1-24.観経と大経の信・行一致

 観経の下々品には、善知識が臨終の愚人に対して妙法を説いたが、この愚人は苦に責められて念仏するいとまがない。そこで善友は、教えを転じて口称を勧め、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし」と告げた。愚人はその勧めを受け入れて、「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称」したところ愚人の罪が除かれて浄土往生できたとされています。ここから善導は、口称の称名念仏を大経の十八願文の中心に据えて、「もしわれ成仏せんに十方の衆生わが名号を称せん。下十声に至るまで、もし生まれば正覚をとらじ」と読み替えたものと思われます。つまり十念の念は「声を絶えざらしめて」の声であるとし、また信を称名念仏の裏に隠しまいました。

 上記の「妙法」とは、南無阿弥陀仏のことだと推測されます。十六観法は愚人にはもとより無理です。臨終の悪人にはなおさら不可能ですから、善知識がこの観法を臨終の愚人に対して説かれるはずはありません。

 この南無阿弥陀仏は、私が死後に往く浄土の完成と私が浄土往生できることを告げる如来の名告りであり、その名告りがそのまま如来の救いの手だてとなっていることをいいます。ですから、その名告りを聞けば、聞いた衆生はたとえ愚人でも心から安堵し、その安堵から称名念仏が外相にあらわれてきます。それが大経の願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」です。
 ところが、観経の愚人はその妙法を聞いても、正しく如来の願心を理解することができず、苦に責められて仏を念じることが出来ないと嘆くのです。愚人は仏を念じることができなければ救われないと大きな勘違いをして仏を念じようと努めたのです。そこで善友は教え方を変えて(転教)、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし(口称)」と心の有り様を問題とすることなく、ただ無量寿仏の名を称すことを教え勧めたところ、愚人が「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称した」と記されています。

 ここで見落としてはならない重要なポイントは、十念の念仏を称えるに「心を至して」とあるところです。「心を至して」とは、十八願文では「至心信楽欲生我国」の至心と同じです。

 至心とは如来の至心が私に至り届いていることを私が受け入れたこと、すなわち、「自力の計らいを交えない状態で如来の至心である願心を受けていること」をいいます。これ以外に愚人に至心なるまことの至誠心はありません。この至心が観経に表されている愚人の他力信です。「十念を具足して南無阿弥陀仏と称した」とは十八願文の「乃至十念」のことであり、これが愚人の行です。信・行ともに十八願文の「至心信楽欲生我国」「乃至十念」に相当していることが分かります。この他力の信行に導くことにこそ如来の目的があります。他力の信が生じる直前に善友が御名を称することを勧めたのは、仏を念ずるなどの自力の計らいや諸行を廃捨させるためだったと考えられますが、称名念仏する以外のことは何も必要としていない如来の救いであることを受け入れさせるために、無量寿仏の御名を称すべしと念仏を勧めたのです。その真のねらいは、御名を称するという行を行わせることを通じて仏を念ずるなどの自力の計らいや行は仏願に相応しない自力の行であることを理解させ、これを廃捨させることにあったと理解されます。その念仏の勧めを受けて愚人は、心を至して声を絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称したというのですから、転教口称の勧めによって「自力の計らいが廃捨させられた」というところが最も重要なポイントだと私は考えます。

 では、なぜ、上記の教説によって自力の計らいが廃るのかということですが、それは、如来の願いを聞いてその願いを受け入れるからです。善導の「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」の文に「順被仏願故」とあるのを受けて、元祖は、念仏を称えることが彼の仏願に順じることであるとして仏願を受け入れたように、ただ念仏を称えることが仏願にかなうことだと理解しこれを心で受けとめて、その仏願を受け入れたから自力の計らいが廃ったのです。仏願を受け入れたことによって他力の信と行とが恵まれたのです。

 大経の願成就文の「その名号を説くを聞いて信心歓喜する」という教説は、南無阿弥陀仏の妙法は、ただ如来に私を救うとの願心があると聞くだけでその妙なる働きが現実のものになるということを教えたものです。大経においても、仏願を聞いて仏願を受け入れることにより信心歓喜し自力の計らいが廃るのです。仏願を受け入れることが信であり、受け入れた上での念仏が乃至一念または乃至十念の念仏となることは観経でも大経でも違いはありません。観経では、ただ無量寿仏の名を称すべしと教えていますから、一見して大経の説き方とは異なっています。片や諸仏の称讃する名号を聞く、片や仏が称名念仏を勧めるという明らかな違いがあります。しかし、この違いは、他力の信行を生じさせるという結果を招来させるものである点では同じであり違いはありません。願成就文の「聞其名号・信心歓喜」は、私が往生する浄土の完成と私が浄土往生できることを告げる如来の名告りであり、その名告りがそのまま如来の救いの手だてとなっていることから、その名告りである御名を聞くだけで如来の救いに預かることができる。ですから、この「聞其名号」の教説には、聞く以外のすべての行や思いをアテにする自力の計らいを廃棄させる働きがあります。ともに仏願を聞かせて仏願を受け入れさせて自力の行を廃捨させるための教説(便法)なのです。口称の念仏一行を勧めるか、浄土の完成と必得往生を告げる名を聞き受けることを勧めるかの違いはあれども、その目的はともに仏願を聞かせて仏願を受け入れさせて自力を廃捨させることにあり、また、その目的のとおりに自力廃捨の効果が自然に生じるのです。前者の念仏を称えることで自力が廃ったことを観経では、「なんじ、もし仏を念ずるあたわずは、まさに無量寿仏の名を称すべし」と勧められた愚人が「心を至して声を絶えざらしめて十念を具足した」と説かれ、大経では、諸仏が称賛する「名号を聞いて信心歓喜し乃至一念する」と説かれています。これは同一の信と行を表しているものです。この点で観経と大経とは見事に一致しています。教説の違いということに目を向けるのではなく、その教説の目的、教説から導かれる効用という観点から観経と大経を眺めると、ともに仏願を受け入れることによって他力の信と行が生じる効用があることを教えていると分かります。