3-9.如来回向

A君 聴聞しているのは如来回向の救いの法っていうけど、如来回向とはどういうことか、分かるかい?

B君 簡単に事じゃないか。如来回向というのは、如来が救いの法を私にさし向けているということだよ。

A君 うん、そうなんだけど、さし向けているというのは、具体的にどういうことになんだい?

B君 救いの法を聞いているってことだね。

Cさん じゃあ、救いの法というのは、どういうことかしら?

B君 救いの法というのは、如来がすでに私の浄土往生を決定させた、だから、安心して浄土に来いよ、という如来の願心のことだね。如来の願心が私を救う法なんだ。

A君 じゃ、如来の願心を聞いているのが、如来回向ということなんだね。

B君 そうだね。

Cさん じゃ、聴聞していることが如来の回向を受けているって事なの?

B君 聴聞じゃなくて、聞即信の聞ということさ。信に至らなければ回向を受けているとは言えないよ。

A君 そうなのかい? 僕はそうは思わないな。

B君 どうして?

A君 如来の願心を聴聞しているということは、その聴聞をしているがままが救いの法を既に回向されており、救いの法を受けているということだよ。

B君 信が生じなくてもかい?

A君 そうだね、信が生じなくても既に回向を受けているということさ。たとえ、信が生じなくてもさ、如来の願心を聴聞しているということは、既に如来の願心が私に届けられているということだよ。
 もう少し言えば、釈迦が世に出られて大経を説かれ、大経に説かれた阿弥陀仏の本願を信受した無名の人々がその教えを留め、その中から、龍樹、天親という聖人が現れ、世に如来の本願を現し、さらに曇鸞へとつながり、善導が中国に浄土教を広め、日本に法然聖人という偉大な天才があらわれ、広く念仏往生の道を説かれ、祖師はその教えを体系だてて真宗の基礎を築き、その後、日本全国に真宗が弘まったというのは、十七願にその成就が誓われた御名の力が人々の上に表れたものだよね。だから、既に本願の教えを聴聞している人には、如来の本願力が届いているんだ。真宗だけではない。浄土宗や時宗において如来の本願を聞いているということであっても、如来の本願力が届いているんだ。

Cさん 私もそう思うわ。だから、私は、もう既に如来の救いの中にあったんだと気づけたのよ。

A君 B君、どうだい。如来の救いが既に私に届いていたから、私はその事実に気づいたのではないかい?

B君 そうだね。信が生じる前から、如来の願心が救いの法として私に届いていたんだよな。

A君 如来の救いは観念的ではなく、現実の歴史の中の人々に願力が働き、歴史が作られ、現在の私はその大きな歴史の中にあって如来の大悲心を聞いているという事実には、何か、大きな縁起を感じないかなぁ?

Cさん そうね。感じるわね。

A君 私という存在もその大きな縁起の中の存在であり、既に如来の救いの法が様々な縁起によって私に届けられているってことに、僕は新鮮な驚きを感じて欲しいと思っているんだ。

A君 そうすると、確認するよ。聴聞とは、何を聞くことになるんだろうか。

Cさん 如来の救いの法が既に私に届いていて、私の往生は決定しているということを聴聞させていただくのね。

A君 そうだね。そして、その救いの法とは如来の大悲心のことであり、その大慈悲心を聞き受けるんだよ。その大悲心が私の上に働いているということを聞くんだ。

B君 それに関連するけど、天親の浄土論に「不虚作住持功徳成就」「不虚作住持功徳成就は、けだしこれ弥陀如来の本願力なり。・・いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩四十八願と今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もて力を成ず。力もて願につく。願徒然ならず。力虚説ならず。力、願にあひかなふて畢竟してたがわず。かるが故に成就という。」とあるよね。

B君 僕は、この文句が大好きなんだ。願と力は虚説ではなく徒然でもない、ということは、願力のとおりになるということだから、私は間違いなく助かるということだからね。

Cさん つまり、願と力は虚説ではなく徒然でもない、ということなら、私の浄土往生は決定しているということなのよね。ここを聞くのが聴聞なのよね。

A君 いゃ~。今日は、ひさびさに感動させられたよ。 

3-8.三願転入 その1

A君 祖師は、どうして三願転入の文を書かれたんだろうね?

