだりして知識として知っていた。しかし、仏様の大悲が私にかけられているということをこれまでに幾度となく聞いても、それが分からず幾度となく反問したり煩悶したりしていた。自力の思いに囚われてその思いから抜けられずに煩悶していたときに、そのまま救うとの仏様の大悲に気づき仏様の大悲を感受するようになった。自分の身の上に大悲が感受されたとき、その大悲を受けているままが摂取して捨て給わぬ阿弥陀仏に南無していることだと理解できた。これが南無阿弥陀仏となった心の状態であると理解できたし、この南無阿弥陀仏は私が浄土往生できるすがたそのものであるということも分かったし、この南無阿弥陀仏の心相のままに私は浄土往生できると分かった。これが仏様の南無阿弥陀仏の働きだということも理解できた。それで、称える念仏の南無阿弥陀仏も仏様(の働き)であると理解できた。南無阿弥陀仏の心の状態のままに称えるのが口称の大行だと理解できたのだ。これらが私にとって仏様の大悲を感受している思いだね。

 

B君 仏様の大悲を感受してそのように理解したというんだね。

 

A君 正確に言うならば、仏様の大悲を感受してそのように理解できたのか、そのように理解できて仏様の大悲を感受するようになったのか、よく分からないんだよ。さっき言った気づきとか感受とか理解というのは直感的で感覚的なものであって論理的なものではないから、どうなってそうなったのか、などということはよく分からないんだ。だからうまく説明できないので、もどかしく思うよ。

 

B君 なるほどね。どちらであるしても、大悲心を感受していることにはある思いが伴い、ある思いの下に大悲心を感受しているってことだね。

 

A君 そうだね。それを信知といっても良いよね。そのような信知があるので、仏様の大悲の働きが心に働いているときの働きを大信という言い方で呼んでもよいし、その働きが念仏行という形で現れたとき大行という言い方で呼んでも良いと分かるんだ。行と心との違いはあるが、いずれも仏様の大悲の働きであるから大行も大信も仏様の大悲による救済という一括りで理解すれば良いんだということも分かるんだ。だから、大行を能行で理解するか所行で理解するかという議論はあまり意味のない議論だよ。また、折衷的な能所不二の称名とかという用語は分かりにくい哲理的用語だ。能所不二というのは、御名をそのまま現わした称名・称名に現れた御名という意味だが、大悲を感受して南無阿弥陀仏の心相のままに称える称名のことだ。仏様の大悲による救済は大悲心を感受することで必ず信と称名というあり方になる。そのあり方が大悲のあり方だと理解しておけば十分だよ。

 

 

B君 信も大行だと言うのであれば、称名大行を大信といっても良いのかい。

 

A君 いいと思うよ。南無阿弥陀仏の心相のままに称念するままが信のすがただよ。それ以外に信のすがたはない。

 

B君 称名大行を大信と言ったり大信を称名大行と言ってしまうのは概念の混乱になるのではないのかな。

 

A君 確かにそうなってしまう。だけど、もともと生きた人間の上に大悲心が働き、その働きを心で受けとめた者の念仏行というのは、仏様の大悲による救済そのものだ。これを大行というのであればこの大行には大信があるし、大信は放っておいても自然と称名大行となってゆく。大信と言っても称名大行と言っても大悲心の現れ方を人間が便宜的に概念的に区別しているだけのことではないかと思う。大悲心を聞信し大悲心を感受した人に現れる大悲心の現れ方を仏様は「至心信楽欲生我国乃至十念」と一括りで言われているだけだ。仏様の大悲心を受けていると実感している限りは、その概念的区別はさして重要な問題ではないと思うよ。学問的には大行と大信を区別し、その概念を精緻なものにしてゆくことに意味がないわけではないと思うが。

 

 

B君 祖師は称名と大信は不離の関係にあるという意味のことを言われているけど(*1)、君に言わせれば、称名大行は大信を含み、大信も称名大行を含んでいるということになるのかな。

(*1)親鸞聖人御消息(7)を以下に引用

信の一念・行の一念ふたつなれども信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし。・・信と行とふたつときけども行をひとこえするとききて疑わねば行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。

 

