4-4.如来の気
如来は私を助ける気。私は助けて貰いたい気。
これであれば互いに気が合いそうですが、実際には合いません。
どうしてでしょうか。
如来は私を無条件で救う気。
このままで救われるというが、私は、このままで救われた気にはなれないと思っているからです。
では、気を合わせるにはどうすればよいでしょうか。
如来は救いのあり方を変えることはありません。その意味では如来はとてつもな
く頑固者です。そうしますと、私の方の思いが変わるしかありません。どう変わるとよいのでしょうか。
お園さんが言われたように、如来の慈悲にご注文無し、お差し支え無しと聞くしかないのです。頑固者の言うことは、だまって聞くしかないのです。
私が如来に対して救いを求め、自力を添えるというベクトルがなくなれば、如来が無条件で救うというベクトル(慈悲)だけが残ります。この状態を一向専念阿弥陀仏といいます。
4-3.方向違い
分かったことは、方向が違っていたということです。
自分の努力次第で信を得られると思っていましたが、そうではありませんでした。自分に何かが足りないから救われないのだと思って努力していましたが、そうではありませんでした。既に如来は救うと言われていたのでした。私はその如来の慈悲に気づくだけで良かったのでした。信を得る上でよかれと思ってしていた行は如来の救いとは逆の方向でした。私が救いを求めて進もうとしていたベクトルの方向と如来の救いのベクトルとは真逆でした。私は如来からの救いを受け入れるだけで良かったのでした。如来の救いのベクトル(慈悲)は、「私の行はなにもいらぬ。そのまま救う。」ということでした。
4-2.お差し支えなし、ご注文なし
妙好人にはすぐれた言動が数多く残されていますが、お園さんという有名な妙好人には、次のような伝記が残されているようです。-以下、引用-出典(「妙好人と生きる」著者亀井鑛氏)
伊勢の一婦人、自身の胸の始末にかかって、ちょっとも仰せを受け付けずに苦しんでおられた。此のご婦人に向こうて、お園さんが「私がきっと安心できる秘伝を授けるで、二、三年やる気はないか」と言うと、婦人は非常に喜んで「安心さえできることなら、如何なることでも致します」。するとお園さんは「お差し支えなし、ご注文なし」ということを二,三年言いづめにせよと言えば、婦人は喜んで帰り、二,三たつとまたやってきて言うには、「仰せに従って三日間朝から晩まで言いづめに致しましたが、何ともござりませぬ。胸の中は相変わらずおかしなものでございます。が、こんな心でも、ようございりますか」。お園さん曰く、「お差し支えなし、ご注文なし」。「それでも何ともござりませぬ、へんてつもない心中でござります」と言うと、お園さんまた「お差し支えなし、ご注文なし」。婦人はここに於いて凡夫そのままのお救いに初めて気がついて喜び勇まれた。
-引用終わり-
お園さんの「お差し支えなし」「ご注文無し」というお勧めは、如来の慈悲について述べたものです。如来は私に対して何かを求めたり、注文することはない。如来のお救いにさし障りになるものは何一つ無い、ということですが、そのことが分かったので上記のご婦人は回心できたのでした。
勘どころとは、無視できない重要な要点という意味ですが、如来の慈悲に気づくということが真宗においては無視できない重要なポイントであります。
4-1.当たり前と妙好人
私の数少ない法友仲間の1人がブログで書いています。妙好人という言葉を使わないようにしている、と。
信がわかったといっても、人に自慢するようなものではないし、人から特別にほめられるようなものではないし、だれでもが領解できる当たり前のことだという思いからの発想だと思いました。とても共感できます。
そこにでてくる漫画とそれに合ったコメントもまた素晴らしい。以下、コメントを引用します。
-引用開始
越前の竹部勝之進という方に以下の句があります。
タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ
ワタシハコノママデヨカッタ
-引用終わり
おもわず、フッフッフとなります。そのとおりだなぁと。結局、私は前の状態と変わらないけど、大きな違いは、ワタシハコノママデヨカッタ、ということを理解できた点です。この違いは本当に小さいけれど、大きい。
後生なんか考えても仕方ない、考えても結論は出ない。このような思いは今も昔もかわりません。しかし、今と昔とでは同じ意識ではありません。今は、如来の願心に思いをはせると、後生のことは自分にとってどうでもよいことで、これは如来の領分だった、自分の手の出せない領分だったと知ったのです。
後生なんか考えても仕方ないという点では、振り出しに戻ったような気分ですが、もともと、一歩も進んではいなかったのです。凡夫が凡夫と知らされた。私がアレコレと気を揉んで心配したことは無駄だったと知らされた、ということに落ち着きました。自分は凡夫だという当たり前のことを当たり前のように知らされたのですから、人に自慢するようなものではないし、人から特別にほめられるようなものではないのです。