B君 やっぱり、祖師は聖道自力の行から、どこかの段階で浄土の法門に入られて念仏行をされていたのではないかと思うんですよね。祖師は既に比叡のお山で常行念仏をされていたと聞いたことがあります。

Cさん 比叡のお山で修行されていた時点で既に十九願から二十願の行者になっていたということね。

A君 そういう可能性はあるだろうね。法然聖人の門下に入ったときは、二十願の行者だったのだろうね。

B君 でも、この三願転入の御文は、前2つの法門の廃捨すべき事を自分にこと寄せて述べられたという説もありますよね。

Cさん あるけどさ、ご自分のこととして難思往生の心を起こしき、とか、難思議往生を遂げんと発す、と述べられているように思えるわ。

A君 そうすると、祖師は十八願に転入するまでのことを如来の慈悲との関係でどのように受けとめているのだろうか?

B君 それは、願海に入って深く仏恩を知れりと言われているのだから、それらの過程は、いずれも如来の大悲心によってなさしめられたと感激されていたのだと思うな。

Cさん 私も同感だわ。

A君 観経と阿弥陀経に隠顕ありと解釈され、十九願にも二十願の果遂の誓いにも大悲心による誘引の働きがあったと述べられているので、僕も同感だね。

B君 そうすると、A君に聞きたいのだけれど、信を得るまでに十九願の行からはじめて、その行が難行であることを知り、二十願の専称といわれる自力念仏を行うという経過を誰しもが辿らなければならないって考えていいのかな。

A君 さぁね。よく分からないね。ただ、そのようなことを考えるとしたら、十八願に転入するまでの永い期間を考えてみなければならないと思うな。

B君 どういうこと?

A君 長く流転を重ねてきた間に、聖道自力の行を行い、その難行から脱落して敗壊の菩薩となり、その後、浄土門に入ってもその自力の行に執着し、それでも出離できず、口称の念仏を専称してきた魂の永い過去があったのかも知れない。過去の長い生命の歴史を考えると、誰でもがそのような経過を辿るのかも知れないってことさ。

B君 そうかも知れないけど、それは実証できないことだよね。

Cさん そうよ。誰にもそんな過去のことは分からないわよ。それなのに、十八願に転入するまでの永い期間に十九願の行や二十願の行を行ってきたというのは、無意味よ。

A君 僕も無意味だと思うよ。分からないことだからね。

B君 今生のことだけに限って考えてみてよ。

Cさん そうよ。生まれてくる前の過去の話なんてどうでもいいじゃないの。

A君 まぁ、そうだね。今生に限っていえば、一度十九願の行や二十願の行を行わなければ十八願に転入できない、なんて言うつもりはないし、そんなことは間違っていると思うよ。ただ、どのような機の人かによって答えは変わってくるかもしれないね。

B君 それ、どういうこと?

A君 たとえば、現代でも聖道難行の自力の行を行っている人はいるよね。その人が難行に敗れてしまったとしようか。その人にとっては浄土往生しか方法はないことになるから、浄土往生したいという思いになるかも知れない。そして、これまでの行をやってきたという思いに執着していたとすれば、観経に説かれるように定善の行や散善の行をもって浄土往生できると誘引する必要がある。そのために、如来は十九願を立てられたと理解できる。
 これに対して、聖道自力の行を行う気持ちの乏しい人に対して定善の行や散善の行をもって浄土往生できると誘引したところで、できっこないとすぐにあきらめてしまうだろう。そうした人には、自力の行を必要としない南无阿弥陀仏の救いを説かなければならないんだ。それを勘違いして易い行なので自分にもできると思って専称の行を行って浄土に往きたいと願う。そうした人には、果遂の誓いとして二十願を立てられた。それでも、臨終まで往生できないことに我慢できない人には十七願と十八願を立てられた。結局、如来は機に応じて十九願、二十願、十八願をそれぞれ別に独立した救いの道として用意されたのだと思う。

B君 そうすると、真宗を聞いている人は、現生の救いを聞いているのだから、そんな人に聖道難行の自力の行を勧めたって意味ないよね。

Cさん 意味ないどころか、無駄な回り道をさせていると思うわ。

A君 でも、人は誰でも、自分の行を足しにして救いを求めるという思いはあるだろう? そういう人をどう導けばいいのかな。やっぱり、自力の行をやらないと、の思いが思い上がりだったとは気づかないのじゃないかな。

B君 そうだけど、その人が自力の行をやらせなければ、その思いが思い上がりだったと気づかない人だと、分かるものなのかなぁ。

Cさん そうよねぇ。

A君 じゃあ、分かったら、自力の行を勧めてもいいってことになるのかな?