A君 そうだね。

 先にも言ったことだが、十七・十八願による大悲心の救済は私の第一希有の念仏行となり、私の金剛不壊の心となる。選択摂取の本願、第一希有の行、金剛不壊の心の3つは等価な仏様の救済そのものだから、祖師は正念の一言でまとめられたのだと思う。仏様の正念である願が私の正念たる行と心になっているという理解だね。仏様の救済というのは南無阿弥陀仏による救いなのだが、南無阿弥陀仏というのは摂取して捨て給わぬ大悲心を意味している。その意味する大悲心を私に聞かせて大悲心を知らしめて、その南無阿弥陀仏が私の大信となり大行となることを予定している救いだ。その大悲の救いは必ず大信となり大行となる。南無阿弥陀仏の大悲心を聞けば、私の心は大悲心を感受し、感受した大悲心に導かれて念仏を称えるようになる。この称名を大行というのであれば、当然に大信を含んだ称名大行だ。大信の欠けた称名にそのような大という資格を与えることはできない。また、大信は仏様の大悲による救済の現れであるから、その大信にはいわば称名大行の種を孕んでいるようなものだ。大信中に称名大行の種がなければ大信ということはできない。大信に称名大行の種があるから称名大行が現れてくるんだろう。だから、称名大行といおうが大信といおうがそれらは仏様の救済である以上互いに互いを内包しあっているんだよ。南無阿弥陀仏の救済には大信も称名大行もある。だから私が南無阿弥陀仏を頂けば南無阿弥陀仏がそのまま私の大信となり、称名大行となる。逆に私の中に開け起こった大信や私の称える称名大行には南無阿弥陀仏がある。だから祖師は「称名は最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」と言われたのだと思うよ。祖師の心の中では「これらはみな仏様の働きだ。」との思いがあったのだろうよ。

 

A君 これを分かってもらうために君にやってほしいことがあるんだよ。

 

B君 なんだい。

 

A君 「称名は最勝真妙の正業なり、正業は念仏なり、念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念なり。」のあとに続けて言って欲しいんだが。

 

B君 うん。

 

A君 正念はさっき言ったように称名行を表すことがあるし、信を表すことがあるよね。それで、正念が称名を表しているときは「正念は称名。称名は最勝真妙の正業・・・。」と続けることができるよね。

 

B君 できるね。

 

A君 ではやってみると「正念は称名、称名は・・念仏、念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念」と続くよね。

 

B君 うん。

 

A君 じゃあ今度は「正念」を大信だとすると、「正念は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は念仏、念仏は称名」とつながるよね。

 

B君 うん。

 

A君 このようなことが際限もなく続いてゆくことが分かるかい。

 

B君 分かるよ。やってみようか。「称名は最勝真妙の正業 正業は念仏 念仏は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は正念 正念は称名 称名は最勝真妙の正業 正業は念仏 念仏は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は正念なり。正念は南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は念仏 念仏は最勝真妙の正業 最勝真妙の正業は称名なり。称名は・・(*2)」と同じことがぐるぐると円を描く様にずっと際限もなく続いてゆくね。

 

A君 どうだい。一つ一つが全体として一つになっているように感じられないかな。

 

B君 これらは仏様の願心から起こり、一つの全体となって続いていくということを言いたいんだね。

 

A君 その通りだよ。

 その一つ一つが仏様の救いそのものなんだ。だから一つ一つが互いに関連しあって必ず円環を形成して全体となってゆくんだ。だから称名念仏南無阿弥陀仏を含み、南無阿弥陀仏は信を含み、信は称名念仏を含むということが言えるし、称名念仏南無阿弥陀仏や信を含み、南無阿弥陀仏称名念仏や信を含み、信は南無阿弥陀仏称名念仏を含むとも言えるんだ。この関連性を念頭に置くと大行は大信を含み、大信は大行を含むといっても良いと思うのだよ。ただ注意して欲しいのは、ここで言っている称名とか念仏とか南無阿弥陀仏というのは、どれも私の称名であり私の念仏であり私の心の内の南無阿弥陀仏のことであって、他人の称名が大行であるとか、他人のものとなっている南無阿弥陀仏が大行だと言っているのではないんだよ。

 

 

B君 ではどうやったら、その救いの円の中に入れるんだい。

 

A君 もう一度さっきのことをよく見てごらん。(*2)と表示した所だよ。称えている念仏が仏様による最勝真妙の正業だ。最勝真妙の正業というのは最勝真妙の浄土に生まれられる仏様の最勝真妙の往生行のことだ。だから念仏を称えることが私の浄土往生が定まった証だということが分かるよね。自分の計らいを入れる余地はないと分かるはずだし、それが仏様の大悲心の現れだということも分かるはずだ。それで南無阿弥陀仏にて往生するという思いになれるよ。

 

 

B君 最近、A君は念仏の主観的意味を決めるものはその念仏を称える人の心の状態や思いだという考えのもとに、南無阿弥陀仏の心相となったことや浄土往生が決まったことを悦ぶ浄土願生の思いがその者が称える念仏に大行の意味や浄土往生の行の意を与えると述べたよね。

 

A君 うん。確かにそう書いた。

 

B君 意味を与えるというのはどういうことなのだい。

 

A君 心は絵描きであり、同時に心は絵描きによって絵を描かれるカンバスだという喩えを聞いたことはないかな。

 