さて、その思いを改めていざ文書を書き残そうと思いきや、きれいに化粧をほどこして、人からなるほどと言われるようにうまくまとめようと思います。外に賢善精進の相を現じようとするのです。祖師は「賢者の信は、外は愚、内は賢。愚身が信は、外は賢、内は愚。」と書かれていますが、私も外づらを賢に仕上げようと常に意識しながら書いています。
しかし、法然聖人は言われています。愚者にかえりて往生す、と。よって、愚は愚のままでいいじゃないか、という精神でやってまいります。
最後に、妙好人という言葉ですが、信の人を讃嘆した言葉ではなく、信の徳を讃嘆したものです。一実真如の徳を具足した南无阿弥陀仏が私の心の中で信となったものですから、三世諸仏から信の徳を讃えられるのです。
3-12.明信仏智
“他力の信を得たら、明信仏智の働きで、他力の信だと分かるから、人に尋ねて、これが信かどうかを、確認する必要はない”
A君 今回は、この点について議論してみようか。信を得た人は、直ちに他力の信を得たと分かるものなのかい?
Cさん そんなことはないと思うわ。
B君 僕も、そんなことはないと思うよ。
A君 そう思う理由を説明してくれるかい?
B君 説明するのは難しいけど、僕自身、アレコレといろいろな思いが生じて、心が落ち着くまでにしばらく時間がかかったからね。
Cさん 私もそうだったわ。
A君 じゃ、明信仏智の働きで、他力の信だと分かる、というのは間違っているのかい?
B君 そこが間違っているといっているのじゃなくて、人に尋ねてこれが信かどうかを確認する必要はない、というところが間違いなんだ。
Cさん もう少し、説明をしてよ。
B君 う~ん。
A君 じゃ、代わりに言うね。
他力の信という言葉を聞いて、どのように思っていたか、考えてごらんよ。たいていの人は想像しかできなかったはずだ。或いは、地獄一定となったときに如来の救われるというイメージで信をとらえていたと思うんだ。つまり、どのようなイメージを持っていたとしても、それはすべて間違ったイメージだね。
Cさん それは、その通りね。それで・・。
A君 それでって、まだ、分からないのかい?
B君 僕も分からないよ。もっと親切に教えてよ。
A君 つまりね、実際に信を頂く、という経験は、信を頂くまでに思い浮かべていたイメージとはまったく違うものなんだ。予想外も予想外。だから、信前に抱いていた誤ったイメージが強ければ強いほど、実際の経験とそのイメージとのギャップは大きくなる。そうすると、人は、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだね。
B君 あぁ、分かった。つまり、人の認識のありかたに関わる問題なんだ。
A君 そうなんだね。人は言葉の概念をもって物などを認識しているが、人はそのような認識のあり方をしている。机という概念をもってるから、いま見ている物が机か、それ以外かを判断している。ところが、既存の概念をもたないものに遭遇すると、それが何であるのか理解できないんだね。例えば、こんな記事を読んだことがある。大都会のビル群を空中から撮影した写真をビルという物を知らないアフリカ奥地の原住民に見て貰ったところ、そもそも写真だということが理解できなかった。そして、写っている物がビルだと理解することができず、四角い形のものが整然と並んでいるので、きれいな花壇だと認識したという話しだった。他力の信というものに関しては、信前において、概念化して信をとらえていたとしても、それは大間違いだ。つまり、信前においては誤った理解をし、誤ったイメージしか持つことができない。そうした人が如来のまことの願心を聞いて聞き受けたとしても、それが他力信だと直ちに判断することはできないんだ。信について誤ったイメージを強く持っている人ほど心の中でのギャップは大きくなる。だから、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだ。因みに、信後においても信を言葉で表現し、概念化することができたとしても、その概念化された信は実際の信とは違ったものになってしまう。
B君 そう言ってくれれば、よく分かるよ。
A君 だから、蓮如上人は、信心沙汰をするようにと言われたんだと思うよ。
Cさん 自分の身の上に起こったことが他力の信かどうかは、よくよく、聞いてみないと分からないわよね。
A君 他人からいろいろと、他力の信について聞いていくと、ただ如来の願心を仰ぐだけだとか、本願を聞くことだとか、聞いていることがそのまま信だとか言われて、あぁ、やっぱり、私も信心を頂いたんだな、と分かってくるんだね。
B君 僕もそうだったね。
A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?
Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。
B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。
Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。
A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。
Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。
A君 まったく同感だね。自分が問題とすべき問題はなくなっているということに気づき、分かったから、ただ如来の願心を聞いて仰いでいるだけでいいんだと心が落ち着いてくるんだ。心の落ち着き場所は、常に、ここなんだね。だから、僕は自力無功と知らされることは、如来の願心に心を留めさせる働きがあると考えているんだ。自分の心が如来の願心に虫ピンで留められ、動揺しなくなったと言ったら、分かるかな?
Cさん そんな感じね。
B君 そうだね。同感だね。
A君 このことについて、法然聖人は、二種深信の最初の機の深信についてこんな事を言っているよ。最初の機の深信は、「のちの信心を決定せしめんがために、はじめの信心をあぐるなり(「往生大要抄」昭和新修法然上人全集58頁11行目)。この文は誤解しやすいけれど、機の深信とは、わが身をたのみ、わが心の善悪、罪の軽重をはかって本願を疑うような自力心から永久に離れることをいうので、機の深信には、自力心によって再び本願を疑うようなことにはならない効用があるということなんだね。言い換えれば、のちの信心、つまり法の深信を決定せしめ、動揺させないという効用があるということだ。
A君 じゃ、納得して貰ったところで、最後に質問するよ。蓮如上人は、他力の大信とは明らかに知られたり、と言われているが、これは、どういう意味なんだろうね。また、“人に尋ねて、これが信かどうかを、確認する必要はない” ということの根拠になるのかな?
Cさん 根拠にはならないわね。蓮如上人は他力の信心であることが明らかに知られたと言われているだけですからね。私も、いろいろと思った疑問が聞いて解決するにつれ、これが他力の信心であると理解してきたわ。これは後からの理解だけど、私が如来のまことの心を聞き受けて歓喜していることは、以前も今も変わっていないわ。これが他力の信心だと呼ばれていることが後から分かってきたということなのね。
A君 そう。つまり、自分の心に開け起こった信が信前に聞いていた他力信というものに相当するのかどうか、後から認識し始めたということだね。その理解に至ったのは、さっき言ってくれたように、自力無功と知らされて如来の願心から心が動揺して離れてしまわないようになってしまったことと関係があるんだ。常に自分の心が如来の願心を仰ぐという状態にあることは、とても不思議なことなんだね。これは自分の意志や心によって現れた精神現象じゃないということだけは分かる。だから、如来の願心から生じた信心と理解するしかないと思うようになるんだ。願心を信受した者であれば誰しもがこのような理解に至るのだと思うが、それは、如来の願心が働いている結果だと思う。その意味で、蓮如上人は、他力の大信心とは明らかに知られたり、と言われたのだと思うね。
Cさん それで、明信仏智の働きで、他力の信だと分かる、という言い方は間違いだとは言えないのね。
A君 僕は、そう考えている。
それに、明信仏智とは、他力の信のことだから、明信仏智の働きで他力の信だと分かるというのは、他力の信自体に他力の信と分からせる働きがあるということなんだけど、それが他力の信であるということは、自力無功と知らされたことで時間の経過とともに次第に認識されてくるものであって、信一念にたちどころにこれが他力の信だと認識させられてしまうようなものではないんだね。