B君 機を見抜けるというところに思い上がりを感じるなぁ。 

Cさん そうよ。誰もそのようなことは分からないと思う。この人には十九願の諸善を勧めた方が早く信が得られるとか、予め分かるという人がいれば、その人に会ってみたいものだわねえ。

A君 そうだね。同感だ。信を得た人に分かっているのは、ただ、如来の願心を聞き受けなければ自力の計らいは絶対に廃らないってことだね。信に導くためにその機にあう説法として諸善を奨める、という芸当ができるのは、仏の智慧のある者にしかできないことだと思うよね。

B君 それに、如来が十九願を立てられた願底には、大悲心による誘引があると祖師は述べられていても、諸善を勧めた方が早く信が得られる、という論理は述べておられないと思うんだ。祖師の言われていることは、ただ、十八願海に転入したのは、如来の大悲心が常に働いていたということにあり、その願心は十八願海に入れしめるということだから、如来の願心を理解できるならば、その願心を受けとめて、祖師が言われるように十九願と二十願を永く離れなければならないといけないってことだね。

Cさん そうね。三願転入の御文を根拠として、自力一杯求めよ、なんていうのは、如来の願心を理解していない者の言うことだわ。

A君 もう布施などの諸善に疲れたという人に対して、まだまだ善ができるとか布施ができる。自力が廃るまで善を勧めなけむればならない、と教えることは、罪なことだよ。何度も言うようだけど、そもそも、善ができない自分だと知って自力が廃るものではないんだ。

Cさん 自力一杯求めない者に自力が廃ったということはない、と言われると、そう思ってしまうのよね。

A君 それはそれで正しい言い方だけど、受け取りようによっては誤解してしまうんだよね。

B君 そう。自力一杯求めない者に自力が廃ったということはない、ということの正しい意味は、願心を聞き受けたいと思いながらも、自力の計らいを交えないではいられない者が如来の願心を聞くことで自力が廃るという意味なんだけど、自力一杯もとめないと自力は廃らないと誤解してしまうんだよね。

Cさん そうした誤解が生じることを狙って、そんなことを言っているって疑いたくなるわ。

A君 もっともだね。だから説く方は、ただ、浄土往生を決定させたという願心とその願心を聞き受けると言うことだけを伝えればいいんだよ。

B君Cさん そうそう。そう思うわ。 

3-7.無条件の救い

A君 十八願における如来の救いは無条件と言われているけど、どうしてそういわれるのか、分かる?

B君 如来の救いは他力回向だから、じゃないですか。

Cさん 他力回向だとしてもどうして無条件の救いになるのか、その説明が必要よ。

B君 そうだね。

A君 もう少し、問題を絞るので、考えて欲しい。
 十八願の「至心信楽欲生我国」という信は浄土往生の真因だから、浄土往生する必要な条件だといえる。「乃至十念」は、称えても良い、称えられなければ称えなくても良い、ということだから、口称の念仏は浄土往生の必要条件ではない、ということになる。そうすると、十八願による浄土往生は「至心信楽欲生我国」という信が必要条件であり、かつ、十分条件だと言うことになる。
 いま、無条件の救いと言われているのは、この浄土往生の条件のことではなく、信が開け起こることが衆生にとって無条件であるか、ということなんだ。

B君 あぁ。よく分かりました。それなら簡単だ。信が開けるのは願心だから、願心が無条件の救いを誓っている、てことですよね。

Cさん そうなんだけど、どの願を見れば、無条件の救いを誓っていることが分かるのか、ってことよ。十八願を見ただけでは、無条件の救いだとは読めないでしょ。

B君 そうすると、十八願以外の願に無条件の救いの根拠を求めるとなると、十七願ということ?

A君 どうして、十七願が無条件の救いを誓っているのか、分かるかい?

B君 十七願は御名が諸仏に讃嘆されることを誓った願だよね。諸仏に御名が讃嘆されるのは、阿弥陀仏衆生往生と仏の覚りの同時成就を果たしたからだよね。そのような御名が諸仏によって讃嘆されるのだから、衆生はその御名を聞くことになる。その御名は、浄土往生の決定を告げる如来の呼び声。  

A君 おっ。いい線いっているじゃないか。十七願文には出てこないけど、衆生に御名を聞かせるというところが十七願の大事なポイントだと言っていいよね。十八願成就文に、聞其名号とあるのは、諸仏に讃嘆される名号を聞いて、ということだから、御名を諸仏に讃嘆してもらい、衆生に御名を聞かせるということが十七願の重要なところだよね。

B君 そっか。そうすると、衆生は御名を聞きさえすれば、信心歓喜するということか。

A君 そうなんだ。如来は諸仏を通じて十七願のとおりに完成された御名=浄土往生の決定を衆生に聞かせて信じさせて救うという願いをもっているんのだ。その信の成就を誓ったのが十八願、その十八願と十七願が成就したから諸仏は御名を讃嘆し、その仏の説かれた内容が大無量寿経として記録されたということになるのだね。