B君 唯心論だよね。

 

A君 そう。自らの心が自らの心の上に絵を描いて、描かれた絵をその心が眺めて認識する。認識されたものはすべて心が生み出したものだというのが唯心論の基本的な考え方だよね。無意識の心の働きによって認識の対象が心に具象化され、それが意識によって認識され、その具象化された対象に意味や概念を与える。再び対象を認識したときそれを概念で理解し、そこから意味を読み取り、あれこれと判断する。僕にはこれは真理の一面であるように思えるんだ。妻という言葉を例にして考えてみようか。妻という言葉を聞けば、だれでも妻という言葉の持っている意味を理解できるよね。妻という概念がみんなの共通の概念となっているから妻という言葉を聞けばその意味を理解できる。概念というのは心の中にあるイメージのことだと思えばいいんだけど、そのイメージというのは心が作り出したものだよ。それで、ある女性を妻と呼ぶとき、その人の心は妻という概念をその女性に与えてその女性を妻と認識している、という構図になるんじゃないかと思えるんだ。妻を一例にとったけど、人が持っている概念や意味はすべて心が作り出したイメージであり、そのイメージを使って物事を認識したり、理解したり、考えたりしているんじゃないかと思うんだ。

 

B君 その考えでは、大行とか大信というのも概念だよね。

 

A君 そうだね。もともと念仏を称えるという行為は、細分化するとさまざま事実や状態を構成要素として成立しているものだよね。この行為にどのような意味があるかという問題は、この行為にどのような意味を与えるかという問題であり、それは心が決めることなんじゃないかって思えるのさ。

 

B君 それで。

 

A君 例えば、ある念仏は自力の念仏だというとき、それを言っている人は自力の念仏という概念とか他力の念仏という概念を持っていて、ある念仏が自力の念仏か他力の念仏かをその概念を適用して判断していることになるけど、その人はどのような念仏を自力の念仏と言っているのか他力の念仏と言っているのかをよくよく聞かないと分からない。僕は自力の念仏というとき、「我が行を浄土往生の資助になるとして称える念仏」を想定している。これに対して他力の念仏というのは「我が行を浄土往生の資助になるという思いはきれいさっぱり無くなってしまって、仏様の大悲によって往生できるという思いで称える念仏」を想定している。このような想定では、念仏の自力他力はその人の称える心や思いで決まってくるということだよね。そして、仏様の大悲によって往生できるという思いは仏様の大悲を感受しているところに生じる思いだから、仏様の大悲を感受している思いがあるか無いかで自力他力の区別することになる。仏様の大悲を感受している思いは自分の心の中にある心理的事実だから、その事実のあることは自分で認識できる。それで、この事実がありそうな人なのか無さそうな人なのかを判断して、念仏を含めて自力か他力かを区別しているということになる。区別しているということは他人に自力とか他力とかの概念を与えているということだね。これは他人の言動を見たときのことだが、自分の心のあり方を見たときにも同じことが言えるよ。自分に仏様の大悲を感受している思いがあるから、ここからこの大悲の感受が南無阿弥陀仏となった心相であると理解でき、その理解から南無阿弥陀仏の心相は私が浄土往生してゆくすがたであるとの思いとなり、私の称念する南無阿弥陀仏は仏様の表れであるとの意味を念仏に与えることになる。つまり、念仏は大行であると分かった。この分かったということを、先に述べた「心が意味を決める」という考えに照らして言い換えると、大悲を感受できた心の状態が念仏に大行の意味を与えたということになるのではないかと思えるのだよ。

 

B君 大悲を感受して南無阿弥陀仏が仏様の大悲だと信知したことから、南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆくすがたを表しているという意味をその南無阿弥陀仏から読み取り、念仏にその意味を与える。そして、念仏から称えている南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆくすがただという意味を読み取ることになるんだね。

 

A君 そう。だから、南無阿弥陀仏は称名、称名は南無阿弥陀仏であり、いずれも私の往生してゆく私のすがたであり往生の行であるという思いが起こるんだね。その思いが大悲を感受している大信なのだよ。

 

B君 だから、祖師は大行と大信は不離だと言われたんだね。

 

A君 そうだね。それは元祖聖人の思いでもあるよ。「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の子細そうらわず」「三心四修と申す事の候ふは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候なり」とは元祖聖人の仰せだが、祖師はこの思いを元祖聖人から聞かれていたのだろう。「信の一念・行の一念ふたつなれども信をはなれたる行もなし。・・・信と行とふたつときけども行をひとこえするとききて疑わねば行をはなれたる信はなしとききて候ふ。」と言われた中の最後の「ききて候ふ。」とあるのは元祖聖人から聞かれたということだね。