B君 如来衆生に聞かせるところまでお手回しされているから、衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけでいいんだ。

A君 じゃ、衆生には聞くという条件が必要になるのではないか。

B君 もし、聞くということが条件であるなら、無条件ではないですよね。

A君 そうだよね。でも、聞く気の無かった私が如来の救いの法を聞くようになったのは、どうしてなんだろうね。

B君 それも、如来のお手回し、だとすると、無条件になってしまうよね。 

Cさん 親鸞聖人は関東で布教しているとき、子供を亡くした親はないか、親を亡くした子はないかと言って布教されたようだけど、そのような縁に会った人が祖師の言葉に感じるところがあって如来の法を聞くようになったとすれば、親鸞聖人の活動は如来の願力に催されてなさしめられたようなものよね。

B君 考えてみれば、僕も知らず知らずのうちに、感じるところがあって救いの法を聞くようになっていたんだ。その感じるところがあったのは、今から思えば、如来のお手回しってことだったということね。

A君 聞き始めたのは、何か感じるところがあったからなんだろうけど、その何かを感じるようになったところに、真実一如の如来からの働きかけ(内薫)があったということだと思うんだ。そして、気づいたときは、救いの法の内にあってその法を聞いていた、ということだね。

B君 これがお手回しですね。

Cさん そうよ。真宗を聞いている人は、もうすっかり如来の手の内にある人なのね。

B君 だから、祖師は、遠く宿縁を喜べっていうんだね。

A君 宿縁というのは、如来が私を救うために導いたご方便をいうんだね。私が法を聞いて何かを感じて聞き続けた、というのは、本当に得難い、大悲心による働きの結果だと思うよね。内薫というのは内からの如来の働きかけ、外薫というのは外からの如来の働きかけ、このふたつの働きかけがあって、法を聞き、信心に恵まれるんだ。内外ともに如来の働きかけではないものはないと思うんだ。

B君 だから、絶対他力ともいうんだね。 

A君 そうさ。最初の導きから信が開け起こるまですべて如来のお手回しだから、無条件の救いなのさ。

A君 じゃさ。聞くよ。無条件の救いなのに、自分の力で救われようとしたら、どういうことになるのかな。

B君 そりゃ、ダメだ。

Cさん 御名の成就によって浄土の完成と浄土往生は決定したと聞かせて救うという願心に沿わないわよね。

B君 だから、本願疑惑というんだね。

A君 そう。本願疑惑というのは、本願が本当かどうか疑うというような疑いではないんだ。無条件の救いを前にして、自分であれこれとしなければ救われないなどと勝手に条件をつけるようなことを指して、本願疑惑心というのだ。この思いは、自力をたよるものだから、自力の計らいともいうんだ。十九願の諸善や二十願の称名行を十八願の救いに持ち込もうとすると、そのとたんに如来の救いの手からスルリと漏れてしまうことになるんだ。

Cさん 大事なのは、私の浄土往生は決定したと聞かせて頂くこと。これだけよ。

A君 如来が救いたがっているのだから、如来にまかせておけばいいんだ。こちらが手出しをするようなことではないんだ。死は自分が直面するまさに自分の問題なのに、自分の意志と関係のないところで如来がこの問題を解決してしまっているということを聞いてしまうと、如来が勝手に一方的に私をすくい取っているということになる。これが他力回向の中身ということだね。

3-6.南无阿弥陀仏

A君 十八願文の中に南无阿弥陀仏を見つけられる?

Cさん 蓮如上人は十八願を南无阿弥陀仏といふ願*と呼ばれていたけど、それと関係があるの? *5帖8通(浄土真宗聖典1195頁)

A君 おおありだよ。ちょっと考えてみて。

Cさん ええっと、十八願は「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」
よね。「至心信楽欲生我国」は真実信心、「乃至十念」は数を問わない念仏の行よね。

A君 「至心信楽欲生我国」は真実信心、それを蓮如上人の言葉でいうと・・・。

Cさん 蓮如上人の言葉で言うと、タノム。

A君 タノムを別の言葉で言うと・・。

Cさん あっ。そっか。帰命とか南无だわね。

A君 「若不生者不取正覚」が成就されると・・・。

Cさん 摂取不捨ね。ってことは、阿弥陀仏だわね。摂取して捨てざれば阿弥陀と名づく、と観経にあったわよね。

A君 となると・・・。

Cさん 「至心信楽欲生我国、若不生者不取正覚」が成就すれば、タノム者を摂取して捨てたまわず、だから、南无阿弥陀仏というわけね。

A君 そうなんだ。しかも、「乃至十念」も南无阿弥陀仏だろ。

Cさん 十八願文は、信ある者が摂取されるのだから南无阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏だわね。

A君 そうなんだ。だから十八願は南无阿弥陀仏の成就を誓った願なんだ。

Cさん じゃ、十七願はどうなるの。十七願も御名の成就と回向を誓った願なんでしょ?

A君 そうだけど、十八願は私が南无阿弥陀仏になることを誓った願なんだと理解できるよね。

Cさん 十七願で誓われた御名の成就と諸仏の讃嘆による回向が私の上に働いて、私が南无阿弥陀仏になったって訳ね。

A君 そうなんだ。蓮如上人は、信を得るとは、本願を心得るなり、本願を心得るとは南无阿弥陀仏を心得るなり、と言われているけど、この意味は、もう分かったよね。

Cさん ええ。十八願が私の上に成就すると、私が南无阿弥陀仏になるのよね。私が南无阿弥陀仏になるということは、タノム者を助けるという南无阿弥陀仏のおいわれのとおりに私が摂取不捨の阿弥陀仏に南无しているということね。私が浄土往生してゆく私の姿が南无阿弥陀仏なのね。

A君 そうなんだ。私が摂取されている心相が南无阿弥陀仏、その心相が行となったのが南无阿弥陀仏称名念仏。ここで気づくことはないかい?

Cさん 何かしら。分からないわ。

A君 Cさんは、法然聖人の至心釈を知らないかい?

Cさん よくは知らないけど、善導大師の有名な御文に関してね。

A君 そう。法然聖人は、至心とは内外相応をいうと理解しているよね。私の心相も南无阿弥陀仏、行相も南无阿弥陀仏だよ。これは内外相応だよね。

Cさん あっ。そうか。信を得て念仏を称えている姿が凡夫の至心なのね。よく分かったわ。

A君 信を得て念仏を称えている姿のほかに凡夫の至心はないんだよ。どんなに聖道の道を究めてもね。だから、法然聖人は、本願のまことを深信し念仏を称えることを、総の至誠心とは区別された別の至誠心と言われているよね。祖師も、念仏のみぞ真実にておわしますと言われたよね。もちろん、この念仏とは真如一実と一体となった御名を称えることを指しているけど、称えられる御名が真如一実にかなったものだという、より根源的な理解があるのだと思うけどね。

Cさん 総と別ってなんなの?

A君 法然聖人は、総別の至誠心があるとして、別の至誠心について、「別というは他力に乗じて往生を願う至誠心なり。」と言われているよ。別の至誠心とは、他力の至誠心であり、深心と回向発願心のことだとされている(梯和上「法然教学の研究」280頁あたり)。

Cさん なるほどね。あなたも、ときどき、いいことをいうじゃない。

A君 まぁ~、受け売りさ。ところで、蓮如上人は、タノム者を助けるという言い方をよくされているが、どうして、助ける法を先に言わないのだろうか。いつも、僕はここに引っかかっているのだ。

B君 タノム者を助けるという南无阿弥陀仏のおいわれのとおりの先後で説法されているんじゃないかな。

Cさん そうだと思うけど、タノムの前には、タノマせる救いの法が先にあるのだから、無条件で助けるとか、往生は決定しているという救いの法を先に述べてくれた方がスッキリする気がするわ。  

A君 ん~。ここは、それぞれの好きずきにまかせましょうか。

3-5.信が得られる条件-赤尾の道宗

Cさん 赤尾の道宗は、琵琶湖の海を一人して埋めよと蓮如上人から言われて、かしこまると答えたそうだけど、蓮如上人は、善知識に絶対服従することを求められたということなのかしら。

B君 違うね。善知識に絶対服従するというこことと信を得られるということとは、まったく別物さ。絶対服従すれば信をえられるとは言えないし、絶対服従しなくても信は得られるよ。

A君 ま~、そうなんだけど、御一代聞き書きには、死ねと言われて死ぬ人はいるが、信をとる人がいないと言われている。これは、蓮如上人のお弟子の中には、蓮如上人に死ねと命じられれば、命を絶つことができるような人がいたんだろうね。それでも、信をとれと命じても信をとる人がいないということを言われたものだね。

Cさん 死ねと命じられて死ぬことはできても、信をとることはできない、ということは、どういうことか教えてよ。

A君 命じられたから命を断つなんて事は、普通の精神状態にある人はできっこないけど、それは可能なことだ。自分の意志と覚悟があれば、その命令のとおりに実行することはできる。しかし、信をとれと命じられても、自分の意志で信をとることは絶対にできないんだ。

B君 信をとるかどうかは、その人に意志次第という問題ではないんだね。

A君 そう。これは自分の意志や行動でできる範疇の問題ではないんだ。そうすると、蓮如上人が信をとらせるために絶対服従することを求めるということは、考えがたいことだと分かるよね。

B君 信は願心から生じるというもんね。絶対服従の姿勢から生じるものではないことは、考えたら分かりそうなのにね。

A君 この蓮如上人の言葉を悪用する人物がいたとしたら、これは善知識とは言えないよね。

B君 倫理的に見て極悪人だろうね。

A君 では、絶対服従を求めるのは、どういう理由だと思う?

B君 団体内部における絶対的支配力の確立、人心掌握による自己満足目的ってところかなぁ。

A君 まぁ、そんなところかな。

B君 絶対服従を求めるような団体は、カルトとしかいいようがない。

A君 そのとおりだ。この問題を通じてよく理解しておかなければならないことがあるけど、それは、信は自分の意志や心の持ち方や行など、おおよそ自分の側にあるものを利用して得られるというものではない、ということなんだ。

Cさん 自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らないという言い方をする人いるけど、これは問題ないの?

Aさん 問題大ありだよ。この問題は、大切な所だから議論しようか。Cさんは、どう思っているの。

Cさん そうかなぁと納得できるような感じがしているだけど。

B君 ふっふっふっ、騙されやすいんだね。

Cさん 私だけじゃないわよ。他にも一杯そんな人がいるのだから。
 
A君 じゃ、どこが問題なのか、検証してみよう。
 結局、自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らないという言い方をされた場合、どこに焦点があるかといえば、自力一杯求めよ、というところだよね。

Cさん そういうことね。

A君 あと他に、気づかないかい?

Cさん んーっと。

B君 「自力が廃るまで自力一杯求めなければ自力は廃らない」ということは、その裏には、どんな論理があるのかなぁ。

Cさん そっか。自力一杯求めれば自力は廃るという論理があるわね。

A君 厳密に言えば、そういう論理があるか裏に隠されているかどうかは、分からないんだけど、それを聞いている方は、自力一杯求めれば自力は廃るという理解をしてしまうだろう。

Cさん そうなるわね。

A君 そのような理解をさせてしまうところが大問題なんだ。自力一杯求めよ、という言い方も同じような問題をはらんでいるよね。

B君 ボクは、意図的にそうした誤解をさせていると思うけどなぁ。十九願の諸善を自力一杯しなければ信仰が進まないなどという教説していることを併せ考えると、そのように考えるのは当然じゃないか。

A君 まぁね。だけど、今は、自力一杯求めれば自力は廃るという理解には問題があるということに絞って考えてみようよ。
 自力で求めたことのない人に自力が廃ったということはあり得ないよね。これは考える上での前提としては正しいと思う。だから、自力一杯求めなければ自力は廃らない、という言い方が間違っているとは断定できない。問題となるのは、自力が廃った原因が自力一杯求めたからなのか、それとも別の原因があるのか、ということなんだ。

Cさん どういうことか、もう少し分かるように説明してよ。

A君 如来の願心を聞けよという説法を聞いていたとしても、聞き損じて聞いているうちは自力で聞き求めることになる。これは、至極、当然のことだよね。最初から正しく聞き受ける人はマレだろうから、たいていの人は聞き損じて自力の思いをまじえながら聞くことになる。そういう人は、いずれ正しく聞き受けて自力が廃ることがあるけれど、それまでは自力の思いをまじえて聞法することになってしまう。その意味で、自力で求めたことのない人に自力が廃ったということはないというのは正しいと思うんだ。だけど、自力一杯求めたから自力が廃る、ということはないんだ。

Cさん 自力が廃る原因とは、どういうものなの?

A君 それは、如来の願心のまことを聞く、ということさ。願心のまことを聞くから自力の計らいが廃るんだ。それまで、如来の願心のまことを聞いても、自力の計らいを交えてしまうのが、凡夫の性(さが)なんだね。どうしても、自分の善悪の状態や思いなどが救われるための条件になっているように思ってしまうんだね。例えば、心がきれいになれば救われるだろうとか、自分の側のことを問題としてしまうんだね。

A君 だから、そのようなことを問題とするのではなく、ただ、如来の願心のまことを聞け、と言い続けることが必要で、願心に目を向けさせることが大切なことになるんだ。それなのに、自力一杯求めよ、などといって真剣に聞かなければならないと助言したり指導したりするのは、願心に目を向けさせるのではなく、自らの求道のあり方を是正したり反省するようにさせるだけだ。まったくのお門違いのお勧めになってしまう。真剣に聞け、という言い方も、聞く心構えとして真剣な態度でのぞめと言うことだから、聞く内容ではなく、聞き方を問題とするものだよね。そんなことは信とは関係のないことだ。勧めるべきは、ただ、如来の願心のまことを聞く、ということだけなんだ。如来の願心のまことをそのまま、そのとおりと聞くのが信なんだよ。それが聞即信ということなんだね。

B君 つまりさ、こうしなければならないとか、ああしなければ救われないとか、
自分の側で勝手に救いの条件をつけるなって事さ。そして、教える方も、自分の心のあり方ばかりを注視するような教え方をしてはならないということさ。

Cさん よく分かったわ。

A君 今日のところをまとめると、私が救われる条件を勝手につけるな。私を救うのは如来であって、その如来の救いに私が勝手に救われる条件を付けてはいけないよ、ってことだね。真剣に聞けとか、善をしなければ信仰が進まないとか、こんなことは、如来にとっては、余計なお世話、勝手な口出しをするな、と言いたくなるような事なんだね。

 

3-4.地獄は一定すみかぞかし

A君 我が身は死ねば地獄は一定ということになれば、祖師は、さぞかし苦しい思いをされた、のだろうか。

B君 如来の呼び声を聞いているから苦悩はなかったと思うよ。

Cさん 私もそう思うわ。

A君 いつ、祖師は、地獄は一定という思いになったのか、考えてみると、可能性があるのは比叡の山を降りるとき、だろうなぁ。それと、如来の願心を聞き受けて自力が廃ったとき、それとそれ以降、という事が考えられる。比叡の山を降りるときにそうした思いになっていたとすれば、たいそうお辛かったと思うね。自力が廃ったときにいよいよ地獄一定という思いになったのであれば、如来まかせという安堵感があったと思う。

A君 じゃあ、祖師は浄土往生を喜ばれていたのだろうか。

B君 浄土を願わぬは煩悩の所為であるが、その煩悩し盛の凡夫を救い給わん本願のかたじけなさよ、と喜んでおられることが歎異抄には書かれているよね。

A君 では、煩悩が喜びの種になるというのは、本当だろうか。

B君 本当だと思うよ。

A君 実は僕は、そうは考えていないんだ。

B君 どういうことか、説明してよ。

A君 煩悩は依然として苦しみの種だ。これがそのまま喜びになることはない。但し、その煩悩をきっかけとして、如来の慈悲を仰ぐときその如来の慈悲を喜べるんだな。つまり、喜んでいるのは如来の慈悲であって煩悩ではないよ。心から人を憎しむとき、心にあるのは憎しみだけさ。その状態で苦しむのは当然のことだろう。その憎しみの状態のままでその状態を喜べる信心の人はいないさ。人を憎しんだことをきっかけとして如来の慈悲に思いをいたして慈悲を仰ぐとき、やっとその慈悲を喜ぶというのが本当のところじゃないかい。

B君 そういわれれば、そうだね。

A君 ところで、祖師は、念仏は浄土に生まれるたねやらん、地獄におつるたねやらん。総じてもって存知せざるなりと仰っているけど、浄土に生まれるたねかどうか、本当にわからなかったのだろうか。

B君 分からなかったと思うね。

A君 どうしてそう思うの。

B君 如来の願心がある以上は、自分も浄土に生まれるとは思うけど、それは確信というものとは違うように思えるなぁ。

A君 そうすると、地獄は一定という思いに対して、浄土往生は確信できないということになると、いったい、祖師はどういう気持ちだったんだろうか。

B君 うーん。地獄一定の自分に如来の大悲心が届いているといるということだから、その思いのない者と比べると大悲心に感激していたのだろうと思うけど、浄土往生は確信できないということになると、ある種の緊張感があるよね。

Cさん そうね。自己の実態を見れば地獄ゆき、如来の慈悲を仰げば慈悲を喜び、浄土往生を喜ぶ。どちらか一方に思いが確定してしまうということのない状態ということになるわね。

A君 祖師は、地獄は一定と言われたけれど、僕には地獄一定の思いはないんだ。でも、いざ死ぬというときのことを考えると、自分の行き先が地獄であるならば、それはそれで仕方ないという思いはある。自分がそういうものであれば仕方ないことで、逃れようがないからね。

B君 じゃ、浄土往生の思いはないのかい。

A君 いや。そういう思いもあるよ。でも、確信しているわけではない。如来の願心があるから往生は治定だろう、往生治定は間違いないという思いがあるが、それが本当かは分からない。

Cさん そうすると、ただ、地獄は一定の思いがないだけね。

A君 そうだね。B君がさっき言ったように、地獄は一定の思いがないけど、死に突入してゆくというある種の緊張感があるよね。

B君 緊張感はあるけど、如来にまかせきっている安堵感もある。

A君 そうなんだね。あるんだよ。

Cさん 京都にいる親鸞聖人のもとに行こうとした関東の同行の中には、途中で病気にかかって仲間たちに関東に帰れっていわれだけど、どうせ死ぬなら祖師の下で死にたいと言った人がいたわね。

A君 あぁ、いたね。

B君 その人が京都について死ぬ間際に、祖師が臨終の心境を聞いたとき、喜び近づけり、報謝の念仏を申していると答えた、ということだったよね。

A君 そうだね。

Cさん その人は、そんな心境で亡くなったのね。

A君 臨終が近づいたとき、如来の慈悲を目一杯、受けていたんだろうね。

B君 そうじゃないと、なかなかそんなことは言えないよね。

A君 祖師が亡くなるときも、念仏の声がして、やがて声が小さくなっていき、最後には途絶えたということだったよね。

Cさん 祖師も喜ばれていたのね。

A君 そうだろうね。

B君 慈悲に遭っている人は、その慈悲を感じているときはみんな慈悲に安堵し、涙を流して喜ぶんだ。

A君 慈悲を強く感じるときもあり、感じないときもある。機縁機縁で変わってくるものだけど、死を意識するとき、大悲心を強く感じるのだろうと思うね。

Cさん 私は、自分の臨終が楽しみね。どうなるのだろうかと思うのね。不安ではく、わくわくするような期待かな。A君とB君の臨終には、私が立ち会うからね。どうなるか見物だわ。

A君 女性の方が長生きするからね。

B君 せいぜい僕らの臨終がどうなるのか見ておくれよ。

Cさん 分かったわ。必ず、あなたたちの臨終に立ち会って、そのときの心境を聞いてあげるわよ。

A君 まぁ~、わさわざ立ち会ってくれなくてもいいけど。ただ、臨終の様はどうであれ、そのことは関係ないからね。そこんとこだけは、よろしくたのむよ。

3-3.自力消尽の理由

A君 自力が消尽するのはどうしてだと思う?

B君 以前、僕は、地獄一定の実機が知らされて出離できないと知らされるから自力無功になるのだと思っていたよ。でも、A君はそうじゃないというんだね。

A君 ウン。地獄一定の実機など知らされないよ。それに、自己の実機がどういうものか、信を得たって分かるものではないよ。人の生命がどういうものか人の智慧では分からないよ。

B君 如来の大悲心に気づくと自力はなくなるよね。

A君 そうだね。如来の大悲心を受けていると気づくと、いつのまにか自力は無くなっているよね。

B君 大悲心に気づいて自力を捨てたというのではなく、気づいてみるといつのまにか自力は無くなっていたんだよね。

A君 自力が消尽するのは如来の大悲心を聞くからなんだ。

B君 ということは、あまり、自力の思いというやつに拘泥する必要はないってことか。

A君 そう。自力の思いとか自己の罪悪だとか、自分の内心のある思いに目がいくと、そればかりが気になってそれに囚われてしまうんだ。

B君 よく分かるよ。だから、そんなものに目を向けず、大悲心を聞けっていうんだね。

A君 そうさ。大悲心を聞けば、それで終わりさ。僕自身を振り返ると、当時は、自分の悪性を探し回って掘り返していたね。一生懸命に悪人であることを自覚し、地獄に堕ちる自分探しをしようと努めていたんだ。まったく無駄だったね。そのうち、そんなことをしなくても如来は必ず助けると聞いて、いつか間違いなく助かると喜んでいたけれど、いま助けるとの慈悲であることに気づかず、いつまでたっても助からないと愚痴ってばかりいたよ。

B君 それ分かるよ。僕も如来に悪態ばかりついていましたよ。

A君 いま助けるという大悲心であることに気づくっていうことが本当に大事なんだ。

B君 聞いているのに聞いていなかったんだ。

A君 そうなんだ。聞いているのに聞いていなかったんだ。聞いていることがそのまま如来の救いに遭っているということになる、ということを聞いていたのに、それが救いであるとは思えなかったんだ。だから、救いに遭っていると気づいたとき、これが救いかと、とても意外に思ったことを覚えているよ。その後も、これが本当に信なのかと混乱していたよ。

B君 簡単なことなのに、難しかったんだね。平生業成という教えも、聞いて助けられるというところに根拠があるんだね。

A君 まったく、そのとおりだね。聞くのは平生ただ今のことだからね。